根来行人の部隊は風吹峠を越えて、金熊寺(きんにゅうじ)の集落に入った。
ここには集落の名前のもとになった古刹の金熊寺がある。
山あいを流れる川沿いの狭い平地に建てられた寺は、小規模ながら由緒ある寺として、この地方ではよく知られていた。天正のいまは根来寺の末寺となっている。
寺伝によれば、金熊寺は七世紀の末に行基によって造られ、役小角(えんのおづぬ=役の行者)が吉野金峰山と熊野権現の名前から一字ずつとって金熊寺と名付けた。
鎌倉時代末期の正安元年(一二九九年)に回禄(火災)で全焼した。だが、本尊の如意輪観音は奇跡的に無事だった。
寺は火災から十三年後に再建された。
応長二年(一三一二)三月二十八日、再建なった金熊寺本堂の仏前に僧侶たちが願文を供えた。
「泉州信達庄堂供養願文一首
造立し奉る三間四面の精舎一宇
安置し奉る大聖如意輪霊像一体
右の尊像は当寺の本仏なり。白鳳十年三月十七日夜、役行者夢中に奇光の瑞を見る。覚めて後、霊明の後を尋ねれば、即ち六寸金銅の像を得たり。けだし(=思うに)これ行者前世の本尊、そもそもまた衆生末代の導師なり。行者手ずから自ら四寸の木像をつくりて彼(か)の尊容を納め、一宇の草堂を構え、この霊像を安んず(=安置した)。(中略)ここに去る正安元年正月二十八日、いささか更難(災難=火災)ありき。霊像火難を免(まぬが)る。不思議の基なり。(中略)
重ねて造営の巧(たくみ=寺大工)を励ますといえども、漸く(ようやく=しばらく)計略なし。いまだ供養の儀をきよめることあたわず。しからば満寺心を同じくして一庄力を合わせて(中略)敬って敬白の誠を致し、もって供養す。(中略)まことにこれ感応(かんのう=信心が神に通じる)の時に至り、成就の期を催すものか(中略)同心合力の諸人来り入りて結縁の大衆、一切の願望一時に満足せんのみ。(中略)
州民繁盛して田園の業いよいよ盛んなり。すなわち三千世界の含識(有情=衆生)に至り、二十五有(=流転する三界)の衆生あまねく無差の慈雲を喜び、同じく平等の法雨を注(そそ)がん。金熊寺衆徒等敬白」
格調高く書かれた願文には、念願の堂再建を果たした喜びがあふれている。完成式に集まった聖俗の人々が心から復興を喜んでいる様子が目に浮かぶようだ。
当時、信達庄にはまだ根来寺の勢力は及んでおらず、山岳宗教の寺である金熊寺が人々の精神世界に大きな影響を与えていたことが伺われる。
寺の開祖といわれる行基は、天智天皇七年(六六八)和泉大鳥郡峰田郷家原(堺市)に百済系渡来人の両親の子として生まれた。
官寺に入って法相学を学び、摂津、河内、和泉を中心に仏教を広めた。信者とともに池や溝、道や橋をつくり、貧民救済に尽くした。
信達庄にある会宮池(かいぐういけ)もまた、行基が作ったといわれている。巨大な貯め池は土地の豪族である紀氏がその経済力と技術力を使って作らせたともいわれる。池の水を利用した稲作で莫大な富を蓄積した紀氏は会宮池のほとりに仏塔を持つ海会寺(かいえいじ)と、そのそばに役所を建て、この地を支配した。
行基の施した慈善行為は多くの人を救い、仏教の普及を進めた。当時の貧しい人々にとって行基の行いは、まさに観音の菩薩行だった。
行基は偉大な宗教家であると同時に福祉活動家でもあった。
その後、金熊寺のある信達庄は、南北朝時代に足利尊氏から根来寺に寄進された。これに伴い、金熊寺も根来寺の末寺となった。信達庄と根来寺との境にあり、根来への参詣客らは必ず、ここに足を止めて、如意輪観音に詣でた。
◇
若左近たちは金熊寺川に沿った道を下っていく。
川の両側の田には、昨年の稲の切り株が残り、株から芽吹いたひこばえ(=孫生)が風に揺れていた。
川沿いの道端には大きな柿の木が何本も植えられている。すでに収穫を終えた柿の木には取り残された実がわずかに残っている。柿の枯れ葉が寒々と風に飛ばされている。
和泉山脈に水源を持つ金熊寺川の水は清く澄んでいる。収穫量は多くなかったが、川沿いの田からは良質の米がとれた。
ここはまた、梅の名所でもある。集落の至るところに梅の木が植えられている。梅は保存食として高値で売買され、貴重な現金収入として住民の生活を支えていた。南向きの山の斜面では、夏蜜柑の木も植えられている。
若左近も根来に来てから、一度仲間の行人とともに金熊寺に保存用の梅の買い付けに来たことがあった。
買い物を済ませたあと、農家の老婆がもてなしに茶と干し柿を出してくれた。白い粉を吹いた干し柿は甘く柔らかかった。
あのころはまだ根来にも余裕があった。和泉や大和での戦はあっても、紀北が戦場になることはほとんど無かった。だが、わずか数年で事態は大きく変わった。
いま目の前に見える金熊寺の山門の前には、根来から派遣された鎧姿の行人が長刀と鉄砲を持って立っている。
山門の上にも数人の行人が上がり、通りや山を見張っている。秀吉方の間者を警戒しているのだ。
戦前夜のような張り詰めた空気が集落全体に漂っていた。
金熊寺を過ぎると、間もなく部隊は信達庄の中心地、御所村(市場村)に入った。ここは熊野街道の宿場町で、市場村の名の通り定期的に市が開かれている。
昨年、岸和田に出陣したときに若左近たち行人を盛んに迎えてくれた村人たちも今回は姿を見せなかった。
攻め戦だった岸和田の戦いとは異なり、今回は明らかに守りの戦だった。秀吉軍の強さはだれもが知っていた。
恐らく今回は根来が苦戦するだろう。そう考えた村人たちは戦火に巻き込まれぬよう、家財をまとめて山の中に避難した。
若者は根来寺のために駆り出されて貝塚の諸砦を守っている。集落には年寄りの姿ばかりが目立った。
◇
信達庄には鎌倉時代、信達源太を名乗る鎌倉幕府の御家人がいたという記録が残っている。源太という名前は、源氏の家系の長男を意味している。派遣された御家人が定住したのかも知れない。
しかし、信達氏はその後没落し、以後は地元には有力な武士が育たなかった。室町時代以降は根来寺の子院が直轄支配し、有力農民が村をまとめていた。
信達庄の中心にある御所村には、かつて後白河法王や後鳥羽上皇が熊野詣の途中で宿泊したという記録が残っている。御所村の名前は天皇の行在所(あんざいしょ=仮御所)があったことに由来している。
平安末期から熊野詣の宿としてにぎわった信達庄は多くの貴賎の人々が通過した。
平治元年(1159年)12月、院近臣らの対立から平治の乱が起きた。藤原信西と結んで権勢を誇る平清盛が熊野詣に出たすきを狙って藤原信頼、源義朝らが後白河上皇を軟禁し、三条殿に火をかけた。
旅先で異変を聞いた清盛はただちに引き返した。紀泉の境の鬼の中山というところまで戻ったところで、都からの早馬に出会った。清盛らは追手と思い身構えたが、早馬は味方とわかり、安堵した。鬼の中山は現在の泉南市である信達庄の雄山(おのやま)峠のことだといわれる。
清盛らは帰途、大鳥神社で戦勝を祈願した。その後、京に入り、二条天皇を六波羅に移して権力を掌握した。追討される立場に回った義朝は子供の朝長や頼朝らと逃げたが、途中で朝長、頼朝らとはぐれた。義朝は知多まで落ち延びたところで、地元の家臣の長田(おさだ)忠致に裏切られ殺された。
捕えられた源頼朝は命を許され、伊豆に流された。その後、北条氏の後ろ盾を得て決起した頼朝は、父のあだを討って平家を倒し、建久三年(一一九二年)、鎌倉幕府を建てた。それから九年後の建仁元年(一二〇一)十月、後鳥羽上皇は熊野参拝の途次に信達庄に宿をとった。
「新古今和歌集」の編纂で知られる近臣の藤原定家もこのときの行幸に参加した。定家は道中の出来事を記録した「後鳥羽院熊野御幸記」を残した。
御幸記によれば、十月一日に京都を出発した一行は、船で淀川を下って住吉神社に参拝し、熊野街道を通って七日に信達宿に到着した。
定家は馬で先行し、途中出会った琵琶法師に物を与えている。平家が滅亡して十年後であり、平家物語は恐らくまだできていなかったから、この琵琶法師は、すでにできていた保元物語や平治物語など他の軍記を語っていたのかも知れない。
著書「明月記」の中で「紅旗征戎(こうきせいじゅう=戦)我が事にあらず」(=自分の関知するところではない)と書いた定家は、戦乱の絶えぬ時代にも、風雅の道をひとり追求していた。
後鳥羽上皇に先行していた定家は籾井(もみい)王子社(泉佐野市)で上皇の一行を待った。やがて上皇が到着した。里の者が神楽を舞い、白拍子が舞を奉納した。
相撲三番が行われたあと、一行は再び熊野街道を進み、次の厩戸(うまやど)王子(泉南市)に着いた。ここがその日の宿だった。上皇の御所は厩戸王子の近くにあり、和泉の国が建物を提供していた。御所といっても、茅葺きの間口三間の質素な小屋である。
夕方、宿所で歌会が催された。
「次第に降る(=徐々に降りつのる)雪の先」の題が出され、上皇はじめ、供奉(ぐぶ)の人々がそれぞれの歌を披露した。和歌が好きで、「新古今和歌集」をはじめ数々の勅選和歌集を作らせた後鳥羽上皇は自らも歌を詠み、上機嫌で人々の歌に聴き入った。
歌会に召された定家もこの席で、二首の歌を詠んだ。
いろいろの木(こ)の葉のうへに散り染めて雪は埋(うず)ますしののめ(=明け方)の道
(様々な色の木の葉が散り染めた雪が明け方の山道を埋めている)
袖の霜の影うちはらふ深山路(みやまじ)もまだ末遠き夕月夜かな
(袖に光る霜を払いながら歩む山の道は、まだ目的地までは遠い夕月夜である)
深い山の道を歩む旅人を歌った作品は、いかにも新古今風で、定家好みの幽玄味が感じられる。
宮中の「歌会」で題を元に詠まれる歌は、万葉集のような写実性や体験に基づく生の感動は薄れ、想像力を働かせた情景描写が強くなる。必然的に歌は内省的で象徴的、技巧的なものとなり、それが新古今集の歌風につながった。
八日の朝、一行は信達の宿をたって一之瀬王子に参り、熊野に向けて出発した。
このときの熊野詣から二十年後の承久三年(一二二一年)、四十一歳になった後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を出して鎌倉幕府打倒に立ち上がった。しかし決起はわずか数日で鎮圧され、上皇は隠岐に流されて、その地で崩御した。
後鳥羽上皇は生涯に二十八回も熊野詣を繰り返したといわれている。熊野詣を重ねたのは、熊野信仰のためだけでなく、熊野神社を初めとする紀州の寺社や地侍を味方につけるための工作活動ではなかったかとも考えられる。
後鳥羽上皇の一行は熊野に滞在し各地の社に詣でた後、帰路についた。十月二十四日には再び信達宿に一泊した。翌二十五日信達宿を出発し、大鳥居(堺市鳳神社か)の小家で食事をとった後、その日のうちに住吉に至っている。
定家が後鳥羽上皇から新古今集の編纂を命じられたのは、この旅行の直後の十一月三日のことだった。定家は二千首を選んで上皇に献じたが、上皇はすべての歌をそらんじたという。
◇
その後三百五十年たった天正年間にも、熊野街道はなお熊野神社に詣でる信仰深い人々が行き来していた。かつて天皇や貴族の宿泊に使われた旧家はいまも、信達庄に残っていた。熊野街道沿いにある、信達庄の中心の市場村では、岡田の港に揚がった魚や、根来の門前町から運ばれた塗り物などを売買する定期的な市が開かれて、にぎわっていた。
信達庄は四国から京都に上る南海道の宿場でもあり、和泉では繁栄した町だった。しかし、いまはひっそりとして、置き去りにされた犬や猫の姿しか見えなかった。戦の暗雲が街道と田畑を覆っていた。
信達牧野にはまた、金熊寺と並ぶ古刹の林昌寺がある。
林昌寺もまた行基の創建といわれる。「法林繁昌之霊地 鎮護国家之道場」が、その名の由来で、聖武天皇の天平時代に勅願で建立された。多くの堂塔を構え、熊野詣の途中の歴代天皇、貴顕が参拝した。
当初は温泉山林昌寺といわれていたが、堀川上皇が平安時代の寛治年間(一〇八七〜一〇九四)に熊野に行幸された折り、境内の躑躅(つつじ)の見事さに感動し、躑躅山の名を賜ったとされている。
学侶方の三院と行人方の六坊からなり、多くの学僧と行人を抱えていた。
林昌寺も金熊寺と同様に、今は根来寺の末寺となっていた。根来の行人が出張して、林昌寺の行人に加勢して山門を守っている。山門の上には楯が並べられ、楯と楯の間からは銃を持った行人の姿が見えた。
信達庄の北には三谷庄がある。ここは新家(しんげ)庄とも呼ばれ、室町時代の明徳三年(一三九二)、正長年間(一四二八〜一四二九)、応永二五年(一四一八)に新しく開墾された荘園と伝えられている。 谷川をせき止めて池を造り、原野を切り開いて耕地にした。奈良吉野から移住してきた橘氏が井手先氏と名を改めて、開墾を指導した。
新家の古刹、日輪山清明寺に伝わる「代々記」によれば、この土地の住人は長く飢饉、災害、戦争に苦しめられた。
室町時代の元中二年(一三八五)の夏は、大旱魃(かんばつ)が続き、新家一帯の作物は大きな被害を受けた。文明四年(一四七二)にも大旱魃と飢饉が起き、秋には台風に襲われた。すでに、このころ和泉南部に勢力を伸ばしていた根来寺は、救援のために米二十石と五十金を贈った。
文亀元年(一五〇三)夏、またしても大旱魃が起き、根来寺大伝法堂で雨乞いの祈梼が行われた。天文一〇年(一五四一)には台風で多くの家屋が倒壊し、人命が損なわれた。
まことに農民の暮らしは災害との戦いだった。そのうえ、長い間続く戦乱が農民を苦しめた。
新家の常福院は住職の恵林が三好一族の家臣松永弾正に加担して、本寺である根来寺に反逆したことから、元亀二年(一五七一)、根来衆と雑賀衆の連合軍によって焼き打ちされた。このとき、寺の周囲の民家も焼き打ちにあった。
新家の村人たちは、戦のたびに巻き添えになり、被害を受けた。家が焼かれるのはまだしも、戦に巻き込まれて命を失うものもあった。
今回の根来と秀吉との抗争にも、新家の住人たちは否応無しに巻き込まれた。
今回の秀吉の和泉出兵では、秀吉軍が根来領内の民家をすべて焼き払うとの噂が飛び、老人や女子供は奥山に隠れた。しかし、十五歳以上の男子はすべて、南山(根来寺)に歩力(労働奉仕)しなければならなかった。
若左近の同宿にも、新家庄の出身者は大勢いた。彼らは新家を通る途中、家族がどうなったかを知りたがっていた。しかし、村には人の姿はなく、ここでも放置された犬が、うろついているだけだった。
三谷庄の北には樫井川を隔てて日根野庄が続く。若左近たちは、黙々と貝塚の砦に向けて先を急いだ。
◇
日根野庄(泉佐野市)の一帯は、その名の通り、かつては日根野という広大な原野だった。
日本後紀によれば、延暦二三年(八〇四)十月、桓武天皇が日根野の熊取野で狩りを催したという記録が残っている。
文暦元年(一二三四)、関白藤原道家を祖とする九条家の荘園として日根庄が成立した。九条家は代々、摂政関白を輩出している有力貴族である。
原野ばかりだった日根野庄を、九条家は開墾して広げた。
南北朝時代、和泉南部の土豪は、河内和泉に勢力を持つ楠木氏の影響を受けて南朝方につくものが多かった。やがて北朝の足利方が南朝を圧倒すると、和泉は足利氏の一族で四国を本拠とする細川氏の支配下に入った。北朝方に味方して信達庄を得た根来寺も和泉に進出し、和泉は細川氏と根来寺の支配権をめぐる抗争の場となった。
やがて四国での細川氏の家臣だった三好氏の勢力が主家を圧して強大になり、三好氏と根来寺が争うようになった。
足利幕府の力が衰え、もはや土地争いの仲裁をする権威は存在しなくなった。いわば権力の空白状態が全国各地で生まれていた。
武士たちは荘園の所有者を無視して、百姓からの年貢の半分を軍用費(半済)として収奪した。都に住む領主たちは権益を脅かされて困窮し、年貢の確保に頭を悩ませた。
日根野庄も、日根野氏ら地元武士に侵食されて九条家への年貢が滞るようになった。危機感を抱いた領主の前関白、九条政基(まさもと)は文亀元年(一五〇一)、自ら日根野庄に下向し、荘園としてわずかに残っていた入山田村と日根野村から直接年貢を徴収しようとした。
政基は日根野の入山田村にある長福寺を住居に定め、ここで荘園の直務(じきむ=直接)支配を始めた。
政基の滞在した長福寺の近くには泉南最古の寺、無辺光院(現在は慈眼院)がある。直務支配を始めるにあたって、政基は無辺光院に詣でた。
無辺光院は、樫井川の水の神を祭るともに、一帯を開発した帰化人の日根造一族の祖先を神とする大井堰神社(日根神社)の隣にある。
無辺光院は天武二年(六七三)に天武天皇の勅願寺として創建された。天平時代には寺領一千石を加えられ、聖武天皇の勅願寺となった。
鎌倉時代につくられた多宝塔(国宝)は、石山寺、高野山金剛三昧院のものと並び日本三名塔の一つと称せられている。
政基は入山田村での生活に入ると、すぐに無辺光院を訪れ、庭に入った。
優美さが京にも知られていた多宝塔は木立に囲まれた庭の中にひっそりとたたずんでいた。
軽やかな弧を描く二層の桧皮葺きの屋根を持った小振りの塔は、均整が取れ、静かな気品にあふれている。塔と金堂の周りの土には緑の苔が美しく生え、周りの木々と調和している。
政基は都から遠く離れた辺境の地に、このような端正で典雅な塔が建っていたことに少なからず感動した。
花の都から離れ、わずかな従者とともに辺地ですごさねばならない。優雅さとは無縁な、これからのわびしい年月を思って滅入りがちな気持ちが、わずかに慰められる気がした。
翌文亀二年(一五〇二)八月三日、政基は田舎暮らしのわびしさを次のように書き残している。
「朝から雨が降ってきた。山里暮らしの感情は筆舌に耐えない。鹿の鳴き声は枕近くに聞こえ、猿の声は憂いを催す。滝の響き、嵐の音、寺の鈴、ほら貝の音は夢を破る」
慣れぬ田舎暮らしをこぼしながらも、政基は守護方と根来寺の抗争のはざまで揺れる村の経営に努力した。
政基は村人に対して、守護方、根来方の両方に味方しないことを約束させ、中立を保とうとした。
長福寺にほど近い土丸城には、守護方の兵がたてこもり、夜はかがり火を燃やし、ほら貝を鳴らして根来方を威嚇した。これに対し、根来の行人は守護方に味方した集落から女を連行して人質にし、身代金を求めた。
永正元年(一五〇四)四月、根来方の信達衆二百人が海岸にある守護方の村、佐野を焼き討ちした。
守護方も応戦し、双方合わせて数十人の怪我人が出た。同年七月になって、ようやく根来方と守護方の和解が成立した。
双方が年貢を折半することで折り合い、戦火は止んだ。
守護と根来寺両者の合意は日根野の農民にとって、負担が増えることになるが、それでも争いはやんだ。政基はようやく手にいれた平和を喜んだ。
しかし、政基の直轄経営の努力は結局のところ報われなかった。四年間の滞在ののち、永正元年(一五〇四)、政基が入山田村を去ると、日根野庄は再び根来寺と守護方の抗争の場となった。
最終的には鉄砲を多く所有する根来寺が守護方を圧し、日根野庄は根来寺の支配下に組み込まれた。
◇
守護方に属した和泉の在地武士のうち、戦国時代まで生き延びたのは日根野氏である。
古代に日根野の原野を開拓した新羅系帰化人の日根造の子孫といわれる。もとは中原氏と称していたが、後に土地の名を取って日根野氏と姓を改めた。
鎌倉時代に日根野庄の庄司として勢力を伸ばし、南北朝時代は南朝の勢力が強い和泉南部で、終始北朝側について戦った。
南朝が没落し、和泉守護に足利氏の一族である細川氏がついてからは、細川氏の被官となった。
日根野氏と同様に北朝に味方し、信達庄を拠点に和泉に進出した根来寺は、応仁の乱後の混乱の中で、ますます強大になった。根来寺は紀州の畠山氏と結んで、各地で細川氏やその家臣である三好氏と争った。
日根野氏は細川家や三好家について根来衆と戦を繰り返した。しかし、九条政基が日根野に下向したころから根来衆に圧迫されるようになった。かつては守護方が支配していた日根野もまた、根来寺の勢力圏に組み込まれた。
根来寺との抗争に敗れた一族の日根野九郎左衛門尉は、移住を決意した。和泉守護細川氏の斡旋により、美濃に移住し、美濃斎藤氏の重臣となった。美濃での日根野氏の居住地は、本巣郡本田(岐阜県瑞穂市)あるいは厚見郡中島(岐阜市)という。
九郎左衛門の子の日根野備中守弘就(びっちゅうのかみ・ひろなり)は斎藤氏の家老にまで昇った。斎藤道三に仕え、土岐頼芸の追放に功績があった。その後、斎藤義龍に仕え、義龍が弟を殺害したときも義龍に加担した。安藤守就、氏家卜全、稲葉一鉄ら斎藤家の重臣が信長に寝返る中で、最後まで斎藤家に従い、永禄六年(一五六三)には美濃に攻め込んだ織田方の森長可・柴田勝家軍を撃退した。
伊勢長島の戦いでも、弘就は同盟していた一向宗側の足弱衆(女子供)を運ぶなど活躍した。しかし、斎藤家が没落したため、弘就は一時、駿河の今川氏真や近江の浅井氏を頼った。
やがて、信長が斎藤氏に代わって美濃を支配すると、時代の変化を悟った弘就はついに旧敵の信長に服した。
信長のもとで弘就は数々の戦功をあげた。天正四年(一五七六)の第二次石山合戦で、信長が天王寺の本願寺門徒や雑賀衆を攻めた際は、弘就も戦いに加わった。弘就はこのときの戦況を伝える手紙を、和泉日根野庄に住んでいた本家の日根野孫次郎にあてて書いている。
信長の死後、弘就は弟とともに秀吉に臣従した。天正十二年(一五八四)の小牧長久手の戦いでは、家康のいる小牧山に対峙する二重堀砦を兄弟で守った。ここで家康の攻撃に遭い、多数の死傷者を出したが、城は守った。
弘就にとって根来衆は先祖の仇であり、自分達の代々の土地を奪った憎むべき宿敵だった。今回の秀吉の和泉出兵にも弘就は、自ら積極的に参加し、父祖の地、日根野に隣接して根来衆が築いた貝塚の砦を攻めようとしていた。
この和泉の戦いに勝てば、父祖の地が戻ってくるかも知れない。
弘就は先祖が祭られている日根野の古刹、無辺光院に戦勝報告する自らを想像した。
まだ幼かった三十年前、父と本家を訪ねたとき、先祖が築いた土丸城の近くに行ったことがあった。城は根来衆が占拠し、頂上に登ることはできなかったが、弘就はいつか自分の手で奪回することを誓った。
祖先は自ら開墾した土地を貴族に寄進して荘司の地位を獲得した。無辺光院の多宝塔もわが祖先が作ったものだ。
由緒ある日根野の家名を揚げるのは、自らに課せられた義務である。
そのように弘就は考えていた。
弘就は自ら実戦向きに考案した朱塗りの日根野兜をかぶって、秀吉軍の隊列に従った。