ぎしぎしと車のきしむ音がして、闇の中を何かが近付いてきた。
かがり火に照らされて現れたのは、一台の車井楼(くるませいろう)だった。
敵が先ほどの小競り合いを本隊に知らせ、井楼が後詰めに来たと思われた。
車井楼は、砦の下まで来て止まった。車井楼の周りは鉄の板で覆われている。車は中の人夫が動かしているようだが、その姿は見えなかった。
車井楼の上の鉄砲はざまが開いて、中から声が聞こえた。
「神前是光殿はおられるか。伝えたいことがある」
顔は見えないが、車井楼の中で、だれかが叫んでいる。
「神前是光はここにはおらぬ」
隅櫓を守っている行人の一人が答えた。
「神前是光殿に伝えよ。畠中砦は完全に包囲されている。もはや犬や猫も逃げ出せぬ。一刻も早く降参するように」
車井楼の中の人物は、居丈高にいった。
「これは、攻め手の大将である中村一氏殿からのお言葉である。本願寺の顕如上人も信徒が殺されることを心配しておられる。ご辺たちはよく戦ったが、もはや勝敗は明らかであり、これ以上の戦いは無益である。命は貝塚卜半斎殿が預かるゆえ、心安く城を明け渡すように」
一方的に勧告すると、車井楼はまた、ぎしぎしと音をたてて、砦を離れていった。
敵の勧告は、すぐに是光に報告された。矢文に続いて、敵は口頭でも開城を求めてきた。何とかして畠中城を無血で開城させたいと思っているのだ。
畠中の城の中にいる百姓の大半が、早く城を捨てて、外に出たいと思っていることは是光も気付いている。百姓たちは、自分達が秀吉の大軍に勝てるなどとは、少しも信じていない。ただ、根来から送り込まれた軍目付の行人が恐ろしくて、口をつぐんでいるだけだ。敵はそのことをよく知っている。
車井楼が来て、開城勧告をしていったとの話は、すぐに畠中砦の中に広がった。かがり火の補給から帰ってきた若左近たちも、このことを知った。
是光は、四年前に秀吉が攻め落とした鳥取城の渇(かつえ)殺しの様子を人から聞いていた。
天正九年(一五八二)三月、毛利方の吉川経家が守る因幡の鳥取城を包囲した秀吉は、食糧の搬入を完全に遮断し、城の中を飢餓地獄に陥れた。
飢えた城内の守備兵や女子供は、軍馬を殺して食べ、砦の中に生える松の甘皮や壁のわらを煮て口に入れた。
それさえ尽きると、ついには戦死した仲間の死体を食べて、飢えをしのいだ。
信長公記には、このときの様子が次のように描かれている。
「餓鬼のごとく痩せ衰へたる男女、柵ぎわへ寄り、悶え焦がれ、引き出し扶(たす)け候へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなる有り様、目も当てられず」
「鉄砲を以て打ち倒し候へば、片息(かたいき=肩で息をする)したるその者を、人集まり、刃物を手々に持ち、続節(関節)を離ち、実(身)取り候ひき」
生きながら餓鬼道に落ちた凄惨な光景が、城の外からもまざまざと見えた。
追いつめられた城主の吉川経家は、ついに降伏を決断した。自らが切腹する代わりに、城の中の人々の命を許す約束を秀吉から取り付けた。
経家と森下道誉、中村春続の三人が割腹し、鳥取城は落ちた。
《秀吉は神仏を尊ぶ慈悲深い人間のように称しているが、残酷さは信長に少しも劣らぬ。このまま抵抗すれば、やつは必ず、百姓の女子供たちも皆殺しにするだろう》
そう是光は確信していた。
権力者は自らに反抗するものは決して許さない。自らを裏切った荒木村重の妻子を皆殺しにした信長の悪業もまた、是光は聞いていた。
信長公記には、そのときの様子が、こう書かれている。
「うつくしき女房達並び居たるを、さもあらけなき武士どもが受け取り、引き上げ引き上げ、張り付けにかけ、鉄砲を以てひしひしと撃ち殺し、槍・長刀を以て刺し殺し、害せられ、百二十人の女房、一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて・・・」
「家四つに取り篭め、こみ草を積ませられ、焼き殺され候。風の回るに随って(したがって)、魚のこぞる(=集まる)ように、上を下へとなみ寄り、焦熱・大焦熱のほのほ(炎)にむせび、おどり上がり、飛び上がり、悲しみの声煙につれて空に響き、獄卒の呵責の責めもこれなるべし」
信長・秀吉の残虐さは、権力を握った独裁者の常である。
だれも諌めることができなくなるまでに全ての権力を握った人間は、それまでとは人が変わったように横暴になる。
自分に逆らうものを容赦なく弾圧する。正常な人間なら、とてもできない残虐な行為を平気で行う。
神前是光は、千石堀城の戦い次第では、畠中城独自の決断もしなければならないと感じていた。
我々には家族や田がある。死ぬことを恐れず、むしろ聖なる仏の戦に殉ずることを誇りとする根来の行人とは違う。
「食糧が尽きれば、城の外に打って出て、包囲している敵軍を追い散らし脱出する」
行人たちは、そのような楽観的なことをいう。だが、射殺された宝蔵院の死を見ても、包囲を破ることが現実離れしていることは明らかだ。
畠中城に応援に来ている雑賀の人間も、いまだに本願寺の加勢を期待している。篭城が長引いて、秀吉軍の手詰まりが明らかになれば、家康が再び秀吉と手切れして、我々の味方になると期待している。何という甘い考えだろう。
人間は、どんな絶望的な状況にあっても、驚くほど楽観的に先行きを眺めるものだ。また、そうでなければ人間は生きていけないのかも知れない。
そう是光は思う。
行人たちは、神前是光に少数での出撃を提案した。
このまま篭城を続けても、持ちこたえられる見通しはない。包囲軍の仕寄(しより)場は完成が間近い。仕寄場ができてしまえば、敵は総攻撃にかかるだろう。座して無駄死にするより、この際、外に打って出て仕寄場を襲い、柵、竹束、井楼、石火矢台、築山、陣小屋を焼き払うべきだ。
行人たちは、このように主張した。
これに対し、雑賀の地侍たちは、篭城を続けるべきだといった。
「敵はいまのところ、我々を力攻めする気はない。説得して開城させるつもりでいる。いまは敵の出方を見るのが良策である」
彼らはそう主張し、根来の行人の強行策に反論した。
畠中城では、砦の中をいくつかに分け、それぞれに頭を置いている。軍(いくさ)奉行には、根来と雑賀から来た戦経験の豊かな者を指名して指揮を任せた。彼らは熊取の土丸城などで、篭城の経験があった。
根来と雑賀はこの数年、つねに行動をともにしていたが、戦法には違いがあった。
もともと根来は陸の戦いに長じ、反対に雑賀は海の戦が得手である。
根来の行人は、紀州の山中で訓練を重ね、山岳から尾根を伝って和泉や大和の平地に出る行動が多かった。
敵の手薄なところを見付けて奇襲する。彼らは楠木正成流の軍学を学び、千早城の戦のような険しい地形での戦を選んだ。このため、平地の砦にこもって、持久戦に持ち込む戦法には慣れていなかった。
これに対し、もともと漁師集団の雑賀は、舟で移動し海上で戦うことに優れていた。
陸に上がるときも、舟は近くに停めて、戦況が不利になれば、すぐ海上に逃げた。舟で海岸沿いを荒らす海賊の戦い方と似通うところがあった。半面、陸での戦は不慣れであり、陸で戦うときはもっぱら篭城戦を選んだ。砦の外に出て、正面から戦うことには消極的だった。
畠中砦には鉄砲、玉薬、飯米もまだ十分に蓄えられていた。
倹約すれば、三カ月は立て篭もることができる。
「死に急ぐことはない。じっと我慢していれば、展望が開けるかも知れぬ。われわれには仏の加護がある。たやすくは殺されぬ。我々が力を合わせれば、しばらくは持ちこたえることができよう。持ち場を油断なく守ることがいまは肝心だ」
雑賀から来た鉄砲頭が熱弁をふるっている。この鉄砲頭は石山合戦でも、銃を手に雑賀から本願寺を応援に駆け付けたことを誇りにしていた。
「篭城を続けるためには、敵と交渉すべきでない。敵に手の内を見せぬよう、砦の中のことは、いっさい外に漏らしてはならぬ」
鉄砲頭は、敵との話し合いを拒むよう求めた。
◇
和議の申し入れを聞いた百姓たちの動揺は明らかだった。
彼らにとって最も衝撃的だったのは、頼りにしていた本願寺が、秀吉に屈服したことだった。宗門への信頼が本願寺自身の背信行為によって裏切られた。かつては熱狂的に農民たちを戦に駆り立てた信仰が揺らいでいた。
「進むものは極楽、退くものは地獄」
こういって信者を鼓舞し扇動した顕如上人が、頭を下げて秀吉を迎えた。
かつての戦闘的な教団を知っているものには、信じられない背信だった。
自分達の献身的な教団への奉仕が、よりによって教団の頂点に立つ門主によって裏切られた。言葉に言い表せない耐え難い苦痛を彼らは感じた。
百姓の士気は一気に衰えた。
抗戦した末に落城すれば、恐らく女子供、老人も皆殺しにされるだろう。武器を取って戦った男たちが殺されても仕方がないが、女子供は助けたい。百姓の男たちの誰もが願っていた。
しかし、いまそれを口に出せば、仲間を殺されて逆上している根来の行人に、危害を加えられる恐れがあった。
身の危険を感じて誰も、和議に応じようとは言い出せなかった。
畠中砦の最も奥まった一角に作られた小屋には、女子供や老人が怯(おび)えながら、戦が終わるのをひたすら待っている。幼い子供の顔は恐怖にひきつり、青ざめている。
《我々は辛抱が足りなかったのではないか。秀吉がいくら圧政者といえども、戦にさえならなければ、何もしない女子供の命までは取るまい。どんな悲惨な生活であれ、死ぬよりは、ましだったのではないか》
是光は根来衆や雑賀衆に自分達が無理強いされたのではないか、と思う。
根来の行人や雑賀の地侍たちは自分達の勢力を守るために、百姓を煽り、戦に駆り立てたのではないか。
秀吉と根来とどちらが勝っても、我々が食い物にされるのは同じではないか。
「それ三世の諸仏、解脱の法衣を脱ぎ捨てて、たちまちに甲胄(かっちゅう)を着たまはんこと、内には破戒無慙(むざん=無残)の罪を招き、外にはまた仁義礼智信の法にも背く」
平家物語では、出家の身でありながら鎧を着て合戦に向かおうとする父の清盛を、子の重盛がこのような言葉で諌める。
まことに僧形の身でありながら、鎧をまとい兵仗を帯する行人は、清盛と同様、破戒殺戮を事とする極悪人に外ならない。彼らが秀吉を非難する資格はない。
是光はそう考える一方で、圧政者に屈服することも、ふがいない行為に思える。
《先祖代々、守ってきた自由と独立を放棄することは、奴隷になりさがることである。命と引き換えに、尊厳を売り渡すことである。我々がここで命を捨てて抵抗しなければ、秀吉も百姓の力をあなどって、今後も過酷な仕打ちを続けるだろう。我々の先祖が命をかけて守ってきた自立を、ここで捨てることは、先祖に対する裏切りであり、恥ずべき堕落である。同じ人間でありながら、なぜ、大多数の者が、わずかな人間の意のままにならねばならないのか。人間の自由は命に代えてでも、守らなければならないときもあるのではないか》
神前是光はかつて堺に行ったとき、一人のキリシタンの町衆から聞いた話を覚えている。それは拷問を受けても棄教せず、ついに磔(はりつけ)にされて殺されたキリシタン信者の残した言葉だった。
「信仰は命より尊い。生命は滅びても、気高い精神は残る。命をかけて戦ったことは決して無駄にはならない。昔から大勢の信仰者が、サルバトール・ムンディ(=世の救い主)のために命を落としたが、彼らは栄光に包まれ、いまも信者の心の中に不滅の命を保っている」
そのキリシタンはそういって、「いとも尊き聖体の秘蹟は、ほめ尊まれたまえ」と結んだのだった。
《キリシタンは多くの殉教者の犠牲のもとに、信者を増やした。我々仏を信ずる者も、命を惜しんでいては、仏国土は実現できない。だれもが権力者のいいなりになっていれば、永遠に民衆は救われない》
是光には殉教者の言葉が長く忘れられなかった。
《そうはいっても、生けるものが死を恐れるのは自然なことだ。脅えている女子供を、戦に巻き込むのは何とか避けたい》
是光はもともと、女子供を砦の中に入れることには反対だった。戦が終わるまで、和泉の山中に逃がすことを提案した。
だが、根来から軍目付として派遣されている行人たちは、それを許さなかった。
「女子供を人質にとられる恐れがある」と行人たちはいった。だが、実際は、百姓の家族を砦の中に入れることで、男たちが必死になって戦うことを期待しているように是光には思えた。
女たちは、蓄えた餅を砦の周囲に生える野草とともに煮て、食事を作っている。いまはまだ餅や米があるが、三カ月もせぬうちに、すべて食い尽くしてしまうに違いない。そうなれば、あとは餓死するのを待つだけだ。
是光は千石堀の方角を見た。
暗闇にそこだけが赤く輝いている。敵の火矢攻撃が続いているようだった。
もう時間はほとんど残されていなかった。
決断する時が迫っていた。