忘れられた根来僧兵奮戦の地

 05年の年末30日にまた、貝塚の根来の戦跡を訪ねました。420年前の悲劇はすっかり忘れ去られ、人々は迎春準備に追われておりました。
 砦の守将たちの子孫はいまも、先祖が血を流して守った土地に住み、恵まれた暮らしをしているようでした。

畠中(はたけなか)砦の中心になった要(かなめ、旧姓神前=こうざき)家。
100メートル四方の広大な敷地は土塀で囲まれ、砦の面影を残しています。
ここには地元の百姓たちがたて篭りました。秀吉軍の猛攻によく耐え、
最後は貝塚願泉寺の住職の説得で無血開城しました。

 平安時代815年に編纂された氏族名鑑「新撰姓氏録」に百済(くだら)
からの渡来人である神前氏の祖先の神前連(こうざきのむらじ)賈受君
(読み方わからず)が従六位上の位を賜ったことが出ています。663年
の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本が負け、百済が滅びたときに亡
命した百済の王族の子孫でしょうか。

神前家は1186年、源義経に味方して頼朝に追われた源行家を自宅に
かくまったそうです。行家は捕らえられ、殺されます。

激戦があった千石堀城。根来の主力が奮戦しましたが、筒井定次の
兵が放った火矢が城内の火薬庫に引火し、女子供を含む五、六千人
全員が死んだと伝えられています。道路から数十メートルの低い丘です。

正月前で近所の人が飾りの松を取りにきていました。千石堀城あとで。200年後の
江戸時代文化のころに焼け焦げた米俵が出土した記録が残っています。
 

根来衆と地元の百姓200人が守っていた高井砦。福島正則の攻撃で、
城将の行(ゆき)左京ら全員が討ち死にしました。行さんの子孫はいまも、
砦の近くにたくさん住んでいます。縁者までは殺さなかったようです。
 

根来の防衛線になった近木(こぎ)川。写真右側の河岸段丘に積善寺
(しゃくぜんじ)城が築かれました。城将、出原(いづはら)右京の子孫の
お宅はいまも立派な家が多いようでした。この城も説得で無血開城しました。
 
 

根来焼き討ちのときに巻き添えになって焼かれた
水間観音の塔(江戸時代に再建)。泉南名物の
蒸し和菓子「村雨」を買いました。初詣の準備中でした。