高井城は貝塚市清児(せちご)から名越(なごせ)に向かう街道沿いにある。高井天神社の境内地を生かし、積善寺城の右の備えにした支城だった。
江戸時代、根来寺とゆかりのある熊取の旧家の中家に生まれた文人、中盛彬(もりしげ)が残した随筆「伽李素免独語」(かりそめのひとりごと)に、根来寺が高井城の守備兵に指示した文書の写しが記録されている。
覚(おぼえ)
一、高井城、畠中のごとくにゐやぐら(居櫓=住居がある櫓?)にすべき事
一、番手(=守備兵)、今までのごとくたるべき事
一、自然(=もしも)、敵働き候(=敵が戦場で行動する)時は、つつ(筒=銃)
百丁入れ置くべき事
一、在在おとな(=村々の長)共、畠中と高井へ二つに分け、入城せしむべき事
一、玉薬(たまぐすり=弾薬)兵糧、丈夫に(=十分に)入れ置くべき事
かくのごとく、郡中に確かに申しつけ候。いよいよかしく(畏く=敬って)申すべく候 惣分
【現代語訳】
覚書
一、高井城は畠中城のように、住む櫓にすること
一、守備兵は、これまでどおりにすること
一、もし、敵が動き出すときは、銃百丁を入れておくこと
一、村々の長は、畠中と高井の二つの城に分けていれること
一、弾薬は十分に貯蔵しておくこと
以上、郡内に確かに申し付けた。敬具 惣分
根来寺の惣分(=行人組織の指導者)が、来るべき秀吉との決戦に備えて、高井城の守備を強化しようとしたことがわかる。積善寺や千石堀は日ごろ城を守っている番手に加えて、多数の兵を補強したが、高井城は増やさなかったようだ。
領内の百姓は強制的に城の中に入れられ、ともに戦うことを強いられたことも、この文書から読み取れる。
百姓たちはもともと自ら戦う気はなかったのだろう。
桃井家に伝わった根来軍記(=根来寺所蔵)には次のように書かれている。
「清児(せちご)高井の城を、行(ゆき)左京、熊取大納言警護。また東の山手には、御大将様(=秀長)の御先陣衆、渡り(=行軍)なされ候を見て、さてさて諸勢(=多くの軍勢)かなと驚く。さりながら、いかほど参るべしと侭(まま)と(=どれだけ来ようと平気だと)(積善寺の)橋本右京(=出原右京)所へ遣わし、日々馬乗の四、五騎お借(貸)しあれ、東の山手へ先陣お渡り候(=敵が行軍している)、ただ今に諸軍勢競い来り、はせむかうを即時に追っ立て申すべく旨、松若(=伝令の名前)に申し含みて、積善寺へさし遣わす。右京聞きもあえず(=聞くやいなや)、言語道断、腹立ち申されようを(=立腹していわれるには)、ことに当家の御発向なされらる事、五万や十万騎の軍兵にしてはあるまじく、孫平次などのように心得なば(=中村一氏程度と考えていては)、油断大敵となる。よくよく覚悟せよと散々お怒りありて、松若を追い戻さる。
もはや早朝に及びなば、福島太夫殿(=正則)先陣、高井へ押し寄せ、即時に城郭を破却、行左京は城中にてあい果てもうし、また残り武者、橋本松林(=貝塚市橋本の松林)へさして走り入る。寄せ手衆、勝軍なれば虎の寒風にうそぶく形勢より威力は鋭かりけり」
【現代語訳】
(清児城、高井城を行左京と熊取大納言が守った。東の山手を羽柴秀長軍の先頭が行軍しているのを見て、「何と大軍か」と驚いた。「とはいえ、どれだけ来ようと構わない」と(うそぶき)、積善寺城の橋本右京のところに使いの松若を送り、「日ごろ馬に乗っている四、五人を貸してほしい。いま向かっている敵の軍勢を、いますぐ追い立てよう」という提案を積善寺に伝えた。橋本右京は、これを聞くや否や、「言語道断」と腹を立て、「ほかでもない秀長が出陣するということは、五万や十万程度の軍勢ではありえない。孫平次=岸和田の中村一氏=と同じように考えるのは油断大敵となろう。よくよく覚悟してかかれ」と散々怒って、松若を追い戻した。
すでに早朝になったので、福島正則の先陣が高井城に押し寄せ、またたくまに城を壊した。行左京は城内で討たれ、残った武者は橋本集落の松林に逃げ込んだ。寄せての兵は、勝利して、虎が寒風にほえるより、勢いが上がった)
自己を過信して敵を甘く見た高井城の防備の弱さが、あっけない陥落の原因となったといえる。支城とはいえ、千石堀城に続く高井城の陥落は、根来方の戦意を大きく阻喪させる原因となった。
◇
畠中城にいた若左近は千石堀城の方角の夜空が赤く輝くのを見た。
「千石堀が燃えている」
畠中城の行人たちは不安そうに鉄砲はざまから外を覗き、空を焦がす炎を見た。
十郎太とおちかの身を案じ、若左近は胸騒ぎを覚えた。
畠中城の周りには岸和田城主、中村一氏の軍が取り巻いている。
攻め手に加わっているのは、多くが中村一氏の配下に組み入れられた泉州北部の地侍とその従者である。従者の中には砦の衆と縁戚関係にある者も少なくなかった。
千石堀の本丸が夜空を焼いて燃え、いまや遠くからもその落城がはっきりとわかったとき、外からまた一通の矢文が畠中城内に届いた。
矢文にはこう書かれていた。
「千石堀は既に落ち、城内にいた人間は一人も残らず殺された。高井城もすでに落ちた。この城も攻め落とすのはたやすいが、無益な血は流したくない。明日の朝までに城を明け渡せば、生命は保証する。天地神命に誓って偽りはいわない」
手紙の最後には、攻め手の副将羽柴秀長の花押が記してあった。
千石堀と高井城の落城を知って、畠中の城内は大きく動揺した。
「こうなれば生き残ることは難しい。敵を少しでも道連れにして、千石堀と高井で殺された者のかたきを取ろう」
涙を流しながら、訴える若者がいた。一方で
「高台にある最強の千石堀が落ちた今となっては、この城もいずれは落とされる。ここで、むざむざ犬死にするより、根来へ行って、そこで守りを固めた方がよい」
という者もいた。
千石堀が陥落し、十郎太とおちかも死んだ。若左近には、にわかに信じられなかった。
しかし、それが本当なら、自分ももはや生きてはいけない。最後まで砦を守って死のうと若左近は決心した。
矢文による再度の投降勧告を読んだ畠中城の大将、神前是光は覚悟を決めた。もはや開城しか方法はない。
砦の主な人間が集まって今後の方針を詮議した。「最後まで戦って死んでも無駄死にだ」という意見が多数だった。
詮議で決まったことには従わねばならない。根来から派遣された行人たちも、千石堀の落城を聞いて意気消沈し、もはや何もいわなかった。
是光は開城を伝える矢文を敵陣に打ち込ませた。貝塚卜半斎にも矢文を送り、開城と引き換えに安全の保証を求めた。
闇が濃くなり、静寂があたりを包んだ。
城を守っていた土豪や百姓たちは夜陰に紛れて少しずつ城を離れた。最後に出る者が建物に火をかける手はずだった。若左近一人残っても、何の意味もなかった。
新月で、辺りは漆黒の闇に閉ざされていた。篭城していた百姓の女子供を先に、百姓達は五、六人ずつ一団になって城の裏の山に逃れた。中村一氏が兵に命じたのか、敵は攻撃を仕掛けてこなかった。
若左近は最後に城を出た。火薬を紙に巻いて作った導火線を煙硝の倉まで伸ばし、爆発するように仕掛けた。用意が出来ると、大急ぎで導火線にひうち石で火をつけ、城の裏手に逃げた。
若左近が裏山をよじ登っているとき、大音響とともに辺りが昼間のように明るくなった。
振り返ると、砦の建物が爆発し、粉々になって飛び散っていくところだった。
人々が汗を流し、根来寺防衛の為に築いた砦が、焼けた木屑となって空中を落ちていく。燃えた木屑が降りかかり、残った建物が燃え出した。
燃え落ちる砦を背に若左近たちは根来への道を急いだ。
◇
畠中砦にこもっていた和泉の百姓たち千五百人は思い思いに逃げた。日根野村の目(さかん)源六は、家族を引き連れ、紀州高野山に近い志賀に逃げた。
「根来軍記」は、このときに畠中砦にこもった泉南の百姓たちの名前を残している。
「畠中城へ中村孫平次(=一氏)殿、御寄せなされ候とき、正徳院鉄砲にて孫平次殿従弟を打ち申し候。それより寄せ衆も敗軍。さりながら、この城郭、武辺なる仁(=武術にたけた人)多く警護す。その中にても粗記す(=主立った人を記録する)。
貞久、宗行、是光(=神前是光か)、国吉、窪田貴蔵院、王子にては友成、末包、貞近、末国、末利、鶴原加賀又太夫、陸左近、佐野十郎太夫、奥左近、菊左近、板原、加祥寺(かしょうじ)、迎右近、吉見土佐掃部、岡田にては玉田、樽井右馬太郎、岡田ふっしょう房、鳥取遠大寺、吹飯(ふけ=岬町深日)にてはせきしゆ、山中にては新屋、牧野にては左門、慶加、市場掃部、南道、新家には久内、上之郷源次、日根野源六、左近佐(さこんのすけ)、かつは左近、若左近、大木新太郎、明願、式木左近、熊取中左近、西左近、若左近、宗九郎、刑部、源左衛門、長滝かうとの(以下略)」
【現代語訳】
(畠中城を中村一氏が攻めた時、正徳院が鉄砲で一氏のいとこを撃った。これにより攻め手が敗れた。この城は武力に優れた人が多く守っていた。その中の主だった人を列挙する。以下略)
板原は泉大津市の板原氏(多賀氏の一族)。迎右近は(泉佐野市)向井氏、佐野十郎太夫は佐野(泉佐野市)の藤田氏。樽井右馬太郎は樽井(泉南市)の脇田氏。日根野源六は日根野(泉佐野市)の豪農、目(さかん)氏であろう。いずれも江戸時代には庄屋を務めた豪農である。名字代わりの地名からは、貝塚から紀伊との国境まで和泉南部の有力農民が総動員されていたことがわかる。
泉南の農民たちが、いかにこのときの戦いを胸に刻み、先祖の奮闘を誇りに思ったかが伝わってくる。
千石堀、高井の砦は攻め落とされた。畠中城は自焼して開城した。しかし、根来側の本城である大熊街道沿いの積善寺砦と海岸近くにある沢(浜)砦はまだ無傷で抵抗を続けていた。
二つの砦は守兵も多く、銃などの装備も整っていた。
慎重な秀吉は味方の損害を恐れて、一気に力攻めすることはしなかった。両砦を小規模な攻撃で威嚇する一方、懐柔するため、羽柴秀長に命じて砦を降伏開城させる交渉を行わせた。
「(秀吉公)御出馬の上は、ことごとく皆討ち果たされるべく議定(ぎじょう=決定)そうらへども、命の儀は(=生命は)助け申し候。このこと、いささかも表裏あるべからず。もし偽り有れば、日本国中、大小神祇の罰を蒙(こうむ)るなり」
秀長は、畠中城と同様、助命を神に誓って、積善寺砦と沢砦の守り手に退去を勧めた。
積善寺砦では、秀長の命を受けた貝塚願泉寺の卜半を介した説得を受けて、主立った者たちが対応を練っていた。
積善寺砦守将の出原(橋本)右京は、地元貝塚橋本の豪族である。楠木正成の同族で南朝に忠誠を尽した橋本正員(まさかず)、正高父子の末裔と称する。
橋本には現在も出原氏の一族が多く住んでいる。
三十四間四方の本丸には出原右京のほか、山田蓮池坊、法橋頭三位坊、野原大部坊、長橋正知坊が固めていた。東の櫓には山田長寿院、山下南坊、北の櫓には寿宝院、南の櫓には近木忠次郎、熊取寿命院がこもった。
通常は三百六十人が守備していたが、秀吉軍の侵攻に備えて根来から応援を求め、九千五百人に増強されていた。
出原右京は、砦の中の百姓や女子供の嘆きを聞いて、内心、和睦に傾いていた。
しかし、根来から軍監として派遣されていた山田蓮池坊が徹底抗戦に固執したため、それを表に出すことはできなかった。土地の支配者である根来寺惣分から派遣された有力な行人の強硬論に反対することは、右京にとっても容易なことではなかった。積善寺砦の抵抗は続いた。
「細川家記」によれば、寄せ手の先鋒となった細川勢に対して、積善砦側は石、矢、鉄砲で抵抗した。細川家の武将、武藤喜左衛門や杉原伝八が討ち死にした。積善寺では大規模な戦闘はなかったようにいわれているが、細川家記によれば、激しい戦もあった。
この戦の最中、細川忠興、蒲生氏郷らの攻撃で、山田蓮池坊が流れ弾に当たって戦死した。蓮池坊の死は篭城衆にとって大きな打撃だった。これを機に、それまで強硬だった砦の中の意見は一気に開城に傾いた。
両軍が対峙しているとき、千石堀と高井城の陥落の報が、攻め手から積善寺砦に矢文で知らされた。なお抗戦を主張していた積善寺の行人たちも、この知らせを聞いて急速に戦意を失った。
城内で詮議が行われた結果、ついに卜半斎の勧告に従って城を離れることに決した。
二十一日、篭城していた出原右京ら九千五百人は城を退去した。秀長の命令により、攻め手は攻撃をしかけず、静かに老若男女が城を離れるのを見守った。
女子供は涙を流して死地を逃れたことを喜んだ。出原右京は和議に応じ、敵の軍門に下ったことに無念さを感じながらも、多数の命が守られたことに安堵していた。
積善寺城に派遣されていた根来の行人たちの一部は、開城したあと、手薄な本山を救おうと熊野街道を南へ急いだ。だが、途中で待ち構えていた秀吉軍のために、多くが討たれた。
◇
田中加足と根来宝蔵院を守将とする沢城は、雑賀勢を含む六千人が立て篭もり、降伏勧告を無視して敵の攻撃に耐えていた。高山右近、中村一氏、中川秀政の軍勢が壁際まで近付いて攻撃をしかけたが、城の中から鉄砲で反撃した。
しかし、千石堀と高井砦が落とされたことが伝わると、ここでも闘志は一気に萎えた。
大谷左大仁を始めとする根来の多くの勇者が千石堀城で失われたことは、大きな衝撃だった。強弓で知られた左大仁が射た矢は、一本もあだ矢がなく、その矢先に向かうものはいないといわれた。
落胆に追い撃ちをかけるように、続いて畠中城が自焼し、積善寺砦も開城したとの報がもたらされた。城内には一気に諦めの空気が広がった。
ついに沢城も衆議の結果、開城することを決めた。積善寺が落ちた翌日の二十二日に、六千人は城を捨てて脱出した。
卜半斎の孫の卜半家三代了忍が遺した「卜半由緒書」によれば、このとき、貝塚願泉寺の卜半斎が、夜半自ら沢城に入って、田中加足ら主立ったものたちと交渉、開城させることに成功したと伝えられている。
卜半斎はこのときの仲介を評価され、その後、和泉の浦銭山銭(山漁村税)の徴収と、聚楽第(じゅらくだい)建設の材木奉行を秀吉から任せられたと伝えられる。
田中加足らは脱出し、雑賀勢とともに太田左近のこもる太田城に向かった。
根来戦記には、沢城の戦いがこう記録されている。
「天正十三年三月二十二日、沢の城へ征伐のとき、中村孫平次(=一氏)殿、先陣となり、城郭へ押し寄せ、諸軍(=多くの軍勢)重々に囲む。互いに一戦を遂ぐ。(中略)沢村の城、護持難きにより(=守ることが難しいので)、全力を尽くし、(田中)加足より、(積善寺城の)橋本(出原)右京公を頼み、籌策(ちゅうさく=計略)をめぐらし、和睦を致す」
このとき秀吉軍の沢(浜)城攻撃の先頭に立った中川秀政は十七歳で家督を継いだばかりだった。
中川氏は摂津の多田源氏、源頼光の一族で、鎌倉幕府に従った。建武年間に摂津国豊島郡中川村に住んで中川氏を称した。
秀政の父清秀は荒木村重に仕えたが、村重が信長に背いたときに村重を見限り、信長に味方した。信長の死後は秀吉に従った。
天正十一年(一五八三)の賎ケ岳の合戦では、中川清秀は大岩山の砦を守ったが、柴田勝家方の佐久間盛政に攻められて討ち死にした。清秀は熱心なクリスチャンだった。
息子の秀政は、武勇で知られた父の名を辱められない重荷を負っていた。
「中川家譜覚書」には、沢城の攻防を次のように記述している。
「浜の城へは高山右近と秀政に仰せつけらる。しかるに秀吉より、いずれの城も大将の下知なくして城を攻めるべからず。もし違背のやからは曲事(くせごと=違法)たるべき由、かたく仰せいでらる。時に秀政、諸将に対し言いけるは、今度下知なくして戦う事、禁制なれども父清秀軍功、世に隠れなし。それがし若年にして老功の高山と同じく守りいること本意ならず。たとえ下知を背きて罪科を得るとも、我ら手勢をもって攻め取るべしとて、手勢を二手に分けて、采配をとって先陣に進む。諸士涙を流し、清秀に劣らぬ器量なりとこれを感ず。相従うものども、清秀より以来数度、戦に馴れたるものどもなれば、勇み進みて向かいの土手に待ちかけたる敵を追い崩し、二の丸堀ぎわにて攻め入る。首数個を討ち取る。堀を越え、柵を破りて既に落城に及ばんとす。これにより本丸より笠を出し、和を乞ふて城を開き、退かんといふ。この旨、秀吉に仰せられ達しければ、さあらば降参の者の命を助け、城を受け取るべしとなり。秀政が手柄なりとおぼしめしけるにや、とかくの仰せもなく、追って根来に攻め入るべし、秀政は先手つかまつるべしと(=先陣を務めるよう)仰せいでらる。これ浜の城乗っ取りたる褒美たるかと、もろ人(=皆)申しけるといへり」
【現代語訳】
(浜の城の攻略は高山右近と中川秀政に命じた。しかし、秀吉は「どの城も、大将の命令なしに攻めてはならない。もし違反した者は、罰する」と、抜け駆けを固く禁じた。このとき、秀政が配下の武将たちにいうには、「今度命令なく戦うことは禁止されているが、わが父の軍功は世間によく知られている。若い私が、老いた高山右近と守っていることは本意ではない。たとえ、命令に背いて、処罰を受けるとも、、われらの軍勢で城を攻め取ろう」と軍を二手に分け、采配を取って最前線に進んだ。部下たちは涙を流し、父の清秀に負けない器量だと感心した。従う者は清秀の時代から数度、戦いになれていたので、勇んで前進し、向かいの土手で待ち受けた敵を追い崩し、二の丸の堀際まで攻め込んだ。敵の首数個を取った。堀を越え、柵を破って、落城に迫った。このため、敵は本丸から笠を差し出し、和議を求め、開城して退却すると申し出た。このことを秀吉に申し上げると、「それなら降参した者の命は助け、城を受け取るように」との回答であった。落城は秀政の手柄と思われたのか、命令違反のお咎めもなく、「続いて根来に攻め入れ。秀政は先陣を務めよ」と命ぜられた。これは、浜の城を乗っ取ったことへの褒美かと、家臣たちは話した)
若い秀政が、命令に背いてまで功名にはやる気持ちが伝わってくる。無駄な犠牲を避けて和議を受け入れた秀吉が、抜け駆け禁止の命令に背いた中川秀政を責めることなく、さらに根来攻めに向ける。秀吉の老獪さもこの記事によってわかる。
秀政はこの時の軍功によって、播磨国三木城を賜ったが、のちに文禄二年(一五九四)、第二次朝鮮の役の際、水原城のほとりで鷹狩り中に毒矢を射かけられて死亡した。
◇
和泉表に張られた紀州側の防衛線は、わずか数日で崩壊した。
水間寺もこのとき秀吉方の堀秀政の軍勢に焼かれ、塔、仁王門は炎上し、本堂(金堂)も屋根を取り壊された。
水間寺は天平年間(七二九〜七四九)に聖武天皇の勅願で僧行基が創建した和泉の名刹である。聖観音菩薩を本尊とする。和銅元年(七〇八)に創建されたとの別の伝承もある。中世に皇族や貴族の信仰をあつめたが、文明十六年(一四八四)、和泉に進出してきた根来寺と粉河寺の行人との抗争で焼かれた。その後、室町時代に根来寺の配下に組み入れられた。
「顕如上人雑記」には、秀吉軍の放火による塔、仁王門炎上の様子を次のように記録している。
「塔、二王(仁王)門炎上。本堂は五百年も前に炎上後に再興したるを、堂の屋根などとりつくし柱ばかりになりたるなり」
水間寺はその後、岸和田藩主の岡部氏によって再建された。
◇
千石堀、高井の落城に続き、畠中城、積善寺城、沢城の一揆勢が城を捨てて逃げたのを見て、秀吉は根来本山の速やかな攻撃を命じた。和泉表の残兵たちが根来に帰ってしまえば、根来の攻略は難しくなる。彼らが寺に帰り着かないうちに一挙に根来を攻め落とそうとの考えだった。
千石堀、高井城の攻撃で疲れた兵は休ませ、新手の兵六万を根来に差し向けた。主力は風吹峠から根来寺の大手を目指し、残りは桃坂峠から、からめ手を目指した。泉州表は秀長に任せ、秀吉自ら軍を率いて桃坂峠に向かった。