狙撃
 
 積善寺砦を見下ろす丸山古墳の陣地に進んだ秀吉は、床机に座って、戦奉行から戦況報告を聞いた。
 味方は千石堀と高井の二つの砦を攻撃しているが、敵の抵抗は強く、すでに相当の犠牲が出ている。積善寺をはじめ畠中、沢など、そのほかの砦はにらみ合いが続いている。
 報告は味方の苦戦を伝えていた。

 開戦の際に味方を叱咤したものの、容易に落とせる敵でないことは秀吉も最初からよく分かっていた。
 攻撃からすでに一ときが過ぎ、夕闇が迫っていた。

 小姓から手渡された遠眼鏡を秀吉は目に当てて、積善寺砦の様子を見た。
 積善寺砦の高い石垣の上には、垣楯(かいだて)が隙間なく並べられ、矢倉の銃眼からは銃の筒先がのぞいている。
 天守の矢倉から夕空に狼煙が上がっている。隣の砦に戦況を連絡しているのだろう。

 石垣の下には、陣笠を着けた味方の足軽が集団で攻撃の命令を待っている。
 両軍はにらみあい、一触即発の状態だった。
「官兵衛」 
 秀吉が近くにいる黒田官兵衛を呼んだときだった。
「ヒュッ」
 突然、風を切って銃弾が秀吉のすぐ右側をかすめた。
「危ない」
 官兵衛が大声をあげ、小柄な秀吉の体をかばうように、両手を広げて前に立ちはだかった。
 周りにいた小姓や馬回りの若者が、あわてて秀吉を取り囲んだ。
 同時に、もう一発の銃弾が音を立てて秀吉の頭上を飛んだ。
 秀吉の周囲は騒然となった。

 秀吉は馬回りの若者に囲まれ、古墳の上から、あわてて下に降りた。
 弾は積善寺砦の隅櫓から飛んで来たようだった。火縄銃の射程に届かない安全な距離を置いて布陣した積もりだったが、予想外の飛距離だった。
 根来衆は高性能の鉄砲を使い、鉄砲が破裂する危険さえ冒して、最大限の火薬を筒に詰めているようだ。

「殿下、ここは危のうございます。いますこし、低いところに移動いたしましょう」
 黒田官兵衛が進言した。
「そのようだな。油断をして、あやうく命を落とすところであった」
 息をはずませながら、秀吉は答えた。
「まことに申し訳ありませぬ。射程を見誤りました。私の不覚でございます」
 官兵衛は両手を土について謝罪した。
「よいよい。ここは戦場じゃ。危険はどこにでもある。それにしても不埒な根来坊主ども。皆殺しにしてやらねば」
 怒りをあらわにした秀吉は丸山古墳の上から街道に下りて、そばにある池の土手に移った。ここは丸山古墳の陰にあり、敵の狙撃手からは見えない安全な場所だった。

 根来の狙撃兵が潜んでいないか、周りの林を馬回りの者たちが隅々まで調べている。
 秀吉と幕僚たちの周囲には、幔幕と垣楯が並べられた。その間に秀吉は官兵衛と作戦を練った。

 もともと、積善寺砦は包囲するだけに留め、攻撃は控える考えだった。しかし、敵の狙撃を受けて、このまま放置することは屈辱だった。
 味方の士気を高めるためにも反撃が必要と官兵衛はいった。
 
              ◇

 秀吉への狙撃を機に、積善寺砦への攻撃が始まった。
 砦を囲んだ秀吉の陣営から、砦に向けて激しい銃撃が加えられた。
 これに対し、砦からも激しい銃撃が返ってきた。

 秀吉軍は石火矢(大砲)を使った攻撃を始めた。
 轟音とともに鉄の砲弾が石垣の上を飛び越えて、砦の中に落下した。砲弾は砦の小屋の屋根を突き破って、中にいた百姓たちを殺傷した。
 秀吉軍の猛攻にひるまず、砦の上からは下にいる秀吉軍の兵士の頭上に次々に大石が落とされた。 

 砦の中では、守将の出原右京が反撃の指示を出していた。
 若者の伝令が、砲弾の落ちる中を必死の形相で走った。
 あらかじめ砲撃に備え、天守と隅矢倉を結んで掘ってあった壕の中を、行人と雑賀衆が行き来し、指令と報告を交わしている。

 下から攻めのぼってくる敵兵の頭上に注ぐために、煮えたぎった湯や油が桶に入れられて運ばれた。
 丸太や大石を載せた横木の綱が塀から切り落とされ、敵の頭上に木石が次々と落とされた。

 積善寺砦の周りの堀際に、車輪をきしらせながら、秀吉軍の車井楼(くるませいろう)が近づいてきた。
 車井楼は中にいる狙撃手を守るため四方を鉄板で囲い、高い台に四つの大きな車輪を付けた移動式の櫓(矢倉)である。中国で発明され、城攻めに盛んに使われた。
 日本では応仁、文明の乱のころから使われだしたという記録がある。
 戦になれば、大工が狩り集められ、城の補修のほか、車井楼などの大型武器を作らされた。
 大工はまた、我屈洞(がくつどう)と呼ばれる、敵に接近するための一人用の防護楯なども作った。

 車井楼は、祇園祭の鉾など祭りの山車に今もその形を残している。大きな木でできた二つないし四つの車輪を結ぶ心棒には、井楼が坂道でも暴走しないよう、もちのきの皮から取った、とりもちが塗り付けられている。
 鉄板で覆われた矢倉の下部には人夫が入り、横木に取り付いて矢倉を動かした。
 敵の砦を見下ろす車井楼の上からは弓や銃のほか、火矢や大砲による攻撃が行われた。
 敵も井楼に一斉射撃で応えるが、鉄の板で覆われた井楼を破壊することはできなかった。

 竹束に身を隠しながら、人夫が車で運んできた土を積みあげている。攻撃用の小陣地になる仕寄りを築いているのだ。
 秀吉軍は仕寄りを砦の周りに作ろうとしていた。
 攻め手は仕寄りを徐々に砦に向けて延ばし、土居に接近して、砦側が周りに築いた乱杭や逆茂木、柵を除こうとしている。
 その作業が終われば、秀吉軍の足軽たちは、埋め草を堀に投げ入れて堀をわたり、土居や塀を乗り越えて攻撃してくるだろう。

 積善寺砦の中にいる百姓たちは、塀の銃眼に銃を据えて敵に狙いをつけた。竹束の陰から少しでも人間の姿が見えると、一斉に発砲した。
 銃撃を避けつつ、仕寄りを延ばす敵の作業は、なかなか進まなかった。
 積善寺城への攻撃はしばらく続いたが、やがて止まった。
 敵は威嚇したものの、まだ本格的に攻める気はないようだった。

             ◇

 積善寺の周囲はふたたび静けさを取り戻した。
 出原右京は砦の中を見て回った。
 さきほどまでの砲撃で、砦の中の建物は相当破壊されていた。
 死者やけが人も出ていた。砦の中に掘られた大きな地下壕の中で、息を殺して攻撃が終わるのを待っていた女子供が、いま恐る恐る外に出てきていた。
 
「右京。まだ戦は終わらぬのか」
 一人の女が、右京に聞いた。右京が子供のころから知っている親戚の老女だった。
「まだまだ。戦はこれからじゃ」
 右京は皆に聞こえるように、大声で答えた。
「早く終わらせてほしい。もはや堪えられぬ」
 老女は訴えるようにいった。
「気の毒だが、もうすこし辛抱してもらいたい」
 右京はすげなく答えた。

 かがり火がたかれ、交替で夜食をとる兵たちの姿が見える。
 あすにも全滅するかも知れない状況の中で、篭城衆たちはもう諦めているのか、意外に平静だった。
 自分達は死んでも、大日如来や阿弥陀様のもとに行ける。そのように信じている者もいた。
 もともと、この戦乱の時代に生きることが不運だった。生きていても、そうよいことはない。そんな虚無的な気持ちがあるのかも知れない。
 右京は砦を見て回ったが、兵たちの士気はなお旺盛だった。

 右京は、千石堀城で鉄砲衆を指揮して戦っている大谷左大仁を思いやった。左大仁と右京は根来寺でいっしょに鉄砲修業をした間柄だった。
 左大仁はいまごろ、取り囲まれた千石堀城の中で、必死に戦っていることだろう。

 千石堀城が最初に攻撃されるのは、味方も予想していた。
 西蔵院一派による秀吉の使者への狙撃は、今回の攻撃の口実になった。それは、西蔵院らを従えてきた旗頭の大谷左大仁にとって痛恨の出来事だった。
 左大臣は責任を感じ、自ら最も危険な千石堀の守りを引き受けた。

                ◇

 千石堀城の周囲には、秀吉軍のうち、三好秀次、堀秀政、中村一氏、田中久兵衛吉政、筒井定次が布陣した。

 筒井定次は筒井順慶の甥である。順慶は三十六歳の若さで、前年の十二月に没し、定次が跡を継いだばかりだった。
 
 筒井氏の出自は大和の興福寺の衆徒(僧兵)である。寺社が強く、有力大名のいなかった大和では、興福寺が最大の勢力だった。
 しかし、南北朝時代に一条院(北朝側)と大乗院(南朝側)の寺内抗争が起きたことによって興福寺の勢力は衰え、それに代わって寺に属していた衆徒とよばれる僧形の地侍集団が独立し、勢力を伸ばすようになった。
 大和には衆徒のほかに国民と呼ばれる集団もあった。これは春日神社領内の庄屋や名主が結束した地侍の組織だった。

 衆徒の中では筒井氏と古市氏が力を持っていた。これに対する国民の柱は越智氏と十市氏だった。
 衆徒、国民の二つの勢力は、南北朝時代はそれぞれ北朝側と南朝側について戦った。

 応仁の乱以降、両勢力は畠山家の家督争いに巻き込まれた。衆徒、国民はそれぞれ畠山政長、畠山義就の両派に分かれて大和での覇権を争った。
 畠山氏の内紛では、根来寺も紀伊守護の畠山政長とその子の尚順に味方し、畠山義就側に立った細川・三好氏と戦った。

 筒井氏は順昭の時代に越智氏との抗争を経て大和を支配下に置いた。
 筒井順昭は天文十九(一五五〇)に死去し、二歳の順慶が残された。
 家臣は順昭と声が似た琵琶法師の木阿弥を順昭の替え玉に仕立てて、順昭の死を隠した。その後、順慶が長じたあと、ようやく順昭の死が公にされた。順昭になりすましていた木阿弥は再び琵琶法師に戻った。
「元の木阿弥」という言葉は、この故事に由来するという。

 筒井順慶はその後、三好長慶の家臣だった松永弾正と抗争を繰り返す。
永禄二年(一五五九)、順慶は松永弾正に敗れ、大和を追われた。その後、松永氏と主家の三好氏が対立し、順慶は三好氏と組んで奈良に攻め入った。同十年、東大寺に陣を敷いた三好・筒井順慶勢を松永軍が襲い、大仏殿が炎上した。
 やがて、順慶は上洛してきた織田信長に従い、同様に信長に従った松永弾正と和睦した。
 天正三年(一五七五)、順慶は織田信長の石山本願寺攻め、越前の一向一揆攻略、長篠の戦いに参加した。
 天正五年(一五七七)二月、信長が石山寺を支える紀州雑賀を攻めたとき、順慶は明智光秀の指揮のもと、和泉信達庄から浜手を進み、中野城を落としている。

 順慶は、天正五年(一五七七)十月、信長に敵対した宿敵の松永弾正久秀を信貴山城に滅ぼした。順慶はついに大和の覇者となり、守護に任ぜられた。
 
 天正十年(一五八二)、信長が明智光秀に殺された直後の山崎の戦いで、順慶は光秀から味方に誘われた。順慶がかつて信長に帰服したときに、光秀は仲介の労を取り、順慶はこれに恩義を感じていた
 しかし、順慶は思案の末、加勢を断り、戦には参加しなかった。
 このとき、順慶が天王山の南にある洞ケ峠(京都府八幡市)を動かず、戦の形勢を見ていたと伝えられ、「洞ケ峠」は日和見の代名詞となった。
 しかし、実際には順慶は大和郡山城に戻っており、洞ケ峠には行っていない。
 洞ケ峠に行ったのは明智光秀の方だった。光秀は郡山城を動かない順慶に使者を出して、味方をするよう圧力をかけたが、順慶は一族と家臣のことを考えて出兵に応じなかった。
 順慶は戦が終わった後、醍醐寺にいた秀吉に拝謁して参陣が遅れたことを侘びた。
 順慶は参陣の遅れを秀吉から責められたが、所領は安堵された。
 順慶はその後も、柴田勝家側についた滝川一益を攻撃するため、伊賀に出兵している。

 天正十二年(一五八四)八月十一日、順慶は胃病のため、郡山城内で死去した。順慶は謡や茶の湯に優れた教養のある武将だったという。

                                 ◇

 子がいなかった順慶の養子となって跡を継いだ定次は、まだ二十五歳だった。定次は信長の養女秀子を妻に迎えていた。
 順慶の急死で家督を継いだ定次を、筒井家の重臣、島左近が支えた。
 島氏は、平群郡を本拠とした興福寺一乗院の衆徒で、棟梁である筒井氏七代に仕えた。
 島左近は天文九年(一五四〇)に生まれた。順慶より九歳年長で、その勇猛さから「鬼左近」の異名で知られた。
 幼くして家督を継いだ順慶を左近らは支えた。平安の昔より勇猛で知られた興福寺の僧兵の流れを組む島氏は、よく筒井家を補佐し数々の戦で功績を上げた。
 のちに左近は筒井定次のもとを去る。
 それは隣地との水争いで、主君定次が相手側の中坊秀祐に有利な裁定を下したことが原因だった。

 島左近は後年、蒲生氏郷に仕えたあと、石田三成に自らの知行の半分を与えられるという破格の待遇で召し抱えられ、侍大将となった。
 慶長五年(一六〇〇)九月十五日、関ヶ原の合戦では石田隊の左翼を受け持ち、蒲生郷舎(蒲生氏郷の元家臣)とともに、黒田長政、田中吉政らの兵と戦った。
 島隊は善戦したが、横に回りこんできた黒田隊の鉄砲の弾に当たって左近が負傷し、西軍は敗北した。左近は戦場で落命したとも、脱出して生き延びたともいわれる。
 
              ◇

 秀吉の和泉遠征では、島左近は筒井定次のもとに従軍し、千石堀城の包囲に加わった。
 筒井、島氏らももともと奈良の僧兵出身で、根来の行人たちと出自は似ている。
 奈良の地侍は、頼っていた興福寺の衰退に伴い、抗争するようになった。彼らは武士化し、僧兵や農民としての出自への自覚を失った。
 これに対し、根来行人を出していた和泉・紀州の土豪たちは最後まで寺のもとに結集し、農民としての立場を失わなかった。

 防人を生み出した東国の武士は、狩猟民族である蝦夷の流れをくむといわれる。
 朝廷に帰属した先住民族蝦夷は俘囚と呼ばれた。その後裔が、弓を使った狩猟の特殊技術を買われ、戦闘のための部民(べのたみ)として権力者に使われたのが武士の発祥ともいわれる。東国の蝦夷のほか、南方の隼人(はやと)もまた傭兵となった。

 西国や畿内の武士は、寺社の抱える僧兵への対抗勢力として発達した。平家の台頭は、比叡山の僧兵の強訴に困惑した朝廷が、対抗のために武士を厚遇したことによる。

 武士と僧兵は対立しつつ、お互いに利用もした。武士の子である源義経は鞍馬山の僧兵に武術を習った。鵯越(ひよどりごえ)で、平家の意表をついて険しい崖を走り下りた戦法は、山岳戦に長けた僧兵の伝統を生かしたものだった。武蔵坊弁慶ら僧兵が義経に味方していることも、それを示している。

 島左近は千石堀城を守る根来の行人を恐れていた。長年にわたる大和での抗争で、奈良の諸寺院の僧兵と戦ってきた左近は、僧兵の侮りがたい強さを知っていた。
 武士以上に死を恐れない彼らを力攻めにすることの難しさを考え、左近は攻め方に苦慮した。

 激しい味方の攻撃に耐えて、千石堀城はなお抵抗を続けている。
 順慶と島左近は、風が吹いてきたことを利用し、火攻めを試そうと考えた。