「教如さま、秀吉の軍勢は岸和田を出発しました。貝塚の砦に向かっています」
願泉寺の門から息せききって走ってきた若い門徒が、書院の縁側に立っていた教如の面前でひざまずくと、早口で一気に報告した。
「難波勢はえらく急いでいるな」
庭を眺めていた教如はそうつぶやいて、顔を歪めた。
事態の進展の早さに、自分が取り残されている思いだった。
「三好秀次を先頭に、十万の大軍が貝塚に向かっています。砦には紀州の御門徒衆もこもっています。教如さま、何とかあの人達を助ける手だてはないものでしょうか」
若い門徒は哀願するように言った。
「お前は何を愚かなことを言っておるのか。それでなくとも、秀吉は我々が一揆を裏で操っていると疑っている。ここで余分なことをすれば、我々にまで災危が及ぶのが、おまえにはわからぬのか」
教如のそばの縁側に座っていた坊官の下間(しもつま)頼龍が立ち上がり、厳しい口調で若い門徒を叱責した。
「軽挙妄動は絶対にしてはならぬ。過去に信長に逆らったがために、どれだけ多くの貴い門徒の命が失われたことか。同じ過ちをまた繰り返す気か」
頼龍は若い信徒の方を見て話しているが、教如には頼龍がむしろ自分を叱責しているように思えた。
本願寺が強硬派の門徒たちと手を切ったいま、寺内での教如の立場は苦しくなっていた。
本願寺はいまや顕如とその忠実な家臣である下間頼龍、秀吉に近い貝塚願泉寺の卜半斎ら穏健派の門徒で固められている。
教如は庭を見たまま、腕組みして黙っている。
教如の心は揺れていた。
砦にこもっている雑賀の若い門徒たちの顔が目に浮かんだ。
◇
五年前の天正八年(一五八〇)、教如は燃えさかる石山本願寺をあとに、大坂を舟で脱出した。その後、紀伊雑賀から美濃にまで落ちのびたときに付き従ってくれたのは、雑賀の若い門徒たちだった。
あちこちで冷遇され、迷惑がられたとき、伝手を頼って寄寓先を探してくれたのも彼らである。
その門徒がいま、秀吉軍に包囲され殺されようとしている。彼らの最期が刻々と近付いているというのに、自分は何をしているのか。彼らを救うどころか、父顕如の命に従って、秀吉の陣営に祝儀の酒樽を贈る算段をしているのだ。何という不誠実な、忘恩の行いだろう。
教如は自分の前にへたり込んでいる若い信徒に視線を向けることができなかった。
自分が雑賀の信徒たちのために何も出来ないことは、よくわかっていた。
自分は情けなくも、母親の如春尼に泣きを入れ、父親の顕如に頭を下げて、ようやく勘当を解いてもらった男だ。はいつくばって自らの非をわび、宗門に再び迎え入れてもらった者が、いまさら偉そうに何をいえようか。
如春尼は父親に反抗した自分を嫌って、弟の准如を跡継ぎにしようと思っている。本願寺内では自分はもはや厄介者でしかない。
厄介者には雑賀の人々を助ける力はない。
教如は無力感にうちひしがれ、罪の念に駆られながら、根来の砦のある南の方角を見た。
「教如さま、お願いでございます。どうか、いま一度ご出馬ください。我々もあの人達と一緒に砦に入りましょう。進むものは極楽、退くものは地獄。それが教主さまの教えだったのではないでしょうか」
「おのれはまだ、そのようなことをぬかすのか。おのれは宗門の未来と、開祖親鸞上人以来の尊い血脈、法脈がどのようになってもいいというのか。黙れ」
下間頼龍は血相を変えて、若い信徒を罵った。
「いいえ、黙りませぬ。雑賀の御門徒衆は宗門のためにどれだけ犠牲を払ったことか。長島では信長にあらがって何万人もの信徒がむごたらしく殺された。それもこれも、顕如さまが、あの人達を煽り、戦に追いやったからです。大恩ある人たちを見捨て、知らぬふりをするとは、何という薄情な仕打ちでしょう」
信徒の言葉が教如の心に突き刺さった。
伊勢長島の戦いは教如にとって悪夢のような思い出だった。
天正二年(一五七四)、信長による伊勢長島への三回目の攻撃は三か月続いた。
三方から船に乗って押し寄せた数万の大軍に囲まれ、糧道を断たれた砦で、多くの信徒が餓死した。
降伏を申し出た信徒を信長は許さなかった。
「御赦免のお詫びごと申しそうろうといえども、懲らしめのため、干殺しになされ、年来の狼藉、御鬱憤(うっぷん)散ぜられ」(信長記)
切羽詰まった門徒たちが舟に乗って脱出するところを、信長軍が鉄砲と矢で攻撃し、全員を殺した。
このときには、一揆を支援し指揮した僧や地侍たちも捕らえられ、信長の目前で首をはねられている。
三年前の元亀二年(一五七一)、比叡山焼き討ちで僧俗数千人を無慈悲に虐殺した信長は、長島でもその残虐さを遺憾なく発揮した。
「長島の戦いでは、各地の寺の住職に従って合戦に参加した成人の男だけでなく、ともに砦にいた女子供も大勢殺されました。あれだけの犠牲を払って、彼らは顕如さまのご命令に従ったのです。それなのに、ここで我らが世俗の権力者におめおめと屈服するのは、彼らに対する裏切りであり、恥知らずの行いです」
「何をいう。黙れ、黙れ」
激高した下間頼龍は、手に持っていた刀のさやを抜きはらい、若い信徒に切りつけようとした。
「頼龍、やめよ。この者のいうことにも理屈はある」
教如は思わず大声を出して制した。
「教如さま、何をいわれます」
頼龍は刀を手に持ったまま、憎々しげに教如をにらんだ。
「あなた様は、まだ雑賀の者たちに同情しているのですか」
頼龍は厳しい目で教如を見ていった。
教如は立ったまま動こうとしない。居合わせたほかの坊官たちは息をつめて見守っている。
「やはり、教如様はまだ心から後悔されてはいないようですな。顕如様に頭を下げたのは、うわべだけだったのでしょうか」
教如は黙っていた。
本心を見破られ、反論すべき言葉が出なかった。
誰もものをいわなかった。重苦しい空気が漂っていた。
「いかがいたした。何を騒いでいる」
そのとき、奥の間からしわがれた声が聞こえた。
声を聞いた頼龍は、あわてて刀をさやに戻した。
奥の間のふすまの間から現れたのは、顕如だった。
「騒ぐでない。おまえ達はいまがどんな時か、わかっているのか。内輪もめをしている場合ではない。いまは宗門の存亡がかかっている大事な時期だ」
顕如は静かにいった。
頼龍は床に手をついて畏まった。教如も黙ってひざまずいた。
「過去のいきさつはともあれ、我々はいま一つになって、事に当たらねばならぬ。時代は大きく動いている。いつまでも、昔と同じつもりでいると判断を誤る。変化を見極めることが肝要だ」
顕如は教如の方を見ていった。教如はうなだれたまま、聞いている。
顕如と長男の教如との間には、対立の過去と、いまも続く根の深い確執があった。
天正八年(一五八〇)、信長の石山本願寺包囲に苦しんでいた顕如はついに信長の要求を容れ、石山開城を決意した。
このままでは、本願寺が焦土となり、多くの信徒が死ぬ。何とか危機を脱したいという苦渋の決断だった。
だが、血気にはやる若い信徒は納得しなかった。彼らは信長になお敵愾心(てきがいしん)を燃やし、若い教如を門主にして徹底抗戦を続けようとした。
教如はいったん父の講和方針に同意していたが、教団の中の強硬派が徹底抗戦を叫ぶと、これに同調した。
地元大坂の寺内町が教如に味方した。信長に追放されて当時安芸にいた前将軍足利義昭も、信長に抵抗する教如を援助した。この情勢を受けて、孤立した顕如はついに法主辞任に追い込まれた。
教如が新門主に選ばれた。門主の座を息子に奪われた顕如は、息子の過激な行動を懸念しながら紀州鷺の森に落ちた。
しかし、命を賭けて石山に残った教如も、結局は信長の武力に抗することができなかった。包囲を破ることができず、苦境に陥った教如もまた、父と同様に石山を退去せざるを得なかった。
教如とその一派は舟で石山を落ち、奈良、近江、美濃、飛騨、安芸などを転々とした。
教如らの脱出と同時に石山本願寺は炎上し、壮大な伽藍や町家はすべて灰となった。
結果的には父顕如の現実路線が正しかった。教如が勝ち目のない戦いを続けたために寺は焼かれた。教如は行く先々で、門徒に批判され、煙たがられた。行き詰まった教如は、最後は顕如に対し自らの非を認めて謝罪した。
もし教如があのとき、父のいうことに素直に従っていたら、祖父の証如上人が来住した天文二年(一五三二)以来、門徒衆が営々と築き上げた石山の町が灰塵に帰することはなかった。結局のところ、教如の抵抗は多くの信徒を死なせただけで、教団には何の利益ももたらさなかった。教如の重大な判断の誤りだった。
天正十年(一五八二)、父子は朝廷の仲介で和解した。父の義絶が撤回されたあとも、両者のわだかまりは残った。
顕如は教如を決して許さなかった。教如の謝罪は表向きだけのことで、いまも本心は宗門の中の過激派と結び、宗門を危機に引きずり込む積りだと疑っていた。
信長の跡を継いだ秀吉もまた教如を警戒し、顕如には親しく接しても、教如には会おうとしなかった。
事実、教如はひそかに再起を狙っていた。
「今度の始末、徒者(いたずらもの=無頼者)の申すなり(=申すままに)同心(=同調)せしむること、後悔千万千万、今より後は湯にも水にも、御所(=顕如)様御諚(ごじょう)の次第(=仰せの通り)たるべし。北御方(=如春尼)様の儀も同前、毛頭私曲表裏、これあるべからず候」
和解にあたって教如は平身低頭してわびを入れた。自分の失敗を強硬派に転嫁し、父母に従うことを誓った。
だが、心の内ではなお、機会があれば宗門を自らの采配のもとに置こうという野心を抱いていた。
教如は父が死ねば、自分が本願寺の主導権を握るのは当然と考えていた。しかし、そのためには、いまは屈辱に耐え、不遇をじっと我慢しなければならない。
教如自身ももはや、武士に抵抗する気力は失っていた。各地で弾圧された一向宗徒の惨状を見るにつけ、もはや武士に勝てないことは自明の理だった。教如にとっては、いまや教団を自らの支配下に置くことだけが願いだった。
本願寺の教えに従って各地で蜂起し、親兄弟をむごたらしく殺された一向宗徒は、権力者との妥協に転じた本願寺に裏切られたと感じた。顕如、教如父子の軟化を変節と非難した。
やがて彼らは本願寺から離れていった。長年、教如と行動をともにした人々も、教如が宗門に帰順するや、教如とたもとを分かった。彼らは雑賀に下り、反秀吉の陣営に加わった。
教如に対する彼らの厳しい批判は、教如の心に深い傷を遺した。
かつて本願寺の最大の支援者だった雑賀衆も、秀吉に妥協した本願寺から離反した。教団にとって、過激な雑賀衆は扱いにくい存在であり、雑賀の離反は本願寺にとっても好都合だった。
顕如がおととしの天正十一年七月に紀州雑賀の鷺の森御坊を引き払い、舟で貝塚願泉寺に移ったのも、このまま雑賀にいては、秀吉と雑賀の抗争に巻き込まれると思ったからだ。秀吉側からのひそかな働き掛けもあった。
「もはや戦は避けられぬ。われわれは中立を守り、静かに戦況を見守ることしか出来ぬ」
顕如は、庭にはいつくばっている若い信徒に言い聞かせるように穏やかに話した。
「われらは雑賀の門徒が自滅しないよう仏に祈ろう。我々にはそれが最善の行いだ」
「上人様。雑賀の御門徒は苦境にあった我々を何度も助けてくれました。彼らを見捨てるのは仏の教えに反するのではないでしょうか。私にはとても堪えられません」
若い信徒は苦しげにいった。
「おまえのいうことはよく解る。私も心苦しく思っている。だが時代は変わった。信長が雑賀を攻めた八年前なら、まだ雑賀や根来も武士と対等に戦えた。ほかの武士の支援もあてに出来た。しかし、今は違う。だれもが秀吉を恐れて秀吉に従っている。たとえ四国の長曾我部ら一握りの勢力を味方につけたとしても、秀吉の圧倒的な武力にはとても対抗できない。秀吉と戦うことは自滅することにほかならぬ。それをよく理解してほしい」
顕如の言葉は冷徹だったが、理にはかなっていた。
「この貝塚願泉寺の住職である卜半斎も私と同じ考えだ。いくら共に戦ってきた雑賀の者たちでも、彼らの破滅の道連れにはなりたくない。秀吉と敵対すれば、宗門は根絶やしになってしまう。ここは隠忍持久して、嵐が通り過ぎるのをじっと待つしかない」
顕如が若い信徒を諭している間、下間頼龍は蔑むように教如の方を見ていた。
教如は父の言葉を反芻していた。もう何度も聞かされた論法だった。
父のいうことは、勝ち目の無い相手には逆らわず従えということだ。
若い門徒がいったように《進むものは極楽、退くものは地獄》との教えのもと、敬虔(けいけん)な信者を死後の懲罰で脅し、成算のない戦いに導いて死地に追いやった宗門の責任はどうなるのか。
教如は敗れることも覚悟して、秀吉に最後まで抵抗する雑賀と根来に負い目を感じた。
彼らは劣勢にもかかわらず、信仰と信念を貫いて圧政者の秀吉に抵抗しようとしている。彼らにとっては、寺や宗門の存続や自分たちの命より、自らの独立と自由が大事なのだ。
それに比べて、我々の態度はどうか。世俗に媚び、権力者に取り入って安泰を得ようとしている。
権力にはどうしても逆らえないのか。多くの無辜(むこ)の人間を平然と殺した信長のような人非人を「時代を変えた革命児」と持てはやす。非道な権力者を英雄視し、たたえる卑屈な人間と、自分達もまた同じなのか。
人間は何と権力に弱いことか。散々苦しめられた庶民が圧政者を英雄視して、ほめちぎる。愚かな話だ。
教如は苦々しい思いで、顕如の話を聞いていた。
老獪な父顕如のことだから、決して手放しで権力に迎合しようとしているわけでないことも、よく分かっていた。これも宗門を守るための方便であることは、自らも苦しい経験をしてきた教如には、よくわかった。父は秀吉の力を正確に見て取り、とても敵う相手ではないことを悟ったのだ。それは自分もまた同じ考えである。
しかし、それでもなお、長年の仲間を見殺しにすることは、耐えられなかった。
「頼龍、酒の準備はできたか」
顕如が下間頼龍に尋ねた。
「ただいま、地元貝塚の銘酒を取り寄せております」
「秀吉公は酒や肴にうるさい。よく吟味して極上のものを持参するように」
「畏まりました」
頼龍は平伏して答えた。
「教如、おまえもわしと一緒に秀吉公の陣中見舞いについていってくれるだろうな」
苦しげに顔をゆがめている教如を見ながら、顕如はいった。
「秀吉公はなお、そなたに心を許しておらぬ。今回の秀吉公の和泉出張は、そなたへの秀吉公の疑念を解く絶好の機会である。この機を利用して、秀吉公の宗門への懸念を晴らし、理解を深めさせる必要がある」
「仰せの通りです。お供つかまつります」
教如はうつむいたまま答えた。
顕如はすでに雑賀・根来勢が抗戦することを見越して、手を打っていた。
岸和田の中村一氏を通じて、昨年十月には秀吉から貝塚・願泉寺内での陣取りと兵士の出入り、乱暴、狼藉を禁じる制札を手に入れた。
根来の砦への総攻撃と合わせて、秀吉は根来に味方する近辺の寺社も焼き払うに違いない。だが、制札があれば、少なくとも秀吉の軍勢が寺を壊したり、火をかけたりすることはない。
この制札を手にいれるために、顕如は願泉寺住職の卜半斎に命じて、秀吉と中村一氏に数々の進物を贈らせた。
また、禁裏に対しても、秀吉の和泉出張で本願寺が戦に巻き込まれないよう、勅使を送って秀吉を説得してくれるよう依頼した。
周到な工作が功を奏して、願泉寺への攻撃はどうやら避けられる見通しとなった。だが、慎重な顕如は、攻撃前にもう一度秀吉に会って念押しをしようとした。その使者に教如を選んだのは、教如の本心を試すためでもあった。
顕如は秀吉に書状を書き、昨年三月の紀州勢の大坂攻撃には、本願寺は全く関係していないことを改めて弁解した。
そして秀吉の出馬を歓迎している旨をくどいほど文面に書き入れた。陣中見舞として、馬一匹、樽三荷、河内道明寺の名産である兵糧の干し飯を用意した。書状と進物品は挨拶に先んじて、堺に着いた秀吉の元に贈られた。
◇
顕如にとって、昨年の小牧長久手の戦と、それに合わせた紀州勢の蜂起はまことに迷惑な出来事であった。ようやく、秀吉との関係を取り結べると思った矢先に、思いもかけぬ秀吉と家康の争いが勃発し、対応に苦慮した。
三河の一向一揆弾圧以来、本願寺と家康の間は敵対関係にあった。信長に仕えて一向宗徒を攻撃した秀吉もまた、本願寺にとっては旧敵である。いずれの側につくか悩んだ末に、顕如は中立を保つことに決めた。
家康は紀州勢に秀吉との戦いへの支援を求めるとともに、本願寺にも出兵を要請してきたが、顕如は無視した。
顕如は家康を信用していなかった。
顕如は思う。
そもそも権力者と宗教者との縁とは何か。
権力者にとって、宗門は利用するだけの物か。
伊豆配流の時代から法華経を常に読誦していた源頼朝は、鎌倉幕府開府後の建久六年(一一九五)、東大寺再建供養の式典に出席した。頼朝は大仏像の修復に貢献した宋人、陳和卿(ちん・なけい)に面会を希望したが、すげなく拒否された。
陳和卿が拒絶した理由は、頼朝が国敵を退治したときに、多くの人命を奪い、その罪業が余りにも重いということであった。これを聞いて、頼朝は涙を流したという。
鎌倉幕府のもと、武家の天下になったとはいえ、武士を見る世間の目はなお、殺生をする漁民や猟師に対する見方と変わらなかった。彼らは常に罪の意識にさいなまれ、神仏を恐れた。
しかし、時代が下るにつれ、神仏への敬意は失われていく。室町時代に伊勢の守護となった足利一族の仁木義長は、伊勢神宮との領地争いから、五十鈴川で魚を捕り、神路山で鷹狩をして神を冒涜した。
信長の比叡山や伊勢長島での大量殺戮、家康の三河一向一揆の弾圧など、神仏に対する武士の敬意はいまや完全になくなっていた。罪の深さにおののいた頼朝の時代はとうの昔に終わっていた。