根来攻撃

 根来寺には、まだ千石堀落城の知らせは届いていなかった。泉州表で激戦が行われていることは残った者たちも想像していたが、少なくとも数カ月は攻撃に耐えられると思っていた。
 主立った行人たちはすべて泉州表へ出陣していた。根来寺には杉の坊、専識坊、岩室坊、威徳院、閼伽井坊、正儀院、南蔵院、三位法印、右京坊ら千人ばかりの行人と太田左近ら雑賀勢の数百人だけが残っていた。

 秀吉の軍勢が大坂を発ったという知らせが入る前から、明算たちは使者を諸国の大名に出して援軍を求めた。だが、家康と和解し毛利を懐柔して、いまや東西に強敵を持たなくなった秀吉に、あえて弓を引く者はいなかった。協力を約束していた北陸の佐々成政や四国の長曽我部元親も今は自分を守るのに懸命で、紀州勢のために援軍を出せる状況ではないと断ってきた。
 頼りにしていた家康は、自ら使者に会おうとせず、家臣に応対させた。

「なんという冷淡な男か。小牧長久手の陣のときはあれだけ固い同盟を約束して誘っておきながら、勝手に秀吉と和を結んで我らを見捨てた。いま我らが危機に瀕しているときも、そしらぬ振りをする。何という背信、裏切りか。家康には恩義や道義の心はないのか」
 専識坊は怒って家康を罵った。

「この戦国の世で人に頼ることは難しい。諸大名が援軍を出さぬというなら、自分達で戦うしかない」
 明算は静かだが、厳しい口調でいった。

「泉州表からは何の音沙汰もない。どうなっているのか」
 専識坊はいらいらしていた。
 明算も専識坊の焦燥は理解できた。
 秀吉の軍勢が二十日に堺を通過して貝塚に向かったあと、翌朝から戦闘が始まったとの情報が届いた。それから、一日以上たつのに連絡は全く途絶えていた。

 明算は障子を開けて窓の外を見た。
 秋に水鳥が騒いでいた阿弥陀池にも動くものの姿はなかった。外は冷たい風が吹いて池の表に波が立っている。水面に落ちた紅葉が岸に寄せられている。

 明算が再び障子を閉めて円座に座ったとき、和泉と紀伊の国境を見回りに行っていた忍びが、血相を変えて大伝法堂の中に飛び込んで来た。
「千石堀が落とされた。ほかの城も開城した。秀吉の軍勢はこちらに向かっている」
 息せき切って話す忍びの報告に、小堂の中にいた全員が青ざめて立ち上がった。予想もしなかった早い展開だった。

                ◇

 風吹峠から紀州に侵入した秀吉の軍勢は、逃げる敵を追いながら、さしたる抵抗もなく、そのまま一気に根来寺の坂本に押し寄せた。

 これほど早く敵が攻めてくると予想していなかった寺内は大混乱に陥った。
 不意を衝かれて、たちまち坂本の山門が破られた。秀吉の軍勢は寺内に殺到し、主立った旗頭の坊を攻撃した。
 あちこちで鉄砲が撃たれた。寺内の僧侶や稚児たちは狼狽し、右往左往するところを、馬のひづめや足軽の刀にかかって殺された。
 笈(おい)を背負って逃げる学侶の背中を、馬に乗った侍が槍で突き刺し、笈の中の経巻が路上に散らばった。
 足軽たちは土足で僧坊に踏み込み、金や銀で出来た仏具を略奪した。足軽の足にすがりついて止めようとした老僧が、無残に切り殺された。
 足軽が建物に火を放ったらしく、あちこちで火の手が上がり、黒い煙が立ちのぼった。
 馬に追われて深い谷底へ落ちる僧、木の上に逃げたが下から鉄砲に撃たれて真っ逆さまにおちる行人もいる。地獄の羅刹のような真っ赤な顔をした秀吉軍の足軽たちが、尻をはしょり、抜き身の刀を下げて走り回っている。
 鯨波(とき)の声と断末魔の悲鳴が交じりあい、まさにこの世の阿鼻叫喚地獄だった。

                                 ◇

 杉の坊は大塔のすぐそばに庫裏から持ち出した畳を積み重ねて陣地を作った。
 鉄砲や弓矢の手だれは大方が泉州表へ行き、根来には戦に不慣れな近在の若者や年寄りの行人しか残っていなかった。
 明算はうろたえる若者たちを叱咤して、陣地を作らせた。しかし、怒涛のような敵の軍勢は四方から襲い掛かり、味方は次々に倒れた。
 明算と専識坊は畳の陣地にこもって鉄砲を撃ち続けた。
「ピシッ」
 鋭い音がして大塔の柱に鉄砲の弾が突き刺さった。
「桃坂峠も破られたらしい」
 専識坊は行人の一人から弾を込めた鉄砲を受け取りながら、杉の坊に話し掛けた。
「こうなったらやむをえない。最後まで戦うまでだ」
 明算も鉄砲を撃ちながら答えた。先ほどまで家康をなじっていた専識坊も既に覚悟を決めたらしく、黙ってうなずいた。

 不動堂の前では、小密茶坊の率いる忍びの一隊が、圧倒的な敵を相手に抵抗を続けていた。木と木の間に細いしゅろのひもを張り、走ってきた敵が足を取られて倒れる所に鉄砲を撃ち掛けた。僧坊の屋根の上から、潜んでいた行人が馬上の武将を狙撃した。
 敵はさらに後詰を送ってきているらしく、あちこちから新たな部隊が加わった。

 境内のあちこちで小規模な戦闘が続く中、不動堂では、玉泉院、龍燈院の主戦派の老学侶二人が必死の形相で護摩を焚き、祈祷を続けていた。
「なにとぞ、降魔の利剣を以て仏敵、法敵の秀吉を滅ぼしたまえ」
 二人は数珠をもみしだき、一心不乱に呪文を唱える。
 飛んできた火矢が、不動堂の垂木(たるき)に突き刺さり、燃え始めた。だが、二人は気に止めず、なおも呪文を唱え続ける。火はますます燃えさかり、煙が堂の中にまで入ってきた。
「仏敵調伏、怨敵退散、おんぼだいそわか」
 煙にむせびながら、二人はなおも狂ったように秀吉を呪い続ける。もはや祭壇に燃える護摩の火と堂を焼く火との区別がつかないようだった。

 突然、不動堂の扉が荒々しく開けられ、手に槍を持った秀吉軍の足軽が侵入してきた。
 足軽は護摩を焚(た)いて祈っている二人の僧の後ろに近付き、いきなり後ろから槍を突き刺した。二人は振り向く間もなく、絶命した。
 兵たちは金目のものがないのを見ると、そのまま立ち去った。
 火は不動堂を包み、やがて堂は大きな音を立てて崩れ落ちた。

                        ◇

 根来寺での抵抗は、すでに数ケ所を残すだけになっていた。
 明算と専識坊のいる陣地も敵の攻撃で徐々に狭まってきた。守っている行人の数も三十人ばかりに減っていた。
 不動堂の前で戦っていた小密茶坊の手の者も退却してきた。小密茶坊は不動堂の前で、敵の鉄砲に当たって死んだという。敵の鉄砲と矢はますます激しくなってくる。早合の玉も残り少なかった。もはや敗北は明らかだった。
「専識殿、戦はこれまで。おぬしは家康の朱印を持って土佐へ逃げよ。長曽我部に朱印状を渡し、再起を図れ」
 明算は穏やかにいった。
「いや、おれもここに残る」
 若い専識坊はなかなか、明算の言うことを聞かなかった。
「誰かが根来の敗軍と我々の恨みを後の世に伝える必要がある。だれもいなくなれば、真実は伝わらぬ。我々の道理と我々が最後まで果敢に戦ったことを伝えるのは、おぬしの役目だ」
 明算は諭すように若い専識坊に言った。
「分かりました。では、私は土佐へ参ります。杉の坊殿、長らくお世話になりました」
 専識坊は涙ぐんだ目で杉の坊を見た。
 奇声を上げて、専識坊は残っていた配下の行人五、六人と敵の真只中へ飛び出した。たちまち、周りから鉄砲玉と矢が飛んできて、行人二人が倒れた。
 専識坊の肩を銃弾がかすめ、小袖がちぎれた。
「専識坊を援護せよ」
 杉の坊は叫びながら銃を撃った。
 行人たちの一斉射撃に、敵が一瞬ひるむ。そのすきに専識坊たちは笹原に飛び込み、山を駆けおりていった。根来の山を熟知する専識坊は、獣道を伝って海岸に向かっているようだった。

 専識坊の姿が見えなくなったあとも、杉の坊は鉄砲を撃ち続けた。味方はさらに倒され、陣地にはもう十人ほどしか残っていなかった。
 やがて鉄砲の弾が尽きた。
 明算は銃を捨て、左手に楯、右手に大身槍を手に取ると、周りに声をかけて陣地を飛び出した。配下の行人もこれに続いた。
 敵の銃弾が飛んでくる中を、明算は光明殿に向かって真っすぐに進む。 最後まで抵抗をやめない根来の大将の首を取ろうと、四方から飛び掛かってくる敵の足軽を槍で払っては突き伏せた。
 光明殿では、閼伽井坊が地元岩出庄の百姓を指揮して戦っているはずだった。明算は合流して討死にする積もりで閼伽井坊を探した。
「閼伽井坊はどこか」
 明算は大声で叫ぶ。だが、返事は聞こえなかった。
「閼伽井坊、どこだ」
 明算がもう一度叫んだとき、飛んで来た一発の敵の銃弾が明算の心臓を射抜いた。
 明算はそのまま前屈みになって倒れた。敵の足軽が明算に飛び掛かり、馬乗りになって首を切った。

              ◇

 戦は終わった。夜が白々と明けると、根来寺の惨状が秀吉軍の兵たちの目に入ってきた。
 寺のあちこちに、首を切られた行人の死体が転がっていた。焼け落ちた堂や僧坊がくすぶり、経巻や厨子が散乱している。土足で踏みにじられた仏画や、手足が取れた仏像が路傍に転がっていた。硝煙の臭いが、まだあたり一面に立ち込めている。
 奇跡的に火にかからなかった大伝法堂と大塔、大師堂の三つの建物を除いてすべての堂塔が焼け落ち、灰になった。山門の前の通りに並んでいた多くの店もすべて焼かれ、物が略奪された。
 ほんの数日前にはあれだけの人間がひしめいて繁栄していた根来は、いまや廃虚となっていた。

 大師堂の前で、血に汚れた秀吉軍の足軽たちが集まって休んでいる。そのそばに略奪した仏具や、殺された行人たちの首が無造作に積み上げられている。
 秀吉軍の兵たちは、陣笠を使って湯を沸かしている。乾し飯(ほしいい)を熱湯に入れて粥にする。
 前日以来、ほとんど寝ていない兵たちは、みな疲れきった表情で座りこんでいる。粥ができるのを待てず、干し飯をそのまま口に入れて噛んでいる者もいる。
 やがて天が曇り、厚い雨雲から、すすを溶かしたような黒い雨が降ってきた。
 雨は血と泥に汚れた死体を洗い、谷の底を流れる川に音をたてて流れ込んだ。くすぶっていた火はようやく収まった。

                                ◇

 二百人の行人を率いて応援にきた粉河寺の三池坊は、寺の四方から殺到する敵の大軍を見た瞬間、自分たちの敗北を知った。これほどの軍勢がこれほどたやすく根来に侵入してくるとは考えていなかった。
 三池坊は死を覚悟した。
 粉河の行人隊は盛んに鉄砲を放って敵を倒した。
 三池坊らは敵中を突破し、紀泉国境の雄の山峠まで行ったところで、救援に来た太田党の太田左近の軍勢百五十人と合流した。
 粉河衆と太田党はここで陣を張り、北から紀州に入ってくる敵を防ごうとした。しかし、山腹から敵の伏兵が現れ、彼らを取り囲んだ。三池坊ら粉河勢は槍を振り回して戦ったが、大方が討ち取られた。囲みを脱した太田左近ら太田党は部下を率いて雑賀の太田城へ戻った。
 

 根来寺最後の日の様子を、本願寺顕如の右筆、宇野主水(もんど)は「貝塚御座所(ござしょ)日記」にこう記録している。

「二十三日今夕、日入る以前より根来寺の通りを焼く。煙立ちてより、その夜大焼。天輝くなり。根来寺放火。雑賀も内輪散々になりて自滅の由、風聞あり。(中略)根来寺は放火あるまじき由のところに(=放火が禁止されていたのに)、いづくともなく所々より焼け出して、ことごとく相果ておわんぬ。時刻到来勿論なり(=滅亡すべき時がきていたのはいうまでもない)」

【現代語訳】

(きょう二十三日の夕方、日没の前から根来寺の街が焼けた。煙が立ってから、その夜に大火になった。根来寺は放火された。雑賀も内部の混乱で自滅したといううわさである。根来寺は放火を禁じられていたが、どこからともなく火が出て、すべて焼けてしまった。滅亡の時が来ていたのは当然である)
 

 二十三日、本願寺の新門(光寿=教如)と興門(佐超=興正寺顕尊)の二人が、秀吉に進物を届けるため、貝塚から信達の岡田まで舟で行った。しかし、秀吉はすでに根来に進んだあとで、会えずに帰った。戦闘のさ中に、祝儀を届ける大変な配慮ぶりである。

 本願寺の別の記録「貝塚御座所雑記」にもその時の記述がある。
「二十三日に秀吉、根来寺へ御陣替え(=陣を移した)。根来寺の法師どもは、御人数(=軍勢)越されぬ前に、ことごとく逃げ去る。寺をば放火あるまじき由、候ひつれども、時刻到来か、二十三日夜、所々より焼け出し、大伝法院の本堂ばかり残りて、ことごとく焼け果ておわんぬ。坊は八十ばかり残るなり。老僧衆五六十人、経(きょう)かたびらを着て、焼け跡へ出で、秀吉に理(ことわり=釈明)を申すところに御免(=お許し)ありて、結局(=結句=かえって)不便(ふびん=哀れ)なる由にて、食物等与えられたるなり。(中略)
 伝法院の本堂の本尊は阿弥陀三尊、後鳥羽院御影(肖像画)あり。絵像なり。本堂にあり。大門のわきにある池へ身を投げたる衆徒一人あり。大伝法院の本堂一宇残る。不思議と云々。そのきわに多宝塔残る。一切経蔵残る。ただし、経をば取り散らすなり。弘法大師の御影木像残ると云々。(中略)谷々に死にたる法師も少々あり。馬多く死す。谷へ落ちて死にたるなり。(中略)」

【現代語訳】

(二十三日に秀吉は根来寺に陣を移した。根来の行人たちは、軍勢が来る前にすべて逃亡した。寺に放火してはならないと命じていたが、滅ぶべき時が来ていたのか、二十三日の夜、ところどころから出火し、大伝法院の本堂だけ残して、すべて焼失した。僧房は八十ほど残った。老いた僧五、六十人が経かたびらを着て、焼け跡に出てきて、秀吉に釈明したところ、許された。それどころか逆に、哀れとして、食物を与えられた。中略)

(伝法院の本堂の本尊は阿弥陀三尊である。後鳥羽上皇の肖像画も本堂にあった。大門のそばの池に身投げした僧が一人いた。大伝法院の本堂一棟が残ったのは不思議だと人はいった。そのそばの多宝塔も残った。一切経の蔵も残った。ただし、経は取り散らかされた。弘法大師の木像が残ったという。あちこちの谷に僧の死体も少々あった。馬が多く死んだ。谷に落ちて死んだのである)

 火に驚いて走りだし、崖から足を踏み外して落ちた馬の死体が根来の谷々に転がっていた。血だらけの行人の死体が、谷底に横たわり、あるいは山腹の木にひっかかっている。堂宇の火は燃え盛り、夜空を赤々と焦がした。
 わずかに焼け残った大塔と大伝法院、大師堂だけが、ひっそりと闇の中にたたずんでいる。仏の聖地である根来は一夜にして、刀林地獄、阿鼻叫喚地獄に変わり果てた。

ルイス・フロイスの「日本史」(松田毅一・川崎桃太訳)には根来最後の日が、次のように描かれている。

「すでに和泉の国では為すべきことがなくなったので、全軍は紀の国に向かって行進した。そこには根来衆と称せられる仏僧らが八千ないし一万人いたが、あえて羽柴勢に立ち向かう者はなく、一部の者は高野に、そして主力は雑賀に逃れた。軍勢は根来の盆地に入り、羽柴はそこで一夜の陣営を設けた。かの僧侶たちは富裕であり、兵士たちは何よりも町や寺院、また財宝を蓄えている家屋で略奪することを望んでいたので、夜明けまで待つことは、彼らにとって耐え難いことであった。彼らはまた羽柴がその豪華な寺院や立派な屋敷を見るに及ぶと、それらを焼却することを禁じ、大坂へ移すよう命ずるかも知れないと心配し、同夜、大風が吹いたのを幸いとして、兵士たちは各所に放火し、あらゆるものの略奪を開始した。
 火の回りは早く、その勢いはすさまじく、すでに羽柴が投宿している家屋も炎に包まれかけたので、彼は急いで家から出、その夜はある山頂で過ごした。このようにして、地形を熟知している者によれば、かの広大な根来の盆地において千五百以上の寺院、およびその数を上回る神と仏の像が炎上したということである。(中略)
 かくてその日、悪魔の直参(じきさん=直属の家来)である仏僧が治める共和国の権威は消滅し、後にはただ生気を失った根だけが残ったが、今後それが台頭することは期されるべくもないであろう」

 フロイスは根来寺が焼かれ破滅したことを、悪魔を崇拝した仏僧と殺生を続けた行人たちへの神の懲罰と受け止め、根来の破滅と僧や行人たちの死を神に感謝した。

この戦に従軍した秀吉の幕僚、竹中重門は、秀吉の伝記「豊鑑」に次のように書き残している。

「三月二十一日(二十三日の誤りか)、秀吉根来にうつりたまふ。寺々はみな空けうせ(失せ)、僧にわかに落ち行きたりと覚えて、器以下とりちらして置けり。兵ども寺々に満ちて、これ(=器など)をとりしたため(=整理)などす。申(さる)の刻ばかりに、何の寺ならん火出て、炎空に上がり、黒雲覆(おお)へり。折ふし、風もそひければ(=加われば)、先々に燃えつき、おびただし。兵どもあわて騒ぎ、物の具(=武具)ようよう携えて逃げ出でけり。軒を重ねて作りこみたる寺ともなれば、一つも残るはなかりけり。秀吉宿所せんしき坊(=専識坊)にも火掛(かかり)ければ、上の山へ逃げ上がりたまふ。明くる日の辰の終わりまで燃えあひけり(=すっかり燃えてしまった)。覚鑁上人いとなみし大伝法院ばかりぞ残りしなり。この時粉河もともに焼かれけり」

【現代語訳】
(三月二十一日、秀吉は根来に移られた。寺々はみなからっぽで、僧は急に逃げ落ちたと見えて、食器なども取り散らかされたままだった。兵士たちはあちこちの寺に満ちて、器などを取って片付けた。申の刻=午後3〜5時=ごろに、どこの寺か出火して、炎が空に上がり、黒い煙が空を覆った。風も加わって、先々に燃え移り、おびただしい火になった。兵たちはあわて騒ぎ、武具を持って逃げた。軒を接してつくりあげた寺院だったので、ひとつも残らなかった。秀吉の宿舎の専識坊にも火が移ったので、秀吉は上の山に逃げあがった。翌日の辰=午前7〜9時=の終わりまで燃え続けた。覚鑁上人の造営した大伝法院だけが残った。このとき、粉河もともに焼かれた)

 多くの史書は、大きな戦闘はなかったように書いているが、大伝法堂と大師堂に銃弾の跡が残っているところを見ると、寺側の抵抗はあったと思われる。

 命は助かったものの、前途を悲観して、池に身投げする老いた学侶が続いた。焼け野原になった寺で、嘆き悲しむ僧たちの声があちこちから聞こえてきた。

 貝塚御座所雑記はさらに伝える。
「四月九日、伝法院の本堂を崩さるべき由ありて、番匠(=大工)七十人ばかり来る。それを見て最前(=さきほど)命助けられたる法師のうち七人池へ身投げ、おいおい(=あとを追って)三十五人死におわんぬ。一円に(=すべて)寺を絶やさるべきとの心か(=寺を絶やすと思ったのか)と云々。老僧ども三十五人身を投げ、残る分は高野へやられると云々。堂を崩さるるによって、老僧どもは身の置きどころなきままに身投げの体(=ありさま)なり。ただし又、この上は生きていられぬと心得て果てたる衆もあるか」

【現代語訳】

(四月九日、伝法院の本堂を取り壊すとして、大工七十人ほどがやってきた。それを見て、先ほど命を助けられた僧のうち、七人が池へ身投げした。後を追って、三十五人が死んだ。すべて寺を絶やしてしまう積もりと思ったのであろうか。老僧三十五人が身投げし、残りは高野に遣られた。堂を崩されることで、老僧たちは、身の置き所がなく、身投げしたようだ。また、こうなっては生きていられないと感じて死んだ僧もあろう)

 フロイスの日本史にも、老僧たちの自殺の様子が書かれている。
「幾人かの老僧や宗門の古参の僧侶たちは、自分たちの寺院や偶像、またその屋敷と財宝に対して加えられた、この甚大にしてあまねく行きわたった破壊と焼き討ちを眺め、ありとあらゆるものが略奪蹂躪(じゅうりん)されたことを知るに及び、その悲嘆と苦悩は言語に絶するばかりであり、ある人々は従来享受してきた多くの愉悦を伴う生活を奪われて生きるよりは、その場で死んだ方がはるかに幸運であると考えるに至った。そこで諸仏に奉仕することに特に熱心だった約二十数名の仏僧たちは、非常に深い一つの池に投身し、全員溺死した。
 一人が身を投じ終えると、手に長い竿を持った別の僧侶は、彼が底まで沈んで再び水面に現れないよう、池の廻りで見張り、水面に現れれば再び水中に沈めて浮き上がることなく、成仏できるようにした。このようにして、皆は少人数ずつ投身していった」

 昨日まで、豪壮な寺院に住み、弟子や信徒たちに敬われて住んでいた僧たちの多くは、このような悲惨な状態に気落ちし、苦難に立ち向かう気力を完全になくしていた。
 しかし、一部の学侶は、尊像や経巻を身をもって守り、宗門を存続させる必死の努力を続けていた。

 混乱の中で、智積院玄宥、小池坊専誉の両能化(のうけ=学侶の最高位)は、秀吉軍侵攻の直前に根来を離れ、それぞれに従う学侶に守られて高野山に避難した。
 玄宥能化の一派は醍醐山を経由して京へ走り、のちに智積院を作った。これを智山派という。また、専誉能化の一派は大和の長谷寺に入り、豊山派を作った。

 大治五年(一一三〇)に覚鑁上人が高野山内に創建し、正応元年(一二八八)、頼瑜(らいゆ)が根来の地に移して以来、仏都として三百年の繁栄を誇った根来寺は、ここに壊滅した。

                 ◇

 羽柴秀長は温厚で人情もあり、異父兄秀吉の信頼も厚かった。天正十九年(一五九一)、五十歳で病死した。
 積善寺城で降伏した根来の行人の中には、秀長に臣従したものもあった。

「顕如上人、貝塚御座所日記」によれば、投降した行人の一部は、美濃守殿(=秀長)に奉公するため、与えられた魚を食べて出家落ちした。これに対して出家を遂げようとする者は、よそへ散ったという。殺されると思って案じていたが、そのような事はなかった。積善寺城は四月二十日に取り壊されたと伝えられている。