遠くから人の喚声が聞こえる。「どん」「どん」と腹に響く火縄銃の発射音が聞こえる。
畠中城の矢倉にいた若左近は鯨波(とき)の声と銃声の方角から、千石堀城で戦が始まったことに気づいた。
砦に緊張が走った。
「攻撃が始まった」
櫓の上から様子をうかがっていた見張りの若者が叫ぶように報告した。
「千石堀がやられている」
「高井城も攻められている」
城の中で最も高い所にいる城将の神前(こうざき)是光のところに、砦の角にたつ矢倉から注進が相次いだ。
「こちらにも、いつ攻撃してくるかも知れぬ。戦の準備はよいか」
神前是光は大声で指示し、守りを確かめた。
「火縄の火を点検せよ。筒先は下に向けよ。敵が向かって来ても、すぐに鉄砲は撃つな。出来るだけ引き寄せてから撃て」
根来から来ている行人たちは、城内を回って注意している。
緊張が極限まで高まったところへ、反対側の松の木に登っていた物見からの報告が入った。敵の本隊は、味方の主力がこもる積善寺砦から少し離れた丸山古墳に陣を敷いているという。
秀吉の軍勢は百姓が放棄した家に火をかけ、あちこちで火の手が上がっている。そう物見は報告した。
家が焼かれているという報告は、砦にこもっている百姓たちを動揺させた。粗末なつくりとはいえ愛着のある大切な家は失われてしまった。
敵は人家を焼き払って、見通しをよくしようとしている。浜から山まで至るところに敵軍は充満しているという。
《敵は味方の砦を分断して一つずつ落とす積りでいる》
報告を聞いた城将の神前是光は、そう読み取った。
畠中城の守将、神前是光は地元畠中村の土豪である。一帯に広い土地を持ち、土塀と堀に囲まれた大きな屋敷を持っていた。
神前氏は和泉でも指折りの名家だった。奈良時代の氏族の名簿「新撰姓氏録」七八八年の項によれば、神前氏の祖先の神前連(こうざきのむらじ)は百済からの渡来人で、奈良時代の七二一年に正六位下の位を得ている。
平安時代末期の一一八六年には、源義経の味方をして頼朝に追われた源行家を当主の神前清実が自宅にかくまったという記録も残る。行家は捕らえられ、殺された。
畠中城は、神前是光の屋敷を補強して、急ごしらえで作った砦だった。和泉日根郡の土豪と雑賀衆の連合軍三千五百人がたてこもり、根来の行人も加勢した。
畠中城の規模は東九十五間(百七十一メートル)、西九十三間、南百六間、北六十五間で、本丸は縦二十五間、横十八間の大きさだった。
周りは堀と土居で囲まれているが、平坦な地形の上にあり、防御陣地としては弱点があった。
このため、主力である根来の行人たちは、山の上にある千石堀城に入り、畠中城は地元の百姓たちに委ねた。
戦が始まれば、畠中城が真っ先に攻められることを百姓たちは心配した。しかし、実際に攻撃が仕掛けられたのは千石堀と高井城だった。
いまのところ、畠中城に秀吉軍が攻めてくる気配は見られなかった。
◇
秀吉軍の本陣が対峙している積善寺城は、紀州・和泉勢の最も重要な砦である。積善寺城を取り囲むように、千石堀、高井、畠中、沢などの付城が近木川に沿って配置されている。
積善寺城は、根来衆が永禄元年(一五五八)に、三好氏との抗争のために築いた。
それまで紀州勢は、土丸城や根福寺城などの山城を和泉での根拠地にしていた。その後、三好氏が和泉支配を強化するため、岸和田城を広げたのに対抗して、岸和田城に近い平野部に砦を増やした。
その中心が橋本の豪族、郡吉長者の持仏堂を改造した積善寺城である。
東七十八間、西九十三間、南百二十間、北百三十二間あり、近木川河畔の高台に位置している。今回の戦では地元橋本村の土豪出原右京を城将に、根来の援軍九千五百人が篭城した。
城内には、鉄砲五千丁を備え、数年は持ちこたえられるだけの食糧も蓄えられている。
積善寺城の本丸大将は出原右京と法橋頭三位が務めている。本丸矢倉は山田蓮池坊と野原大部が、東矢倉は智明院、西の矢倉は長橋正知坊、山田長寿院、山下南ノ坊が守った。南矢倉には近木忠次郎、熊取寿命院、熊取大納言、北の矢倉は寿宝院がそれぞれ固めた。
積善寺城の支城の高井城は近木川を隔てて、千石堀城と向かい合っている。
ここは高井集落全体を堀で囲った砦で、千石堀城と連携して、積善寺城に向かう敵を挟撃する役割を担っていた。城将の行(ゆき)左京ら高井集落の住民を中心に、根来の行人も数十人が加わり、二百人が篭った。貝塚の砦の中では中心に位置し、敵を引き付ける役割を担っていた。
海に面した沢(浜)の城には、雑賀勢がこもっている。雑賀から舟で運んだ食糧や弾薬が集積され、根来の諸砦の補給基地の役割を担った。しかし、急ごしらえで、守兵の手薄な点が神前是光には気掛かりだった。
そして今攻められている千石堀城には千六百人の根来衆が六千人の地元の農民と篭っている。
◇
「千石堀砦は紀州勢の砦の中では、積善寺砦に次いで強力な砦。守りが弱い城を攻めずに、なにゆえ強固な千石堀を先に攻めたのか」
根来から畠中城に派遣されている大谷小納言は敵の意図を計り兼ねて、そばにいる城将の神崎是光に聞いた。
「最も堅固な積善寺を攻めれば、攻撃方にも大きな被害が出る。弱い砦を崩しても敵方への打撃は知れている。相手に力をみせつけて降伏させるには、千石堀ぐらいがちょうどよい。できるだけ少ない犠牲で勝って、次の戦に力を温存する。それが秀吉のやり方だ」
神崎是光は冷静に分析した。
「しかし、千石堀には根来の屈強の勇士がいる。そうは簡単に落とせまい。敵が攻めあぐね、疲れたころを見計らって、こちらから打って出てはどうか。千石堀の味方と呼応して、包囲軍を挟み打ちすれば、勝機は生まれよう」
大谷小納言は気負っていった。
「いや、それは前もって行われた戦評定で固く禁じられている。砦の外に出た途端に取り囲まれて討ち取られるかもしれぬ。戦はまだ始まったばかり。食糧や水もたっぷりある。焦ることはない」
「このまま篭城していても、いつかは糧食が尽きる」
「城の外に出ても犬死にするだけだ。それより、城にこもって、一人でも敵を倒したほうが、他の砦の味方にとっては力になる。敵が攻撃をしかけてくるまで、辛抱すべきだろう」
神前是光は焦る小納言を制した。
守りの戦は苦手なのは、根来の行人全体に共通していた。戦を生業とする行人は、習性として常に心を逸らせている。静かに待つことは極めて不得手だった。
《その点、百姓は違う》
農民でもある是光には、百姓の性質がよくわかっていた。
炎天や酷寒のもとでの過酷な労働に耐えてきた百姓は忍耐強い。武術では訓練を積み重ねてきた侍や行人にかなわなくとも、その粘りだけは、まねができない。
《われわれ行人も、百姓の忍耐を見習わなければならぬ》
そう是光は思う。
畠中城はその名前の通り、畑の中にある。神前家の屋敷を中心にした集落を堀で囲み、掘った土は内側に積み上げて土塁にした。
地下から侵入してくる敵を防ぐため、土塁には隙間なく杭が打ち込まれ、塀の上には、火矢が飛び込まぬように、むしろを並べた弓隠しが置かれていた。
砦の正面の堀に渡された土橋に接する追手門には、二階建ての門矢倉が設けられている。
門矢倉の上は、味方の銃手が自由に移動できるように回廊が作られ、一階部分は頑丈な門扉が閉まっている。
反対側の搦手(からめて)の堀に架けられた木橋は滑車で砦側に巻き上げられている。敵が切り倒して堀にかけられるような大きな木は、切り払われ、城の中に持ち込まれている。
搦め手とは、正面(大手)に対する裏手をいう。敵に攻められたとき、城兵が搦め手から外に出て、大手に集まっている敵兵の背後にひそかに回り込み、敵を堀に追い詰め、からめ捕るための出入り口である。
砦の四隅には、高い矢倉が立てられ、銃を持った若者が配置されている。残りの味方の兵は、塀や土居の陰、矢倉の下に隠れている。
遠くの木の陰に秀吉軍の兵隊が隠れているのが見えるが、攻撃してくる気配はなかった。神前是光が指摘したように、敵が畠中城への攻撃を後回しにしているのは間違いなかった。
畠中砦には鉄砲が百丁配備されていた。鉄砲を任されているのは、いずれも根来寺で訓練を積んだ手だれの射手である。城に近付けば、たちまち銃弾を浴びる。敵はそれを知っていて、遠巻きにするだけで近付いてこない。
矢倉の上にいる若左近は火縄銃の火蓋を開け、皮袋から口薬を注いだ。火縄に火をつけ、いつでも撃てる体勢をとった。
若左近のいる大手の矢倉の上からは、畠中砦の配置がよくわかる。砦中央の高くなったところには板で覆った頑丈な矢倉が立てられ、そこで主将神前是光が指揮を取っている。
四隅の矢倉からは伝令が、神前是光のもとに敵の動きを報告することになっていた。
◇
矢倉の上にいる若左近が薄暮の中、敵の動きに目を凝らしていたとき、突然、風を切る音がして矢が飛んで来た。矢は若左近のそばをすり抜け、矢倉の柱に突き刺さった。
矢の根元には付け文が巻き付けられていた。若左近は矢文をほどいて、神前是光のもとに届けた。
それは和紙に墨で書かれた降伏勧告の手紙だった。
「根来と雑賀衆のこもる千石堀城はまもなく落ちる。千石堀を支える高井城も陥落は時間の問題である。積善寺城にも降伏勧告をし、拒めば攻撃を始める。畠中城も開城を拒めば、積善寺城と同様に攻撃する。無益な殺生を避けるため、降参を勧告する。城を明け渡せば命は天地神明に誓って保証する」
矢文の末尾には、天神地祇への誓文が書かれ、和泉の神社仏閣の印が押されていた。
神前是光は、砦の中の主立ったものに矢文を見せた。
「命を保証するといわれて開城し、捕らわれてぶざまに殺された者は古来多い。どうせ命を失うなら、潔く死ぬに如(し)くはない」
「われわれがいかに武士に苦しめられたことか。生きて苦しめられるぐらいなら、この城とともに焼け死んだ方がましだ」
はやる行人たちは徹底抗戦を主張した。地元橋本の若者も同調した。
貝塚の橋本は、楠木正成の一族の橋本正員(まさかず)と子の正高の出身地とされている。
橋本正員は建武三年(一三三六)五月の湊川の戦いで楠木正成とともに討ち死にした。その子の正高も後に和泉土丸城で北朝の山名氏のために戦死した。岸和田の和田氏と同様に、橋本氏も楠氏とは血縁関係で結ばれていた。
橋本では、橋本父子を敬って神社に祭っていた。
《橋本の地が、かりに灰塵に帰しても、我々の自由は守らねばならぬ》
そう、行人や若者たちは主張した。
是光は、開城を拒否する矢文にどう答えるか悩んだ。
《篭城しても展望はない。結局は全員が滅びるであろう》
矢文は意味のない抵抗を、すぐにやめるように求めていた。
しかし、開城勧告に応じることには、砦の中の強硬派が納得しなかった。
是光は砦の上から貝塚の方を眺めた。
神前是光は、矢文の主は貝塚願泉寺の卜半斎ではないかと思う。
貝塚願泉寺の檀家でもある是光は、住職の卜半斎とは親しかった。常日頃、卜半斎は信長の貝塚攻めのときに、願泉寺が受けた苦難を、是光ら信徒によく語っていた。
武力での抵抗には限度があること、仏の徒は忍辱(にんにく)の心をもって人に当たらねばならないことなど、卜半斎は語って聞かせた。
ここで、投降勧告に従って開城する案を持ち出せば、徹底抗戦を主張する行人や若者は、怒って自分を殺すかもしれない。
勝ち目のある戦いをするのはよいが、成算のない危険を冒すのは愚かだ。土地を守るために戦ってきたが、力で守れないのなら、屈服するしかない。ここは耐えて時間を稼ぐしかない。
神前是光は砦の守備を固めるよう下知した。
◇
砦の周りを闇と静寂が包んでいる。砦の中の暗闇に、時々赤く光る火縄の火が見えなかったら、ここが戦場とは思えなかった。いつでも発砲できるように、味方の狙撃手が火縄の灰を吹き落としているのだ。
闇の中のあちこちで点滅する火縄の先は、まるで木の葉の陰で息づいている蛍のように見えた。
是光は戦の意味を考えていた。
泉南の土豪たちは昔から根来の武力に頼って、権力者と対抗してきた。
一向宗徒が加賀の富樫氏を倒して百年王国を打ち立てたように、根来の門徒もまた、新義真言の教えのもとで権力者の圧政に抵抗し、自分たちの国を造ってきた。
そこでは、民は自らの責任で行動し、自分たちの生み出したものを、他人に理由なく奪われることなく自由に使っている。
しかし、仏国土である根来も、結局は世俗の国家と同様に武器と権力の持つ魔力に取り付かれ、堕落してしまったのではないか。
力に力で対抗する。これでは相手と変わらない。
「我を罵った。我を笑った。我を打った。このように思う人には怨みは鎮まらない。怨みは怨みによって鎮まるものではない。怨みを忘れてこそ、怨みは鎮まる。忍を行じてのみ、よく怨みを解くことできる」
法句経で、釈迦はこのように諭されている。
確かに根来に武力がなかったならば、寺は守護の横暴と圧政に苦しめられ、寺の財産は簒奪されたことだろう。その意味で、武力は必要だった。
だが、そのためにどれだけの犠牲が必要だったことか。
圧政に苦しんだよりももっと辛い死別の悲しみに、どれだけの兵士の親が泣いたことか。
憎しみと争いの無限連鎖を断ち切らねば、不幸は子孫にまで及ぶ。忍辱と慈悲をもって恨みに対することが、戦をなくす唯一の方法ではないか。慈悲を実践することが今や必要なのでは無いか。
是光は卜半斎から、つねにこのように聞かされていた。
若いころは、こうした仏の教えは、為政者に都合のよいものと軽蔑していた。権力者の横暴に目をつむり、柔順で軟弱な人間をつくるだけと思っていた。
だが、数々の残虐行為や無数の戦死者を見ているうちに、この際限のない殺し合いが、人間の愚かさの表れにすぎないという気がしてきた。
是光は闇に光る火縄の火が、人の心の中にくすぶる、瞋恚(しんい=怒り)の炎のように思えた。
争いは人間の本性として、なくなることはないのだろう。そうだとすれば、どのようにして争いを避けるべきか。百姓の命を全うさせることができるのか。
神前是光は考え続ける