熊取の中家

 若左近は、生まれ故郷の熊取庄(泉南郡熊取町)に入った。
 ここもまた人の気配はなく、収穫期を迎えたまま放置された畑の綿の実が風に揺れ、白い繊維を飛ばしていた。
 街道沿いの家の戸は固く閉じられ、表から筋交いに板が打ち付けられている。まるで嵐の前のような光景だった。

 街道の辻には、鎧を着けた根来の行人や地侍たちが楯を並べ、通りを警戒している。
 浜で作った魚の干物や貝の醤油煮、干した海草などを砦に運ぶ漁師の女房たちが関所で列を作って、行人の調べを受けている。味噌や梅干しをひさぐ行商人たちが辛抱強く並んでいる。長らく放置したままの畑を手入れに行く鍬を持った農民らも順番を待っている。
 行人たちは、秀吉の手の者がまぎれこんでいるのを疑って調べているのだ。

 根来側が大坂城に忍びを入れて、秀吉軍の動きを探っているのと同じように、秀吉方もまた、伊賀や甲賀の素破(すっぱ)を貝塚の砦に紛れこませ、警戒の手薄な場所を調べていた。

 昨年の小牧長久手の戦いでは、秀次軍の不審な動きを農民からの知らせで察知した家康方が、追撃して撃破した。
 桶狭間の戦いでも、今川軍の動きを正確につかんでいた信長軍が、奇襲攻撃で圧倒的に多い敵を破った。
 敵の規模と動き、その意図をいかにして早くつかむかは、作戦をたてる上での基本だった。

 熊取庄には、根来寺内に子院の成真院を持つ豪農の中家がある。
 中家は家業の麹(こうじ)、味噌、酒作りで得た金を熊取庄ほか一帯の農民に貸し、利子(加地子)をとって利益をあげていた。
 中家はこの利益を新田開発に充てて、さらに土地を増やした。泉州一円に広がるこれらの土地を作人に貸すことによって得られる利益は莫大なものだった。
 これらの利権を守護方から守るためには、守護に対抗できる根来寺の武力が頼りとなる。中家のような裕福な豪農は一揆を結んで団結し、根来寺の行人の力を借りて田を守った。

 泉州の地侍の中でも中家は指折りの名門だった。
 後白河法皇(一一二七〜一一九二)が熊野詣の際に、行宮(あんぐう=仮御所)として中家に泊まったと伝えられている。
 右三つ巴(ともえ)の中家の家紋は、後白河法皇に名産の甘瓜(真桑瓜)を献上したところ、いたく気に入られたことから、瓜を紋にしたという。
 塀で囲まれた広い敷地にわらぶきの大きな家屋が幾棟も建てられ、塀の周囲は深い堀で囲まれている。

               ◇

 中家が接する熊野街道の東側には、紀州と和泉を隔てる和泉山脈が連なっている。西側には海が広がる。
 山と海の間の狭い平野は砂地で覆われている。山のところどころには、貝や木の葉の化石なども露出し、和泉がもともと海の中にあったことを示していた。

 熊取庄と日根庄の境界には土丸城がある。
 この城は南北朝時代に北朝側についた地元の武士、日根野盛重が貞和三年(一三四七)に築いた。

 足利尊氏の執事、高師直が南朝・後村上天皇の御座する吉野の行宮を攻めた際、師直は日根野盛重に命じて土丸城を警護させた。
 その後、和泉橋本(貝塚市)の豪族で楠木氏の一族である南朝方の橋本正高が土丸城を奪取した。正高は尾根続きの山に砦を広げ、雨山城として和泉南部支配の拠点とした。

 土丸城の下には樫井川が流れ、険しい崖がそそり立つ天然の要害をつくっている。山頂に立つと、眼下に泉南一帯と大阪湾が広がる。樫井川の対岸には形のよい小富士山が見える。

平成の現在、頂上には地元の人々によって神社が祭られている。頂上には昭和十五年に皇紀二千六百年を記念して刻まれた石碑も立てられている。碑文には「河内の千早城、泉南の土丸城」と書かれ、南朝を支えた正高の功が称えられている。

 土丸城は岸和田や熊取の平野に近く、犬鳴山を経由する山道を抜ければ紀州にも連絡できる。この地域の支配に適した戦略上の要衝だった。

 南朝側の橋本正高は康暦二年(一三八〇)、楠木正儀の子の正勝とともに土丸城で山名氏清と戦ったが、大内義弘の援軍に敗れ戦死した。正高の父正員も湊川の合戦で楠木正成とともに自害している。二代続いて橋本氏は宮方に命を捧げた。

 弘和二年(一三八二)には、楠木正勝が山名義理と土丸城で戦って敗れた。正勝は南北合一後の応永六年(一三九九)、大内義弘に味方して堺で足利軍と戦ったが、敗れて行方知れずとなった。

 熊取中家の先祖も南朝方について戦ったといわれる。
 後白河法王が熊野詣での際に宿泊されたといわれる中家は、もともと尊皇の家系だった。だが、南朝についたのはそれだけが理由ではなかった。
 その背景には土地の境界をめぐる争いがあった。

 建武の新政が失敗して南北朝時代に入ると、統一権力が不在の中、土豪の間で領地や水利権をめぐる争いが頻発した。
 自らの領地を守るためには、後ろ楯を必要とした。双方は北朝、南朝に分かれて庇護を求めた。泉南では日根野氏や淡輪氏が武家方についたのに対抗し、中氏は宮方についた。

 南北朝が合体し、武家の支配が確立しても、将軍家の権力基盤は弱く、名主は自衛が必要だった。中家は新たに台頭してきた根来寺に近づき、一族を根来寺の子院である成真院の院主に送り込んだ。また、熊取の若者達を訓練して根来の行人とし、自らの指揮下に置いた。

 農民たちは自治を求めた。熊取庄では庄内に幾つもある神社を中心に、農民の自治組織である宮座がつくられた。
 農村の若者たちは若衆宿で子どもの頃から共同生活をし、全員が兄弟のように育った。台風で用水路の樋が壊されたときや、守護方の武士たちが侵入してきた時など危機には一致団結して村を守った。

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 大きな楠が茂る中家の屋敷の前にも武装した根来の行人たちが立っている。
 根来成真院から中家を守るために派遣された行人たちは皆若く、筋骨たくましかった。もと農民の彼らは、農作業で鍛えた太い腕を持っている。そのうえ、敵と格闘する激しい訓練によって、相手をねじふせる腕力を身につけていた。

 中家の一族の熊取大納言は、根来成真院の行人頭を務めている。今回の秀吉との戦では貝塚の積善寺砦にこもり、行人や農民を指揮していた。
 泉南の有力土豪の子弟は、それぞれ家の名誉と利益のために、戦いに参加した。武名のために命を軽んずるところは、武士と少しも変わらなかった。

 秀吉は、彼ら地侍が先祖代々引き継いできた土地の所有権を否定し、自らの直轄支配下に置こうとしている。守護でさえしなかったことを、成り上がりのよそ者が問答無用でやろうとしている。

 上から押さえ付けようとする圧政者に、長年の自治により自由な生活を享受していた農民は反発した。

 紀伊と和泉南部には有力な守護大名は育っていなかった。中世からの宗教勢力の力が強く、畠山などの大名は、むしろ根来や高野などの力を利用しようとした。

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 中家の前にいる行人たちは声高に紀州の方言を話している。和泉の言葉と近いが、抑揚はどこか少し違った。
 根来寺が信達庄を領してすでに二百五十年たち、両者の言葉は同化していた。若左近ら和泉南部に育った人間には、堺など和泉北部の言葉より、むしろ紀州の言葉の方が親しく感じられた。

 和泉は長らく南北で対立してきた。その境は和泉山脈から出て大坂湾に流れる近木川である。
 この川の流域に根来側は強固な前線基地を築いている。
 かつて守護方について根来に敵対した日根野氏は抗争に敗れて、すでに美濃に去り、淡輪氏もいまは沈黙している。和泉南部にはいまや、根来と雑賀に敵対するものはいない。

 若左近は和泉の山々を見た。山容は丸くなだらかで、この土地の気候と同様に穏やかだった。海岸に近くほとんど雪の降らない温暖な土地は、戦さえなければ、住みやすく恵まれた場所だった。

 大坂湾では豊かな魚や貝が採れ、山にはシイ、ヤマモモ、アケビ、マツタケが実った。子供のころ、寺の境内の森でヤマモモの木に登り、口を赤くして食べた。たまに起きる守護との戦の規模も小競り合い程度で、貧しいけれど幸福な時代だった。

 町には平家物語を語る琵琶法師や大平記を語る講釈師が来て、金をとって語りを聞かせた。若左近も子供のころ、宮座の祭りで、大平記の合戦譚を聞き興奮したものだ。

 泉州の地侍の中には、楠木正成の子孫を名乗るものが多い。鎌倉幕府の圧倒的な軍勢に対し、孤立無縁の中で粘り強く戦い続けた正成を彼らは敬愛した。
 紀伊の土豪で鉄砲を根来にもたらした津田監物も、楠木正成の子孫を名乗った。

 軍記物語を語る講釈僧は和泉の若者に大いに受け入れられた。財産も教養もなく、何の後ろ盾もない庶民の若者にとって、歴史の舞台で活躍する悪党や悪僧は、卑しい身分を忘れさせ、しがない生活から解きはなってくれる英雄だった。
 乱世のいま、行人は寺を守る楯として重んじられている。行人として勇名をはせるのは、彼らの夢だった。

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 本来、僧が兵仗を持つことは、仏教の戒律で厳しく禁じられている。
 鎌倉初期の建暦二年(一二〇二)、朝廷は諸社の濫訴(乱訴)と神人僧徒の濫行(乱行)、僧侶の兵仗を停止(ちょうじ)するよう命じている。しかし、悪僧の跳梁(ちょうりょう)はなお甚だしく、寺や神社同士の争いは、とどまることがなかった。

 鎌倉時代の初期から、比叡山延暦寺と三井寺の争いは際限なく繰り返された。一方が朝廷の特別な待遇を受けると、誇りを傷付けられた他方が嫉視し、朝廷に抗議した。これに対し、相手側が反発し闘争になった。
 三井寺は記録によれば、五十回も延暦寺などからの焼き打ちにあっている。
 根来寺もまた周辺の寺とたびたび紛争を起こした。宗教上の経緯から反目する高野山金剛峰寺はもちろん、近隣の粉河寺や神於寺などとも水争いなどから合戦に及んだ。

 建保三年(一二一五)、朝廷は鎌倉幕府に僧兵の武力行使を抑えるよう命ずる宣旨を下した。
「年頃、諸寺諸山僧徒ら、教法に携わる者は少なく、驍勇(ぎょうゆう=強く勇ましいこと)を好む者多し。さらに禁網(=禁止の法令)を忘れて、偏(ひとえ)に、凶器(=武器)を事とす。賢聖の法軍かえって魔軍となり、菩提の道場、動(やや)もすれば戦場となる。律義に背くのみならず、恐るらくは、なお法命(=仏教の命脈)を失わんと。よりて(=そこで)(源)実朝をしてこれを禁ぜしむ」

 建長二年(一二五〇)にも朝廷は、宣旨を下して、山徒神人の凶暴を禁じた。
 俗人と同様、妬み、そねみから寺は紛争を繰り返した。そこには辱めを忍び、ひたすら仏に仕える柔和な宗教者の面影はまったくない。
 だが、若者にとっては、行人たちの奔放な行動には魅力があった。また、その開放的な空気も好ましく思えた。

天狗草紙には、三井寺の衆徒が大衆詮議する情景が描かれている。
 その詞書(ことばがき)にはこんなことが書かれている。
「山(=比叡山)の非修非学(=修養せず勉学しない者たち)、猛悪の凶徒ら、山上に登り、我らを見下すの条(じょう=こと)、下克上の至極(=成り上がりの僭越もはなはだしい)。(中略)詮議異議はべらずんば(=議論に異議なければ)、一同の音(こえ)、挙げられよや(=同意の声を上げよ)」
 弁舌の巧みなものの演説に、一同が答える。
「尤(もっと)も」「尤も」
 弁舌が巧みで主張が尤もであれば、身分を問わず、そのものの意見が通る。
 厳しい身分制度に押さえつけられていた者にとっては、自己を主張できる平等な舞台だった。
 外の人間には天狗の所行と見えようとも、彼らにとっては自由の天地だった。
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 若左近は熊取村の街道を見渡したが、人の姿はなかった。
 一人暮らしの母親は恐らく、親戚の者と一緒に近くの山に避難しているに違いない。

 熊取では昔から、戦があると、年寄りは深い山の中に作られた掘っ立て小屋に避難した。ここには村のものしか知らない洞窟があり、食糧なども蓄えられている。
 これまでの戦では、数日隠れていれば、乱暴はおさまった。だが、今回の戦がいつまで続くのかは誰にもわからなかった。

 老いた母親の事が気になったが、部隊が貝塚の砦へひたすら急いでいる今、会う機会は見付けられそうになかった。
《決戦が近い事はおかあも知っていよう。最後に会えないのは心残りだが、これもさだめ。仕方がない》
 若左近は心の中で母親に別れを告げた。これが最後かと思うと、見慣れた故郷の景色が懐かしく感じられた。

 若左近らの部隊はほどなく貝塚に着いた。和泉の各地、紀州から来た一揆の集団があちこちにたむろしていた。
 貝塚の村々にも人の姿はなかった。本来なら、春の田起こしにかかるころなのに、田は草が生えたままだった。ここでもまた村人の多くは山に逃げ、若者は根来衆のこもる砦に駆り出されていた。

 若左近の部隊は畠中城に入る前に千石堀城へ寄った。ここで根来から持ってきた火縄銃五十丁と弾薬箱を渡すことになっていた。
 これらの武器は、戦に備え根来門前にある芝辻家の鉄砲鍛冶が、夜通しかけて作り上げた。弾薬は雑賀の者たちが、四国の長曾我部氏から譲り受けて舟で運んできた。

 千石堀城は近木川の左岸に連なる小丘陵の上に築かれた砦である。
 対岸の高井砦と連係して、主城の積善寺砦を守る役目を担っていた。根来の大谷左大仁らを指導者に、老若男女三千人がたてこもっている。積善寺は根来の砦の中でも、最も重要な砦であり、最強の部隊が配置されていた。

 馬に積んだ弾薬の行李を下ろす作業をしている時、若左近は遠くで十郎太の姿を見かけたように思った。
 十郎太は昨年の岸和田の戦で怪我をして、根来の本山で傷を癒していると思っていた。その十郎太が何故、ここにいるのか。すぐには理解できなかった。
 若左近は、弾薬行李を人に任せて、十郎太らしい人物の後を追った。南矢倉の下で追い付くと、それはやはり十郎太だった。

「おい、十郎太」
 後ろから、若左近は声を懸けた。
 振り向いた十郎太の顔に笑みが広がった。
「おお、若左近か。おまえ、なんでここにおる」
「根来から運んできた弾薬の行李を下ろしにきたのや。さっき、おぬしの姿を見かけたように思って、近づいてみたら、やっぱりそうやった。おぬし、怪我はもうええのか」
「怪我はもうほとんど治った。千石堀では去年の戦で怪我をしたときに、ここで手当を受けたが、縁があって、またここで戦うことになった」
「そうか。治ってよかった」
 若左近は十郎太を改めて見た。しばらく見ないうちに、十郎太の顔つきが精悍になったように見えた。

「ここは積善寺と並んで我々が最も頼りにしておる砦。敵はまずここを狙う。一番危険なところだが、ここで戦えるのは名誉なことだ。おれもできるものなら、ここに篭りたい」
 そういって若左近は周りを見た。
 堀は深く、上から落とすための石がずらりと並べられていた。これだけの大きな石を運び上げるには、相当な人数と日数がかかったことだろう。

「おぬしはどこの城にいる」
 十郎太が尋ねた。
「畠中砦におる。おれらと同じ泉南の百姓が守っているが、みな戦をしたことのない者ばかりや」
「それでは、おぬしのように戦を経験したことのある者が支えねばならん。秀吉の軍には勝てぬかも知れんが、痛い目に合わせることはできる。尾張の猿風情に名誉ある大伝法院が、やすやすとつぶされるわけにはいかんぞ」
「おれもそう思う」
若左近はうなずいた。

 二人は話しながら、歩いていった。
 板壁のそばでは、百姓の子供たちが若い行人から、槍の訓練を受けている。まだ幼い子供も交じっている。男の子供もまた大事な戦力なのだ。
「突け!」
 指導している行人の号令に合わせ、子供等が大声をあげて竹槍を突きだした。二人はそのそばを通り抜け、本丸の方へ進んだ。

「十郎太」
 後ろから若い女の声が聞こえた。若左近がふりむくと、そこに髪を短く刈った十五、六の娘が立って微笑んでいた。
 着ている小袖は、もうだいぶ擦り切れてはいるが、きれいに洗っているらしく、こざっぱりしている。健康的な褐色の顔の中で、歯が白く光っている。
「その人だれ」
 娘は十郎太に尋ねた。
「ああ、ちょうどよかった。同じ在所の者とたったいま、会ったところや。引き合わせよう」
 十郎太はそういって若左近の方を見た。
「これは俺の子供の時からの連れの若左近。去年の春に俺と一緒に熊取から出て根来の行人になったが、鉄砲が上手で、今は鉄砲組に入っている。今から畠中城へ行くそうな」
 若左近は頭をさげた。
「この子はおちか。近くの七山村の娘や。家族で手伝ってくれている。去年、俺が怪我をした時に手当をしてくれた」
 おちかも会釈した。
「百姓の中には、だいぶ逃げた者もいるのに、おちかの一家はみんな砦に入って、一緒にいてくれる」
 十郎太は感謝しているといった。

「あにさん一人を死なせられない。死ぬときは家族みんなが一緒やと、うちの家族はそう思っている。でも本心はみんなが怖がっている」
 おちかは悲しそうにいった。

 どこの砦でも、無理矢理入れられた百姓は、よく逃亡を図った。見付けられれば殺されるが、それでも脱出者はなくならなかった。

 砦の周りは逆茂木が埋められ、鉄砲を持った行人が見張っている。逃げ出したくても、逃げられないのが、本当なのだ。
 弾作りの仕事が残っているといって、おちかは行ってしまった。おちかの姿が見えなくなると、十郎太がいった。
「あの子をどう思う」
「おお。なかなかしっかりもんや。愛敬もある」
「おぬしも、そう思うか」
「おぬし、惚れているのか」
「ああ。この戦が終わったら、俺はおちかと所帯を持つ」
 十郎太はもう決めてかかっているようだった。

 日が陰ってきた。そろそろ畠中砦へ行く時刻だった。
「そんなら、わしはいく」
「お互い命を大事にしよう」
 十郎太は門まで送ってきてくれた。
 十郎太と別れ、空になった馬を引いて畠中城へ行く途中、若左近は十郎太とおちかの事を考えた。 

 二人はよい夫婦になると若左近は思う。だが、これから迎える戦の事を考えると、その和やかな気分も、たちまち凍り着いてしまうのを覚える。
《本当に、我々は生き延びるだろうか》
 大坂の方角の空に黒い雨雲が垂れ込めているのが見える。大坂は雨のようだ。
 若左近には、その雲が何か不吉な前兆のように思える。