二十九歳を迎えた一五六一年、フロイスはゴアで司祭となった。二年後の一五六三年(永禄六年)、ようやく長年望んでいた日本での布教参加を許され、七月に来日した。
すでにザビエルは九年前に中国の上川島で死去していた。
フロイスはまず平戸で、ザビエルの同行者であったフェルナンデスから、日本語と日本の習慣を学んだ。フロイスの日本語はすぐに上達した。二年後、京都に派遣されてからは足利義輝の保護を受け、地区長となって布教に努めた。
一五六八年(永禄一一年)、信長の上洛に遭遇したフロイスは、この粗暴だが果断で開明的な男が、近い将来日本を支配することを見抜いた。
翌年の夏、フロイスは岐阜まで出向いて信長に謁見し、異国の珍品を貴ぶ信長に舶載の贈り物を届けて、その知遇を得ることに成功した。
信長上洛後、京都の治安を任されたのは秀吉だった。信長が造営した足利義昭の御所をはじめ、市中の重要な建物の警護の任にあたった秀吉は、フロイスのいるイエズス会支部にも時折顔を出した。
秀吉は気さくにフロイスにも話し掛けた。フロイスもまた日本語で応じた。
このとき以来、フロイスは秀吉とも懇意になった。信長と秀吉の保護を受けたフロイスの布教は順調に進んだ。
フロイスは異教徒に対して偏見を持たなかった。日本人を愛し、日本の習俗を評価した。他の南蛮人宣教師とは一風異なる謙虚な態度が権力者だけでなく民衆の心をも捕らえた。
フロイスの日本語は完璧だった。のちに一日十時間を「日本史」の執筆にあて精根を傾けた。しかし、この血のにじむ努力は最終的に報われなかった。
「日本史」を完成したフロイスに、上司の日本巡察師バリニャーノは「冗長すぎる」として短縮するよう命じ、本国に送ることを認めなかった。
練り上げた構想のもとに書き上げた長大な原稿を短く切り詰めることは、いまとなっては不可能だった。
フロイスはバリニャーノに抗議し、ゴアのイエズス会にも手紙を送って出版の許可を求めた。しかし、フロイスの必死の努力にもかかわらず、バリニャーノと会の決定は覆らなかった。
フロイスの失望は大きかった。
フロイスの前にも、フランンシスコ・ザビエルの後をついだコスメ・デ・トルレスや、京都で孤軍奮闘したガスパル・ビレラら優れた宣教師はいた。
トルレスやビレラの努力で信者は広がりを見せていたが、当時はまだ支配者あるいは知識階級に限られていた。
信仰を大衆にまで広げたのは、フロイスの大きな功績だった。しかし、その晩年は恵まれなかった。
フロイスは一五九七年(慶長二年)、秀吉による禁教令と、長崎での二十六聖人の殉教を見届けたあと、六十五歳で失意のうちに他界する。
最後まで「日本史」の出版を望みながら、ついに果たせなかった。「日本史」にかけたフロイスの愛着と、それが実現しなかった落胆は死に至るまで消えなかった。
一生涯をかけた布教そのものも、多くの聖人の殉教によって挫折した。
末期の床で、フロイスは日本に渡ってきたときの船の中の様子を夢に見ていた。若きフロイスは日本での布教が進むことを信じて疑わなかった。だが、結局、日本で神の国を実現することは適わなかった。
「人の命ははかなく、名誉も喜びも草の葉に結ぶ露にすぎない。一生の大半は苦しみと涙に満ちている。人間が本当に信じることができるのは、神の恩寵しかない」
殉教した二十六聖人の一人は、こう書き残している。
フロイスにとっても、人生は苦難の連続だった。
慣れぬ異国での生活は彼の体を痛めた。六十五年の生涯の半分以上の三十四年を、日本で過ごした。その間に多くの日本人を教化したが、その大半は後に弾圧で命を失い、そうでないものは命を永らえるために信仰を捨てた。
《自分が日本でやったことは何だったのか。我々は多くの日本人を幸福にしたともいえるし、一方では不幸にしたともいえる。我々は神の福音を本当に伝えることができたのだろうか》
◇
フロイスは信長や秀吉以外にも多くの有力者にも知己を得た。その中でも最初に出会った足利義輝は忘れ難い人物だった。
一五六五年(永禄八年)一月三十一日、フロイスは都に入った。将軍義輝に面会を求め、布教の許可を得ることに成功した。思いがけない義輝の厚遇にフロイスは歓喜した。
しかし、この喜びは長くは続かなかった。この年五月十九日、二条御所にいた義輝は、松永弾正と三好三兄弟の軍勢に急襲された。
松永弾正らは、三好長慶の死後、将軍義輝に実権を奪われることを恐れた。彼らは、義輝のいとこの阿波御所義栄を、自分たちの意のままになる傀儡将軍にするため、義輝の命を狙った。
義輝は、いっしょにいた母や妻に自害させたあと、自ら刀を取って奮戦した。
「公方様、御前(ごぜん)に秘剣をあまた立てられ、度々取り替え、切り崩させたまふ。御勢いに恐怖して近付き申すものなし」(信長公記)
しかし、多勢に無勢でついに討ち取られた。
剣を塚原卜伝に学んだ勇猛な将軍義輝は、こうして三十歳で生涯を終えた。
《戦乱の日本では、人の世のはかなさを感じる出来事があまりにも多い。人はみな、そのときは命のはかなさを思い知って、しみじみと手を合わせ、命の大切さを実感する。だが、時が過ぎると、また目の前のことに気を奪われて、財物をむさぼり、欲望に耽り、欲に駆られて相争う。かつて己が誓った平和の願いをすっかり忘れてしまう》
《まことに日本人は、現世のみを大切にする民である。生きているうちが楽しければ、死後は虫や鳥になってもよいという退嬰的な和歌さえある。彼らに神の恩寵と死後の審判、本当の幸福とはなにかを教えることは極めて難しい》
フロイスは日本で何度も味わった失望と空しさを思い出す。
フロイスは日本人が切支丹の宣教師を心の中では信用していないのではないかと疑う。
彼らは宣教師たちの与える物品を得んがために信仰に入るが、信仰を本当に理解するものは極めて限られている。彼らは我ら西洋人に完全に心を許してはいない。
《本当に私達は日本人の魂の救済に成功しているのだろうか。ただ、キリスト教を広めるという目的だけに目を奪われているのではないだろうか》
フロイスは自分の上司である巡察師アレッサンドロ・バリニャーノが天正十年(一五八二年)十二月にフィリピン総督にひそかに送った手紙を知っている。
手紙の中でバリニャーノは、日本の重要性を総督に強調した。
「日本は土地が貧しく、しかも日本人は戦争に慣れているので征服には不向きである。だが、中国征服のためには役にたつ」
そうバリニャーノは書いた。
また、イエズス会布教長のフランシスコ・カブラルは天正十二年にスペイン国王にあてて次のように報告している。
「シナは豊かで人々は平和に慣れているので征服は容易である。その場合、日本にいるイエズス会のパードレは、安い賃金で勇敢な日本人の信者をシナに送ることができる」
これらの話をフロイスはバリニャーノとカブラルの二人から直接聞かされた。
九州の大名や秀吉らに対しては、あくまで純粋な信仰のための布教と説明しながら、裏で本国の権力と結び付いて動く二人の老獪なやり方を知って、フロイスは愕然としたことを覚えている。
結局、イエズス会の幹部たちも、イエズス会とスペイン国王のために日本で布教をしているのではないか。
自分達の国の拡大と、イエズス会の発展のために日本に来ているのであって、日本人の幸福のためではない。
フロイスはイエズス会の方針が納得できなかった。
フロイスにはわかっていた。
人の本心を見破ることに聡い秀吉が、宣教師に疑いを持っているのは、自然なことである。
秀吉は全国平定を目指している。当面の敵は根来の仏僧であり、彼らを除くために今は我々バテレンの力を利用しようとしている。
だが、根来がいなくなり、畿内が平定されれば、秀吉の目は西国に向かうだろう。
そのとき秀吉に攻められた西国の大名がスペインに援助を求めたらどうなるか。秀吉が恐れているのは、まさにこの外国の介入である。
秀吉はスペインやポルトガルの武力を十分知っている。気を許せば日本の領地を彼らに奪われる危険があると信じている。
現に大村純忠は、近隣大名との戦の資金を宣教師から得るため、領地の一部を宣教師たちに譲り渡したという事実もある。
外国人への土地の売買が各地で行われれば、印度やメキシコ、フィリピンがついには南蛮に奪われたように、日本もスペインやポルトガルの支配下に置かれることは十分にありうる。
キリシタンの宣教師たちと交わるうちに、秀吉は穏やかな彼らの微笑の下に、日本征服の野望が隠されているのではないか、と疑うようになったのではないだろうか。軍事的な優越性を誇るかのように大砲を見せ付ける一部の宣教師の、軽率ではねあがった行為が、この疑いをさらにかきたてたに違いない。
フロイスは、イエズス会の準管区長のガスパル・コエリヨが、有馬晴信や大友宗麟らに書簡を送り、ひそかに秀吉の動向を知らせていることを知っていた。
もし、このことを秀吉が知ったら、イエズス会の布教活動自体が禁止される恐れがあった。
フロイスは高山右近を通じて、コエリヨに危険な行為は止めるように何度も忠告した。だが、独断的なコエリヨは、フロイスの意見に耳を貸そうとはしなかった。
フロイスは日本に長く定住するうちに、日本人の性質も知り、日本と日本人を愛するようになった。だが、功名心に燃える若いコエリヨは、日本での布教の実を上げるためには、多少の危険はやむを得ないと考えていた。
フロイスは今回の和泉出陣では秀吉に協力せざるをえないと考えていた。
秀吉の力は強大であり、根来が滅ぼされることは、もはや明らかである。秀吉の全国平定もそう遠くない。それが分かっているのなら、いまのうちに秀吉に協力し、恩を売っておくことが、切支丹の生き残る唯一の道である。
フロイスは平戸にいるコエリヨにあて、大砲を送ってくれるよう書状を出すことに決めた。
秀吉の新たな殺戮に手を貸すことは苦渋の決断ではあったが、信徒を守るためにはやむを得ない選択でもあった。
《天国への道を信者のために開くためには、地上の悪魔に協力しなければならない時もある。多くの信徒が来世で幸福になれるのなら、このフロイス一人が悪魔との取引の科によって煉獄で身を焼かれても本望である。キリストもまた教え子のために身を犠牲にされたのではなかったか》
フロイスは祭壇にかかったキリスト像に十字を切った。
◇
江戸時代初めの島原・天草の乱(1637〜1638)は、過酷な松倉藩と寺沢藩の収奪に農民が起こした反乱だが、乱の背後にはポルトガルがいたという説もある。コエリヨらの策動を見ると、その可能性は否定できない。
「福岡県の歴史」によると、島原の乱以後、徳川家光はポルトガル船の来航を禁止した。なおも通商を求めたポルトガルの大使ら61人を斬首し、ポルトガルの報復を恐れて福岡藩に長崎の警備を命じている。なにゆえ、これほどまでに過酷な処罰をポルトガルに与えたのか。
服部英雄氏ら乱の研究者によれば、一揆軍はポルトガルの援軍を期待して決起し、乱を日本国内に波及させる計画だったのではないかという。当時のイエズス会の記録「カリバーリョ弁駁書」には、原城に立て篭もった一揆軍にローマ教皇から援軍を送るという内密があったと書かれているという。カトリック教国のポルトガル王国の援軍が来るまで籠城する作戦で、実際にポルトガル軍は日本上陸を試みたが、失敗したともいわれる。
この説が正しければ、幕府側の要請を受けたプロテスタント国のオランダ軍の軍艦が乱制圧に味方したのも説明がつく。その後の幕府のポルトガル排除は、報復だったとも考えられる。
◇
秀吉が紀州攻めを決断し、諸大名に出兵の号令を発したのは、長谷川秀一の家来が高野から帰ってきて一カ月後の天正十三年(一八五八)三月十日だった。
秀吉は自ら総大将となり、弟秀長、甥秀次を副将に、細川藤高、忠興父子、蒲生氏郷、中川秀政、高山右近、筒井定次、堀秀政、福島正則、小西行長らの諸将を動員した。総勢十万人の大軍だった。数年前から、何度も計画しながら、実現しなかった紀州征伐がここに、ようやく現実のものとなった。
《この戦に勝てば、世の中の流れは確実に俺のほうに向いてくる。小牧長久手で遅れた天下統一も果たせよう。この戦だけは、どんな事があっても落としてはならぬ》
秀吉はこの戦に全力をかけた。
三月二十日、先陣の羽柴孫七郎(秀次)が大坂を出発し、岸和田の額塚(ぬかづか)に陣取った。
小牧長久手の戦いで家康・信雄軍に大敗北を喫した秀次にとっては、この戦いは汚名を晴らし、名誉を回復するために与えられた最後の機会だった。
もしもこの戦で再び失敗することがあれば、秀吉の世継ぎの地位も危うくなるだけでなく、度重なる敗北の責任から詰め腹を切らされる恐れさえあった。
秀次にとっては背水の陣であり、絶対に負けることの許されない一戦である。緊張に青ざめた馬上の秀次に、家臣の中にもあえて声をかける者はいなかった。
秀次の隊が通過した翌二十一日、秀吉が本隊を率いて堺を通り、岸和田に向かった。
フロイスが書き残した記録によれば、秀吉が堺を通過したのは西暦一五八五年(天正一三年)聖土曜日の四月二十日(旧暦三月二十一日)正午ごろだった。
全軍の先頭には三か国の領主でまだ十七歳の宇喜多秀家が立ち、一万三千人の兵を率いて進んだ。その後には、出陣に先立ちキリシタンに改宗したばかりの蒲生氏郷が五千人を率いて続いた。さらに、その後を五十人の、身分ある若武者が五本の長い絹製の軍旗と七頭の馬を従えて徒歩で歩いた。
若武者の後ろには背中に母衣(ほろ)を付けた千六百人の騎馬武者が粛粛と続き、その後を二人の若武者が進んだ。若武者は金の刺繍で縁取りした袋に太刀を入れて肩にかついでいた。
やがて、黒い馬にまたがった秀吉が姿を見せた。
秀吉の馬の両側には二人の若い武士が従い、くつわをとっている。別の武士が後ろから日傘を差し掛けている。秀吉の横には小西行長の父で、クリスチャンの小西ジョウチン立佐が歩き、秀吉と言葉を交わしながら進んだ。
秀吉の周りには、それ以外のだれも近寄ることは許されなかった。
秀吉は白いダマスコ織りの小袖の上に赤い絹の道服をまとい、ビロードで出来た緋色の帽子をかぶっていた。
秀吉の後を一万人の金色の槍を持った足軽、七千人の鉄砲隊、五千人の弓隊、二千人の長刀組が列をなして続いた。
鉄砲による狙撃を警戒して、街道の両側の民家は堅く戸を閉ざすよう命ぜられた。住人は家の中から出ることを許されなかった。
秀吉が狙撃を恐れるのは、元亀元年(一五七〇年)に信長が狙撃され、あやうく殺されかけた事件があったからだ。
この年五月、信長が甲賀から伊賀に抜ける千草越を通りかかった際、木の上で待ちぶせていた鉄砲の名手、杉谷善住坊が馬上の信長を狙い撃った。
弾は信長の小袖の裾を貫いたが、信長にけがはなかった。善住坊はその場から逃走した。のちに捕まって、のこぎり引きの刑に処せられた。
このとき以来、秀吉は狙撃を極端に警戒するようになった。
進軍するときは、必ず事前に沿道を徹底的に調べさせ、不審な人間がいないかどうか確認させた。
一方で秀吉は己の勢力を誇示し敵を威嚇することも、戦の一部と考えていた。そのためには、危険を冒すことも必要と考えていた。
危険を避け、しかも自らの勢力を見せ付けるため、秀吉は鉄砲や矢の届かない距離に見張りの兵を置き、指定した場所から見ることを許した。
今回の行列でも、道から遠く離れた両側の丘の上で、大勢の群衆が見物していた。群衆はこの派手派手しい、いかにも秀吉好みの示威行進を興味深げに見守った。
丘の上からは、堺の沖合を進む小西行長の船隊が見えた。
今回の和泉出陣では小西行長や高山右近ら切支丹大名に先陣を務める役割が与えられていた。秀吉は、異教への憎悪を持つ切支丹に僧兵征伐を率先させることによって、彼らが必死で戦うことを期待した。
高山右近もまた行軍の行列の中にあった。
フロイスに頼んだガリオン船はルソンにいるため、今回の戦には間に合わない。代わりに小型の戦艦が九州から回航されてくることに決まっていた。
内陸の根来は遠すぎるにしても、和泉の浜に設けられた小さな砦なら、十分大砲の弾は届く。雑賀から和泉の砦に弾薬や食糧を運ぶ船を攻撃することもできる。
布教を常に妨害する悪魔の化身たちを撃ち破れば、布教は少しはやりやすくなるかも知れない。それに、ポルトガルの手先との疑いをかけられている切支丹を迫害から守るためには、戦での功績を積み、秀吉に忠誠心を示すのがもっとも効果的な方法だった。
海を進む小西行長の兵船を見ながら、右近は神を称える聖句を口にした。
堺の町には大勢の切支丹の町衆が住んでいる。彼らは、仏に仕える身でありながら殺戮を繰り返す僧兵に生理的な嫌悪を感じていた。彼らは積極的に武器弾薬を秀吉軍に提供した。
かつて鉄砲を早く取り入れた者同士として、堺の町衆にも親近感をもたれていた根来衆は、いまや畿内全体が秀吉の力になびく中、孤立し見放されつつあった。