悲劇の淡輪氏

 今度の和泉表の戦には日根野氏と同じ和泉の名門武士である淡輪氏も参加していた。

 橘氏を先祖とする淡輪氏は鎌倉時代に九条家の所領である和泉日根郡淡輪庄の下司、公文(くもん)を勤めた。公文とは、文字通り、律令制の公文書を扱う役職で、荘園の管理者を意味した。淡輪氏は、官人としての役割を担う一方で武士として鎌倉幕府の御家人にも名を連ね、公家と武家の双方に仕えて和泉南部で勢力を伸ばした。
 
 淡輪氏の本拠地は現在の大阪府岬町淡輪にあった。淡輪氏の居城は南海鉄道淡輪駅の近くにあったと推定され、一帯はいま畑となっている。
 淡輪には太古から人が定住し、住居跡や多くの古墳が存在している。紀州に隣接し、紀氏との関係が深い土地だった。紀氏の墓と見られる古墳や紀氏の先祖を祭った神社が残る。隣の阪南市には帰化人の秦氏の氏神である波多神社もある。

 「土佐日記」の中で紀貫之は任地の土佐から京へ帰る途中、海賊に脅えながら紀淡海峡を通過したことを記録している。淡輪の黒崎の松原を舟の上から見て、海事に秀でていた先祖の旧領を回顧した歌を残している。

 淡輪氏もまた水軍を持ち、四国と京都を結ぶ海運の要所を押さえたことによって繁栄した。
 鎌倉末期の元亨四年(一三二四)、洪水で壊れた京都鴨川の堤防修理費を六波羅探題が畿内の武士に課した。このとき淡輪右衛門五郎正円も、他の畿内御家人とともに二貫文を上納している。

元亨四年は途中で正中元年と改元された。九月十九日には後醍醐天皇の最初の討幕計画である正中の変が起き、天皇に荷担した多治見国長らが討たれた。
 それから九年後の元弘三年(一三三三)、後醍醐天皇に味方した足利尊氏が鎌倉幕府に背いて六波羅探題を攻めた。このとき、淡輪正円は上洛して、武士の棟梁である尊氏に味方し六波羅攻撃に参加した。

 南北朝時代は足利将軍側につき、南朝方の和田氏の拠る八木城攻めや信達庄仏性寺(現在の泉南市長慶寺の周辺)の戦などに参加した。その後、一族は二流に分かれ、嫡流の淡輪助重は和田助氏らとともに南朝側の楠木正儀(まさのり)に従い、庶流の重継ら一族が加わる北朝軍と戦った。

 淡輪氏が敵味方に分かれたのは、領地を守り、名門の家系を絶やすまいとする一族の思惑があった。淡輪氏に限らず、多くの武士は代々このようなやり方で、古代から中世まで家名を残し生き延びてきた。彼らにとっては、だれが天下を取るかより、自分たちの家名を残すことが重要だった。どちらかが生き残れば、一族は存続できる。
 
 室町時代初期、庶流の淡輪氏は日根野氏らと協力し、北朝方の和泉守護細川顕氏に味方して、井山城(阪南市)を根城に楠木氏の一族の和田氏ら南朝側と戦った。
 このころ、根来寺も同じ北朝側に属し、淡輪氏と根来寺の関係は友好的だった。

 しかし、戦国時代になると、守護細川氏と根来寺は領地をめぐって敵対する。
 淡輪氏は守護細川常有方の勢力として、根来寺とそれを支援する紀州畠山政長の連合軍と戦った。応仁の乱(一四六七〜一四七七)では、淡輪有重が細川氏に従って京都一宮合戦に参加し、戦功を挙げている。

 淡輪氏は、瀬戸内海を自由に行き来できる強力な水軍を持っていた。
 同様に瀬戸内海に勢力を張っていた真鍋氏とも血縁関係があった。永正七年(一五一〇)ごろ、管領細川高国から水軍の派遣に対して感状を得たことが記録に残っている。細川氏の没落後は三好氏に臣従した。

 戦国時代になって織田信長が勃興すると、淡輪氏は三好氏を見限り、信長側についた。
 淡輪文書には、石山合戦で織田信長が雑賀を攻めた際、淡輪氏が紀北の情勢を信長方の武将に知らせた記録がある。信長が光秀に倒され、秀吉が信長の後継になってからは、いちはやく秀吉に従った。
 淡輪氏は時代の動向をいち早く見極め、生き残ることに長けていた。

 淡輪の地は和泉の南端にあり、一向宗の拠点である紀州雑賀と、根来寺が勢力を持つ和泉貝塚に挟まれている。
 今回の秀吉の紀州出兵で、淡輪氏が秀吉方につけば、分断を恐れる紀州勢から淡輪城が攻撃を受けることは予想できた。孤立と苦戦は避けられなかったが、当主の淡輪良重は秀吉に味方することをためらわなかった。

 淡輪良重は山崎の合戦以来の秀吉の戦いぶりから、秀吉の力をよく知っていた。
《一時的に淡輪に紀州勢が侵入することがあっても、紀州勢の攻勢は長続きしない。秀吉が根来と雑賀を制圧するまで、城にこもって持ちこたえればよいのだ》
 良重はそう考えた。

 そもそも根来寺は淡輪氏にとって、自らの勢力を伸ばす上での障害だった。泉南の農民たちは根来寺の勢力に頼り、古くからの武士である淡輪氏を軽んじている。
 常々、良重はそのように感じていた。
 泉南の村から軍費にあてる年貢(半済)を集めようとした淡輪氏に、農民達は根来の行人を呼んで抵抗した。
 守護勢力の一翼として根来勢力と敵対してきた淡輪氏が、武士の利益代表である秀吉に従うのは当然だった。

 秀吉に味方することに迷いはない。ただ、気掛かりは淡輪にいる家族だった。
 堺から貝塚攻めの軍勢に加わっていた良重は、妻とまだ幼い子供達を淡輪に残していた。家臣の家族も淡輪にとどまっている。

 良重は淡輪にとどまっている家臣に対し、慎重に行動し、自分から行動を起こすことはないよう命じた。
 もし、開戦になれば、淡輪の住民の中にも紀州勢に味方する者が出るに違いない。彼らに背かれては、淡輪氏一族だけで城を守るのは難しい。
 何とか紀州勢の攻撃を避けられないものか。良重は思案を巡らしたが、よい答は見付からなかった。

 貝塚の顕如上人との関係は悪くはなかった。本願寺での行事には寄付を欠かさなかった。一族や家臣にも一向宗の信者は少なくない。

 だが、今回の戦では雑賀と本願寺教団は分裂している。強硬派の雑賀が、穏健派の顕如上人のいうことを聞く気配はまるでなかった。
 貝塚での戦が始まれば、淡輪もまた戦場になる。淡輪が中立でいられることはありえない。良重には、それはよく分かっていた。

 仮に篭城している淡輪の一族が全滅したとしても、外にいる一族は生き残ることができる。そうなれば名門淡輪氏の血脈は続く。
 良重は、子の新兵衛重利とその弟の六郎兵衛重政も今回の貝塚の戦に出兵させた。
 親子が力を合わせて、根来との戦いに勝てば、秀吉に存在を印象づけることができる。そうなれば所領は安堵され、一族はこの地に永らえることが出来る。そのためには淡輪城に篭城している家臣が、できるだけ長くもちこたえてくれる必要がある。
 淡輪一族にとっても、今回の戦は一族の命運を分ける戦いだった。

               ◇

 今回の戦で淡輪良重は、先陣を務めている羽柴秀次軍に属していた。良重は後に娘のこよを秀次の側室(小督局)にするが、このときはまだ両者に縁故関係はなかった。

 今回の紀州勢との戦での羽柴秀次の立場はきわどいものだった。前の年の小牧長久手の戦いで、秀吉方が有力武将の森長可と池田勝入の2人を失ったのは、秀次の未熟な指揮が原因だった。
 秀吉の命令に従って、急いで家康の本拠地の三河に向かえばよかったのに、途中で大局を見失って、岩崎城などという小城にこだわったばかりに、追ってきた家康軍に手痛い敗北を喫した。秀次は秀吉から厳しく叱責された。
 秀次は今回の戦に自らの雪辱をかけていた。十七歳とはいえ、すでに大軍を任せられている秀次は、指導者としての重い責任を感じていた。
《何としても小牧長久手の汚名を挽回しなければならぬ》
 秀次は焦りを感じた。

 おじの秀吉を、秀次は心から恐れている。
 秀吉の姉とも(日秀)と秀吉の近臣の三好吉房との間に生まれた秀次は、秀吉の数少ない肉親として秀吉に重用された。子供のころから賢い秀次を、秀吉はわが子のようにかわいがった。

 秀次は阿波の名門、三好康長の養子となり、三好孫七郎を名乗った。
 成人してからは和歌などの教養も身につけ、多くの公家とも交わるようになった。聡明ではあるが、神経質なところがあり、豪放磊落(らいらく)な秀吉とは本来異質な性格であった。

 秀次は秀吉の前に出ると、身が縮むような気がした。足軽から大将に昇り詰め、一族を引き立ててくれる偉大な叔父である秀吉を尊敬する一方、威圧感と息苦しい圧迫感を感じていた。
《この戦でまた、失敗するようなことがあれば、肉親であっても叔父は容赦なく自分を処罰するだろう》
 秀次の心には常に不安がのしかかっていた。この不安を払うには、戦に勝つしかなかったが、その自信は秀次にはなかった。
 
 秀次軍の案内役である淡輪良重は、不安な秀次の気持ちをよく理解していた。秀次がこの戦に勝利し、名誉を挽回できるよう、できる限り協力しようと思っていた。
 淡輪良重は聡明な秀次を高く評価していた。子のいない秀吉が秀次を頼りにしているのはよくわかっていた。
 後継と考えているからこそ、秀吉は秀次に厳しく当たっている。いくら厳しくしても、秀吉は秀次を見捨てることはしない。そう良重は思っていた。

 鎌倉幕府以来の家系を誇る名門淡輪氏も、天下を手中にしようとしている秀吉から見れば弱小の地方大名に過ぎない。
 秀吉が外様である淡輪氏を軽視していることは、秀吉の言動から見て取れた。尾張、長浜以来の大勢の家臣をかかえる秀吉に、いまから取り入ることは難しい。

 良重にとっては、秀吉より、これから出世する秀次を大事にする方が得策だった。秀次もまた力を発揮するために、新しい家臣を必要としていた。

 良重は秀次を茶席に招いて歓待した。娘のこよも茶席に出して接待させた。この茶席で、秀次は美しいこよを見初めた。
 根来との戦のころから、淡輪氏は秀次との関係を深めた。しかし、それがかえって名門淡輪氏を破滅に追いやることになるとは思ってもみなかった。

 淡輪良重はいま貝塚の砦に向かう馬上で揺られている。良重は、戦に参加している二人の息子と、淡輪にいる娘たちのことが心配でならなかった。
 堺を過ぎ、鳳神社を通ったとき良重は、下馬して拝殿に目礼し、一族の幸いを祈った。
 十年前、信長に味方して紀州攻めの先導をしたときにも、鳳大社に参ったが、その信長もいまはいない。破竹の快進撃を続けていた信長もあっけなく滅びた。この戦国の世では、だれも明日のことは分からない。名門淡輪氏がこれからも続くかどうかは、わからなかった。
 未来に不安を感じながら、良重は再び馬に乗り、軍を進めた。

                 ◇ 

 淡輪良重が秀次にかけた期待と、一族の将来に感じた不吉な予感は後に的中する。
 六年後の天正十九年(一五九一)、嫡子鶴松が三歳で夭折したあと、秀吉は甥の秀次を後継に指名し、養子として関白の職につけた。
 独裁者の常として身内以外に信頼できるものがいない秀吉と秀次の関係は、秀吉に跡継ぎができるまでは、極めてよかった。秀吉は秀次を信頼し、聚楽第を譲って住まわせた。
 だが、文禄二年(一五九三)、秀吉と淀君の間に秀頼が生まれると、おじとおいの関係は一変した。

 秀頼に天下を継がせたい秀吉は、次第に秀次を疎んじ、退けるようになる。厄介者扱いされた秀次は次第に自暴自棄となり、破滅的な生き方をするようになった。一方で秀吉は、秀次が謀反を起こすことを恐れた。
 文禄四年(一五九五)七月八日、秀次は秀吉の怒りに触れて高野山に追放された。直ちに切腹を命じられ、一五日に命を絶った。まだ二十八歳の若さだった。
 秀次は、罪もない人を殺して世間から「殺生関白」と恐れられたといわれている。秀次は自分を排除しようとする秀吉の圧力に心を病み、常軌を逸したのかも知れない。

 月花を心のままに見つくしぬ なにか浮き世に思ひ残さむ

 風流を愛した秀次らしい辞世の歌である。秀次は従容として死を受け入れた。しかし、無残だったのは何の罪もない秀次の妻や子供だった。
 八月二日に謀反のみせしめとして秀次の妻妾、子供が三条河原で殺された。秀次に嫁していた淡輪良重の娘で重政の姉のこよ(小督の局)も処刑された。秀次との関係を問われて淡輪氏の所領も没収された。

 秀次に次女の駒姫(お伊万の方)を嫁がせた最上義光は、京に着いたばかりの駒姫が殺されたと聞いて、茫然自失となった。駒姫はまだ十五歳だった。
 このほか、もと秀吉の側室でもあった菊亭晴季の娘の一の台の局も殺された。秀吉が関白になったころ実家に帰ったが、北野大茶会で秀次に見初められ、側室になったのが不運だった。

 このときの処刑の様子は、見聞した人達によって言い伝えられている。 竹矢来で囲まれた処刑場の中心に穴が掘られ、前に敷かれたござの上に、秀次の妻妾、子供が座らされた。半月前に切腹した秀次の首が台の上に据えられていた。
 秀次の首に向かって涙を流しながら念仏を唱える女性たちを、むくつけき荒くれ男たちが引っ立て、穴の前に座らせて一人一人刀で首を切り落とした。母に取りすがって泣く子供を、男達が母から引きはがして刺し殺し、穴に捨てたという。その非道に怒って抗議した他の女房たちも無残に切り殺された。矢来の外で見ていた民衆は、あまりの悲惨さに涙を流し、中には卒倒する者もいた。秀吉の残虐さを見せ付ける惨劇だった。

              ◇

 他人に加えた悪虐は必ず、自らに跳ね返る。
 秀吉には、頼るべき一族の人間がいなくなった。秀吉の妻の淀君と子の秀頼が、大坂夏の陣で、大坂城とともに炎の中に滅びたのは、このときの秀吉の行為に対する人々の憤り、神仏の怒りが秀吉を罰したともいえるだろう。

 伊達政宗ら秀次とつながりのあった大名も、秀吉から謀反の疑いをかけられ、石田三成らの尋問を受けた。
 大名たちは秀吉が関白を秀次に譲った以上、関白に忠誠を尽くすのは当然と考えた。だが、秀吉はそれを自分に対する反逆と受け取った。伊達政宗は陰謀を示す証拠の文書を自分の書いた物ではないと弁明し、あやうく難を逃れた。秀次後見役の前野長康・景定父子は自害した。

 京都三条の高瀬川沿いの瑞泉寺には秀次と妻妾、子供の墓がある。
 処刑から十六年後の慶長十六年(一六一一)、高瀬川開削中の角倉了以が秀次らの石塔を見付け、寺を建てて供養した。
 何のとがもなく権力者によって若い命を断たれた女性達の辞世の歌が残っている。死を覚悟して仏にすがるけなげさが、胸を打つ。

 罪をきる弥陀の剣(つるぎ)もかかる身のなにか五つの障りあるべき

 駒姫の辞世の歌である。
 無実の罪を着せられながら、仏の慈悲で成仏の障害を切り抜け、極楽に生まれ変わりたいという悲痛な願いが込められている。

 秀吉と秀次の確執は、結局は権力をめぐる抗争だった。秀吉がなお実権を握っている中、関白としての秀次の役割は朝廷との交渉役だった。大名への官位授与などでは秀次が権限を持たされていた。大名たちは必然的に秀次に近付き、それが秀頼の将来を心配する秀吉の神経を逆なでした。自分の子かわいさに、秀吉は罪もない女性や子供まで殺戮した。

 かつて源頼朝と弟の義経が争ったように、また足利尊氏と弟直義が対立したように、二重権力状態は必ず破綻する。
 たとえ一時は関係がよくても、二人が権力の掌握をめざすようになると、取り巻きは分裂し、必ず不和が生ずる。権力の持つ魔力の前には、肉親の情も簡単に捨て去られる。

 秀次の謀反の疑惑に連座して、淡輪家は先祖伝来の土地を失った。嫡流淡輪良重の子の重政はその後、小西行長の家臣となった。その小西行長も慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の合戦で滅び、重政は再び浪人となった。
 元和元年(一六一五)の大坂夏の陣が起きると、重政は豊臣秀頼に招かれて大坂方の大将となった。

 同年四月二十九日、大坂から紀州に南下した重政ら大坂方の軍勢は、徳川家康に味方して大阪に向かっていた紀州の浅野長晟(ながあきら)軍と樫井(泉佐野市)で交戦した。
 激戦の末、大坂方は二万人の死者を出して敗退した。淡輪重政は塙(ばん)直之(塙団右衛門)とともに戦死した。塙団右衛門は槍のつかの折れるまで戦ったが、ついに打ち取られた。この戦の敗北は、大坂方の後の戦局に大きな打撃を与えた。

 淡輪重政の兄の重利は、後に紀州浅野氏や柳川藩に仕えたが、淡輪家の所領はもはや戻らなかった。中世以来続いた名門淡輪氏の栄光はここに消えた。

               ◇

 秀次とその妻子の処刑の後日譚として、淡輪氏につながる一人の女性の悲話がある。
 淡輪良重の娘こよ(小督の局)と豊臣秀次の間には、阿菊(おきく)という娘が生まれた。阿菊の誕生から十三日後の文禄四年(一五九五)七月十五日、父秀次は高野山で切腹した。
 秀次の正室、側室、子供ら三十九人は、八月二日に京都三条河原で処刑された。阿菊の母の小督の局こよも三十一歳の若さで殺された。
 秀次の妻子が皆殺しにされる中で、生まれて一か月足らずの阿菊だけは、さすがに秀吉も殺すにしのびず、一命を助けた。
 阿菊は、母の在所の淡輪庄波有手(ぼうで)(阪南市)に住む、祖父淡輪良重の甥の後藤興義に預けられた。
 生後すぐに両親を失った阿菊は、みなしごの運命を哀れむ親戚に大事に育てられて成人した。元和元年(一六一五)四月、紀州名草村の代官の子、山口兵内朝安に嫁いだ。

 しかし、阿菊の幸福は長くは続かなかった。
 結婚と同時に大坂夏の陣が起こった。淡輪、後藤、山口家は西軍に属した。阿菊の夫、山口朝安は結婚五日目で大坂城に入った。
 夫の留守中、紀州山口の城の周囲は敵の浅野方の兵であふれた。
 阿菊はしゅうとに命じられ、紀州から大坂城攻撃に向かう浅野軍の動きを大坂方に知らせるため、農婦に身をやつして囲みを脱出した。
 大坂城にこもる夫の山口朝安に会って、浅野軍を南北から挟撃する計画を伝える手筈だった。
 阿菊は紀泉の国境にある風吹峠から尾根伝いに大坂に向かった。途中、信達庄の納経山の松の大木の下で、大切にしていた長い髪を切り、男に身を変えた。
 切った髪は松の根元に埋めた。そこから敵の充満する遠い道を何日もかけ、密書を大坂城に届けた。

 役目を果たした阿菊は、大坂城での夫との再会もそこそこに、しゅうとに首尾を報告するため、大阪城を出た。
 急いで紀伊に帰る途中、阿菊は大坂城が落城し、夫が死んだとの知らせを聞いた。
 阿菊は波有手の実家に身を隠したが、やがて家康方に探索され捕えられた。
 当時の戦では女が殺されることはなかった。しかし、阿菊は自ら死を願い、元和元年(一六一五)六月六日、紀川南穂村の河原で処刑された。まだ二十歳だった。
 夫山口朝安は大坂城で、伯父淡輪重政と養父後藤興義は樫井川の戦いで戦死した。

 実の父母と夫を殺され、自らも処刑された阿菊は、幸薄い女として人々の同情を集めた。
 泉南市信達の納経山には、阿菊が変装した際に、切った髪を根元に埋めたという「阿菊松」がある。
 もはや松は枯れて残っていないが、碑文が戦国の女性の悲劇を伝えている。養家のあった波有手の法福寺(阪南市)には、阿菊の墓が残っている。

 父母を殺した秀吉の子の秀頼を助けるために、阿菊が命を捨てなければならなかったことは、淡輪氏の人々にとっては皮肉だった。名門の家名を残す努力は報われなかった。