一晩続いた火事を鎮める明け方の強い雨が上がったあと、濡れた焼け跡を長谷川秀一は、数人の従者を連れて歩いた。
敗残兵がなお木の上や石垣の陰などに隠れている危険があり、鉄砲を持った従者はあたりに気を配っていた。
秀一は和平交渉をしたときの宿舎だった岩室坊に行った。
大きな建物が並び、偉容を誇っていた一帯は跡形もなく焼け、黒く焼けた石垣だけが残っていた。
人の姿はなく、黒こげになった松が異様な姿をさらしている。杭につながれたまま、馬が焼け死んでいた。
秀一は石垣の上に登って周囲をみた。焼け野原の向こうに、火事から残った大塔の塔身と青銅の相輪が見えた。
天文十六年(一五四七)に完成した重厚で優美な塔は、扉や柱など一部に弾丸をうけたものの、その美しい姿を保っていた。
徹底的に破壊された寺の中で、大塔が残ったことは、秀一には奇跡に思えた。
手当たり次第に火をかけた足軽たちが、寺の象徴である大塔に配慮して残したとはとても思えなかった。
秀一には、仏の不思議な意志が働いたように感じられた。
数百年かけて築きあげた寺が一夜にして消えてしまった。仏の無常の教えは分かっていた積もりだったが、惨状を目の前にして人間の営みのもろさ、はかなさを秀一は改めて感じた。
奢(おご)れる者はいつかは滅ぶ。冷徹な道理がいまさらながら身に染みた。
得道(とくどう=悟道)の善知識(=善き友、仏道を教えてくれる僧)より荒法師が羽振りを利かせ、魂の平安より土地や利権を求めて積極的に地上の争いにかかわったことが、この破滅を生んだのである。
一方で、この戦乱の時代に生きている限り、聖人といえども現実を離れて超然としているわけにはいかないことも、秀一にはわかっていた。
聖人もこの世にある限りは、食べ物を口にしなければ生きていけない。そのためには、知行はどうしても必要なのだ。根来ほどの大寺院を維持するためには、二万石の知行では全く足りないことは、交渉にあたる秀一自身、よく分かっていた。
根来の知行は七十二万石と称せられる。提示された二万石との差はあまりにも大きい。これで納得させることは、もともと無理だった。
それがわかっていて、交渉せねばならない秀一の悩みは深かった。
雑賀の一向信徒を圧殺した秀吉の勝利を、宗門の本山である本願寺は祝い、一門をあげて秀吉のもとに駆け付け、祝儀の品を届けている。
かつて顕如の檄に答え、石山本願寺を守るため身命を賭して戦った同志の滅亡に本願寺は何ら痛みを感じていない。秀一には現実的な本願寺の態度が苦々しく思えた。
それに比べれば、根来行人は、あくまで権力者に屈服せず、果敢に戦って散った。たとえ勝者の側からは「身の程知らず」とか、「悪行の報い」などとそしられようと、彼らには彼らの誇りがあったのだ。
そう思うと、秀一は根来衆を非難する気にはなれなかった。
秀吉軍の兵が引き上げた後の焼け跡では、手甲脚半をつけた一団がくわで、焼けた土を掘り返している。宝物探しの許可を得た金物職人に雇われた百姓たちが、金めのものを探しているのだ。
百姓たちは黙々と、黒く焼けただれた土を掘っている。
経巻や仏像、飾り物などが出てくると、彼らはそれを丁寧に布でぬぐい、広げたむしろの上に並べていく。泥だらけになった仏の瓔珞(ようらく=飾り)や、すすのついた木彫りの観音像が無造作に並べられているのを見て、秀一は思わず目をそむけた。
堂の軒飾りに付けられていた天人の彫り物が焼けて色あせている。長寿を楽しんだ天人の滅びの前に現れるという衣服の汚れ、脇の下の汗など、天人五衰の前兆が思い出された。
自分の和平への努力にもかかわらず、大勢の人命が失われ、仏の殿堂が焼かれ、踏みにじられたことを、秀一は悲しんだ。
こうなることは分かっていたのに、なぜ明算は戦に突き進んだのか。どうして、自分は相手を説得できなかったのか。
無力感が秀一を苦しめた。
◇
根来寺が焼かれた同じ日、雑賀も焼き払われた。翌二十四日には粉河寺も秀吉の兵によって炎上した。
幕府の編纂した「寛政重修諸家譜」や根来百人組の子孫が残した「根来者由緒書」には、根来寺成真院の中(=別名根来)盛重は、根来寺焼き討ちのあと、熊取谷の故郷に戻って隠れ住んだと記されている。
天正十三年八月二十二日、盛重は生き残った行人十五人とともに、家康のいる浜松の城下に向かった。
そこで成瀬吉右衛門正一を介して家康に拝謁し、根来寺滅亡のあとの流浪の苦しい生活を訴えた。
根来を見捨てたことへの負い目があった家康は、その場で十六人を召し抱えた。
自らが保護することは秀吉への気兼ねもあり、臣下の成瀬正一に預けて面倒を見させた。そして中盛重らには今後、根来姓を名乗るように命じた。
翌年、これを聞いた他の行人二十五人も名乗り出て、成瀬家に召し抱えられた。さらに翌々年も十九人が召し抱えられた。彼らは、扶持(ふち)米を与えられ、伏見城番として働くことを命ぜられた。召し抱えられた順番によって「先出」「中出」「末出」と名付けられ、扶持米に差がつけられた。
彼らはその後、「根来百人組」として組織され、江戸城のお庭番(=隠密)として働くことになる。
また、その後紀州藩でも元和五年(一六一九)徳川頼宣の入国後、家臣強化のため、幕府に習って根来行人の生き残り百人を集め鉄砲集団として召し抱えている。
紀州藩の根来者はその後百姓一揆の警備鎮圧や、幕末の異国船警戒、蛤御門の変などに出動した。
このほか、各地に散った根来の行人は、鉄砲の技術を見込まれ、それぞれの地で雇われた。
「萩藩閥閲録」によれば、根来行人は毛利藩にも仕官している。
幕末に萩藩に提出された根来主馬の系図によれば、主馬の祖先は楠木正成の子孫と称し、紀伊那賀郡の田中庄に住んで田中姓を名乗った。田中家は代々、長男が根来寺の有力行人である岩室坊の院主となり、次男が田中家を継いだ。
天正十三年、秀吉の根来攻めの際、六十五歳の高齢だった岩室坊院主勢誉は、根来西山城にこもって奮戦したが、敗れて自害した。
同じ西山城で戦った息子の勢伝は生き延びた。勢伝の息子勢祐はそのとき八歳だったが、高野山安養院に逃れ、そこで成長した。
慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦のときに、成長した二十二歳の勢祐は毛利輝元に招かれ、旧根来寺の行人千三百三十五人を率いて参戦し、騎馬五十、鉄砲五百、弓五十、槍百五十、小者五百人で守口張番や大坂京橋の警備に当たった。
関ヶ原の戦いには直接参加しなかったが、大坂城との連絡を確保し、戦場を離脱した毛利や島津軍の撤退を支援した。
毛利家からは戦の前に三万石の知行を約束されていたが、西軍が敗北したため、約束はかなわなかった。その後、井伊家から三万石、紀州徳川家からは一万五千石で迎えるとの誘いがあった。しかし、二君に仕えることを潔しとしない勢祐は、申し出を断った。千五百石の馬飼料に甘んじて毛利家に仕え、明治維新に至った。
根来行人は、秀吉との戦いでは家康に裏切られたものの、その後は家康とのつながりと、家康の威光を最大限利用して、したたかに生き延びた。
根来の焼き討ちを最後に、古来猛威をふるった僧兵の存在は息絶えた。
生き残った僧兵の一部は武士に吸収され、奈良時代以来、連綿と続いた僧兵は断絶した。
◇
鎌倉時代後期の永仁のころに描かれた「天狗草紙」には、京都醍醐寺での観桜会に参加した覆面姿の僧兵が描かれている。
辺りを威圧するように長刀をつき、桜の下で稚児の舞いを見る僧兵たちは、自信にあふれ、朝廷や武士に対抗した僧兵たちの栄光の時代を物語っている。
「天狗草紙」の最終巻では、僧兵を戯画化した大天狗たちが一堂に会している。そこでは、長き我執と驕慢から覚めた天狗たちが、仏道修行に専念することを申し合わせている。やがて堂塔を建立し、静かに修行を積んで、みな成仏するところで物語は終わっている。
天皇の宸襟(しんきん=心)をも悩ませた僧兵たちが、柔和になって得道(とくどう=悟る)するというのは、僧兵に憤ることの多かった草紙作者の皮肉であろう。
長らく人々を悩ませた僧兵は、天狗草紙の絵のように我執と驕慢から自ら目覚めることはついになく,武士によって力付くでねじ伏せられ、歴史の表舞台から下りたのだった。
◇
紀州での戦闘は、根来壊滅のあとも続いた。
太田城の包囲は三月二十六日から開城した四月二十二日まで、ほぼ一カ月続いた。
もともと太田城は宮郷の人々が雑賀との抗争のために作った城という。
宮郷は根来寺と近い関係にあり、信長が雑賀を攻めたときは、太田左近と根来杉の坊が道案内した。根来寺と秀吉との戦いでも、太田党は終始根来を支えた。
秀吉軍に包囲された太田城には太田一族、百姓ら合計五千人がこもった。太田側の記録では、三月二十五日に秀吉の使いとして中村一氏の兵が降伏を勧告したが、太田党の人々は従わず、秀吉の兵五十人を殺害した。このため、戦闘になったという。
太田城の中には根来を逃れた生き残りの行人が流れてきていた。千石堀で仲間を多数殺された根来行人は復讐心に燃えて徹底抗戦を主張し、太田党は反対しきれなかった。
兵を殺されて激怒した秀吉は、すぐに水攻めを命令した。
太田城の規模は二町半(二百七十三メートル)四方と推定される。
秀吉は周辺の村から駆り出した十万人以上の百姓を使って、太田城を囲む周囲四十八町(五千二百三十六メートル)、高さ六間(十一メートル)の巨大な堤防を築かせた。
堤防はわずか五日間の工事で、四月一日に完成した。
堤防が出来上がると、すぐに紀ノ川の支流の宮井川から水が引き込まれた。城側でも対抗して堤を築いたため、城の水没は免れたが、周囲からは完全に孤立した。
和泉沖から回航した小西行長の率いる安宅船の船隊十三隻が紀ノ川をさかのぼって、堤防の中に入り、大砲と鉄砲を城の中に撃ち込んだ。
城側も銃で応戦した。水練の達者が水に潜り、安宅船の船底に穴を開けて沈めた。
四月の中旬に大雨が降り、堤防の一部が切れて、寄せ手に大勢の溺死者が出た。城を囲んでいた人工の大池も一気に水が引いた。篭城衆は手をたたいて喜んだ。
しかし、城側の抵抗もここまでだった。
堤防の修復工事が始まると、食糧が乏しくなった城側はついに抵抗を断念し、和議を申し出た。蜂須賀正勝(=小六)が仲介して折衝の結果、和議が受け入れられた。その条件は責任者の処罰だった。
太田左近ら城側の指導者五十三人が首をはねられ、その女房二十数人がはりつけになった。彼らが犠牲になることで、その他の者は助命された。
鍋や釜を持った百姓たちが外に出てきた。食糧が少しずつ渡され、解放された。
竹中重門の残した「豊鑑」によれば、太田城の抵抗は以下のようだった。
「(根来焼き討ちの三月二十三日の)あくる日、(秀吉は)土橋といふ所(=雑賀土橋平之丞の自宅)に移りたまひ、兵どもを太田村といふ所にさしむけ、城を囲みたまふ。時の中に(=一時に)攻めおとさば、兵多く死すべしとて、例の水攻めにしたまふ。城の高さを測らせ、堤を築き回し、敵の出ざるように外にししがき(=鹿垣)をゆひ(=結び)まわせり。水、次第に湛(たた)えければ、浦々よりも舟ども取り入れて、かいだて(=垣楯)をかき(=組み立て)旗を立ちならべ、四方よりこぎよせ、鉄砲を撃ちかけることおびただし。いま幾程もこらえじ(=耐えられないだろう)など思ふ所に、卯の花下し(=五月雨)降りしきりて、いにしへ(=昔)の川の流れの所、堤崩れて、湖水のごとくたまりし水、時の間に乾けり。またこそ、水を湛(たた)えめ(=満水にせよ)とて、崩れし所を築き調べんとせし程に、城より和談のことを乞ひければ、その城の長たる者、次々四、五人生害(=自害)させて、残る者どもを助け出したまへり。紀伊の国残らず従ひけり」
【現代語訳】
(焼き討ちの翌日、秀吉は雑賀の土橋という所に移り、兵を太田村に差し向けて、城を包囲した。一時に攻め落とせば、兵が多く死ぬだろうと考え、例によって水攻めにした。城の高さを測らせ、城を取り巻く堤を築いて、敵が出られないように、しし垣で囲った。水が次第にたたえられると、あちこちの浦から舟を入れて、楯で囲い旗を並べた舟を、城の四方からこぎ寄せ、激しく鉄砲を撃ちかけた。もうわずかしか、持ちこたえられないだろうと思っていたところ、卯の花くだしの雨がしきりに降って、以前の川の流れのあった箇所の堤が崩れて、湖水のようにたまった水が、瞬く間に乾いてしまった。また、水を満たそうと、崩れたところを調べようとしたところ、城内から和議を求めてきた。その城の指導者四、五人を次々に自害させ、残るものは助けた。紀伊の国は残らず、従った)
千石堀城の激戦で、味方にも多数の死者を出したことを教訓に、秀吉が力攻めを避け、得意の持久戦をとったことが、うかがえる。
秀吉にとって敵を屈服させることが肝要で、犠牲者はなるべく少なくしたかったのだろう。
太田城のほか、雑賀城にも松田源三大夫、宮本兵大夫、佐竹伊賀らがこもった。鈴木孫市重秀は降伏勧告の使者となった。
二十一日間、雑賀城で持ちこたえた佐竹伊賀は、太田城が落城したのを知って降伏した。佐竹伊賀は切腹を申し出たが、秀吉に命を許された。
鈴木孫市は羽柴秀長に仕え、関ヶ原の戦では石田三成に属した。後に水戸藩に仕えた。佐竹伊賀は熊野に蟄居(ちっきょ)した。
紀南の湯川、熊野も降参した。根来と並んで紀州に勢力を張っていた高野山は根来の壊滅を見て震え上がり、木食応其上人を秀吉のもとに遣わして、ひたすら許しを乞うた。
南海に勢威を張っていた紀州諸勢力の抵抗は、根来寺と太田城の壊滅であっけなく終わった。
ルイス・フロイスの記録によれば、和泉、紀伊での戦闘で、秀吉側の死者は一万、敵方は一万五千人の死者が出たという。甚大な犠牲を払って、和泉、紀伊での戦は終わった。
◇
秀吉は根来、雑賀を滅ぼしたあとの三月二十五日、雑賀に程近い紀三井寺に花見に出掛けた。
紀州遠征の成功に秀吉は終始、上機嫌だった。
「ここの桜は浪速や京の桜より赤みがまさって、一段と華やいで見える。実に見事じゃ」
秀吉は冗舌にそばの武将達に話し掛ける。長年の宿痾(しゅくあ=持病)であった根来、雑賀を滅ぼした今、畿内は完全に自分のものになった。
残る敵は佐々成政、長曾我部元親だが、これも遠からず滅ぼすことが出来るだろう。
天下が自分のものになる日が近付いてきたという予感が舌を滑らかにした。
「いやいや、じつに紀州の桜は美しい。紀州の桜はよい桜じゃ」
桜の花の降りしきる中で、秀吉の甲高い笑い声が寺の境内中にこだました。
三月二十日からの戦で、自らの兵も含めて何万人もの人命が失われたことなど、秀吉は何の痛痒も感じなかった。
秀吉の脳裏にあるのは、天下征服を望む自らの欲望と、これからの作戦のことだけだった。