家康への懐疑

「しかし、このまま放っておけば、いずれ秀吉は攻めて来よう」
 閼伽井坊は納得しなかった。
「風向きが変わることもないとはいえぬ。現に信長の死は何人も予想できなかった。焦って行動を起こせば、必ず後悔する。今がこらえどころだ」
 明算は冷静に話した。

 明算の冷静な判断を支えているのは、様々な手段で集めた豊かな情報だった。

 古くから根来寺は大勢の学侶や行人を布教や合戦の応援、鉄砲指南のために全国に派遣していた。
 鉄砲や根来塗りを作っている門前町には商人の出入りも多い。これらの学侶や行人、商人からは、様々な国内の情報がもたらされる。小耳にはさんだ断片的な情報も集まれば、混沌とした戦国の世で根来が生き延びる情勢判断の貴重な材料となった。

 天正九年(一五八一)九月、織田信長軍が伊賀に侵攻した。
 古来、東大寺の荘園が多かった伊賀に守護大名はなく、地侍が連合して支配していた。伊賀衆は砦を築いて果敢に抵抗したが、結局惨敗した。
 このとき、伊賀忍者の百地三太夫、藤林長門らが伊賀を脱出して根来に逃れた。彼らは伊賀の忍術を根来の行人たちに伝えた。これが紀州流根来忍術の始まりという。

 伊賀忍者の亡命を受け入れた根来寺の行人坊は、彼らの指導を受けて忍者を養成した。
 根来は近隣に忍者を送り込んで、動静を探らせた。彼らは、百姓に化けたり、根来塗りや櫛売りの商人、傀儡(くぐつ)師、大峰山の山伏などになりすまし、噂話や見聞したことを伝えた。
 
 根来寺がかかえる忍者の中で、藤林伊賀は明算が最も信頼している男だった。
 最近、藤林伊賀は秀吉が大坂城に多数の銃と弾薬を運び込んだことも報告してきた。また、本願寺が秀吉にひそかに通じたとの噂も伝えた。
 
 閼伽井坊は考え込んでいる。
 閼伽井坊は泉州信達庄、馬場村の土豪出身である。
 杉の坊と同様、子供の時から根来寺に預けられ、山野で弓矢を玩具代わりにして育った。長じてからは剛弓を得物(えもの)として数々の合戦を経験している。
 泉州出身の閼伽井坊は、根来の行人の中でもとりわけ、大坂での秀吉の動向に神経を尖らせていた。

「家康や信雄と組んで、秀吉に対抗できぬものか」
 閼伽井坊は明算に問い掛けた。
「信雄はともかく、家康は戦に慣れている。あの男なら、光秀や勝家らのようには、やすやすと秀吉に討たれることはあるまい。家康が秀吉と敵対している今なら、家康も我々の申し出に応じるかもしれぬ。紀州勢だけで秀吉に当たるのは難しいが、家康と組めば見通しも出て来よう」
 閼伽井坊は、先手を打つことに執着していた。

 明算は家康にも会ったことがあった。それは、やはり安土城で信長に謁見したときのことだった。
 小柄で如才なく動く秀吉と違って、小太りの家康は口数も少なく、どこか鈍重な感じを与えた。だが、田舎大尽のような茫洋とした雰囲気を漂わせながら、目だけは鋭く光っていた。
 まるで軟体動物のように、つかみ所のない人間。いまひとつ心の中が分からず油断ができない男。それが、その時に明算が受けた家康の印象だった。

「あれは、全く得体の知れぬ男。どこまで信用できるものか。味方にするにはいささか不安が残る」
 明算は家康への不信をはっきりと口にした。
「人を信用できないのは戦国の習い。今日の友が明日の敵になる。しかし、それを気にしていては同盟など出来ぬ」
 閼伽井坊は「何をいまさら」といわんばかりに、憤然としていった。

「もちろん、戦国の世に信用できる人間などいないのは、私も承知している。今の濁世では、多かれ少なかれ、人は他人を裏切っている。現に我々自身も信長の雑賀攻めでは、縁の深い雑賀を敵に回した。だが、どんな人間でも人を裏切るときは、どことなくやましさを感じるもの。顔を子細に見れば、本心が見えてくる。しかし、家康にはそれが通じぬ」
「おれには、それほど不可思議な男とも思えぬが」
 閼伽井坊は納得しなかった。

「おぬしは、会ったことが無いから、そう言うのだ。家康は、家と領地を守るためには何でもする。一向宗徒と和睦したすぐあとで、誓約を破って門徒を大勢殺した。信長から謀反の疑いをかけられた息子信康を見捨てて切腹させた。あの男は人を裏切っても、心に何の呵責も感じぬ非情な男だ。うかうか手を結ぶ気にはなれぬ」
「そういう冷徹な男だからこそ、頼りになるともいえよう。何といっても、いまの家康には、信長の子を助けるという大義名分がある。秀吉は主君の恩顧を仇で返した恩知らずの男。世間は徳川に味方しよう」

「大義名分だけでは戦に勝てぬ。戦国の世では恩義や義理などは、何の役にも立たぬ。家康も亡き信長に義理だてして、信雄に味方しているわけでは毛頭ない。秀吉と対抗するために、信雄を道具に使っているに過ぎぬ。結局はおのれの利害得失を考えてのことだ。その点は、秀吉と何ら変わるところはない」
 明算は断言した。

「しかし、放って置けば、秀吉は大坂城を完成させ、そこを拠点に和泉に攻めて来るのは間違いない。すでに本願寺は秀吉の軍門に下り、毛利も秀吉になびいている。長曾我部は海を隔て、頼りにはならぬ。こうなれば、頼むは家康しかない」
 閼伽井坊は、なお自らの意見に固執した。

「確かに根来と秀吉とは不倶戴天の敵。いつかは戦わねばならぬ定めかも知れぬ。しかし、いまの時点で秀吉と戦うことが得策かどうか。勝ち目があるかどうか、よく吟味してみねばなるまい。見通しもなく戦を仕掛けても相手の術中に入るだけ。ここは軽々しく動かず、落ち着いて考えるときではないか。家康が味方として不足がないか、頼りに出来るかどうか。一味(=味方)する前に見極める必要があろう」
明算もまた引かなかった。
「いつものことながら、明算殿は慎重なことだ」
 閼伽井坊は皮肉っぽくいった。

 二人の間に沈黙が続いた。そこへ先程の稚児がやって来た。
「閼伽井坊さま、お客様でございます」
「だれじゃ」
 考えを中断され、閼伽井坊は煩わしそうに聞いた。
「日前宮(にちぜんぐう)からの使者と名乗られております」
「日前宮? はて」
 いぶかしげに眉を寄せて、閼伽井坊は立ち上がった。

 紀州の古い神社である日前宮と根来の旗頭は、常に連絡を取り合っている。通常は昼間に使者が来ることが多く、この遅い時刻に日前宮から使いが来る理由が、閼伽井坊には見当がつかなかった。
 廊下を踏み鳴らして、閼伽井坊は本堂の方へ歩いていく。稚児もあとに付いていった。後には明算一人が残された。

              ◇

 相変わらず、池からは、かえるの鳴き声が聞こえて来る。
 池からの涼しい風が、ろうそくを揺らせている。
 普段は余り人の来ない、この行者堂は、明算が物思いに耽るとき、よく来る所だった。

 明算は考える。
 確かに閼伽井坊のいうように、根来は開山以来の危機に瀕している。
 根来はたびたび戦には巻き込まれてきたが、それはあくまで寺の外での戦だった。寺が攻撃を受けたことは一度もない。そもそも世俗権力が、仏を祭る寺を攻撃するなどとは、一昔前には誰も考えなかった。

 東大寺の大仏が平重衡や松永弾正久秀に焼かれて溶け落ちたとき、世人はあさましい末法の世と嘆いた。だが、あれは初めから寺を焼こうとしたのではない。たまたま兵火が大仏殿に燃え移ったに過ぎない。あのころはまだ人は神仏を恐れていた。

 しかし、信長の叡山焼き打ち以来、すべては変わった。寺を焼き、僧を殺しても何の仏罰もなく、かえって信長は勢力を広げた。
 比叡山焼き打ちを武田信玄は天魔波旬のなせるわざと罵ったが、その武田は信長に滅ぼされた。信長が明智光秀に殺されたのは、自身の横暴のいたすところで、仏罰とはいえない。神仏を恐れる時代は、信長をもって終わった。

 信長の後継ぎである秀吉もまた、神仏を信じていない。
 秀吉が病気の母親のために祈祷を頼み、寺に寄進するのは、あくまで人心を買うための方便に過ぎない。
 家康もまた秀吉に劣らず神仏を信じていない。三河一向一揆では大勢の信徒を殺戮した。

 そういう我々もまた、仏の徒でありながら、護法と称して人をあやめている。信仰心のある人間が平気で人を殺せようか。
  明算は考え込んだ。

 廊下がきしんで、閼伽井坊が一人で帰ってきた。
「あす、誰か責任のある者に日前宮(にちぜんぐう)へ来てほしいとのことだ。用件はそのときに話すという。何用であろう。おれはあす鉄砲の手配をしなければならぬ。明算殿が行ってくれぬか」
日前宮の申し出の意味を、閼伽井坊は計りかねているようだった。

 不審そうな閼伽井坊の顔を見て、明算の頭にひらめくものがあった。
「わかった。日前宮には自分が行こう。座主らには了解をもらう」
 明算はいった。

                      ◇

 次の日、杉の坊は成真院の行人一人を連れて日前宮に行った。昼前に着いたとき、夏の日差しは厳しく、真上から容赦なく白い玉砂利を焼いていた。大鳥居の上で鳩が物憂げに鳴く声が聞こえている。
 石造りの高麗犬の足元から、トカゲが顔を出して、すぐにまた姿を消した。セミの声がやかましく周囲の木から聞こえてくる。
 広い境内は、杉の木に囲まれている。
 参道の両側には、いくつもの社殿が連なっている。ここはもう何度も訪れて勝手は知っている。社殿の中でもひときわ大きな建物の中に明算たちは入っていった。

 建物の中は涼しく、汗が一度に引いていく。真新しいひのきの柱の香がいかにも神域らしい清浄さを感じさせる。
 中で人声が聞こえている。同伴の行人が大声で案内を請うた。
 白装束の神官が出てきて丁重に挨拶し、明算らを奥に案内した。

 明算は庭園に面した広間に通された。そこにはすでに、十数人の男達が座っていた。
 その中には、雑賀荘、太田郷、湯河などから来た顔見知りもいる。紀州各地から地侍や神官、僧兵たちが集められたようだった。
神官は明算を上座に案内した。

 日前宮は古代から紀州を治める名家紀氏が宮司を務める、紀州で最も古い神社の一つである。
 正式には日前國懸(ひのくま・くにかけす)宮と呼び、日前神宮と國懸神宮のふたつの神社から成る。神体は、天の岩戸に隠れた天照大神を呼び出すために鋳られた鏡といわれ、天皇家とも結び付いていた。

 宗教的権威を背景に世俗にも力を持ち、秋月城を中心に幾つかの城郭を築いて、一族や配下の神官たちに治めさせている。
 雑賀と根来の中間にあるため、ことあれば雑賀衆や太田党、根来衆の仲介に立つことも多かった。

 明算は、庭に近い場所に日前宮当主の紀忠雄が座っているのを見た。
 年は五十歳を超え、公家のように眉をそり、太っている。その右横には三十過ぎの雑賀の土橋平之丞が座っている。左横には明算が見たことのない、白髪交じりの初老の武士が座っていた。
 明算に気がついて、土橋平之丞が軽く頭を下げた。明算も軽く会釈を返した。
 平之丞は明算より少し若いが、精悍な面構えはすでに雑賀の指導者としての威厳を漂わせている。

 土橋平之丞は根来に子院専識坊を持っている。専識坊の院主は平之丞の弟だった。
 天正四年の信長の石山本願寺攻めの際,平之丞は顕如光佐の檄に応じ、雑賀鉄砲衆を率いて応援に参じた。雑賀鉄砲衆は信長勢を苦しめ、雑賀の名は天下に轟いた。

 雑賀と信長が和解したあと、雑賀の中では鈴木孫一が信長の後ろ盾で力を伸ばし、土橋家を凌駕した。しかし、信長の横死後に土橋家が再び力を伸ばし、雑賀の主導権を奪い返した。
 一時は分裂した雑賀、根来、湯川など紀州の諸勢力も、秀吉の紀州侵略の意図が明らかになるにつれて、結束を強めた。
             
               ◇

 宮司の紀忠雄が立ち上がった。一同は隣の人間と話すのをやめ、忠雄の方を見た。

「皆様方、きょうは暑さの中、わざわざお越しいただき、ありがたく存じます」
 忠雄はうやうやしく頭を下げた。

「きょう集まっていただいたのは、ほかでもございませぬ。昨日、三河の徳川家康殿の使者が当社に書状を持参された。紀州の力ある方々に集まっていただき、家康殿の書状について説明したいといわれる。いま、私の横におられるのが、その使者の井上主計頭(かずえのかみ)殿でござる」
 忠雄のそばに座っていた初老の武士が頭を下げた。

「井上主計頭にございます。このたびは雑賀衆、太田衆、根来衆、湯川衆の方々に、ご足労いただき、恐悦至極に存じます」
 井上主計頭は幾分緊張しているようだった。

 紀忠雄が言葉を続けた。
「先に書状を見せていただいたが、家康殿は秀吉の近ごろの振る舞いに、いたく立腹されている。秀吉は先頃、亡き主君の御次男、信孝殿を自害させ、この度は御三男信雄殿も亡きものにせんと企てている。このうえは、時日をおかず、雑賀、根来、太田党はじめ紀州の諸勢力と語らって、ともに秀吉を討たん、というのが書状の趣旨であった。皆様方には、この場で書状をお読みいただき、内容を持ち帰って、ご詮議願いたい」
 忠雄は、これだけ言うと腰を下ろした。

《やはり、そうか》
 明算の予感は当たっていた。閼伽井坊が家康と組むことを考えたように、家康もまた紀州勢と手を握ることを考えたのだ。
 沈黙が座を包んだ。だれもが当惑しているようだった。

 皆が黙っている中、井上主計頭が口を開いた。
「突然の申し出、さぞかし驚かれたことと存じます。しかし、これは決して家康様の利益のためだけの願いではございませぬ。秀吉が紀州を手に入れようとしているのは明白であり、紀州の諸寺の存立が脅かされています。紀州の皆様にとっても重大な危機が近づいています」
 そういうと、井上主計頭は、懐から小さく折り畳んだ書状を取り出して広げた。
「家康さまのお申し出はここに書かれてございます。今からお回しします故、どうぞ、ご自分の目で読んでお確かめ下さい」
 主計頭は書状をすぐそばの雑賀衆の一人に手渡した。
 書状はすぐに読まれて横の者に回された。待ちきれずに横から覗きこむものもいる。

 明算は書状が回って来るのを待っている間、庭を眺めていた。山を借景に取り入れた大きな庭の真ん中には池があり、白い雲が映っている。池の中を大きな錦鯉が何匹もゆうゆうと泳いでいる。
 やがて書状が回ってきた。着物の中にでも縫い込まれていたのか、小さい折り目がいくつもついている。書状の最後には、朱印と花押がくっきりと押されている。杉の坊は素早く書状に目を走らせた。

「急度(きっと=急ぎ)申し候。今度羽柴ほしいままの所行について成敗を加うべく為、西国、北国按合(=談合)して出馬に及び候間(=出陣するので)、合力願いたく候。しからば一日も急ぎ、根来、雑賀、太田そこもとの衆、泉州表に至ってご出勢候様にご調談あるべく候。同心たまわらば、軍奉行を以て申し談じ、互いに誠心あるべく様、備えを整ふべし。恐恐謹言。 家康・信雄」

(急ぎ申し上げます。このたび、秀吉の勝手放題の悪行をこらしめるため、西国、北国と示し合わせて出陣しますので、協力していただきたい。承諾していただければ、一日も早く、根来、雑賀、太田などそちらの衆で泉州出陣の相談を願いたい。協力していただけるのなら、戦奉行を遣わせて相談し、互いに信義を守るよう、準備を整えましょう。恐れながら申し上げます。家康・信雄)

 書状は紀州勢の泉州発向を求めていた。明算は書状を次の者に手渡すと、腕を組んで書状の中身をもう一度頭の中で繰り返した。

 家康は紀州の武力をあてにして、秀吉を挟み撃ちする考えだ。大坂破却まではいかなくとも、紀州勢が秀吉の背後を脅かせば、秀吉は尾張に大軍を動かすことはできない。そうなれば、徳川・織田信雄連合軍は尾張で優位に軍を動かすことが出来る。これが家康の作戦だろう。