「ねんね根来のかくはん山でよ
とうしょうじ来いよの、はとが鳴くよ
ねんね根来へ行きたいけれどよ
川がおそろし、紀の川がよ
ねんね根来の夜鳴る鐘はよ
一里聞こえて二里ひびくよ」
哀調を帯びた歌声が風に乗って聞こえてくる。
麓の村で、子どもたちが歌っている子守歌は若左近の心を揺さぶった。
いつの頃からか、根来にはさびしい子守歌が歌われるようになった。
代々歌い継がれているが、その歌の意味は、古老に聞いてもよくわからない。「とうしょうじ」は東照宮(家康)を意味し、家康に見捨てられた根来の行人たちの恨みを歌ったという解釈もある。
出来事は忘れ去られても、人々の心に焼き付いた悲しい記憶は、いつまでも無意識のうちに残るのだろうか。
若左近が風吹峠を歩くのは、秀吉の軍勢を迎え撃つため、十郎太や的一坊らとともに泉州表へ出向いてから二十八年ぶりだった。
道の両側の山桜の葉は赤く色付いて、穏やかな秋の日を浴びている。松の間に生えているハゼの黄色くなった葉が、緑の松の枝からのぞいている。
小石の多い道の端にはドングリの実が転がり、日の当たる落ち葉の上でカナヘビが体を温めている。のどかな秋の山道だった。
ここは三十年前、降りしきる山桜の花びらを浴びながら、若い十郎太と若左近が息を切らして歩いた道である。
そして、和泉表での戦のときには、若左近や十郎太が、まだ春浅い山の中を、息を白く凍らせながら、根来から和泉に向かって逆方向に行軍した道でもあった。
あのとき一緒に歩いた行人の多くは、和泉表で死に、ついに根来には帰ってこなかった。
自分と同じ年頃の多くの若者が、死に向かって進んだ道を、いま老いた若左近が反対に歩んでいる。
峠の上から振り返って見る泉州平野は昔と少しも変わらなかった。
あちこちで、ため池の水面が光っている。稲の刈り取りの終わった水田で、落ち穂を焼く白い煙が上がっている。
昔から変わらない、素朴な秋の田園風景だった。
しかし、二十八年の間に世の中は大きく変わった。
変わらぬ自然を見ながら、若左近は、改めて人の世のうつろいを感じた。
勝ち誇った秀吉も、根来滅亡から十三年後には、子の将来を案じながら病死した。
秀吉に付き従って功名をあげた武将の多くも、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いで命を失った。
自らと子孫の幸福のために争い、多くの人命を奪った彼らもまた命を奪われた。
根来焼き討ちの十五年後に起きた関ヶ原の戦いを境にして、天下は豊臣の世から徳川の世に変わった。
関ヶ原の戦いのあとも、大坂城には秀吉の子、秀頼が在城していた。しかし、関ヶ原の戦を境に、豊臣家の権威は失われ、人心は一気に徳川へとなびいた。
豊臣氏恩顧の大名の心も、秀頼を離れていた。
それでも、家康は決して急がなかった。関ヶ原のあと、あえて逆らうものはいなかったが、家康はすぐには動かなかった。
関ヶ原の戦から十五年という長い歳月を、家康はじっと我慢した。
そして秀吉の蓄えた財宝と、死後も残る秀吉の権威が完全に尽きるまで、柿が熟して落ちるのを下で受けるように、根気強く待ち続けた。
将軍職を息子秀忠に譲ったあとも、駿府で政務を執りながら、その時を待った。
そして、元和元年(一六一五)五月、大坂夏の陣で秀頼と母の淀君が猛火の中に自刃して、ついに豊臣家は滅びた。
宿願だった豊臣家の滅亡を見ると、家康は安心したように体調を崩し、翌元和二年、大往生を遂げた。
まことに辛抱強い一生だった。
◇
この三十年の間に、若左近自身も大きく変わった。
いまは鉄砲を鍬に持ち替え、妻と二人で朝から晩まで野良で働いている。
髪も白くなってしまった。子どもたちも大きくなって家を離れた。
歳月の過ぎる早さを、若左近はいま改めて感じていた。
三十年前、根来の炎上を聞いたのは、若左近が畠中の城を脱出して根来へ向かう途中だった。
森の向こうの南の空が天を焼くばかりに赤々と輝いていた。
道の途中で、根来を逃げ出してきた学侶や商人たちとすれ違った。彼らは皆疲れはて、よろよろと歩いて来た。
彼らから、根来が焼かれ、杉の坊や、閼伽井坊ら寺を守っていた全員が死んだ事をきかされた。
僧たちの顔は煤で汚れ、憔悴しきっていた。若左近が水の入った竹筒を差し出すと、奪うように取って喉を潤した。
僧たちによれば、秀吉の軍勢が侵入した時、寺には抵抗できる行人はほとんど残っていなかった。周囲の山の砦を守っていた行人や氏人も、寺が焼かれたのを見て、逃亡した。
その中で、杉の坊明算と閼伽井坊、小密茶ら一部の旗親は最後まで寺を守り、ついに討ち取られたという。
若左近は、畠中で最後まで戦わなかった事を悔やんだ。
仲間が寺を守って身を犠牲にしたというのに、自分はおめおめと生き残っている。
今から根来へ行っても、敵につかまり、なぶり殺しになるだけだ。戦いが終わってしまった今、いまさら死に場所はなかった。
根来や雑賀には敵が充満していると聞かされ、やむをえず、もと来た道を引き返した。
若左近は熊取の家に戻り、納屋の屋根裏に隠れた。母は涙を流して、若左近の無事を喜び、食事を運んでくれた。
槍を手元に置き、もしも秀吉の兵が調べにきたら、その兵を道連れに自分も死ぬつもりだった。
だが、秀吉軍は太田城を攻めるのに手間取ったためか、捜しには来なかった。
畠中城に立て篭もった百姓たちにも追及の手は及ばなかった。
数か月後、若左近は屋根裏部屋を出て、そのまま百姓に戻った。やがて親戚の紹介で村の娘を娶り、子をつくった。
◇
秀吉は紀州を征した後、四国の長曾我部を攻めて、降伏させた。長曾我部を頼って土佐に渡った専識坊は居所を失い、行方知れずになった。
秀吉は続いて北陸の佐々成政も討った。成政は秀吉の威勢を恐れて頭を剃り、小者(下男)の格好をして秀吉に詫び言をいった。
もはや秀吉に逆らう者は誰もいなかった。
天下統一後も秀吉の征服欲は衰えず、ついに朝鮮にまで出兵した。だが、その秀吉も十七年前に一子秀頼を残し、子の将来を最期まで案じながら死んだ。
一代で百姓の子供から関白にまで成り上がった秀吉ほど、成功した人間はいない。
巨万の富を蓄え、多くの家臣と女たちにかしずかれて栄華を誇った。だが、その秀吉も病魔と死を逃れることは出来なかった。
慶長三年(一五九八)、子への未練と現世への執着に苦しみながら、秀吉は世を去った。
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪花のことも 夢のまた夢
秀吉が自ら辞世の歌に詠んだように、露のごとく、はかない最期だった。
◇
秀吉が死んだあと、かつて秀吉に屈して、根来を裏切った家康がのし上がった。家康の覇権は、根来の生き残り組にとって、大きな幸運となった。
秀吉との戦では根来寺からの支援の要請を冷淡にも無視した家康だったが、さすがに負い目を感じたのか、その後数年して根来の行人の生き残り百人を家来に召し抱えた。紀州藩も幕府に見習って、根来衆を百人抱えた。
また、毛利や本多、安藤らの大名に召し抱えられた者もあった。これらの大名は、根来の鉄砲と忍びの術がこれからも役に立つと考えた。
積善寺砦で美濃守(豊臣秀長)に降参した根来の行人の中には、魚を口にして出家落ち(還俗)し、秀長に仕えた者もいた。殺されるかと恐れていたのに、かえって召し抱えられた行人は、秀長の慈悲に感謝した。
若左近にも行人をしていた知り合いから浅野家への仕官の話があった。若左近の鉄砲の力量が見込まれたのだ。
だが、若左近はきっぱりと断った。自分たち百姓を力で屈服させた武士たちに、いまさら頭を下げて雇われる気はしなかった。
若左近は百姓に打ち込み、ひたすら作物を育てた。いつしか鉄砲の撃ち方も忘れてしまった。
昔の事を思い出すのが厭さに根来へも行かなかった。三十年ぶりに根来へ行くことになったのは、十年前に死んだ母親の納骨のためだった。
◇
風吹峠を下り、寺が見えるところまで来て、若左近は思わず溜め息をもらした。ある程度は予想はしていたものの、変りようがあまりに激しかったからだ。
大塔と大師堂を残して建物は一切消えてしまっていた。かつて若左近と十郎太が見上げた、あの雄大な山門も、甍(いらか)を並べていた無数の僧坊も、根来塗りの店も、鉄砲鍛冶の店もない。そこには青々とした荒れ地と田んぼが広がっているだけだった。
大塔と共に残ったはずの大伝法堂の建物は、跡形もなく消えていた。
京都紫野の惣見院住職の文蔵主が移築の為に、勝手に取り壊して持ち去ったのだという。
若左近は、わずかに残っている大塔に向かって歩いて行った。
この大塔だけが根来の栄光と没落を見続けてきた。行人たちの喜びや悲しみ、苦しみを知っている。
そう、思うと、昔のままに優美な形を持つこの塔に、声をかけてやりたいような親しみを感じた。
向こうから初老の男がやってきた。年は取ったが、見覚えのある学侶だった。若左近は軽く会釈をした。
学侶も会釈を返した。しかし、若左近がかつて根来の行人だったとは気がついていないようだった。
「お参りですか。ご苦労様です」
老学侶が若左近に声をかけた。
「どちらへ行かれますか」
「成真院ですが、いまもありましょうか」
「前の成真院は焼けてしまいました。立て直されて、いまは蓮華谷の方に移っています」
学侶は答えた。
「昔とあまりに違っていて、道がわかりませんでした。昔は立派な建物が立ち並んでいたのに、みんな焼けてしまった」
若左近は学侶にいった。
「全く、ひどいものです。あんなにたくさん立ち並んでいた堂塔が、残ったのはこの大塔と大師堂だけ。見るも無残な有り様です。大勢の行人や学侶が命を落とした。全く無益な争いでした。この塔が焼け残ったのは奇跡です。きっと、これを見て、僧侶の行いを正せ、との仏のご意志なのでしょう」
学侶は大伝法堂の再建準備のために下見に来たのだといった。
「本当に先の戦ではひどい目にあいました。私は能化の専誉様と直前に逃げ出したので助かったのですが、もう少し逃げ出すのがおくれていたら、私達も殺されていたことでしょう。あの日の阿鼻叫喚は、いま思い出しても身の毛がよだちます。日誉上人様が、根来の破滅は行人の無分別の故であるとおっしゃられたそうですが、全くその通りです。まことに行人は根来にとって獅子身中の虫。自滅といってもかまわないでしょう」
老学侶は腹立たしげにいった。
「まったく、僧侶の身で干戈(かんか=武器)を事にし、鉄砲や弓矢をもつなど、罰あたりも甚だしい。大体、あの杉の坊の一族がけしからんのです。南蛮渡来の人殺し道具を寺に持ち込んだのが間違いのはじめだった。いまさらいうても詮ないが、あのとき、素直に秀吉公の言うことを聞き入れておれば、寺は焼かれず、新義真言の教えも豊山、智山の二派に分かれることはなかった。覚鑁上人様の灯された法灯は根来で綿々と燃え続けていたであろうに」
学侶は溜め息をついた。
「でも、いまはほれ、この通りの有り様ですが、もうあと少したてばまた昔のように立派な寺にきっとなります。大御所さま(=徳川家康)が再興を約束して下さったそうですから」
学侶はほほえんでいった。
いたたまれず、若左近は学侶のそばをそっと離れた。学侶は不思議そうにこちらを見続けている。
若左近は大塔の方へ歩いていった。
《戦わぬ学侶たちに、おれたち行人の気持ちが分かってたまるか。おれたちは寺を守るために命をかけて戦った。学侶のように寺を見捨てて逃げ出したりはしていない」
若左近は心の中で反駁した。だが、欝屈した気持ちは消えなかった。
命を張って寺の為に戦った行人が、いまでは寺の破滅の責任をかぶせられ、責められている。
《一体、道誉や十郎太、大勢の行人たちは何の為に死んだのか》
そう思うと、死んだ者たちが何とも哀れだった。
何と理不尽なことだろう。学侶たちはまた新しい寺を、権力者から与えられて満足している。これからは、根来の行人の悪行をもっぱら非難し、善男善女に為政者への服従を説くのだろう。自らの力で平等な仏の国をつくろうとしたものが責められ、力ずくで押さえ付けたものと、それに屈した輩が称えられているのだ。
やがて若左近は、大塔の前に出た。
そこは明算や専識坊たちが陣地をつくって、最後まで抵抗した所だった。
若左近は大塔を見あげる。
塔は昔通り、女性的なふくらみをもつ優美な形を保っていた。
見上げているうちに、昔、道誉に案内され、十郎太と見上げた事を思い出し、若左近はいらだっていた気持ちが徐々に癒されていくのを感じた。
若左近は、大塔の周りを回った。
大塔の西側の柱や扉には鉄砲の弾痕が生々しく残っていた。
下の砂を足で掘ると、白く錆びた鉛の銃弾が出てきた。ここで激しい抵抗があったことがしのばれ、胸が一杯になった。
《自分だけが死ななかった》
そんな気持ちが若左近を苦しめた。
若左近は歩きながら考える。
《覚鑁上人様が、いくら尊い事を説かれても、道理を無視して仏の道に逆らう者は必ずいる。そういう奴から寺を守る人間は必要だ。悲しいことだが、人間が生きていく限り、争いはなくならない。それが人間の本性という物だ。そうして、争いから自分たちを守るためには、だれかが手を汚さねばならない。覚鑁上人様の目指された仏国土をつくるためには、覚鑁様の嫌われた争いが必要だった。行人はそのために戦い、そして死んだ。行人は救われぬ凡愚の輩ではあるが、仏の教えのため、寺のために身を犠牲にした。それはだれにも否定はできない》
その一方で若左近は戦の空しさも知っていた。
《寺を守ろうとして、かえって多くの命が奪われた。話し合いで落着できなければ、矛をおさめた方がかえってよかったのではないか。少なくとも罪のない女や子どもが死ぬことはなかった》
若左近は再び、大塔の正面に戻ってきた。すでに日は傾き、衰えた日の光に大塔の九輪が柔らかく輝いていた。
若左近は、目を細めて塔を見あげる。
相輪の上を白い雲が風に吹かれて流れて行った。
雲の中に道誉や十郎太、おちかの顔が見えたように思えた。
◇
我ら懺悔(さんげ)す 《わたしたちは懺悔します》
無始よりこのかた 《遠い昔から》
妄想に纏(とら)われて衆罪を造る 《妄想にとらわれて、さまざまな罪を重ねてきました》
身口意(しんくい)の業 常に顛倒(てんとう)して
《振る舞い、言葉、意思の三つの行為は常に逆さまになり》
誤って無量不善の業を犯す 《間違って計り知れない悪行を犯しています》
珍財を慳悋(けんりん=惜しむ)して施を行ぜず 《財宝を惜しんで、僧へのお布施をせず》
意に任せて放逸にして戒を持せず
《好き勝手に、だらしなく、戒律を守らず》
しばしば忿恚(ふんい=怒り)を起こして忍辱(にんにく=侮辱を我慢する)ならず
《しばしば怒って、我慢をせず》
多く懈怠(けたい=怠け心)を生じて精進ならず 《多くのことを怠けて努力しない》
心意散乱して坐禅せず 《心が乱れて、座禅せず 》
実相に違背して慧(けい=知恵)を修せず 《真理に反して、知恵を磨かず》
常にかくの如くの六度の行を退して 《つねにこのような六波羅密多の修行を怠り》
還(かえ)って流転三途の業を作る
《かえって、流転し、地獄、畜生、餓鬼道に落ちる原因をつくる
名を比丘に仮つて伽藍を穢(けが)し 《僧の名前をかたって、寺を汚し》
形を沙門に比して信施(=信心とお布施)を受く 《僧の格好をして、信心と布施を受ける》
受くるところの戒品は忘れて持せず 《受けた戒律は忘れて守らず》
学すべき律義は廃して好むことなし 《学ぶべき規律と義務は捨て去って嫌う》
諸仏の厭悪したまう所を慙ぢ(はぢ=恥)ず 《仏たちの嫌悪することを恥じずに行い》
菩薩の苦悩する所を畏(おそ)れず 《菩薩の悩むことを恐れず行う》
遊戯笑語して徒ら(いたずら)に年を送り 《遊び、笑って、無駄に年月を送り》
諂誑(てんきょう=へつらい、たぶらかす)詐偽して空しく日を過ぐ
《へつらい、だまして、空しく日をすごす》
善友に随わずして痴人に親しみ 《よい友に従わず、愚かな人とつきあい》
善根を勤めずして悪行を営む 《善行を行わず、悪事を行う》
利養を得んと欲しては自徳を讃じ 《名利を得ようとして、自画自賛し》
名聞を欲して他愚を誹る 《名誉を望んで他人を愚かとそしる》
勝徳の者を見ては嫉妬を抱き 《成功者を見ては嫉妬し》
卑賎の者を見ては驕慢を生じ 《卑賤の者を見ては、慢心しておごりたかぶり》
富饒の所を聞いては希望(けもう)を起こし 《豊かな人を見ては欲を出し》
貧乏の類を聞きいては常に厭離す 《貧乏な人を常にいやがる》
故(ことさ)ら(=故意)に殺し 誤って殺す有情の命
《故意に殺し、過失で殺す生き物の命》
顕(あらわ)に取り 密(ひそか)に取る他人の財
《目の前で奪い、あるいはひそかに盗む他人の財物》
触れても触れずしても犯す非梵の行 《触れても触れなくても犯す、不淫の戒》
口四意三たがいに相続し 《悪い言葉や心が重なり》
仏を観念する時は攀縁(はんえん=俗事にひかれる)を発(おこ)し
《仏を思うときは俗事に惹かれ》
経を読誦(どくじゅ)する時は文句を誤る
《経を読むときは経文を誤る》
もし善根をなせば有相に住し 《善行をすれば、結果を期待し》
かえって輪廻生死の因となる 《かえって輪廻の世界に迷う原因となる》
行住座臥 知ると知らざると
《寝ても起きても、気がついても、気がつかなくても》
犯す所の かくの如くの無量の罪 《犯す、これらの膨大な罪を》
今三宝に対してみな 発露したてまつる 《いま、仏法僧の三宝に対して、みな告白します》
慈悲哀愍(あいびん=哀れむ)して消除せしめたまえ
《慈悲と哀れみを持って、消してください》
みな悉(ことごと)く発露し尽(ことごと)く懺悔したてまつる
《すべて告白し、すべて罪を悔います》
ないし法界(=無縁)の諸々の衆生 《仏と縁のないさまざまな人々が》
三業所作のかくの如くの罪
《行動、言葉、気持ちの上で犯した、これらの罪を》
われみな相(あ)ひ代わって尽(ことごと)く懺悔し奉る
《わたしが、なり代わってすべて懺悔します》
更にまたその報いを受けしめざれ 《決して罪の報いを受けないように願います》
(覚鑁上人密厳院発露懺悔の文=かくばん・しょうにん・みつごんいん・ほつろ・さんげのふみ)
「急度(きっと=急ぎ)申し候。去々年以来、根来悪党雑賀一揆原(ばら=奴たち)相語らい、秀吉に対して慮外(=無礼を)命(せしむ=働く)条(じょう=ゆえに)、ために成敗す。去る二十一日、出馬候のところ、雑賀根来より泉州岸和田表に城を構え、相防ぐのところ、押し詰め、即ち小山、田中両城(=場所不明)、申(さる)の刻に責め崩す。一人も残らず根来雑賀の奴原、よって首をはね候」
(急ぎ申し上げる。おととし以来、根来の悪党、雑賀一揆どもが、談合して、秀吉に無礼を働いたので、処罰した。去る二十一日、出陣したところ、雑賀根来から泉州岸和田にかけて城を構え、防戦したが、押しかけて攻め、すぐに小山、田中の二つの城を申の時刻に攻め崩した。一人も残さず、雑賀根来のやつらの首をはねた)
(小早川隆景あて秀吉書状)
(根来滅亡 完)