真鍋貞成

 岸和田城には、去年の紀州勢との争いで奮戦した中村孫平次一氏が、大坂城からの応援の兵とともに篭っている。
 岸和田は、鎌倉幕府を倒して河内・和泉守護となった楠木正成の甥の和田高家が建武元年(一三三四)に城を築いた。和田氏の本拠地の堺の和田と区別するため岸の和田と呼んだのが、地名のいわれという。

 岸和田と周辺の豪族は楠木氏と結びついていた。隣接する貝塚(貝塚市の和泉橋本付近)は、楠木正成とともに湊川の戦で死んだ楠木氏一族の橋本正員(まさかず)の出身地である。

 楠木氏が滅んだあとの岸和田は和泉南部を支配する要地として、山名、細川、三好氏らが居城にした。細川、三好時代になってからは、対立する根来衆の攻撃を何度も受けた。

鎌倉時代以降、全国各地に置かれた守護と、古代からの荘園主である貴族や寺社は土地の権益をめぐってしばしば争った。武力を持たない貴族は守護に土地を奪われたが、武士に劣らぬ武力を持つ寺社は抵抗した。

 伊勢神宮の領地も伊勢守護の仁木義長(足利氏の一族)の侵略を受け、神宮は朝廷に訴えている。大平記によれば、義長が伊勢神宮の神領で漁や狩をするなど殺生をして嫌がらせをしたため、怒った神官五百人が「義長を蹴殺したまえ」と神に祈って呪詛した。しかし、義長はしぶとく生き残ったという。

 和泉でも南部を支配する根来寺は、北部を押さえる細川、三好ら守護側と土地をめぐって抗争を繰り返した。

 信長上洛後は信長配下の堀久太郎、桑山修理らが岸和田に入城し、和泉国衆を支配下に置いた。信長が死んだ後は、秀吉子飼いの中村一氏が城主となった。

 岸和田城の海に面した西側は石垣が張り出し、残る三方は石垣と深い堀で海陸からの攻撃に耐えられるよう縄張りされている。淡路や四国にも近く、紀伊水道の制海権を持つ雑賀衆を牽制するに重要な場所だった。

                  ◇

「小西殿」
 陸の方角を見ていた行長の後ろから声が聞こえた。
 行長が振り返ると、船倉への入り口に真鍋貞成が立っていた。
 貞成は自らの水軍を率いて行長の指揮下に入り、今回の紀州攻めに加わっている。まだ二十歳を少し過ぎたばかりの若さだった。
「きょうは海が荒れております。波がかかりますので、どうぞ中へお入りください」
 貞成は丁重に注意を促した。
「真鍋殿。よいところへ来られた。岸和田城を探していたのだが、あいにく霧に邪魔されてよく見えぬ。どの方角だろうか」
 行長は、もやっている陸の方を見ながら、尋ねた。

「岸和田城はすでに通り過ぎました。いまはもう、あのあたりでございます」
 貞成は舟の左手を指差したが、そこは雲が厚く垂れ込め、何も見えなかった。
「和泉を支える岸和田城を見たいと願っておったのだが、運が悪い」
 行長は残念そうにいった。

「先の紀州勢との戦で岸和田城は無事持ちこたえたが、今度も支えられるかどうか。今回は紀州勢も倍以上の軍勢を出している」
 行長は率直に不安を口にした。

 昨年の紀州勢の岸和田城攻撃の際、貞成は中村一氏の配下に属して戦った。土地に精通した貞成は、敵を袋小路に誘い込んで打ち破り、紀州勢撃退に大きな功績をあげた。だが、今度もうまく行くかどうか。行長は危ぶんでいた。

「心配はご無用です。先の戦では、小牧に兵を出したため、岸和田城には少数の兵しか、残っておりませなんだが、今回は大坂からの後詰めも十分と聞き及びます。全く心配はないかと存じます」
 貞成は自信にあふれていった。

 真鍋氏はもともと、瀬戸内海にある笠岡諸島の真鍋島を根拠地にして瀬戸内一帯に勢力を張った一族だった。「真鍋の姓は眼部(目の部)に由来し、もともと目に関係する仕事をしていた古代の部の民」という説もある。
 源平の水島合戦で真鍋一族は平家側について敗れた。没落した子孫は和泉、紀州白浜など各地に別れた。貞成の先祖は和泉淡輪(たんのわ)に住みつき、代々、海運と海戦を業とした。

 永禄年間に畿内に勢力を伸ばした信長に服属したあとは、その命令に従って泉大津に移住した。秀吉が大坂を支配してからは、岸和田の中村一氏の配下となった。
 後に秀吉が天下を統一した後は三千石の所領を与えられ、蜂須賀氏や戸田氏、福島氏に属し、朝鮮の役にも従軍した。

 かつて瀬戸内海に勢力を伸ばした先祖の威勢を貞成は少年時代から親に聞かされていた。名門真鍋氏の一門として、先祖の土地を回復したいという願いを貞成は長年抱き続けていた。
 今回の紀州攻略が成功すれば、恩賞が下されるだろう。秀吉から再び故地の瀬戸に知行を与えられることも望める。

 行長はこの野心あふれる若者を大いに信頼していた。
 名誉を重んじ死を恐れぬ勇気に好意を抱くと同時に、内心いつか貞成を切支丹にしたいと思っていた。
 この若者なら、戦での勇ましい働きと同様に主のためにも命を投げ出して尽くしてくれる。そう考えたのだ。

 旧約聖書の中のイスラエルの英雄サムソンのように、筋骨たくましいこの長身の若者が主の教えのために信徒の先頭に立って戦ってくれれば、寺僧や神官からの迫害を受けている切支丹にとって、どんなに心強いことだろう。
 行長は貞成が南蛮の文物に興味を持ち、ローマ字で彫った印章や南蛮兜を持っていることを知っていた。また、貞成が和歌にも巧みで、歌集を編んだことも聞いていた。
 文武に秀でた、この男なら主の教えを正しく理解し人々に伝えてくれることだろう。

「真鍋殿、この戦も遠からず終わる。無事に終わったら、一度堺に来られよ。南蛮渡来の武具などをお見せしよう。それがしの堺の屋敷には、南蛮人も泊まっている。彼らの話を聞けば、世界が実に広いことがわかる」
「見よ、この広い海原を。ルソンやインドに海は通じている。行ってみたいとは思われぬか」
 行長は、貞成の好奇心を煽るようにいった。

「それは私も願うところ。いつかは南蛮船に乗って、インドばかりか南蛮国へも行ってみたいと思っております」
「南蛮人と親しくつきあうには、彼らの考え方を知らねばならぬ。彼らの信じている神や彼らの文化を知ることは、日本の神仏や技芸をよりよく知ることでもある。和歌や絵に造詣の深い真鍋殿のことゆえ、彼らの伝統もたやすく理解されることであろう」
「南蛮人が文武に優れているのは、よく存じています。ぜひ彼らの知識を教わりたいと、それがしも願っています」
 若い貞成は好奇心旺盛だった。 
「世間は切支丹を邪教と恐れるが、実際に教えを学べば、そうではないことがわかる。切支丹には優れた教義もある。例えば、死についても仏の教えとは大いに異なる」
 行長はこの機会に貞成に切支丹の教えを説いてみようと思う。

「切支丹の人々の尊ぶ聖書というものがある。神のみ言葉、イエズスの言葉を集めたものだ。この中に私が常に暗唱している詩がある。それはこういう文章だ」
 行長は常に朗唱している旧約聖書の言葉を口にした。
「死の縄、我をまとい、黄泉(よみ)の苦しみ、我にのぞめり。我は悩みと憂いとに遭えり」
「わが神わが神、なんぞ我を捨てたまふや。いかなれば遠く離れて我を救わず、我が嘆きの声を聞きたまわざるか」
 この悲痛に満ちた旧約聖書詩編の中のダビデの歌は、行長の心を最も捉えた歌だった。
 この歌の中の言葉は、イエス・キリストがローマの兵士に捕らえられ、ゴルゴダの丘ではりつけにあったときに、天を仰いで叫んだ言葉でもあった。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
 《我が神、我が神、なんぞ我を見捨てたまいし》

「死の間際にイエスは何を思われたか。神はなぜイエスを助けたまわなかったのか。貧しさや病に苦しむ人々を慰め、神への帰依を説いたイエスでさえ、死に臨んでは取り乱し、神を疑うような言葉を口にした。いくら覚悟していても、死はやはり恐ろしいものには違いない。しかし、死の恐怖を慰めるには、やはり神を信じることしかない」
「神慮は凡夫の考えの及ぶところではない。恐らく、神は最愛の子であるイエスを犠牲にすることで、多くの民の苦しみを救おうとしたのだろう。我々切支丹もまた、神慮のもとに生かされている。自分の考えで行動している積りでも、すべては神によって動かされている」
「神に頼っても死ぬときは死ぬ。神は死を遠ざけてはくれぬ。しかし、神のために犠牲になった者には、来世での名誉と永遠の栄光が約束されている」

 行長は一人ごとのように話し続けた。
「武士は名誉と子孫の繁栄のために、自らの命を捨てる。イエス・キリストの教えもまた同じだ。我々は自らを犠牲にし、他人のために役に立つことで初めて生きたといえる」
「地獄極楽は本来の仏の教えにはないという。釈迦の説いた本来の教えでは、我々が死ねば、ただの土くれ、塵になるといっている。この世はすべてが無であるから、執着すべきではないともいう。しかし、すべてが無ではあまりに救われぬ。善人も悪人も区別なく土になるのなら、現世での行いは何であろう。やはり伴天連のいうように来世というものは存在しなければならぬ」

「この美しい海原を見ていると、人知を超えた絶対者がいることが自ずとわかる。神がいなければ、このような驚嘆すべき美しい世界ができるはずがない。夜の星を仰ぎ見れば、神が世界を作り我々を見守ってくださっていることが確信できよう。神の恩寵は限りがなく、死後も必ず神は我々を見守ってくださる。それは全く疑いのないことだ」
 行長は熱く語った。

「あの世のことは、私のような凡人にはわかりませぬ。ただ死後の名誉と家族の幸いは守りたいと心から願っています」
 貞成はきっぱりと答えた。
 
「そろそろ泉大津の港に着く時分です。行長さま、戦が終わったら、どうぞ我が家にお寄りください」 
「それはまことにありがたい。是非とも寄らせていただきたい」
 この青年と、生死の問題について語りあわねばならないと行長は思う。

 話がすむと、貞成は再び船室の方に歩いていった。
 これから貝塚に船を着けてしばらく停泊し、そこで秀吉からの指示を待つことになっていた。
 根来を支える雑賀を封じ込めるため、雑賀沖に向かい、和泉に向かう雑賀の船団を攻撃することになるだろう。

 雑賀もこの戦を自らの運命を決するものと思っているに違いない。知り尽くした海域で、船を縦横に走らせ、入江や島陰から不意に姿を現して、味方を攻撃してくることだろう。
 南蛮渡来の大砲を持っているとはいえ、油断はできない。
 行長は近づいてくる貝塚の港を見ながら、厳しい戦を予想した。

                  ◇

《この峠の景色を見るのもこれで最後になるかも知れない》
 風吹峠を越える途中、葉を落として寒々とした山の中を歩きながら、若左近は物思いにふけっていた。
 その名のとおり、風吹峠は冷たい風に吹きさらされている。雲が風に飛ばされ、みるみる遠ざかっていく。夕方の弱い太陽の光が、雲を通してかすかに差している。薄暗くなった裸の林には鳥の姿も見えなかった。

 根来から和泉に向かう行人たちは黙々と歩いている。
 敵は根来がいままでに戦った軍勢とは比較にならない強大な勢力であることは、誰もが知っていた。
《もう、この峠に戻ってくることもないかもしれない》
 そう思うと、万感胸に迫った。

 若左近は昨年の岸和田での戦以来、戦うことに疑問を感じ始めていた。
 かつて十郎太とともに、熊取から根来に来たときは、行人の華々しい戦ぶりに憧れた。しかし、実際に岸和田での戦に参加して、その凄惨さに衝撃を受けた。
 戦が、自分の想像していた勇ましく雄々しいものとは全く違う、無残な行為であることを身を以て知った。
 首を取られて、田の泥の中に無残に捨てられていた仲間を見付けたときは、敵への復讐を心に誓った。しかし、時間を置いてじっくり考えて見れば、こうしたことは味方もしていることだった。

 川に橋が無いときには、近くの民家を壊して筏を作る。敵地に入れば、青田を刈って敵の食糧を奪う。敵の城下では民家に火をかけ、食糧や金めの物を略奪する。自らの領地内であっても、敵が攻めてくるときは、民家に火をかけて敵が隠れる場所を奪う。
それは仏に仕える者の行いとはとても思えなかった。鬼の所業といわれても仕方が無い残忍な行為だった。

 いま若左近が思い出すのは、伝法堂の中での詮議で、定尋が戦を諌めた言葉だ。
 仏に仕える身が人を殺す理不尽さを、定尋は憚(はばか)ることなく大衆に訴えた。
 いま思えば、定尋の言葉は一つ一つ正しく、説得力に満ちていた。

 さまざまな理由を付けても、戦は結局、他人を支配するための争いである。だれかが権力を握れば一時的には平和が戻るが、不満を抱く人間は必ず出る。権力を握る人間は、子々孫々に権力を継承することを望み、不満を持つ人間はいつか秩序を覆そうと機会を狙う。
 驕り高ぶった平家は源氏に滅ぼされ、源氏はわずか三代で平氏の子孫である北条にとってかわられた。北条はまた長年恩顧を与えた源氏の足利に裏切られ、足利将軍はまた配下の武将たちに操られた。最後の将軍足利義昭は覇権を求める信長に利用され、都から放逐された。信長はまた家臣の明智光秀に殺された。

 勝った者もまた倒され、生き残る者は少ない。味方だった者が権力を争って敵になり、敵だった者同士が手を結ぶ。殺しあった後で和解するぐらいなら、最初から争わなければよいのだ。先を読めぬ愚かな戦を繰り返しているのが人間である。
 それもこれも、人が自分の食いぶち以上に富を求め、子孫に残そうとするからに過ぎない。足るを知れば争いは起きない。

 己の欲心のために他人の自由を奪う権力者の圧政や悪行から逃れようと、寺社や百姓自らもまた武装する。しかし、自衛のための武力は、いつか驕りを産み、他人に脅威を与え、また他人に利用される。
 もとは寺を守るためだけの武力であった行人が、他の寺との抗争を経ていつか肥大化し、強大な武力となった。そして、その武力を当てにする者の要請を受けて、寺を守ることと直接関係のない戦にまで参加するようになる。それが悪名高い叡山の山法師であり、南都の僧兵であり、根来の行人である。

 叡山は鎮護国家のために祈梼するだけでなく、山法師を蓄えて荘園の維持のために戦った。寺社と同様に荘園からの収入に依存し、武士の圧迫に悩む後白河法皇や後醍醐天皇は叡山の武力を利用して、武家の力を削ごうとした。叡山は朝廷に味方して武士と争った。

 太平記によれば、後醍醐天皇が吉野に逃れ、足利氏が京を抑えたとき、高師直らは長年逆らってきた比叡山の所領を没収しようとした。しかし、当代一の学僧玄恵上人の叡山擁護の弁舌もあって、征討を諦めたという。妥協の背景には南朝との対抗のため、叡山を懐柔する必要があったのかも知れない。
しかし、武士との確執はその後も残り、ついに信長によって一山灰塵に帰した。そして、いままた根来寺は秀吉に恨まれ、滅亡の危機に瀕している。
 身を守るための力も、敵にとっては脅威となり、争いの種となる。

 前線で戦う足軽や行人はもともと、百姓出身で、ともに下積みの身である。 たまたま侍の支配する地域に生まれたものが、足軽になり、寺の支配地域に生まれたものが、雇われて行人となった。

 足軽も行人も戦闘で消耗すれば、簡単に補充される。所詮は戦の駒であり、支配する者に、戦の道具として使われているに過ぎない。しかし、足軽や行人は戦を生業としており、それ以外に生きるすべはない。権力者は自らの利欲のために、戦を必要とし、駒として使われる者も、生きるために戦を必要とする。結局は、戦のくびきから、誰も逃れることができない。

             ◇

 二百五十年前の南北朝の時代、吉野の後醍醐帝のもとに畿内の寺社の僧兵や衆徒が馳せ参じる中で、根来寺だけは足利尊氏の側に回った。
 それは覚鑁上人の高野放逐以来、根来と長年にわたって対立してきた高野山金剛峰寺を後醍醐帝が敬い、寄進をして尊んだことに偏執(片意地)の思いを抱いたからだと大平記には記されている。

 仏に仕える者の世界でも、妬みやそねみ、ひがみがまかり通る浅ましさを、学侶や行人たちはどう考えているのか。
 若左近は定尋がいったことの意味が今になって、ようやく理解できた。

 定尋はかつて若左近たちに大平記を読み聞かせたことがあった。
 太平記によれば、根来の宗祖の覚鑁上人でさえ執着と我慢(慢心)から逃れられなかったと書かれている。

 山中で苦行をしていた覚鑁上人を我慢(自分を誇る驕り)・邪慢(誤った慢心)の天狗たちが誘惑しようとしたが、上人の堅固な信仰心を崩すことは、なかなかできなかった。
 あるとき、上人の皮膚に瘡(かさ=できもの)ができ、蒸し風呂に入って治療を受けた。皮膚の汚れが洗い流されて、心体が爽快になった。あまりの気持ち良さに、道心堅固な上人もつい気を許し、現世のささやかな快楽に執着する心が芽生えた。上人の心にわずかな緩みが生じた機会を逃さず、隙をうかがっていた天狗たちが上人の心中にすばやく入り込み、俗世間の欲望を植え付けた。
 それまで粗末な庵に住み、大伽藍(がらん)の寺を疎んじていた上人が、高野山頂に伝法院の建立を思い立ったのは、それからまもなくのことだった。上人への帰依厚かった鳥羽上皇に奏上して壮麗な堂舎を建て、多くの僧が修行できる僧坊を造った。

 これを妬んだ金剛峰寺の僧徒たちは、武器を持って押し掛け、伝法院を破壊したうえ、上人が座禅中の堂の扉を破って押し入った。僧徒の目には上人が炎の中に座す不動明王に見えた。
 僧徒たちは座禅している上人に四方から石を投げつけた。しかし、つぶては上人の唱える大日如来の真言(呪文)に邪魔されて、微塵に砕け、全く当たらなかった。
 ところが、このとき、上人の心に増上慢(慢心)の心が起きた。
「自分の体は大日如来によって守られている。不心得な僧どもの石が、この身に当たるはずがない」
 そう思った瞬間、正面から飛んできた小石が額に当たり、血が流れた。
 これを見た金剛峯寺の行人たちは、喜んで上人をあざけり、引き上げた。このことを心憂きものに思った伝法院側の僧徒は高野山を下りて根来に移った。
 このように大平記は語っている。

 定尋は「大平記には例え話が多く、この話をそのまま事実として信じるべきではない。これは高い徳をもった覚鑁上人のような聖人でさえ、欲や慢心から逃れられないという戒めのための説話である」といっていた。
「恐らく、上人は人々の幸せを念じて自らが起こした伝法堂の建立が、僧徒間の争いを引き起こしたことを深く悲しまれたのだろう。そして自らの修行の足りなさを恥じられた上人は、弟子たちを率いて高野を下り、根来寺に至られたのだ」
 そう定尋は解説した。
「大平記の話は、人間がだれでも陥る落とし穴をうまく説明している。若いうちは清廉で、謙虚であった人間も、権力を持つと人格が変わり、貪欲、横暴になる。仏のような気高い人間であっても、常に自らを反省し抑制しなければ、欲望や快楽、自尊心に取り込まれてしまう」
 定尋はそうもいった。
「そもそも仏の徒たるものは、柔和を以て人に接し、屈辱を耐え忍ぶべきはずなのに、寺同士が何故にこのように争いの心を持つのか。それは人間の心に起こる嫉妬心のためである。聖人でさえ逃れられない煩悩の故であると大平記の作者はいいたいのだろう」
 定尋はこのように説いた。

 若左近は思う。
 根来寺が世俗の争いに巻き込まれるようになったのは、そもそも高野山との抗争が発端だった。新旧真言宗の正統争いに加え、寺を支える荘園の獲得競争もあり、双方は互いに敵視して武力を蓄えた。そして、その武力を世俗の勢力があてにして頼るようになった。
 いま秀吉の脅威にさらされているのは、長年にわたる武力の蓄積がもたらした結果である。ことここに至っては、もはや後戻りはできない。
 定尋が説得したときならまだ間に合ったが、いまとなっては突き進むしかない。
 若左近は冷気に体が震えるのを感じた。