覚鑁上人。真言の教えに浄土信仰を
加えた新義真言宗を唱えました。49歳の
若さで亡くなりました。
根来寺奥の院への道。奥の廟に覚鑁(かくばん)上人が葬られています。
新しい花が供えられていました。
ここに我慢(自分が絶対と誇る)、邪慢(徳がないのにあると思う)の大天狗ども、いかにして人(覚鑁)の心中に依託(えたく=乗り移る)して不退(悟りを失わない)の行学を妨げんとしけれども、上人定力(じょうりき=平静を保つ力)堅固なりければ、隙(ひま=すき)を伺(うかが)うことを得ず。
されどもある時、上人温室(浴室)に入って瘡(かさ=できもの)をたでられけるが(温湯で蒸す治療を受けたが)、心身快うして、わずかの楽しみに淫着す(執着した)。この時、天狗ども力をえて、造作魔(争いを好む)の心をぞ付けたりける。これより覚鑁、伝法院を建立して我が門徒を盛んにせばやと思ふ心ねんごろに(強く)成りければ、鳥羽禅定法皇に奏聞を経て(奏上して)堂舎を建て僧坊を造らる。
【現代語訳】
(増長した傲慢な大天狗たちが、何とかして覚鑁の心に入り込んで、悟りを極める行いと学問を妨げようとしたが、上人の定心は堅固だったので、隙を見つけられなかった。しかし、あるとき、上人が浴室に入って、できものを蒸す治療を受けた際、心身が快くなり、、わずかな楽しみに執着する心が生じた。このとき、天狗どもは力を得て、上人に争いの心を植え付けた。このときから、覚鑁の心中に、伝法院を建立して、自分の門徒を隆盛させようという欲望が高まり、鳥羽法皇に願って、お堂を建て、僧房をつくった)
欲望を断ち切り、厳しく身を律していた覚鑁上人は、
できものの治療のために入った風呂のあまりの気持
ちのよさに気が緩んで天狗につけ込まれ、欲心を植え
付けられます。
根来全盛期の明応5年(1496)に建立されたわが国最大の
木造多宝塔。高さ40メートル、幅15メートル。天正13年(1585)
の秀吉の焼き討ちから奇跡的に免れました。荘重でどっしり
した建築です。国宝。
高野の衆徒等これ(覚鑁上人が即身成仏のために禅定に入ったこと)を聞きて「なんでふ(どうして)その御坊(覚鑁)、我慢の心にて掘り埋まれ(思い上がった心にとらわれ)、高祖大師(空海)の御入定(座禅しながら涅槃に入った)に同じからんとすべきやうやある。その儀(そういう事)ならば一院(伝法院)を破却せよ」とて伝法院へ押し寄せ、堂舎を焼き払ひ、御廟を掘り破ってこれを見るに、上人は不動明王の形像(ぎょうぞう)にて、伽楼羅炎(かるらえん=巨鳥ガルーダの翼のような炎)の内に座したまへり。(中略)
悪僧ら(中略)大きなる石を拾い懸けて、十方よりこれを打つに、投ぐる飛礫(つぶて)の声(音)、大日の真言(呪文)に聞こえて、かつて(全く)その身にあたらず、あらけて(ばらけて)微塵(みじん)に砕け去る。
この時覚鑁、「さればこそ(それ見たことか)なんぢ等が打つところの飛礫全くわが身にあたる事あるべからず」と少し驕慢の心起こされければ、一つの飛礫上人の額にあたって、血の色やうやくにして見えたりけり。「さればこそ」とて大衆ども同音に(いっせいに)どっと笑ひ、おのおの院々谷々へぞ帰りける。
これより覚鑁上人の門徒五百坊、心憂き事に思ひて、伝法院の御廟を根来に移して、真言秘密の道場を建立す。その時の宿意相残って、高野・根来の両寺、ややもすれば確執の心をさしはさめり。
現代語訳】
(高野山の行人たちは、覚鑁上人が即身成仏のための座禅に入ったと聞いて、「どうして、その僧は、おごり高ぶって、空海大師の即身成仏のまねをするのか。そういうことなら、伝法院を壊そう」といって、伝法院に押し寄せた。堂を焼き払い、墓を掘ったところ、上人は不動明王の形になって、巨鳥の羽
のような炎の中に座っていた。悪僧たちは、大きい石を拾って、四方から投げたが、つぶての音は、大日如来の呪文に聞こえて、全く当たらず、ばらけて砕けた。このとき、覚鑁上人が「それみよ。お前たちが投げる石が私に当たるわけがない」とすこし、慢心した途端、ひとつの石が上人の額にあたって、血が流れた。「ざまを見ろ」と、高野の行人たちはどっと嘲笑し、それぞれの坊舎に帰った。このときより、覚鑁上人の弟子たち五百人は、うとましく思い、伝法院の建物を根来に移して、真言密教の道場を作った。このときの恨みが残り、高野と根来はややもすれば、争うようになった)
徳を積み、精神修養した覚鑁上人でさえ、いささかの
慢心を持ったことから大日如来の加護を失い傷を負
いました。乱世を語る太平記らしい挿話です。
大塔の柱に残る秀吉軍の弾痕。字の上の柱に穴があいています。
先帝(後醍醐天皇)、花山院を忍び出でさせたまひて、吉野へ潜幸(ひそかな行幸)成りしかば、近国の軍勢は申すに及ばず、諸寺・諸社の衆徒・神官に至るまで、皆王化(先帝の徳)に従って、あるいは軍用を支え(軍資金を差し出し)、あるいは御祈りをいたしけるに、根来の大衆は一人も吉野へ参らず。これは必ずしも武家(足利)を贔屓(ひいき)して公家(朝廷)を背き申すにはあらず。この君高野山を御崇敬(そうきょう=信仰)あって、方々の所領を寄せられ(寄進され)、さまざまの御立願(りゅうがん)ありと聞きて、偏執(へんしゅう=片意地)の心をさしはさみけるゆゑなり。
【現代語訳】
(後醍醐天皇が足利氏に幽閉されていた花山院をひそかに脱出して吉野に移ったとき、諸国の軍勢はもちろん、あちこちの寺社の行人や神官までも、皆天皇に従って、軍資金を出し、祈祷をしたが、根来の行人はひとりも吉野へ行かなかった。これは必ずしも、朝廷にそむき、足利氏をひいきしたわけではない。後醍醐天皇が高野山を信仰し、領地を寄進し、願を立てたと聞いて、うらんだためだった)
南北朝時代、南朝方についた高野山に対抗して、足利尊氏方に
ついた根来寺は泉州の信達荘をもらい、繁栄し
ます。しかし、鉄砲をいち早く導入して自信過剰になった結果、天正
13年(1585)3月、秀吉に焼き討ちされ、滅びました。
資料館に展示された「根来軍記」。第二分冊分しか残っていません。
残りは保存していた桃井家から借りた人が返さなかったそうです。
木版のようなので、他にも同じものがあるかも知れません。
泉州の百姓たちが秀吉軍に果敢に抵抗した様子が描かれています。
天下を平定した秀吉は増長し、秀次の妻子惨殺や朝鮮での残虐行為を
行います。