(81の続き 僧兵と武道の項に追加)

 京都の兵法家で足利将軍家の剣術指南役を代々務めた吉岡一門は、鞍馬の僧が使った京流剣法の流れを汲む。吉岡一門は宮本武蔵と戦ったことでも知られている。
 京流剣法は源平時代、鞍馬山の天狗といわれた吉岡(堀川)鬼一法眼が創始した。
 鬼一は鞍馬寺で八人に秘伝を授けたが、源義経もその一人だった。鬼一は一条堀川に住み、陰陽道にも通じていた。

 義経記によれば、義経は十七歳のときに、一条堀川の法眼の屋敷に行き、法眼の娘の手引きで兵法書を盗み読んだ。怒った法眼は白川の印地(石合戦)の大将である湛海に義経を殺させようとしたが、逆に湛海が義経に殺されてしまった。
 この説話は鞍馬寺で育った義経が僧兵と交わり、武術を学んだ事実を示している。

 鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」によれば、義経は七歳のときに、父義朝の祈祷の師匠であった鞍馬の別当、東光坊の阿闍梨(あじゃり)蓮忍に預けられた。
 鞍馬山は延暦十五年(七九六)、桓武天皇が京都の守護のため開基した。比叡山と並んで重視した鎮護国家の聖地で、草創より朝廷と深く結び付いていた。この寺で育った義経も天皇尊崇の志を養われたと推測される。

 平家を滅ぼしたあと、天皇家と後白河法皇への忠誠心が篤い義経は、武家政権を樹立しようとする東国武士に支えられた兄の頼朝と対立するようになる。
 北条氏出身の妻を娶り、東国武士の薫陶を受けて育った兄の頼朝は、義経とは異なり、朝廷と疎遠だった。二人の幼少時の育ちの違いが、のちの争いの遠因となったのかも知れない。

 鬼一法眼が秘蔵していたという中国の兵書「六韜三略(りくとうさんりゃく)」の「虎の巻」には、次のような言葉がある。

「来れば即ち迎え、去れば即ち送り、対すれば即ち和す。(中略)虚実を察し、陰伏(=隠れた危険)を識(し)り、大は方処を断ち、細は微塵(みじん)に入る。殺活機にあり、変化時に応ず。事に臨んで心を動ずることなかれ」
 相手の動きと状況に合わせ、繊細にして大胆に、機敏にして冷静に判断することが兵法の極意であると述べている。
 一の谷に陣取る平家を背後の山から奇襲したかと思えば、嵐の中で船を出し、油断していた屋島の平家を襲う。こうした敵の意表を突く手法は、山賊や海賊の神出鬼没の戦法に似通っている。
 壇の浦で潮の流れの変化を利用して戦った手法も、まさにこの機と変化を生かす臨機応変の兵法を生かしたものといえよう。

 当時は不文律とされていた非戦闘員に対する攻撃の禁を破って、壇の浦で水主(かこ=水夫)、梶取り(かんどり)を射殺した行為なども、伝統的な戦の作法を無視した悪党の戦いを想起させる。これらの手法は、のちに千早城で見せた楠木正成の意表を衝く戦い方にも通じるものがある。

 頼朝の臣下の梶原景時は、義経と敵対し、讒言(ざんげん)したと伝えられる。梶原郷(鎌倉市)を本拠地とする東国武士の代表である梶原景時には、義経のような戦いは邪道であり、卑怯な戦法と映ったのではなかろうか。

 義経は頼朝に追われて奥州に落ちのびたときも、弁慶らとともに山伏の姿に身をやつしている。義経にとっては、山伏や僧兵は幼少時代から、鞍馬寺でなじんだ存在だった。東近江市の太郎坊宮は天狗伝説のある磐座(いわくら)信仰の聖地だが、ここにも義経が来たという言い伝えが残っている。

 大寺院や神社がかかえる山伏や僧兵には、寺社の擁護者である天皇を尊崇する者が多く、武家から追われる義経を庇護して武家に対抗しようとした。
 義経は比叡山や北国の平泉寺(白山神社)、出羽の月山、羽黒山など修験道の聖地を頼って、奥州に逃亡した。

 比叡山の僧兵出身の弁慶と並んで、園城寺の僧兵だった常陸坊海尊も義経の家来として名高い。海尊は義経最期の衣川の合戦には参加せず、行方知れずになった。弁慶や海尊のほかにも、義経のもとには、多くの各地の僧兵や山伏が従っていたのだろう。
 この点でも義経と、山伏や忍者を配下に抱えていた楠木正成とは似通っている。

 鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」の文治五年(一一八九)四月三十日の項には、義経の最期が次のように記録されている。

「今日、陸奥国において、(藤原)泰衡、源予州(=伊予守源義経)を襲う。これは、かつは勅定(=天皇の命令)に任せ、かつは二品(=源頼朝)の仰せによるなり。予州、民部少輔基成朝臣の衣河館(ころもがわのたち)にあり。泰衡、兵数百騎を従え、その所に馳せ至りて合戦す。予州の家人ら、相防ぐといえども、ことごとくもって敗績(=敗北)す。予州、持仏堂に入り、まず妻二十二歳、子女子四歳を害し、ついで自殺すと云々」

「義経記」によれば、義経が持仏堂で自害している間、武蔵坊弁慶は迫る敵に立ちふさがって奮戦した。しかし、喉を突かれて血まみれとなり、最期は長刀を衣川の砂に逆さまに立てて杖につき、敵方をにらんで、仁王立ちになったまま事切れたと書かれている。

 つり上がった目と、憤怒に燃える顔の表情は、髪を逆立てて仏敵を威嚇する金剛力士のようであり、唇にかすかに残った痴(しれ)笑いは、敵を嘲っているようでもあった。若い法師武者が侮(あなど)って弓で突くと、弁慶は朽ちた大木のように音をたてて倒れたと伝えられる。

 弁慶は熊野別当湛増(たんぞう)の嫡子と言われる。幼いときに比叡山西塔桜本の僧正に預けられたが、学問より武芸を好み、寺の中で散々暴れたため、師に見放されて山を下りた。

 熊野別当は、壇の浦の合戦で熊野水軍を率いて源氏に味方したと伝えられている。恐らく、弁慶は朝廷と近かった熊野社の神人や比叡山の僧兵とつながりのある人物であり、義経と朝廷・宗教勢力を仲介する役割を負っていたと思われる。
 朝廷と宗教勢力を支えにする義経は、後世の楠木正成と同様に、各地の悪党や山伏、僧兵などを味方にして関東の武士勢力と戦ったのだろう。だが、棟梁の頼朝を支える、勃興期の東国武士団の結束力の前に敗北した。

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 武士よりも古い武装集団である寺社の僧兵や神人(じにん=下級神官)は古くから武芸を重んじた。
 常陸(=茨城県)の鹿島神宮や上総(=千葉県)の香取神宮では、神人たちが剣術を工夫して技術を磨いた。
 鹿島神宮の神官の家からは鹿島新当流の塚原卜伝が生まれ、香取神宮からは新陰流の祖、上泉伊勢守信綱が出ている。
 西の剣の名門、柳生一族や、槍で名高い宝蔵院流は奈良興福寺と関係がある。
 柳生氏は興福寺の有力な門徒で、古くから寺の防衛のために、武力を提供した。
 南北朝時代には、柳生一族の柳生永珍(ながよし)が柳生城を築き、笠置山にこもる後醍醐天皇を味方したとされる。笠置寺の僧兵とも縁の深い土豪だった。

 武士の側につく神社もあった。桑名の多度神社の神官、小串範行(おぐし・のりゆき)は後醍醐天皇が倒幕を企てた正中の変に際し、北条幕府の命を受けて天皇側の多治見国長らの京の宿所を襲って鎮圧し、反乱を未然に防いだ。多度神社では、いまも馬が坂を駆け上がる勇壮な上げ馬神事が行われるが、これはもともと神人の訓練であったと思われる。
 
 興福寺宝蔵院の学侶、胤栄(いんえい)は武芸を好み、柳生宗巌とともに、剣聖とあがめられる上泉信綱に師事した。
「突けば槍、はらえば長刀、引けば鎌」といわれる十文字槍を考案し、普及させた。
 穂先の根元から左右に突き出た鎌は、敵を手元に引き込んで切ったり、相手の槍を巻きこんで落としたりする用途に使われた。

 宝蔵院流の槍術には、主に敵の手足を攻め、命を奪わずに敵を制圧する技が多い。これには殺生をなるべく避けようという仏の徒としての配慮がうかがわれる。

 宝蔵院は法相宗の本山興福寺の義淵が開いた寺で、興福寺の僧兵の中核を担っていた。法相宗を日本に伝えた道昭もまた中国で拳法を学び、武術に秀でていたという。

 中国河南省嵩山の禅宗、少林寺は拳法の発祥地として名高い。
 少林寺拳法は、もともと精神を鍛えるためには、強靭な体力が必要との考えから考案されたものだといわれる。
 北魏の太和一九年(四九六)、少林寺を開いた跋陀(ばっだ)禅師はインドの出身で武術をよくした。その高弟の稠禅師が禅と気功を融合させた少林寺拳法を創始した。その後、西暦五二七年にインドから少林寺に来た菩提達磨(ぼだい・だるま)も精神鍛練のために武術を奨励した。

 肉体と精神の調和は、古来より宗教家にとって大きな関心事だった。
 精神の安定を得るためには、健全な肉体を持つ必要があることは、経験則から明らかである。
 体力への自信が精神的な余裕を生み、他者に対する寛容な態度を育てる。野獣や盗賊を恐れることなく、山野での修行に打ち込むことができる。苦しんでいる人を助けるためにも健康な体が求められる。
 少林寺の僧は「拳禅一如」の精神で、文武両道を目指した。

 少林寺の僧は世俗の争いにも関与した。
 隋の時代に世の中が乱れ、盗賊が寺を焼いて宝物を奪った。寺では自衛のため、僧が武器を取るようになった。
 六二一年に唐の第二代皇帝、李世民(太宗)が洛陽で隋の残党と戦ったとき、少林寺の十三人の僧が信徒を率いて戦い、その功労として荘園をもらっている。
 また明の嘉靖三〇年(一五五一)には、月空和尚に率いられた少林寺の僧兵百人が、侵入してきた倭寇と戦って勝利した。月空和尚はこの闘いで戦死した。一九〇〇年、少林拳の流れをくむ義和団が武装蜂起し、外国軍に鎮圧された。義和団の敗北は中国武術に大きな打撃を与えた。

 このように日本の僧兵の源流は中国にある。
 そもそも仏教の祖である釈迦自身が武術に秀でていたという。
 インド・カピラ国の王子として生まれた釈迦は、子供のころから武術を学んだ。妻をめとるときに、多くの青年と武術で争い、勝利したという伝説もある。

 日本の朝廷には、侍と呼ばれる護衛のための戦士集団がいた。当初、その数は少なく、紛争が起きると地方の武士団に招集がかけられた。
 朝廷を警護するわずかな侍に比べ、京畿にある大寺社は常設の武力集団をかかえ、その兵力は侍を圧倒していた。侍が勃興するまでは、寺社の僧兵や神人が最大の武装勢力だった。

 僧兵は寺の氏人に依頼されて、有力者の家の警護に出掛ける事もあった。
 古今著聞集には、民家を強盗から守るために雇われた法師の話が書かれている。法師が夜、弓に矢をつがえて警備していたところ、柿の木から落ちた熟柿が頭に当たった。柿はつぶれ、ぬるぬるとした赤い汁が法師の額から流れた。法師はこれを敵の矢が頭に当たったと勘違いし、そばにいた仲間の僧に介錯を頼んで自分の首を切らせたという。

 仲間が遺体を親族に届けたが、頭にも体にも矢が刺さった跡はなく、臆病な法師の思い込みだったとわかった。この滑稽譚(こっけいたん=笑い話)は、戦で重傷を負って助からないと判断した僧兵が、武士と同様に自害することがあったことを物語っている。

 武器にも、それを持つものの思想が反映する。少林拳は素手のほかに、棍棒を用いる。ここには敵の命をとることまではしないという仏教徒の抑制が感じられる。
 鞍馬山の僧兵は剣術を発展させたが、一般に僧兵は防御的な武器である鉄棒や棍棒、距離をとって相手を威嚇する長刀などの武術を重んじた。

 講談で真田幸村につかえたとされる真田十勇士の一人、三好青海入道は、戦国期の阿波の武将、三好政康をもとにしたといわれる架空の人物である。破戒僧である青海入道は巨大な棍棒を得物(えもの)とした。防御のためにやむをえず戦うときも、敵の抵抗を抑えるにとどめ、可能な限り命は奪わないという仏教的な配慮が、この場合も見られよう。

 これに対して武士は刀を魂として重んじた。生き物を殺すことは東国の狩猟民の末裔である彼らの天職であり使命だった。血を流すことを、彼らは少しもためらわなかった。相手と直接切り合い、どちらかが倒れる刀こそが、もっとも戦士にふさわしい武器であると信じていた。戦場で死ぬことは、名誉なことであり、残された家族や一族は厚遇された。

 武士は、長い柄のついた長刀(なぎなた)は卑怯、臆病だとして嫌った。長刀は専ら武家の婦女子の護身用として使われた。江戸時代には武家の娘は、必ず長刀を稽古し、嫁入りのときは、どんな微禄の家でも長刀を持参させたという。

 武士が刀を重んじたのは、刀が力の象徴であり、精神的な拠りところだったからだ。実際の戦では、刀より弓矢や槍、鉄砲が主要な武器となる。
 鎌倉時代以降は鎧や兜が発達し、刀では敵に打撃を与えることが出来なくなった。そこで鎧を貫くことのできる槍や弓矢が重視されるようになる。関が原の戦でも、刀より鉄砲や槍、矢による死傷者が多かったという。

 刀は集団戦には不向きで、むしろ日常での個人同士の闘争や狭い場所での戦いに適していた。
 江戸時代に剣術がもてはやされたのは、平和な時代になったからである。剣術は戦闘の技術よりは、精神修養として重んじられた。

 武士は刀と並んで弓矢を重んじた。「弓矢の道」といわれるほど、武家と弓矢は縁が深い。騎馬による武士同士の合戦では、弓矢が主たる武器だった。

 弥生時代の部族抗争では、三尺から四尺の長い弓で長い矢を飛ばした。南北朝時代になると、騎馬戦に向いた短弓(半弓)が考案され、その後はこれが主流になった。

 戦国時代には、西洋から鉄砲が入り、武士も僧兵もこの武器を使うようになる。根来の僧兵は鉄砲を梵天(ぼんてん=仏の守護神)が持つ「金剛杵(こんごうしょ=敵に投げる武具)」に喩え、「仏も認めた自衛の武器」と弁明した。

 戦国の世では、攻撃と防衛の区別はなくなった。身を守るためには相手の機先を制することが必要となる。防衛のためには先制攻撃も許される。もはや、ここには仏教的な抑制はなかった。

              ◇

 武士と僧兵はともに闘諍(とうじょう)殺戮(さつりく)を職務とする集団だが、両者はすでにその発生の時点から、敵対する関係にあった。
 平安時代、寺社は護法のためと称して多くの僧兵を蓄えた。神罰を恐れる人々の恐怖心を利用し、同時に僧兵の武力で威嚇して、政治に介入するようになる。
 これに対し、朝廷は宮廷の警護役であった武士を使って僧兵に対抗させた。世俗権力である朝廷と、宗教的権威を持つ社寺は、ともに旧勢力として役割を分担し協調していたが、ときには利害が対立し衝突に至ることもあった。

 衆徒の横暴に手を焼いた鳥羽天皇が、天永四年(一一一三)、石清水八幡宮に衆徒の鎮静を祈願した願文が残っている。

「神人(じにん=武装した下級神職)は悪を先とし、僧徒は貪婪(どんらん=強欲)を本となして、あるいは公私の田地を横領し、あるいは上下の財物を掠(かす)め取る。(中略)党を結び群れをなして、城を乱し郭(くるわ)にあふる。学をなげうちて刀兵(=武具)を横たえ、法服を脱ぎて甲冑(かっちゅう)をかぶる。弓矢を携えて左右の友とし、矢石をもって朝夕のもてあそびとす。ついに王法を忘れて、すでに律儀を破る」

 願文は僧兵や神人の悪行を強く非難し、彼らは寺院を内部から蝕む獅子身中の虫と罵倒している。そして、神仏の威光を楯に横暴を通そうとする寺社に対して、「神は自ら貴からず、人によりて貴し(=神はそれ自身尊いのではなく、人が崇め尊ぶから尊いのである)」と論難している。

 願文は「自今(じこん=今より)以後は祭祀(さいし)の式日の外には神輿(しんよ=みこし)を動かし奉るべからず。また、神境を出し奉るを得ず。この宣旨によらずして非常の輩ありて、たとい神輿を動かし奉るといえども、神は非礼をうけざれば(=神は道義に反した願いは聞き入れないのであるから)、法に任せて罪科を行うべきなり」と述べ、勝手に神輿を動かした場合は、厳しい処罰をすると警告している。

 僧兵や神人の武力で要求を押し通そうとする寺社に対して、毅然たる態度を表明した天皇の願文だが、その願いの成就もまた神に頼らざるをえないところに、当時の朝廷の非力、弱い立場がうかがえる。

 結局のところ、宗教的権威に頼っていた皇室は、その支持基盤である宗教勢力を甘やかし保護しすぎた結果、増長し強大になった彼らを抑えられなくなった。もはや朝廷は、皇居護衛のための下級役人であった武士に頼るしかなかった。

 文弱に堕し、神仏のたたりを恐れる皇族や公家と異なり、蛮夷と蔑視された粗野な武士たちは何者も恐れなかった。
 みこしを振って強訴に押し掛けた比叡山の僧兵に対して、待ち受けた平氏の侍が矢を放ち、傷ついた僧兵がみこしを捨てて逃げる光景が平家物語に描かれている。
 武士は地方での反乱鎮圧とともに、中央での僧兵の跋扈(ばっこ)を抑える力として存在感を高めていく。その後も両者は敵対を続け、秀吉によって僧兵勢力が壊滅されるまで抗争を繰り返した。

 貴族の紀貫之が紀州からの帰途、和泉長滝の蟻通神社前で馬が動かなくなった。貫之は騎馬のまま神前を通り過ぎようとした非礼を神にわびる歌を詠んだところ、たちまち馬の病気が治ったという。和歌の功徳を物語る話が伝えられている。
 これに対し、武士は神仏を恐れなかった。
後醍醐天皇に味方して、博多にあった北条幕府の鎮西探題を攻めた肥後の武士菊池武時は、探題近くの櫛田(くしだ)神社前で馬が動かなくなったのに怒って、本殿に向けて矢を放った。すると、馬の縛りが解けて歩けるようになった。あとで社殿を調べると、大蛇が矢に貫かれて死んでいたという。

 武士と僧兵はその信仰においても異質だった。
 僧兵をかかえる旧仏教に敵意を持つ武士階級は、新興の禅宗を自らの精神的支柱とした。
 六世紀に印度から中国に渡った少林寺の高僧、達磨(だるま)大師が「禅」を伝え、さらに鎌倉時代に栄西によって中国から日本に伝えられた。栄西は旧仏教の勢力の強い京都を離れ、北条幕府の保護を受けて鎌倉に寺を建てた。

 もともと国家鎮護のために設立され発展した旧仏教は、朝廷寄りだった。その寺がかかえる僧兵は、つねに関東の新興武士に敵対した。密教の教義は神秘と儀軌(=儀式)を重んじ、簡素と質実を尊重する武士の気風に合わなかった。
 禅宗は仏への帰依や戒律よりも、現世の空虚さを強調し、命を軽んじ、個人の精神と肉体の鍛練による解脱を重んじることで武士の心情に適った。
 関東武士は朝廷に対抗する自らの精神的拠り所として禅宗を取り入れ、大いに奨励した。

 禅宗は釈迦が重視した瞑想法「禅定」を、悟りに至る道として大いに実践した。
「禅定」は布施(=慈悲の施し)、持戒(=戒律を守る)、忍辱(にんにく=堪え忍ぶこと)、精進(=修業に励む)、智恵とともに、仏教徒が実践しなければならない六つの徳行(=波羅蜜多)の一つである。釈迦は、座して静かに自らを観照することで、仏性を持つ本来の自分を見いだすことが出来ると説いた。

 殺戮に明け暮れ、死を恐れることを恥とする武士といえども、子や親を失ったときは、悲しみと絶望にうちひしがれ、その殺伐さに世を厭う気持ちも生まれる。だが、一族郎党を率いる彼らに好き勝手な遁世(とんせい)は許されない。
 深い悩みを秘めた彼らは、禅の清浄で静かな世界に、つかの間の安らぎを見いだし、禅の精神を伝える茶や能で心を癒した。

 武士は死よりも名誉を重んじた。これは単に個人の誇り、道義の問題ではない。その背景には家族がある。
 主人が生き残る限りは、自分が死んでも子孫の生活は保証される。むしろ自分が華々しく討ち死にした方が、子孫は幸福になる。家族は身を犠牲にした自分に感謝するだろう。
 逆に自分が恥ずかしい卑怯な振る舞いをすれば、家族が中傷されるだけでなく、生活手段である土地をも取り上げられてしまう。
 家族の生活を守るためには、自分の命をかけて主君に忠誠を尽くさなければならない。武士の名誉とは、こうした切実な動機に支えられていた。

 武士は、手柄を求めて、自ら死地に飛び込んだ。太平記では、楠木正成討伐に参加した関東の老武士、人見恩阿が天王寺西門の石の鳥居に辞世の歌を残し、単独で先駆けして河内に向かい、戦死する話が描かれている。農民あがりの楠木軍の悪党たちは、無謀な恩阿の功名のための挑戦を、無意味な売名行為としてあざ笑ったと伝えている。

 武士は自分が死んだあとの後ろ盾を求めて、自らよりも強い武士に臣従した。こうして武士は階層化され、皇族の血を引く源平両氏を棟梁とする武士団として組織化された。
 仕えている上級武士が頼れなくなったときは見切りをつけた。足利尊氏や佐々木道誉は、長年恩顧を受けた北条氏を見限り、後醍醐天皇側についた。太平記は、鎌倉幕府滅亡のときの武士の忘恩、裏切りを「目もあてられない有様」と嘆いている。南朝と北朝の争いでも、多くの武士が味方を裏切り、敵味方を取り換えた。

 武士の信仰する禅宗に対して、旧仏教は強く反発した。
 建久二年(一一九一)、宋から帰国した臨済宗の栄西に対して、天台宗の叡山は、栄西が旧仏教を罵倒しているとして朝廷に訴えた。

 朝廷は栄西に禅を広めることを禁止し、栄西を尋問した。
 栄西は「伝教大師の著作にも禅は紹介されている。禅が非なら、仏の教えもまた非である」と反論した。
 栄西は旧仏教勢力の強い京で布教を行うことが難しいと考え、新興の武士の根拠地である鎌倉で布教を始めた。鎌倉幕府は寿福寺を建てて、禅宗を保護した。栄西は頼朝の援助を得て博多に聖福寺を、のちに京に建仁寺を建てたが、旧仏教を刺激しないように気を使った。

 このように、宗教の世界でも、朝廷と武家の利益を代弁した争いが行われた。承久の乱を起こした後鳥羽上皇や、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、いずれも僧兵や神人を頼り、武家に対抗しようとした。
 後に足利尊氏が後醍醐天皇の霊を慰めるため、京都に天龍寺を造営したが、これに対して比叡山が激しく反発した。
「宋国は禅宗を受け入れたがために、元に国を奪われた。京では代々、鎮護国家を祈る旧仏教が重んじられてきた。前例を無視して、禅宗の天龍寺を勅願寺にしようとするなら、僧兵をもって破却する」と威嚇した。

 山門の威しに脅えた足利政権は、天皇の臨幸を中止して、山門を宥めた。
 根来寺もまた旧仏教の流れをくむ。南北朝時代は足利氏に味方したとはいえ、もともと武家とは敵対する関係であり、武士との衝突は宿命だった。