おちかの死

「おちか。行くな」
 十郎太は、転がるように走って行くおちかに叫んだ。
だれか火を消せ。そう叫んだものの、まさか、おちかが飛び出すとは思わなかった。
 飛火矢の音や鯨波の声に掻き消され、十郎太の声はおちかに届かなかった。おちかは火矢と銃弾が飛ぶ中を、小走りで弾薬庫に近付いた。
 弾薬庫の前に来ると、おちかは手に持っていた布切れで火を払い始めた。
 敵がおちかに気付いたらしく、おちかの周りに弾が集まりだした。
 狙われているのにも構わず、おちかは夢中になって火を消している。炎を背景に小柄な姿が影絵のように見える。火の勢いが少し弱まった。
「おちか。戻れっ」
 十郎太は大声で叫んだ。
 十郎太の声に気がついたおちかが、こちらを向いて微笑んだ。その瞬間、おちかは急にひざを折り、そのままゆっくり前に崩れた。声は聞こえなかった。

「おちかー」
 十郎太は大声を上げ、鉄砲を持ったまま、おちかの倒れたところへ走った。脇を敵の鉄砲の弾が飛んで行く。
 十郎太は何度か体を伏せては、起き上がった。ようやく弾薬庫の前にたどり着き、おちかを抱き起こしたが、既にこときれていた。
 弾はおちかの心臓に当たっていた。血が着物を赤く染めている。その顔には、先ほどの笑顔がまだかすかに残っていた。
「おちか」
 十郎太は叫び、おちかを抱き上げて立ち上がった。

 目を見開いた十郎太の顔は怒りに歪んでいる。その憤怒の形相は、根来寺の山門で仏敵を威嚇し咆哮する金剛力士を思わせた。
 十郎太はおちかを抱き抱えたまま、もと来た方向へ歩き出した。
 怒りと悲しみの余り、危険を忘れてしまったのか。それとも修羅の世界を生きることに絶望したのか。十郎太は飛んでくる鉄砲の弾を、避けようとしなかった。
 一、二歩進んだ、その時、一発の銃弾が十郎太の眉間を砕いた。十郎太はおちかを抱いたままゆっくりと崩折れた。

 十郎太が倒れるのとほとんど同時に、大音響を立てて、弾薬庫が爆発した。火の着いた木切れが空中に四散し、辺りにいた行人や女達が吹き飛ばされた。千石堀城の本丸は火炎に包まれた。

 本丸を取り囲んでいた秀吉軍は、ほら貝を吹いて総攻撃にかかった。足軽が次々に砦の土居を乗り越え、中に飛び込んだ。

                   ◇

 千石堀砦の二の丸で指揮をとっていた西蔵院は、弾薬庫が爆発し、本丸が火に包まれるのを見た。
 本丸は暗闇の中で、火を噴いていた。弾薬がはぜ、火の塊が四方に飛び散っている。槍を持った敵の足軽が土居を乗り越えて本丸に突進して行く影が、炎を背景に見えた。本丸を守っていた行人たちの絶望した声が本丸から聞こえた。
 本丸にいた大将や大勢の行人や百姓たちが死んだうえ、弾薬が失われてはもはや勝算は無かった。

「篭城はこれまで」
 西蔵院は、愛用の大身槍を小わきに抱えると、数人の行人を従えて外へ飛び出した。残りの行人たちも大手門、からめ手門から全員が外へ打って出た。
 城を囲んでいた秀次と筒井、堀、長谷川の軍勢は、敵が大手門から出てきたのを見て、一斉に鉄砲を撃ちかけた。その場で、数人の行人が薙ぎ倒された。

 西蔵院は大身槍を振り回しながら、敵の軍勢の中に突っ込み、二、三人の足軽を突き伏せた。勢いに押されて筒井の兵が後ろに下がる。西蔵院は最後の道連れを求めて後を追った。

 大将の馬印が、見開いた西蔵院の目に入った。
 西蔵院は馬印に向かって一目散に走った。筒井の兵たちは、不意に近付いて来た敵を槍で防ごうとしたが、西蔵院に槍を払われて手に負傷した。
 西蔵院は一直線に馬印の方へ走って行く。驚いた表情で床几(しょうぎ)から立ち上がり、刀を抜いて構えている大鎧姿の武将の姿が見えた。敵の大将に違いなかった。

 西蔵院は槍を真っすぐに構えて突進する。あと少しで馬印に届くと思った瞬間、不意に横から飛び出してきた槍に足をすくわれ、西蔵院はもんどりうって倒れた。続いて反対の方から飛び出してきた別の槍が西蔵院の脇腹を貫いた。
《しまった》
 腹に突き刺さった槍を左手で持ちながら、西蔵院は唇を噛んだ。血が流れ出したが、痛みは感じなかった。だれかが飛び掛かって来る気配を感じながら、そこで意識は消えた。同時に西蔵院の首が胴体から離れた。
 一緒に外に出た行人たちも全員が打ち取られた。
 秀吉軍は砦の中になだれ込み、中にいた女子供を含む全員の首をはねた。

                 ◇

 「増補筒井家記」によれば、千石堀城を攻めた筒井定次の軍には島左近、松浦九市郎、森縫殿らのほか、伊賀衆も加わっていた。
 篭城兵の一斉射撃に、味方の損害は続出した。このため、中坊秀行と伊賀衆をからめ手に回し、城に火矢を射込ませたところ、弾薬庫に火が入って大爆発を起こした。飛び出してきた城方を味方が鉄砲でしとめたと記録されている。
 また、興福寺の僧、多聞院英俊の日記には「人数(にんじゅ=軍勢)数多く損(そこな)いおわんぬ。箸尾弟源二郎、その他馬上七騎討ち死に、手負い四十ばかりか」とある。筒井勢の損害も大きかったことがわかる。

 「蒲生軍記」には、以下のように記述されている。

「泉紀の間に敵、砦を十四箇所に構えて防ぎけり。その中に十二城をば攻めずして、千石堀、積善寺二つの城をぞ攻められける。千石堀より人数五百ばかり突きて出るところを、秀次および堀秀政ら横さまに駆け破り、挟んで打ち取る。逃げるを追って、直ちに攻め入らんとす。この千石堀の城には、名を得たる鉄砲の上手、根来法師八百人までこもりければ、大軍の人数を的にして放ちかけるに、人馬を選ばず、堀の中に打ち倒されて、いやがうえに重なり死す。ここに筒井順慶(=定次の誤り)は物慣れたる宿将なりければ、しきりに火矢を射させけるに、たちまち屋に燃え付きたり。内に入らんとすれば烈火、城櫓に充満して避けんとするに所なく、外に出れば数千の兵やじりを揃え、ほこさきを並べて待ちかけたり。打ち破らんとするに陣堅くして、城中の兵あるいは火に焼かれ、あるいは刃に裂かれて、死を免れるものわずかに二人なり」

【現代語訳】

(和泉と紀伊の間に敵は、砦を十四ヶ所に構築して防いだ。その中の十二城は攻めず、千石堀と積善寺の二城を攻めた。千石堀城から兵が五百人ほど、飛び出してきたところを、秀次と堀秀政らが横合いから馬で駆け破り、はさんで討ち取った。逃げる敵を追って、すぐに千石堀に入ろうとした。この千石堀の城には、名だたる鉄砲の名手、根来僧兵八百人まで篭城しており、大軍の兵を的にして鉄砲を撃ちかけた。人馬ともに堀の中に打ち倒されて、次々と上に重なりあって死んだ。ここに筒井順慶は戦に慣れた、経験ある武将だったので、しきりに火矢を射させたところ、たちまち建物に燃えついた。城の中に入ろうとすると、激しい炎が城の中に充満して避ける場所がなく、外に出れば、数千の兵が矢じりをそろえて、待ち受けた。突破しようとしたが、陣容は堅固で、城の中の兵はあるいは火に焼かれ、あるいは刀に切り裂かれて、死を免れたものは、わずか二人だけだった)

 信濃飯田の堀家家譜は次のように書いている。

「十三年乙酉、秀吉紀州根来の賊を伐(う)つ。賊、千石濠(ほり)、積善寺、浜の三塞(=三つの砦)を築く。羽柴秀次、千石濠に向かひ、長岡(=細川)藤孝および男(=むすこ)忠興、蒲生氏郷、積善寺に向かひ、中川藤兵衛(=秀政)、高山右近(=重友)浜に向かひ、堀秀政、筒井順慶(=定次の誤り)、長谷川秀一、根来寺に向かふ。
 千石濠より弓、銃手五百人ばかり出てこれを要す(要撃する=待ち受ける)。秀次兵を進め、堀秀政、順慶、秀一ら相継ぎて進む。敵退きて塞(城塞=砦)に入る。追うてこれを攻む。賊よく防ぐ。堀秀政の家士吉田孫介、火箭(ひや)を連放す。塞中火起こる。秀政先登して塀に寄る。従僕(=従者)今若なる者、金笠の馬印を執(と)りて進み、銃にあたりて倒る。秀政自ら馬印をとり兵をさしまねく。敵発砲雨のごとし。卒(=兵士)才若、身をもって矢を防ぐ。卒孫若、秀政とるところの馬印を取りて塞に入る。才若、今若の屍(しかばね)を負うて退く。塞ついに陥(おち)る」

【現代語訳】

(天正十三年、秀吉が紀州根来の賊を討伐した。敵は千石濠、積善寺、浜の三つの砦を築いた。羽柴秀次は千石濠に向かい、細川藤高と息子の忠興、蒲生氏郷は積善寺へ、中川秀政と高山右近は浜に、堀秀政と筒井順慶、長谷川秀一は根来寺に向かった。
 千石堀から弓、鉄砲の射手五百人ばかり出てきて、これらの兵を待ち受けた。秀次は兵を進め、堀秀政、順慶、秀一らが続いて進んだ。敵が退却して城に入ったのを追って、城を攻めた。賊はよく防戦した。堀秀政の家来の吉田孫介が火矢を次々に放ったところ、城の中が火事になった。堀秀政は先頭に立ってのぼり、塀に近寄った。従僕の今若なる者が、金笠の馬印を手に取って進んだところ、銃に当たって倒れた。秀政は自ら馬印を取って、味方の兵を招いた。敵の発砲は雨のようだった。兵士才若が身をもって矢を防いだ。兵士孫若が秀政の持った馬印を受け取り、城に入った。才若、は今若の死骸を背負って退却した。城はついに落ちた)

 堀秀政の兵たちが主人をかばいながら、雨のように降る激しい銃火の下を攻撃する情景が描かれている。激戦の様子が目に見えるようだ。

 また、「真鍋真入斎書付」にも、次の記述がある。

「一揆ども泉州のこぎ(=貝塚市近木)にて鉄砲二千丁ほどにて支え(=防戦)申し候へども、長谷川藤五郎殿(=秀一)、中川藤兵衛殿(=秀政)、高山右近殿、筒井順慶殿(=定次の誤り)、木村常陸守(=重茲=しげのり)、備前浮田中納言殿(=宇喜多秀家)、右の衆中、馬を入れ、皆々ことごとく追い散らし、首数多く取り申し候。しかるゆえに雀(=積)善寺、沢、田中、中村四箇所の城は皆々明けのき(=退去)申し候。千石堀ことのほか要害よくござ候ゆえ、能者(=熟練者)ども千四五百人も篭り居(おり)候を、三好孫七郎殿(=羽柴秀次)大将にて、浅野弾正(=長吉)、中川藤兵衛、高山右近、この衆乗っ取り申され候。寄せ手の衆中は皆々討ち死にのよし。孫七郎殿御養父、左京大夫殿(=三好一路)よりお譲りの大功の者ども皆々長久手と千石堀にて討ち死にいたし申し候よし。長久手の明くる年ゆえ、孫七郎殿あっぱれ一手際とおぼしめし候ゆえ、七十五人の功の者ども、過半討ち死にし候よし」

【現代語訳】

(一揆どもが泉州の近木で、鉄砲二千丁で防戦したが、長谷川藤五郎殿、中川藤兵衛殿、高山右近殿、筒井順慶殿、木村常陸守殿、備前浮田中納言殿、右の衆が馬を入れ、皆ことごとく追い散らし、首を取った。このため、積善寺、沢、、田中、中村4ヶ所の城は皆退去した。千石堀はとりわけ、堅固で、銃の熟練者が千五百人が篭城していたが、三次孫七郎=秀次=殿が大将になり、浅野弾正、中川藤兵衛、高山右近が乗っ取った。寄せ手の衆は多く討ち死にした。孫七郎殿が養父左京大夫殿より譲られた戦功のあった人々は、長久手と千石堀で討ち死にしたという。長久手の戦いの翌年で、孫七郎殿が雪辱のため、手柄を上げようと考えたため、七十五人の功績のあった者が過半数討ち死にしたとのことである)
 
 

 秀次が前年の長久手の敗北の汚名を雪(そそ)ぐため、手柄を挙げようと力攻めにし、味方の犠牲が増えたことを伝えている。寄せ手の中に出てくる木村常陸守は秀次の家臣で、後に秀次の秀吉暗殺容疑に連座して自刃した。

 宣教師ルイス・フロイスの著書「日本史」(松田毅一・川崎桃太訳)も、信者から聞いたこの時の戦の様子を次のように描写している。

「千石堀城の中には、雑賀および根来で最も経験のあり、また勇猛な戦士千五百人のほかに、四、五千人の老人、女子および小児がいた。秀吉軍を待ち受けていた城兵は、城の外に出て迎え撃ち、勇敢に戦って千人以上も秀吉軍を討ち取った。
 苦戦に陥った秀吉軍が兵を引き揚げると、城兵はさらに勢いづいて新手の兵力で攻撃した。城方は自分や家族の命がこの戦にかかっていることを知っていたので、槍を振るって死に物狂いで戦い、再び秀吉軍を敗退させた。
 秀吉は味方が大きな損害を受けたことを知って動揺し、自らも鉄砲を手にして戦った。城方は迅速に城内に引き揚げ、次の戦いに備えたが、新たな秀吉軍の攻撃は激烈で、秀吉軍は犠牲を出しながらも短時間で城を陥落させた。
 秀吉は、人も動物も一切助命せず、ことごとく火と鉄にまかすべしと厳命したので、城は焼かれ、人も猫も馬も脱出せず、一人も逃れるものなく、子供も含め六千人以上死んだ」

 小瀬甫庵の書いた「太閤記」にも、この時の戦の様子が迫力をもって書かれている。

「根来寺の開山は覚鑁上人なり。仏法修行の霊地、行法等厳密にして殊勝に見えしかども、武道を専らにし、国司の下知(=命令)を用いず、文道を知らず。いたずらに光陰(=年月)を空しくし、師匠の鑑戒(=手本といましめ)を顧みず。ややもすれば国家を乱し、下民の条(=筋道、おきて)を悩ます。ために追伐す。天正十三年三月上旬、十万騎を卒し(=率いて)発向(=出陣)さる。
 副将は大和大納言秀長(=羽柴秀長)、羽柴中納言秀次なり。しからば根来寺、雑賀中(=仲間)として岸和田の並び(=近く)、千石堀、積善寺、浜之城三ケ所要害を相こしらえ、逸物の(=優れた)弓、究竟(=屈強)の鉄砲を多くこめ(篭め)おき、軍勢往来の自由を妨げらる。これによりて千石堀の押さえは秀次、積善寺の押さえは長岡兵部大輔父子(=細川藤孝、忠興)、蒲生忠三郎(=賦秀)、浜之城をば中川藤兵衛尉、高山右近ら押さえにけり。
 筒井順慶(=定次の誤り)、長谷川藤五郎(=秀一)、堀久太郎(=秀政)都合一万五千、三月二十日未明に根来寺さして打ちける(=馬を鞭打って急がせる)ところに、千石堀より弓、鉄砲の者五百人ばかり出で、彼の勢(=筒井勢ら)を横あいに散々に射て、手負い死人かつ(=たちまち)出で来しなり。秀次これを斜めに御覧し、千石堀の要害はにわかに、こしらえはべりしかば、塀柵なども、はかばかしう(=しっかりした状態)は、よもあらじ。いざ、あの弓、鉄砲の者どもを横あいに馬を入れ乗りわって(=割って)千石堀へ取り入らぬ(=入らぬ)ようにせよ。さるほどならば、付け入りに(=敵が退却するのに乗じて)攻め込むべしと下知したまへば、秀次先手、田中久兵衛尉(=吉政)、渡瀬小次郎詮繁(=秀次の家臣、横須賀城主)、佐藤隠岐守など三千ばかりにて、横あいに馬を入れるべくの支度に見えて進みけり。
 筒井、長谷川、堀などこれを見て、あの勢は用あり顔に(=何か狙っているように)見ゆるぞ、千石堀の要害を攻め取ることもあるべきぞ(=あるかも知れない)とて、備えを西に向ひて立て直しければ、はや秀次の先備(さきぞなえ=先鋒)、どっと馬を入れ来て、五百人の弓、鉄砲を四方八方へ追い散らししかば、筒井、堀、長谷川が勢も同じく逃ぐるを追って、千石堀へ付け入りにせよと、おめき叫んで進みにけり。
 秀次の先備、いずれの勢よりはやく、大手の門にひしと付き、攻め入らんとぞもみにける(=もみあいになった)。すなはち(=すぐさま)、二の丸の柵を引き破り、堀へ飛び入り飛び入り、攻め上がりければ、弓、鉄砲を以て、ここを先途(せんど=危急の時)と射殺し撃ち倒し、味方の勢多く討たれはべるところに、秀次、我が馬廻りの者(=近習の侍に対し)助けよと下知したまへば、うれしくも承るものかなと、若武者ども駆け出で進みければ、先備(さきぞなえ=先鋒)これに力を得、二の丸へ乗り入れ、三百余り首を取りて勝ち時を上ぐ。首をば旗本へ持たせたてまつり、そのまま本丸の堀に望めば、げにも千石堀の名の甲斐も著しく、なかなか飛び入るべう(べく=飛び込むことが出来るように)もなく見えければ、この木陰、かの物陰にしこり(=固まり)、後よりの勢を待つところに、城中よりよき射手ども、さしづめ引きづめ、撃ちもし射もし、半時がほどに千ばかり手負い死人出来(しゅつらい=続出)したり。
 堀は深し橋は引いたり、いかがはせんと思ひ煩ひしところに、順慶(=筒井定次の誤り)が方より、火矢を隙間もなく射入れ、長屋を焼き立てしが、運こそ尽きてあるらめ(=運が尽きたのだろう)、鉄砲の薬箱に火入りて、千雷の音して城中一時に灰塵となりて千六百人余り、紀州において勇士の誉れあるものども、焼亡し落城に及びけり」

【現代語訳】

(根来寺の開山は覚鑁上人である。仏教修行の神聖な土地で、行いや戒律が厳しく、優れているように見えたが、もっぱら軍事を強化し、国司の命令に従わず、学問を知らず、無駄に年月を費やした。師の戒めを無視し、ややもすれば、国家を乱し、下々の条理を悩ました。このために征伐した。天正十三年三月上旬、十万騎を率いて出陣した。

 副将は大和大納言秀長、羽柴中納言秀次である。これに対し、根来寺、雑賀が共同して岸和田の近くに、千石堀、積善寺、浜の城の3ヶ所に要害を造った。優れた弓、強力な鉄砲を多く城に入れて、軍勢の往来の自由を妨げた。そこで、千石堀には秀次、積善寺は長岡兵部大輔父子、蒲生忠三郎、浜の城は中川藤兵衛尉、高山右近らが制圧にかかった。

 筒井順慶、長谷川藤五郎、堀久太郎が合計一万五千の兵力で、三月二十日に根来寺を目指して馬を急がせたところ、千石堀から、弓、鉄砲の衆が五百人ばかり出てきて、筒井勢らを横から散々に攻撃し、たちまち死傷者が出た。秀次はこれを斜めに見て、千石堀の要害は急ごしらえだから、堀や柵などもしっかりとはできていないだろう。さあ、あの弓、鉄砲の者どもの横から馬を入れて、分断し、千石堀に入らぬようにせよ。敵が城に逃げ込むなら、そのあとを追って、攻め込めと命令した。秀次の先陣の田中久兵衛尉、渡瀬小次郎詮繁、佐藤隠岐守など三千ばかりで、横から馬を乗り入れる準備をするような様子で進んだ。

 筒井、長谷川、堀などはこれを見て、あの軍勢は何か目論んでいるように見えるぞ。千石堀の要害を攻め取ることもあるかもしれないと、陣を西に向けて立て直したところ、早くも秀次軍の先鋒が、どっと馬を入れて、五百人の弓、鉄砲を四方八方へ追い散らした。筒井、堀、長谷川の軍勢も同じように、逃げる敵を追って、千石堀に入れと、わめきながら進んだ。

 秀次の先頭部隊は、どの軍勢より早く、正門の大手の門にひしと寄り付き、中に攻め入ろうと、もみあいになった。すぐに二の丸の柵を引き破り、堀へ飛び込み、飛び込み、攻めあがった。敵は弓、鉄砲をもって、ここが勝負どころと、矢で射殺し、鉄砲で撃ち殺し、味方の軍勢は多く討たれた。秀次は、わが近習の者よ、味方を助けよと命令したところ、若武者たちは、喜んで承知しますと、駆け出して進んだ。戦闘部隊はこれに力づけられて、二の丸に乗り入れ、三百余りの首を取って勝どきを上げた。首を秀吉の旗の元に届け、そのまま本丸の堀に臨んだが、なるほど千石堀の名の通り、なかなか飛び込むことはできるようには思えなかった。こちらの木陰、あちらの物陰に固まって、応援を待っていたところ、城の中から、てだれの射手たちが、矢次ぎばやに鉄砲を撃ち、矢を射たため、一時間ほどの間に、千人ばかり死傷者が続出した。

 堀は深く、橋は引き上げられており、どうすべきかと思いわずらっていたところに、筒井順慶の陣より、火矢を隙間なく射込んで、長屋を焼きたてた。運が尽きたのだろう、鉄砲の弾薬箱に火が入って、千雷の音とともに爆発し、城内は一時に灰燼になった。紀州で勇名をうたわれた千六百人余り、焼け死に、城は陥落した)
 
 

 これら様々な資料を比べると、根来寺攻撃に向かう秀吉軍を妨害するために千石堀から飛び出した行人の一部五百人と、これを攻撃する秀吉軍との戦闘を皮切りに激戦が続き、千石堀が爆発して陥落するまでに双方に大きな損害が出たことがわかる。

 若い秀次の幾分強引で性急な攻め方も、前年の長久手の敗戦を意識し功を焦っていたものと見れば、理解できる。秀次にとっては、どれだけ犠牲が出ようとこの戦だけは決して負けられない汚名回復の最後の機会だった。

 千石堀で予想外に苦戦し、大きな損害が出たため、秀吉も積善寺や沢(浜)の城の攻略には慎重を期したことが想像できる。
 積善寺城や沢城の篭城衆が無血開城して生きながらえたのは、千石堀の行人たちの捨て身の防衛のおかげともいえる。

 防戦した根来側の記録はほとんど残っていないが、美濃国諸家系譜の種田(おいだ)氏の項に次のような記事がある。

「種田正隣は美濃国安八郡の今宿城主。種田信濃守。織田信長に仕えて戦功あり。江州坂本戦陣の時、穴太村寄せ手の内なり。母は沢田氏の女なり。信長生害(=自害)のあと、神戸蔵人(=織田)信孝に随ふ。信孝滅亡のあと、紀伊国根来寺に行きて、なお織田家の讐を報ぜんとす(=織田信孝を自害させた秀吉に復讐しようとした)。即ち、和泉国千石堀の城を預かりこもり、羽柴の大軍を引き受け、勇戦してついに討ち死にす。年五十余」

【現代語訳】

(種田正隣は美濃の国安八郡の今宿の城主である。種田信濃守という。織田信長に仕えて戦功があった。近江坂本の戦で、穴太村を攻めた軍に参加した。母は沢田氏の娘である。信長が自害したあと、神戸蔵人織田信孝に従った。信孝が滅亡=秀吉に破れ、知多内海で自害=したあと、なお織田家のために秀吉に復讐しようとした。そこで、和泉の国千石堀の城を預かり篭城し、羽柴秀吉の軍を引き受け、勇ましく戦って、ついに討ち死にした。享年五十余)

 信長の次男で、柴田勝家とともに秀吉に敵対し滅ぼされた神戸信孝の遺臣が秀吉への復讐を誓い、千石堀で戦って死んだことがわかる。根来寺にはこうした秀吉に恨みをもつ浪人も数多くかかえられていたのだろう。根来寺が秀吉の大軍に打撃を与えることができたのは、種田正隣のように、戦に習熟した武士が参加したためだろう。

 時勢を見て有力なものに乗り換える日和見の人間が多い中で、種田正隣は最後までに織田家に忠誠を尽くした。
種田氏の系譜によれば、種田正隣の男の子供は三人おり、そのうちの一人は種田亀丸という。本能寺で信長に殉じて死んだ小姓の一人、種田亀は同一人物か。

             ◇
 
 千石堀砦落城からおよそ二百二十年後の江戸時代の中頃に、千石堀城の跡を訪ねた熊取中家(=根来成真院の院主家)の一族で文人の中盛彬(なか・もりしげ)は、その著書「伽李素免独語」(かりそめのひとりごと)の中で次のように記録している。

「過ぎし文化巳(み)の年、このとりで(=千石堀砦)のあと崩れしが、米俵五つ六つあらはれいでぬ。手をつくれば(=つければ)、やがて(=すぐに)灰のごと(=如く)消えしが(=消えたが)、その中に米満てり。こも(=これも)灰のごとくなりしがうちに、焼け残りし米は炭に似て、形正しくあり。好事の(=好奇心の旺盛な)人取りて珍しみぬ(=珍しがった)。わ(=我)も四、五百粒得たり。また壷あり。土十分に満たる中に食塩あり。こ(=これ)もいささか得ぬ。一昨年、ここにて刀三振りを取り出しぬ。ともに大和大納言(=秀長)殿の先手、筒井父子(筒井順慶=実際は戦の前年に病死したが、伏せられていた=と子の定次)が火矢に焼かれて落城せしときの遺物なり」

【現代語訳】

(去る文化の年、この砦の跡が崩れ、米俵五、六俵が露出した。手を付けると、すぐに灰のように消えてしまったが、その中に米があった。これも灰のようになった中に、焼け残った米は炭に似て、形がよく残っていた。好奇心の強い人が手にとって、珍しがった。私も四、五百粒を得た。また壷があり、土がいっぱい入った中に、食塩があった。これもすこしもらった。一昨年、ここで刀三振りが出てきた。これらはいずれも、大和大納言羽柴秀長殿の先陣を務めた筒井父子の火矢に焼かれて落城したときの遺物である)
 

 中盛彬は、千石堀城跡から出土した、遠い昔の戦の遺物を見ながら、ここで戦って死んだ自らの先祖に思いを馳せ、感慨をこめて書き残している。

 千石堀砦は、信長の比叡山延暦寺焼き打ちより、さらに残酷な弾圧と虐殺が行われた場所だった。まさに日本の農民層にとっては、壊滅的な敗北だった。
 この千石堀の戦いは、勝者が残した後世の歴史では、ほとんど触れられることはない。時代の趨勢を読み誤った旧勢力の自滅と嘲られている。

 しかし、この戦は中世以来、農民が血を流して守ってきた農民の自治を圧殺し、その後長い間農民を土地に縛り付ける契機となった。農民にとっては痛恨断腸の出来事であった。

 平成のいま、千石堀城の跡は、森の中で訪れる人もなく、静かに眠っている。大正時代に建てられた石碑は真ん中で折れ、つなぎ合わせられている。だれもいない山中は鳥の鳴き声も聞こえず、ときどき虫の羽音が聞こえるだけである。
 石碑の立っている丘の上は土が露出し、くずのつるが伸びて石碑にからみついている。ここで何千人もの人が殺されたとは、とても思えない静けさの中にある。
               ◇

 千石堀城は夜中まで燃え続けた。城内にいた行人は勿論、老人や子供、そして馬や猫まで生きているものは、すべて火に焼かれるか、秀吉軍の鉄砲と刀と槍にかかって殺された。
 千石堀の城で死んだ紀州勢はおよそ六千人。攻め手の死者も三千人を越えた。

 同じ日の二十一日、近木川を隔てて千石堀城の北にある高井城も、福島正則軍の猛攻を受けて落城した。

 高井城にこもっていた行(ゆき)左京、熊取大納言を将とする木島谷五か庄(水間・三ツ松・森・名越・清児=いずれも貝塚市)の百姓ら二百人の番衆は、居矢倉(=居城と同様に住居を兼ねた砦か)を築き、四方から押し寄せる敵を鉄砲や弓矢でよく防いだが、衆寡敵せず、多くが討ち死にし首を取られた。一部の百姓は貝塚橋本の松原に逃げ込んだと伝えられる。

 和歌山県岩出町の旧家桃井家に伝わる根来軍記によれば、積善寺城の守将の出原右京は戦いの前、高井城からの使者に「今回の秀吉軍は、前の年に戦った岸和田の中村一氏の軍勢とはまったく兵力が違う。みくびっては策を誤る」と警告していたという。
 高井集落には今も貝塚市内には行姓を名乗る家が残っている。秀吉軍も縁戚までは咎めなかったようだ。

              ◇

 千石堀、高井の陥落の報はすぐに、近木川畔に陣を張っていた秀吉の元へ注進された。味方の苦戦にいらだっていた秀吉はこの知らせを聞いて、相好を崩して喜んだ。とくに精強を誇った千石堀の陥落は秀吉を狂喜させた。
「筒井の息子はようやった。褒めてとらす。秀次もよう采配した」
 秀吉はしわの多い顔に、さらにしわを寄せて笑った。