小西行長

 堺では見物人を装った根来の忍者が、市中を通過する秀吉軍を偵察し、貝塚の砦に篭る行人と根来寺に知らせた。
 海陸から寄せる秀吉軍は、根来方の予想を大きく超えた。とくにその鉄砲足軽の数は、銃に自信を持っていた根来方に衝撃を与えた。

 秀吉本隊だけでも鉄砲足軽は七千人を数えた。軍勢全体では数万丁にのぼるだろう。
 根来が持っている鉄砲は五千丁。雑賀を入れても一万には届かない。銃の数だけ見ても戦力の違いは明らかだった。

 銃の得意な何人かの忍びが秀吉を狙撃する機会をうかがった。だが、厳しい警護に遮られ、街道に近付くことさえできなかった。
 警備の兵はいらだち、道を横切ろうとした犬や猫さえ槍で突き殺した。

 秀吉の本隊が堺政所の前を通っている間、政所詰めの武士や街道に店を構える商人たちは表に出て隊列を見送った。

 張り詰めた空気が街道沿いを覆っていた。
 行列が堺の町を抜けると、急に沿道の家がなくなり、田が広がった。すでに田起こしが終わり、すきかえされた黒い土が見えている。細い草が頼りなげに風に揺れていた。

 灰色の雲が垂れ込める中、雀の群れが土の上に落ちた草の種をついばんでいる。間もなく池から水が引かれて、代かきが始まる頃だった。

 岸和田までの沿道には、敵が潜む恐れのある家や丘などもなく、狙撃の危険は薄れた。堺の町中では馬上の秀吉のそばを歩いていた小西ジョウチン隆佐も、いまは馬に乗って秀吉の後方を進んでいる。

「隆佐はおるか」
 前を進んでいた秀吉が隆佐の名を呼んだ。
「 後ろに控えております」
 隆佐は浜から吹いてくる海風に掻き消されぬよう声を張り上げた。
「岸和田まではあとどの位か」
「あと二里ほどでございます。昼過ぎには着きましょう」
「中食(ちゅうじき)はどこで使うのか」
「南宗寺に用意しております。南宗寺は利休さまの檀那寺でございます」
「おおそうであったか。利休の寺か」
 秀吉は親しみを込めていった。
 最近、利休との間が少し不仲になっていたといえ、前線に近い土地で、なじみのある名前を聞くと、やはり懐かしさと親しみを感じないではいられなかった。
「南宗寺には三好家の墓もございます。根来との戦で、流れ弾に当たって死去した故三好実休入道(=三好義賢)もここに葬られております」
 隆佐は説明を続けた。
「根来の坊主ごときに撃たれて落命するとは実休入道も情けない。わしが今日明日のうちに、根来の行人どもを攻め滅ぼして見せよう」
 秀吉は周りにも聞こえる高い声でいった。

 秀吉の問いに答えると、隆佐はまた後ろへ下がった。
 堺の町衆の中でいま最も秀吉の信頼を得ている小西隆佐は、もともと薬種商人だった。
 二十年以上前から、堺の商人は南蛮貿易の利を求め、取引に有利なキリシタンになった。
 隆佐もまたそのときに入信した一人だった。
 マラッカや印度、ルソン産の貴重な生薬は高い価格で取引され、莫大な利益を生む。
 その取引はゴアの印度政庁の許可を得たポルトガル商人が独占している。彼らと同じ蛮天連の信者でなければ、取引への参加はたやすくは認められなかった。

 あるとき、隆佐はキリシタンの商売仲間を通じ、宣教師のフロイスから信長への面会の斡旋を依頼された。
 山口や九州での切支丹は増えているが、日本国中に広めるためには、やはり京都での布教許可が絶対に必要である。
 南蛮の宣教師たちは皆そう思っていた。

 比叡山延暦寺など既成の宗派と深いつながりを持つ朝廷は、切支丹に冷ややかだったが、新興の武家は好意的だった。
 南蛮の宣教師に京都での布教許可を与えた将軍足利義輝は、松永弾正によって非業の死を遂げた。いま足利将軍家に代わって権限を握るのは新興の信長である。布教を成功させるためには何とかして信長に取り入る必要がある。

 フロイスの依頼を受けた隆佐は苦慮した。
 西国の大名とは懇意な隆佐も信長との面識は全くなかった。
 接近する手だてをあれこれ考えた末、隆佐は一計を案じた。

 上洛後の信長が茶の湯に入れ込んでいることを知った隆佐は、高価な茶器を堺の町衆から買い求め、信長に献じることをフロイスに提案した。茶会の機会を利用して信長に目通りを願い、茶器を贈ったあとで折りを見てフロイスの申し出を伝えようと考えたのだ。

 早速、茶会の手配がなされた。
 信長の茶の師匠でもある千家の宗易(利休)に頼んで、信長の意向を尋ねた。
 隆佐は拒絶されることを心配していたが、意外にも信長はすぐに利休を通じて出席の意向を伝えてきた。

 そのころ、湖北での浅井、朝倉勢との間の戦況も一段落し、信長は茶の湯に対して、いっそう執心するようになっていた。今後畿内を治める上でも、伝統文化を尊ぶ姿勢を見せる必要があり、裕福な堺の町衆との交友は有益だった。

 信長を迎えた茶会は堺の町中にある隆佐の別荘で開かれた。
 ここはもともと堺に大きな影響力をもっていた四国阿波の三好一族の一人、安宅木(あたぎ)冬康が足利将軍家の花の御所をまね、京から職人を呼んで造った別荘だった。
 モクセイの生け垣で仕切られた広い敷地に、一年中花が楽しめるように、様々な花木が植えられ、築山と池の周りに小石を敷いた小道が巡らされた。
 ちょうどいまは、サザンカの季節で、品のよい白い花が庭のあちこちに咲いている。
 寒さも和らぎ、茶の湯にはちょうどよい季節だった。

 堺政所の松井友閑をはじめ町の有力者や、主立った会合衆、また京都や大坂から呼び寄せた遊女たちが畳に平伏して待ち受ける中、信長とその配下の武将たちが、くつろいだ小袖姿で入ってきた。
「上様にはよくぞ、ご来臨くださいました。近日の天下静謐(せいひつ)、ひとえに上様の御威勢の賜物でございます。堺の町衆に成り代わりまして厚く御礼申し上げます」
 隆佐は這いつくばったまま、深々と頭を下げて礼をいった。
 「接待、御苦労である」
 信長は短く答えた。

 会場は別荘の百畳敷きの大広間が使われた。
 真ん中には、大きな瓶(かめ)に入れた梅の古木が飾られている。
 ちょうど、咲き始めた梅の木からは馥郁(ふくいく)とした香が広間中に流れている。
 広間を囲むふすまには四季の自然を主題にした狩野派の大和絵が描かれ、華やかな雰囲気を醸し出していた。

 広間の手前の小部屋には、黒檀の床机の上に様々な茶器が並べられている。この中から自分の好みの茶器を選ぶのが、この日の茶会の趣向だった。

 隆佐の目論見(もくろみ)は当たった。信長は豪華な茶器を見ると、常日頃の厳しい表情を珍しく和らげ、一つ一つ手にもって賞玩した。そして、その中の気にいった一品を撰んで、そばに控えていた亭主の隆佐に手渡した。

 それは堺の町衆の一人が秘蔵していた足利将軍家伝来の東山御物の中から、隆佐がこの日のために千金を投じて手にいれた古瀬戸の茶碗だった。
隆佐は早速、この茶碗で茶を点て信長に献じた。

 茶会は大成功だった。終始なごやかな笑い声が絶えず、華やかな小袖を着た若い女たちが酒や肴、茶を運んだ。
 信長も武将達や町衆と談笑している。ふだん厳しい表情を崩さない信長が、これだけくつろいだ様子と笑みを見せたのは、家臣たちにとっても驚きだった。
「隆佐様、信長公はきょうの茶会がいたく気にいられたようでございます。あれほど上機嫌な信長公は初めて見た、と家臣の方々も仰せられています」
 茶会の途中、隆佐のそばによってきた利休の子の少庵がにこやかに言った。少庵もまた父利休について作法を見習うために茶会に出席していた。
「それはよかった。これもお父上様のご尽力のお陰です。隆佐がお礼を申していたとお伝えください」
 隆佐は深々と頭を下げた。

 女たちの舞が始まった。このごろ琉球から伝わって都や堺で流行している蛇皮線の演奏に合わせ、女たちが着物の裾をひるがえして、ゆるやかな舞を客に見せた。
 女たちが歌っている言葉の意味は分からなかったが、のどかな抑揚は、中国の歌とも異なる独特の情緒を帯びていた。信長も珍しそうに聞いている。
 酒のあとは茶壷の封を切り、利休とその子供たちが別室で点てた茶を女たちが運んで、信長とその家臣たちに勧めた。
 やがて夜も更け、茶会は終わりに近付いた。

 挨拶のため、おずおずと伺候した隆佐に対し、信長は上機嫌で接待の礼をいった。そして、あらかじめ書面で隆佐が願い出ていたフロイスの拝謁の件について、あっさりと許可を与えた。名物の茶器の効用は明らかだった。

 側近の武将と談笑しながら路地に出てきた信長を、先に出ていた隆佐は頭を下げて見送った。
 灯篭の明かりに照らされた信長の顔は、酒に酔ってほんのりと赤くなっている。いつもの尖った鋭い視線が柔らかく感じられた。人の心を和らげる酒と茶の徳を、隆佐がこれほど身にしみて感じたことはなかった。

酒はもともと「さか」といい、「咲く」「栄える」「盛ん」などとともに生気が外に出る様子を表す言葉だという説がある。酒に含まれる成分が飲んだ者に幸福感を与えるのである。

 隆佐の尽力で面会の許可を得たフロイスは、移り気な信長の心が変わらないうちに早速行動に移した。フロイスは進物の品を整えると、日本人信者とともに馬ではるばる岐阜まで出向いて信長に謁見した。

 すでに日本語を自家薬篭中のものとしていたフロイスの快活な話しぶりと気さくな人柄は、すぐに信長の心を解きほぐした。
 信長は遠来の客を岐阜城の天守に上げて自ら室内を見せ、地元の長良川で捕れた鮎の料理を、自らの幼い子供達に運ばせて丁重にもてなした。
 そして、都での布教を許可する書面に自ら署名して、フロイスに手渡した。
 これが切支丹と信長の間に友好的な関係ができた最初の機会だった。
              
               ◇

 今回の紀州攻めに水軍を率いて参加している隆佐の次男の行長もまた、子供のころから父親の隆佐の影響を受け、熱心な切支丹として育った。
 後に高山右近とは信仰を通じて親友となり、また頼りがいのある戦友となった。
 行長は若いころ、美作の魚屋弥九郎の養子に入り、そこで領主の宇喜多家に出入りするようになった。
 このころ、信長から中国地方攻略を命じられた秀吉が美作に出兵してきた。それまで毛利家に従っていた宇喜多直家は、毛利を見限って信長につくことを選んだ。
 行長は、宇喜多直家から、信長への臣従を秀吉に伝える使者を命ぜられた。行長の父隆佐が信長と秀吉に面識があることから、そのつてを頼ったのである。
 宇喜多直家の思いがけない臣従を秀吉は大いに喜び、直家の所領安堵を信長に仲介することを約束した。そして使者の行長には褒美として小袖と刀を与えた。
 これを機に行長はその後、直家の元を離れ、秀吉に直接仕えることになった。

 堺に育ち、船による貿易と操船法を熟知していた行長は、秀吉配下の水軍の指揮官としてたちまち頭角を現した。
 このころ、瀬戸内を支配していた淡路島の菅(かん)平右衛門は、四国の長曾我部氏や、雑賀・根来衆など紀州勢と組んで、信長と秀吉に敵対していた。
 行長は、以前から菅氏と抗争していた和泉の真鍋氏を指揮して、瀬戸内海の制海権を握ろうとした。

 天正十二年(一五八四年)三月、秀吉と敵対した徳川家康の呼び掛けに応じて、紀州勢が岸和田と天王寺を攻撃した。このときの合戦で、行長は真鍋真入斎貞成とともに、海からの紀州勢の攻撃を迎え討った。
 紀州勢の菅平右衛門は、岸和田と大坂城を分断するため、泉大津に舟二百隻で上陸する作戦をとった。陸からの雑賀・根来勢と連係して岸和田城を孤立させる狙いだった。

 これに対し、真鍋貞成は菅方の攻撃を予想し、あらかじめ海岸に穴を掘って伏兵百人を置いた。
 貞成の予想通り、数日後に菅方の数千人の敵が佐野の浜に上陸しようとした。待ち伏せしていた貞成の兵は穴から飛び出し発砲した。
 足場の悪い菅方の兵は突然出現した足軽に驚き、あわてて舟に戻ろうとした。
 そこへ渚に近いスゲの茂みに隠れていた真鍋方の別の兵が横合いから一斉に射撃した。
 菅方は死傷者を浜辺に遺棄したまま退却した。

 行長はその後も真鍋水軍のほか、志摩の九鬼水軍も指揮して、ついに瀬戸内の制海権を掌握した。
 信長の石山攻めのときはあれほど縦横無尽に暴れた雑賀水軍も、いまはすっかり沈黙している。今度の和泉出兵でも行長にかける秀吉の期待は極めて大きかった。

                 ◇

 もともと商人あがりの行長が戦功をあげ、秀吉に重用されるようになったことに、尾張、近江での戦いから秀吉に付き従ってきた家臣たちは快く思わなかった。秀吉のいるところでは黙っていたが、陰では行長をこき下ろし、中傷した。
「魚屋あがりのにわか侍に戦のことがわかるのか」
「いざというとき腹が切れるのか。戦場で人を切るのは、包丁で魚を切るのとは訳が違うぞ」
 そんな蔭口を彼らが話しているのを、行長は商人仲間から聞いて知っていた。

 行長が切支丹であることも、人々の妬みの大きな理由だった。
 信長や秀吉の配下にいる武将たちの出身地である尾張や美濃、近江は、都から遠く、切支丹の数はまだ少ない。切支丹の教えは異端の宗門という意識が、地方ではなお強かった。
 多くは禅宗を信仰している彼らに、南蛮渡来の異教は怪しげな存在であり、彼らの教えは神国日本を乗っ取ろうとする異国のたくらみとしか思えなかった。
   
 秀吉恩顧の武将の中で最も小西行長を嫌い、憎んでいるのが加藤清正だった。
 加藤清正は、今度の戦で行長が雑賀の水軍に負けることを内心期待していた。行長が失脚するのなら、今回の和泉出兵が失敗に終わっても構わない。
 そう清正は思っていた。

 今回の戦で対戦する雑賀の船団は、信長公さえ手を焼いて、そのために石山攻略が遅れたほどである。行長の船扱いがいかにうまくとも、常々畿内と四国との間を行き来し、船戦に慣れた雑賀の海賊どもにはかなうまい。

 味方でありながら、むしろ敗北を内心願っている彼らの心は、口に出さなくとも行長にはよくわかっていた。
 行長が戦功を上げ、秀吉に褒められるのを見ている彼らの視線は、いつも冷ややかで、厳しかった。
 人の成功を妬み、他人の富貴をうらやむ気持ちは、武将も世間の人々と少しも変わらなかった。

 自らも卑賎の階層の生まれであり、能力さえあれば、出身や身分などは全く気にかけない秀吉とは異なり、出自にこだわる頑迷な彼らと協調できるとは、とても思えなかった。
《彼らの機嫌を気にするより、戦場での働きを見せよう。それが彼らの考えを変えさせる最も確実な方法だ》
 行長はそう思っていた。

 今度の戦で、行長は船の中に新しい武器を持ちこんだ。それは盟友高山右近に頼んで、はるばるルソンから取り寄せた船用の大砲二基であった。
 これは、もともと南蛮船に艤装(ぎそう)されていた古い大砲を外して、和船に取り付けられるように堺の鉄砲鍛冶が手を加えたものだった。
 射程はおよそ一里。近付く敵船に向かって放てば、帆柱を折り倒して航行を不能とし、あるいは船腹に大穴を開けて沈没させるだけの威力があった。

 昔から雑賀の水軍は、足の速い小さい舟で、できるだけ敵の船に近付き、火のついたほうろくを投げ込んで火災を起こす戦法を得意としていた。
 石山沖の海戦で信長方の九鬼水軍が苦戦したのも、この戦術に翻弄されたためだった。
 信長はその後、九鬼嘉隆に命じて、船腹を鉄の板で覆った鋼鉄艦を建造させ、雑賀水軍に対抗した。
 今回の戦にも鋼鉄艦は参加していたが、その数は少なかった。鋼鉄艦の不足を補うことが、大砲船に期待された。
 雑賀の船が近寄いてくれば、大砲を発射して威嚇する。そうすれば、かつて信長公が悩まされたような海戦にはなるまい。
 行長は、自分の作戦に自信を持っていた。

 大砲は砲身の向きを自由に変えられるように、台車の上に取り付けて移動できるようになっている。五月蝿(さばえ)のようにつきまとい、自在に位置を変える雑賀の小舟であっても、この大砲なら狙いを外すことは、まずない。
 この戦に勝てば、次は四国の長曾我部が敵となる。そのためには今度の戦に勝って、瀬戸内から敵対する船を駆逐しておく必要がある。

 行長はすでに次の次の戦いを予測していた。今回の雑賀との一戦が自分と切支丹にとって、将来を決める重要な戦いであることは良く分かっていた。
 この戦で功績を上げることができれば、加藤清正ら反目している武将たちも沈黙するだろう。

 切支丹に警戒心を抱き始めている気配が感じられる秀吉公ではあるが、自分の戦に切支丹の加勢が有利ということが分かれば、切支丹を迫害されることはなさるまい。
「今度の海戦は、いかなることがあっても、勝たねばならぬ」
 行長の決意は固かった。

 行長はへさきに立って望遠鏡をのぞいた。波頭のかなたに霞にくもった岸和田城のしゃちほこがかすかに見えたように思えた。