(秀吉出陣に続く) 両軍の備え

 貝塚願泉寺では、顕如、教如父子と卜半斎らが鐘楼の上に上がり、目を凝らして戦の様子を追っていた。願泉寺から畠中城までは二里ほどしかなく、鐘楼の上から城がよく見えた。
 先程来の銃声は止み、あたりは静寂を取り戻していた。

 畠中砦の周りに広がる田は、いつもの年なら田植えに備え、牛を使って鋤き返されている時期だった。しかし、ことしは若者が根来寺行人の夫役(ぶやく=人夫)に取られ、田を手入れする余裕はなかった。
 黒い野面に、ところどころ白いものが動いている。春になって土の中から出てきた小動物をサギが探しているのだ。
 もう少したてば、山の中にある溜め池の樋(ひ=水門)が抜かれ、水が小川を通って下の田や池に勢いよく流れ込む時期を迎える。
 池の岸のドロヤナギの枝がみるみる水につかり、ヨシが沈んでいく光景を卜半斎は思い浮かべた。

 砦の中の人間と、それを取り巻く兵士がいなければ、いつもののどかな泉州の春の田の風景である。
 卜半斎は、畠中砦の中にいる知り合いの百姓たちの顔を思い浮かべた。
 卜半斎がはじめて貝塚に来たときから、彼らとは親しくつきあい、自らも大切にされてきた。その彼らはいま、生死の瀬戸際に立たされている。
「どうにかして助けてやりたい」
 卜半斎は居ても立ってもいられない焦りに駆られた。

               ◇

 従軍した秀吉方の大名の残した記録によれば、この時点での秀吉軍は以下の構えだった。
・秀吉軍の先陣は佐藤隠岐守秀方(美濃鉈尾山城主)、その息子の右馬之助、宮本内蔵之亮ら三千五百人。
 佐藤秀方はもと信長の母衣衆だったが、信長没後は秀吉に従った。息子の佐藤方政はのちに関ヶ原、大坂の陣で豊臣側に付いて討ち死にした。
・二の備えは筒井隼人定次と島左近以下五千人。
・三の備えは堀久太郎秀政、堀十郎、渡部民部ら三千五百人。
 堀秀政はこの年二十八歳だった。十三歳で信長の小姓になり、越前一向一揆鎮圧や雑賀攻めに功績があった。文武ともに有能で秀吉の信頼が厚かった。後に三十八歳で病死した。
・同じく三の備えには、長谷川藤五郎秀一、高山右近、中川藤兵衛秀政(三木城主)ら一万人が属した。
 根来寺との交渉が失敗したことに秀一は、大きな責任を感じていた。山中を彷徨したときの擦り傷はいえたが、屈辱感からは、十分に立ち直れていなかった。交渉の失敗を詫びる秀一に対し、豊臣(羽柴)秀長は苦労をねぎらったうえ、褒美の刀を与えた。今回の作戦には、小牧長久手の戦のときと同じく、二千の兵を率いて加わった。秀一は後に越前東郷城主になり、朝鮮出兵に従軍して、現地で病没した。
 中川藤兵衛は賎ケ岳の戦いで戦死した中川清秀の子。信長の婿で三木城主になった。後に朝鮮で毒矢に当たって戦死した。
・同じく三の備えに桑山修理之亮重晴ら五千人。
 桑山重晴は尾張海東郡桑山庄の出身。はじめ丹羽長秀に、のちに羽柴秀長に仕えた。賎ケ岳の戦で功績があった。茶人として知られ、山上宗二に作法を伝授された。関が原では東軍に属した。
・長岡兵部(細川藤高幽斎)、青木勘兵衛一矩(秀吉の親族)、松原七郎ら二千人。
 細川藤高は足利支流の細川氏の一族で、もと足利義昭の家臣。亡命中の義昭を信長に引き合わせた縁で、信長に従った。信長の計らいで息子の忠興が明智光秀の娘の玉(細川ガラシャ)をめとった。
 青木勘兵衛は秀吉の母「お仲」の妹の子で、秀吉のいとこにあたる。羽柴秀長に仕え、越前北庄城主になった。関ヶ原合戦では西軍に属したが、降伏後に病死した。
・蜂谷出羽守頼隆、塩川伯耆守国満ら三千人
 蜂谷頼隆は美濃源氏。源頼光の子孫が美濃国加茂郡蜂屋(現美濃加茂市)に移り住んだ。信長の雑賀攻めでは浜手軍に参加。賎ケ岳の戦にも従軍した。
 塩川国満は鎌倉時代から続く摂津の名門で、山下城主。代々伯耆守を名乗った。荒木村重の娘婿となり、村重が信長に背いた際は村重に従ったが、のちに信長に属した。領地をめぐり宿敵能勢氏を攻撃したことを秀吉に責められ、自刃した。
・堀尾帯刀吉春三千人
 堀尾吉春は尾張守護斯波氏の被官、堀尾氏の出身で、長浜時代の秀吉に仕えた。のちに豊臣家の三中老になる。関が原では東軍に属した。
・浅野弾正長吉(長政)、生駒善亮親正五千人
 浅野氏は土岐氏の支流といわれる。織田家の弓衆だった浅野長勝は、養女の於禰(おね=ねね)を秀吉に嫁がせ、もう一人の養女のややの婿養子に親類の安井家から長政を迎えた。長吉と秀吉は相婿の関係になる。長政は信長の弓衆だったが、信長の命で秀吉に仕えるようになり、のちに五奉行になった。関が原では東軍に属した。
 生駒親正は美濃国可児郡土田の出身。信長に仕え、秀吉とともに墨俣城を守った。築城の名手といわれた。三中老の一人。関ヶ原では自らは西軍に、息子の一正は東軍に回った。
・増田仁右衛門長盛、大谷慶松(刑部吉継)二千人
 増田長盛の若年時代は不明。長束正家とともに秀吉の知行管理、検地を司った。秀長の死後、後を継いで大和郡山城主になった。関が原では西軍につき、のち自害した。
 大谷吉継(刑部)は秀吉の小姓から立身し、賎ケ岳の戦いで名をあげた。らい病に冒され、歩行が不自由となった。関ヶ原の戦では親しかった石田三成に味方し、かごに載って奮戦の末、自害した。
・このほか、福島正則、片桐且元、平野長泰、加藤嘉明らも根来攻めに従軍した。
 福島正則はこの年二十五歳。秀吉のいとこといわれ、賎ケ岳で一番槍の功名を果たした。加藤清正とともに名古屋堀川を開削。のちの広島城主になったが、晩年は家康に排除され信州に流された。
 片桐且元は近江浅井家の家臣だったが、浅井氏滅亡後に秀吉に臣従。秀吉の馬廻りとして各地を転戦した。大坂の陣では秀頼の後見役として豊臣家に忠誠を尽くしたが、方広寺大仏事件で家康への内通を疑われ、大坂城を退去した。
 平野長泰は尾張津島生まれ。賎が岳の戦で功名を立てた。関が原では東軍につき、大和田原本城主になる。のちに秀忠に仕える。
 加藤嘉明もまた賎ケ岳の七本槍の一人。関が原では東軍につき、伊予松山城主になった。
・三好秀次一万人
・羽柴秀長一万五千人
・本陣 羽柴秀吉二万人
 都合十万人の兵力だった。

 秀吉は和泉表に分散する敵の城を攻撃するにあたって、これらの軍勢を次のように振り分けた。
 最も手ごわい千石堀城には、三好秀次を大将として筒井定次、長谷川秀一、堀秀政をさし向けた。
 また、主力の積善寺城は、高山右近、中川藤兵衛らに当たらせた。第三の沢城には長岡兵部、佐藤隠岐守秀方らを向けた。
 高井城は福島正則が攻撃した。

 秀吉はこれらの軍で和泉表の敵を牽制し、くぎづけにする一方、本拠地根来に本隊を向けた。
 羽柴秀長を先陣に堀尾帯刀、加藤嘉明が続いた。秀吉の本陣を挟んで、後陣を片桐且元、平野長泰が固めた。都合三万二千人が、貝塚の戦闘から抜け出し、根来を目指した。
 黒田長政、蜂須賀家政の軍六千人は、城から抜け出して根来に救援に向かう紀州勢を途中で待ち構えるため、熊野街道沿いの各所に配置された。

            ◇
 
 一方、根来、雑賀側の砦は以下のように配置された。
 和泉第一の堅城である千石堀城は大谷左大仁を守将に二千人が篭った。
 第二の城、近木荘橋本村の積善寺の境内を城郭とする積善寺城には地元の土豪出原右京ら九千五百人が入った。
 第三の浜城は雑賀勢六千人が守った。
 これら三つの城(いずれも貝塚市)は鼎の形に位置し、お互いに支えあう形になっていた。
 第四の畠中城(同)に地元の神前是光ら一千五百人
 第五の高井城(同)に地元の行(ゆき)左京ら二百人
 そして本山の根来寺には、杉の坊、泉識坊、太田左近らが控えていた。

 根来勢の砦は貝塚の南にも佐野(泉佐野市)、信達(泉南市)と山中(阪南市)の三つがあった。その規模は小さく、秀吉軍を支えるには非力だった。
 佐野はかつて信長が雑賀を攻めたときに築いた砦で、根来と雑賀の連絡が主な役割だった。信達城や山中城の位置はよくわかっていない。

              ◇

 このときの秀吉の根来攻めの前哨戦では根来寺の荘園だった泉南も大きな被害を受けた。
そのひとつ、泉南市信達市場にある金泉山慈昌院長慶寺は、もと海会宮寺(かいえぐうじ)といい、行基が神亀元年(七二四)、聖武天皇の勅願により開創したといわれる古刹だった。
 長慶寺の寺伝によれば、前身の海会宮寺は、行基が造った海会宮池のほとりの一岡神社の境内にあった。五重塔など七堂伽藍を備えた大寺院で、根来寺の末寺として栄えたが、秀吉の根来攻めのときに焼き打ちされた。建物の大半が焼かれた中で、池の中之島にあった観音堂と、村人が持ち出した本尊の如意輪観音像だけが焼け残った。

 後に慶長年間(一五九六〜一六一五)に、豊臣秀頼の命によって、観音堂と如意輪観音像を現在地に移し、鐘楼、庫裏などを整備した。この時の年号にちなみ、寺の名前を長慶寺と改めたと伝えられている。
 現在の長慶寺は海会宮寺池の南の小高い丘の上にたち、四方を見渡すことができる。すぐ近くを熊野街道が走っている。
 周囲は人為的に切り取ったような地形が見られ、ここも山城であった可能性がある。ここを砦にすれば、熊野街道に面した海会宮寺と協力し、熊野街道を通る敵を挟撃することは容易だったろう。
 長慶寺は、江戸時代には岸和田岡部藩主の帰依を得て、泉州観音信仰の霊地として繁盛した。明治の廃仏棄釈で寺は荒廃したが、平成になってから、三重の塔や山門、鐘楼が整備され、あじさいの寺として繁栄している。

 秀吉の根来攻めから三十六年後の元和七年(一六二一)の夏、幕府の儒者、林羅山が長慶寺を訪れ、漢詩を残した。

 信達崔嵬(さいかい=険しい山)石逕(せっけい=石の露出した道)斜めなり
 海山風景、画加え難し
 観音堂裡所(りしょ=内部)何か有る
 一箇の野僧、法華を持つ

 漢詩の言葉書きには訪問したときの寺の様子も描かれている。
 寺は集落から三、四百歩行った小さな丘の上にあり、
 葛城の山や大坂の海、淡路島が見渡せる。
 海と山の風景は絵にも書けない美しさである。
 案内されて寺のお堂に入った所、
 一人の修行僧が仏に供える花を持っていた。

 詩もそのような内容である。
 
 根来攻めの前哨戦では、近在の村人も類焼を受けて焼け出され、山野を彷徨したことが記録に残っている。

 信達庄新家の古刹、日輪山清明寺代々記には、天正の兵火で家を失った人々の苦難がしるされている。

 清明寺はもともと興禅寺といい、楠木正成の一族の興貞法尼が建てた寺とされる。俗に楠木寺といわれていたが、文明年間に禅宗から新義真言宗に改宗し、根来寺の末寺となった。代々記記録にいう。

「天正十二年(十三年の誤りか)二月より六月に至る南山(=根来寺)大乱につき山内地の家、坊舎および山外の寺社、近郷の民家大半兵火にかかり、当所三谷原の寺坊、民家、二月(三月の誤りか)二十七日、追い武者のために焼亡す。粉川法印玄真、荒尾谷の間道より勇気の侍僧(=僧兵?寺僧の誤り?)数百人を率いて落合谷丸山にて秀吉公の先手に出向き、地獄谷金熊寺の間に戦う。ついに粉川玄真、片桐(且元)の組手に戦死すという。(中略)南山大火のあと、二十七日に返し武者(戦から戻ってきた兵士?)のために三谷坊地家とも放火」

「天正十二年より十三年の冬に至る南山混乱に付、御境内および山外の寺坊在家等、大半兵火にかかり、あるいは焼け死に、あるいは撃たれ、僧俗死人、数知れず。わけても当所三谷原は御境内(=根来末寺?)ならば大いに混乱し、山内はすべて放火の風説につき、老若婦女童子等奥山に隠れ、岩を枕として数日を送る。男人十五歳以上は南山に歩力(=労役)をなす。(中略)」

「男女とも昼夜雨露暑寒におかされたれば、天正十三年五月より八月に至り、時疫、隔寒、痢病等流行に付き、学道師(=二代住職)病人を弥陀堂に救い、薬を与え、あるときは他郷に出鉢し信施を請うて、もって病者を助介す。(中略)」

「世上、穏やかならざれば、諸国の浪士、あるいは悪賊ら山より在家に入り来りて老婦を横惑し、または強貪夜盗を働き、野人(=農民)を殺害し、あるいは葛家(くずや=草ぶきの家)を焼き、人民を苦しめ、乱をなすこと度々にして大いに難渋す」 

【現代語訳】

(天正十二年二月から六月に至る根来寺の大乱で、根来寺の山内、山外の家や坊舎、山外の寺、近隣の民家の大半が兵火にかかり、当地三谷原の寺、民家も二月二十七日に追ってきた武士によって焼け落ちた。粉河寺法印の玄真は荒尾谷の抜け道から、勇ましい行人数百人を率いて、落合谷丸山で秀吉公の先陣と対決し、地獄谷金熊寺の間で戦った。ついに粉河玄真は片桐勝元の配下の兵によって戦死したという。根来寺放火の後、二十七日に紀州から帰ってきた武士によって三谷の寺、民家とも放火された)

(天正十二年から十三年の冬までの根来寺の混乱で、根来寺境内と山外の寺坊、在家とも大半が兵火にかかり、あるいは焼死し、あるいは鉄砲で撃たれ、僧俗の死者は数え切れなかった。とりわけ、当地の三谷原は根来寺の境内なので、大いに混乱した。山内はすべて放火されるとの噂で、老若婦女子供ら奥山に隠れ、岩を枕にして数日過ごした。十五歳以上の男子は根来寺の労役に借り出された)

(男女とも昼夜、雨露や暑さ、寒さに冒され、天正十三年五月から八月まで、はやり病や悪寒、下痢などが流行した。学道住職は弥陀堂の病人を救い、薬を与え、あるときはよその土地に行って托鉢し、お布施をもらって、病人を介護した)

(世の中が不穏だったので、諸国の浪人や盗賊らが、山から在家に侵入し、老女をだまし、草ぶきの家を焼き、民を苦しめ、世の中を乱すことが度々で、大いに迷惑した)
 
 

 秀吉の根来攻めの際に、信達庄の人々がどれだけ難儀をしたか、代々記は生々しく伝えている。

 根来攻めに伴う三谷原の混乱を伝えた清明寺二世、良阿覚道師は、三河の出身だった。比叡山延暦寺で修学したが、元亀二年(一五七一)、叡山が信長に焼かれた際に脱出し、奈良の興福寺に逃れて法相宗を学んだ。
 信長が東大寺の正倉院宝物の蘭奢待(らんじゃたい)を切り取ったことに憤慨し、奈良を離れて高野山の無量光院に入って密教を修行した。祈祷により信長の行為をやめさせようとした。

 秀吉は根来攻めの後、覚道師のいる高野山も攻めようとした。高野は秀吉の恫喝に屈して、攻撃は免れたが、落胆した覚道師は高野を下り、間道を経て紀伊から和泉の野山をさすらった。
 信達庄三谷原に来たとき、奥山の六角阿弥陀堂に老若男女が戦乱を逃れて集まっているのに出会った。覚道師は人々に勧められて、ここにとどまり、病人の介護にあたった。戦乱に遭わなかった近くの村に托鉢に行き、食糧を人々に分け与えた。
 人々に感謝され定住を勧められた覚道師は三谷原にとどまり、焼失した清明寺を再建したと伝えられる。

清明寺のある泉南市新家は、古くは日根郡三谷庄といい、十四集落に分かれていた。三谷原は泉南市新家の旧宮村付近だろうか。
 
 泉南における騒乱は根来攻めの後も続いた。三十一年後の元和元年(一六一五)大坂夏の陣が起こり、信達庄や三谷庄は再び戦乱に巻き込まれる。
 代々記は続ける。

「元和元年春、南軍(=紀伊の徳川方)等、海会宮寺(長慶寺の前身)に陣す。(新家の組の一つであった)心相寺残衆、南軍に加味(=味方)して亀岡井手先家にこもる。樫の井(泉佐野市樫井)、壷の井の間において合戦、翌朝東軍(=大坂の豊臣方)井手先家を焼く。南軍、亀岡の人家へ火をつけ、信達西の堂より打ち追い、岸に退く。東軍信達に追う。東軍のために海会宮寺焼亡、樫井信達放火。井手先家、東軍のために断絶。勝手の社もともに焼失。井手先留十郎、樫の水溜まりの堤において落命。三谷原男女、奥山に隠るること十三日」

【現代語訳】

(元和元年春、徳川方の南軍は、海会宮寺に陣を敷いた。新家心相寺に残った衆は徳川軍に味方して亀岡の井手先家にこもった。樫井、壷の井の間で合戦があった。翌朝、豊臣方の東軍が井手先家を焼いた。徳川軍は亀岡の人家に放火し、信達西の堂より敵を追って岸に退いた。豊臣軍は信達に敵を追った。豊臣軍のために海会宮寺は焼かれ、樫井、信達は放火された。井手先家は豊臣軍のために断絶した。勝手神社も同時に焼失した。井手先留十郎は樫の水溜りの堤で命を落とした。三谷原の男女は十三日間、奥山に隠れた)
 

 大坂夏の陣では、紀伊の徳川方の浅野長晟(ながあきら)勢と、大坂から南下した大野治房、塙(ばん)団右衛門直之、淡輪重政らの軍勢が樫井で戦った。このとき、新家も大きな被害を受けた。根来攻めのとき同様、住民が奥山に逃れたことが、代々記の記事でわかる。

 根来寺の領地だった信達庄(泉南市)など和泉南部の住民は、天正十二年(一五八四)の小牧長久手の戦いでは、徳川方に味方し、根来寺行人とともに秀吉方の岸和田を攻めた。豊臣方は、このことを恨みに思い、三十一年後に報復し、家を焼いたのではないか。

 この記事を大坂夏の陣から二十六年後の寛永十九年(一六四二)に書いた清明寺中興六世の大誉祖玄比丘は、もともと南紀の武士湯川政国の子で、七歳のときに仏門に入った。師の没後、熊野のあたりを漂泊し、田に水をくむ仕事をして農家に養われ、その後高野山の新別所で修行した。
 生家湯川の親戚が根来寺中谷千蔵院の院主をしていた縁で、千蔵院に入り、三年間勤めたあと、縁あって根来寺末寺の清明寺住職となった。
 根来の子院や末寺は、このように紀伊、和泉の農民土豪の師弟が住職になることが多かった。

「天正の初めより元和五年まで、およそ四十年の月日、浪武士、山を分け、在家に入り込み、強威をふるう。根来山大乱の前後、盗賊多く、所所に火をかけ、人家を苦しめ、あるいは度々の洪水大風、人家野田大いに荒るる。時疫、痢病大流行、毎毎変荒変乱につき、人民数年の苦しみ、紙に尽くしがたし」

【現代語訳】

 (天正の初めから元和五年まで、およそ四十年間、浪人が山をかき分け、民家に入り込み、脅かした。根来の大乱の前後、盗賊が多く、あちこちに火をかけ、人家を苦しめ、または度々の風水害で、人家や田畑は荒廃した。はやり病、下痢が大流行した。毎度の天災戦乱で人民の数年間の苦しみは、筆舌に尽くしがたかった)

 大誉祖玄はこうもしるしている。
 祖玄は三谷原の豪農である前川藤一郎の住んでいた空き家を借りて、寺にした。藤一郎は子供とともに天正十六年(一五八八)、秀吉が築いた衆楽第の工事の人夫に駆り出され、その後朝鮮出兵にも連れていかれ、ついに帰らなかったという。

 江戸時代に信達庄の本陣を務めた信達市場の角谷家の文書によれば、夏の陣の際、角谷家は徳川方の紀伊浅野但馬守の軍勢に酒食を勧め、樫井表の案内をして、ことに忠節を尽くしたという。

 幸い、角谷家は兵火にかからなかったが、熊野街道沿いに住む住民は戦乱のたびに、脅えなければならなかった。
 まことに戦乱は、権力抗争とは無関係な人々に害を与え苦しめる。