「何たる悪しき法師ばらの口のききようじゃ。かような無礼は断じて許さん」
九死に一生を得て、大坂城に戻ってきた秀一の従臣の報告を聞いて、秀吉は居並ぶ家臣と諸侯を前に激高した。
「御仏を重んじ、話し合いで解決しようとしてやったのに、悪しざまに誹謗して和平を嘲り、あまつさえ、鉄砲で使者を襲うとは。全くもって粗暴としかいいようがない。もはや、奴らにこれ以上の情をかけることは無用。分をわきまえぬ驕りの報いを思い知らしてやらねばなるまい」
秀吉の怒りは、罵れば罵るほど高ぶった。
「畠山が国守の時代には、その命に唯々諾々と従い、手先になりながら、『四百余年守護不入、三十二代王法に塩梅(あんばい=采配)されず』などと嘘言を弄す。法師の身で妄語戒を破ること甚だしい。しかも他人の領地を奪って窃盗戒を犯し、干戈闘諍(かんかとうじょう)を常として殺生戒をあなどる。飲酒邪淫の両戒を朝夕に無視して世間の非難を顧みぬ。奴ら根来の破戒坊主どもをこのまま打ち捨てておけば、天下の政道が廃れる。直ちに紀州に発向して踏み潰してくれよう」
家臣たちは、秀吉の怒りに圧倒され、緊張してじっと聞いている。ふだんは冷静な秀吉がこれだけ激高するのは珍しいことだった。
秀吉は根来、雑賀の紀州勢に深い恨みを抱いていた。
昨年(天正十二年=一五八三)三月、秀吉が尾張表に向かった時、根来の行人ら紀州勢は、数万の軍勢を大坂に送り込み、秀吉の背後を脅かした。
幸い岸和田城に残しておいた中村一氏の兵五千が彼らを撃ち破り、大坂城を焼こうとする彼らの目論見を防いだ。この勝利がなかったら、秀吉は背後を突かれ、味方は大混乱に陥ったことだろう。
いや、実際のところ大いに損害を受けている。背後での彼らの蠢動(しゅんどう)で、注意力をそがれ、小牧長久手での合戦で手痛い敗北をしたともいえる。小牧での屈辱的な負け戦がなければ、家康と和解などする必要もなく、もっと易々と天下を制することができたであろう。
家康と手打ちした今も、根来と雑賀は、秀吉の天下制覇に立ちはだかる大きな障害だった。
生来、秀吉は坊主が嫌いだった。子供のころ修行にやられた尾張甚目寺の寺では、先輩僧から生意気であると難癖をつけられ、さんざんいたぶられた。
師僧も、学問が嫌いで戦のまね事の好きな秀吉を嫌い、見てみぬふりをした。秀吉の方も嫌われていることを知っていて、僧たちに反発し、逆に彼らを軽蔑した。
甚目寺の寺には百姓の出身である僧兵が警護のために詰めていた。彼らは弓矢を持ち、寺の境界が武士たちに侵されていないか、警戒していた。頭をそっていることを除けば、なんら足軽と異なるところはなかった。
しかし、秀吉は僧兵を百姓と同様に軽蔑していた。所詮、僧兵は寺の雇われ者であり、坊主のいいなりに戦わされる道具にすぎない。本当に力を持ち、世の中を動かしているのは武士であると信じていた。
農村に生まれながら百姓を嫌った秀吉は、百姓の側に立つ一向宗や真言宗の寺院勢力をもまた憎み蔑んだ。
信長の家臣になってからも、秀吉にとって寺と僧兵は不倶戴天の敵だった。
天正四年(一五七六)の本願寺天王寺砦の攻防で、秀吉の部隊は雑賀を主力とする一向衆徒の鉄砲の攻撃にさらされ、大きな犠牲を出した。
その翌年、石山寺への後詰めを断ち切るため、信長が紀伊雑賀に攻め込んだ戦でも、雑賀川の戦いで雑賀衆の鉄砲に進軍を阻まれた。
元亀元年(一五七〇)四月、秀吉が殿軍をつとめた越前金ケ崎城の退き口では、朝倉と結んだ一向衆徒の執拗な夜襲と、奇襲攻撃に苦しめられた。
これら宗徒や僧兵たちから受けた苦い体験が、生来の坊主嫌いを一層激しいものにした。
元亀二年(一五七一)九月、信長が比叡山を焼き討ちした。このとき、信長の家臣の佐久間信盛や武井夕庵が「前代未聞のこと」と諌めたが、秀吉は信長の行為を止めようとしなかった。
信長は佐久間信盛らの諌言に耳を貸さず、全軍に総攻撃を命じた。根本中堂、山王二十一社、東塔、西塔、無動寺以下もろもろの堂社が焼かれ、僧俗合わせて数千人が殺された。
僧たちは非道の信長であっても、まさか根本中堂まで破壊することは無いと考え、坂本の町人にも呼び掛けて山頂の堂に避難していた。
このとき、秀吉の軍勢の守っていた部署だけは兵が寛容で、山上から逃れる人々や、運び出された宝物類を見逃したという説がある。だが、それは秀吉を美化する後世の創作の可能性が高い。信長に盲目的に仕えていた秀吉が信長の命令に背くことは考えられない。
「その他、美女小童その数を知らず召し捕り、召し連れ御前へ参り、悪僧の儀は是非に及ばず(=仕方がないが)、これは御(お)たすけなされ候へと、声声に申し上げ候といへども、なかなか御許容なく、いちいちに首を打ち落とされ、目も当てられぬ有り様なり」
信長公記は、信長の非道な仕打ち、残虐さをこのように伝えている。
このとき、秀吉は信長の蛮行を諌めるどころか、積極的に手助けした。のちに秀吉は根来寺の砦攻め、太田城攻めで信長のこの手法をまね、徹底的な破壊と殺戮を行った。
仏僧に対する憎しみは、むしろ信長より秀吉の方が激しかったかも知れない。
信長や秀吉の暴挙を「中世から近世へ変わる時代にあって、政治と宗教の分離は必然であり、むしろ高く評価すべきである」という者がいる。だが、無抵抗の子どもや女を殺戮することが時代の変革に必要か。
信長の機嫌を損ねることを恐れ、非道さに目をつぶった武将が多い中で、「これはお助けなされ候へ」と必死で懇願した佐久間信盛らは正常な感覚を持っていた。
死の恐怖に震え、涙を流している女や小坊主の顔を見て、不利になるかもしれない自らの立場も忘れてとりなしたのであろう。
佐久間信盛は織田家の家督相続のときに信長を支持し、信長の信任を得たが、叡山焼き討ちのあとの天正八年(一五八〇)、信長から石山合戦での攻撃の不手際など十九カ条の罪状をあげつらわれ、子の佐久間正勝とともに放逐された。
信長の折檻状は「五年間、本願寺との戦で十分な働きをしていない。武力に訴えず、策略も使わなかった」と罵り、「自分に奉公して三十年間、比類なき働きは一度もなかった」と切り捨てた。
佐久間信盛には、長島一向宗との戦や長篠合戦にも従軍し、命をかけて主君信長に尽くしたという自負があった。
確かに石山寺との戦では、雑賀衆の鉄砲に悩まされ十分な働きが出来なかったのは事実である。しかし、信盛としては死力を尽くして戦ったと思っていた。
いったん気に入らなくなると、決して人を許そうとしない酷薄な信長に愛想を尽かした信盛は、追放されたあと剃髪して高野山に入り、最後は十津川で死んだ。享年五十五歳だった。
結局のところ、非情冷徹な信長と佐久間のような柔和な心をもつ人間とは、お互いに相容れなかったのである。秀吉もまた非情さでは信長に劣らなかった。
「本来なら根来の知行を残らず没収し、全員追放すべきところ、二万石の所領は認めてやろうというのだ。その使者に鉄砲を向けて殺害を企てるとは、温情を仇で返すものである。坊主が戦にかかわる時代は終わった。もはや奴らをこれ以上、野放しにしておくことはできぬ」
秀吉は手に持っていた扇を脇息に打ち付け、声を荒げた。
◇
口では怒りながら、頭の中で秀吉は冷静に状況を計算していた。
大名を従えるためには、これまで畿内有数の武力を誇ってきた根来を滅ぼすことが、大きなみせしめになる。しかし、そのためには、こちらも多大な犠牲を払わねばならない。何とかこれを少しでも避ける方法はないものか。
秀吉は根来征伐の大義名分をあれこれ考えていた。
戦を有利に運ぶためには、天皇の権威と綸旨が大いに役にたつ。
和泉の地侍や土豪の中には、根来の僧院に子弟を送り込んでいるものも少なくない。彼らは秀吉の力を知ってはいるものの、肉親の情愛から、どちらに付くか悩んでいる。天皇の綸旨があれば、彼らも味方につく。
ただ、綸旨を得るにはそれなりの理由がいる。
根来寺は鳥羽上皇の帰依以来、皇室とのゆかりが深く、根来寺の方でもまた、天皇家を厚く尊崇している。根来を朝敵にするためには、何らかの口実がなくてはならない。
紀州発向の大義名分がないか、秀吉は長らく考え続けてきた。その名分が向こうから転がり込んできたことは、願ってもない幸運だった。
根来との争いが避けられないことは、秀吉にはよくわかっていた。
西国を支配下に置くためには、大坂を完璧に押さえておく必要がある。その守りの拠点である大坂城の安全を確保するためには、大和川を隔てて指呼の間(しこのかん=目前)にある泉州の地と、さらにその南の紀州を征服し、南からの脅威を除いておかなければならない。
そのためには、泉州と紀州に蟠踞(ばんきょ=占拠)する根来寺勢力を根絶しなければならない。
根来の軍勢によって大坂城が危険にさらされた昨年の苦い経験を、秀吉は忘れていなかった。
昨年三月、小牧長久手での合戦で苦杯をなめた後、十一月に家康と和睦するまでの間に、すでに秀吉は紀州発向の準備を進めていた。
八月に、秀吉は岸和田城の中村一氏に命じて、泉州から紀北にかけての地理を調べさせた。
一氏は、家康側についた河内国見山城の保田安次(佐久間安政)に対抗するため、河内高屋城の奥にある烏帽子形古城(河内長野市)を修復した。
保田安次は、天正十一年(一五八三)四月の賎ケ岳の戦いで敗死した佐久間盛政の弟である。
兄とともに味方した柴田勝家が、賎ケ岳の戦いで敗れ、越前で自害した後、保田安次は根来寺に亡命した。一年間の雌伏のあと、天正十二年四月、家康・信雄の呼び掛けに呼応して河内国見山に進出した。
中村一氏は烏帽子形古城を修復するにあたって、河内と和泉の寺や地侍に支援を求めた。貝塚の願泉寺にいた本願寺顕如は一氏に鍬五十丁を届けた。秀吉の軍事力の巨大さを悟った顕如は、早くもこの時点で服従した。
岸和田城の中村一氏の手勢は二千四百人ばかりだったが、和泉の地侍七十人の率いる二千人が加わった。
その中の一人で泉大津を根拠地とする水軍を率いる真鍋貞成は、雑賀衆の海からの攻撃を防ぐ有力な味方となった。
これに対し、真鍋氏と敵対関係にあった淡路島洲本の海賊、菅平右衛門(達長)は雑賀・根来側に付いた。菅氏は四国の長曾我部に属し、秀吉に対抗した。
和泉の地侍の中に土生(はぶ)十右衛門がいた。十右衛門は、昨年三月の岸和田での戦いで中村一氏に属し、根来方の勇士小密茶と槍を合わせて、武勇をうたわれた。
和泉の地侍の中には、一氏につくべきか、根来につくべきか、去就に迷っている者も多かった。真鍋や土生といった武士たちも、一族の将来を考えたうえで、一向宗の顕如と同様、結局は秀吉側につくことを選んだ。
秀吉は在地の武士を取り込むとともに、河内の土豪や寺への懐柔策を進めた。九月に河内金剛寺に対し、先に没収した三百石の寺領を返した。
十一月には河内久宝寺の土豪安井定次の屋敷を安堵した。安井定次は、数年前から堺で仕入れた火薬を秀吉に提供し、秀吉方の武将達に深く取り入っていた。
河内や和泉の中小の土豪は、常に変わる支配者に対応して立場を変えてきた。かつては畠山、三好、松永に従属していたが、彼らが没落したあとは信長に臣従した。その信長が明智光秀によって倒されたあとは、だれにつくかで大いに迷った。
その中で、安井定次は天正十一年(一五八三)年四月の北国賎ケ岳の戦いで秀吉が勝利を収めると、いちはやく秀吉に従った。
根来に比べれば、一向宗徒らの動きは妥協的だったが、慎重な秀吉が気を抜くことはなかった。
ことし天正十三年三月、夫人の北政所高台院(お寧)を通じて本願寺顕如に働き掛け、秀吉と雑賀が闘うことになった場合も中立を守ることを約束させた。十月には顕如のいる和泉貝塚の願泉寺に対し、配下の大名が願泉寺を陣地にすることや、兵士を入れることを禁止する制札を与えた。これに対して顕如は丁重な礼状を出した。一向宗はもはや完全に牙を抜かれていた。
天正十一年の暮れには、秀吉は甥の丹波亀山城主、羽柴秀勝(秀次の弟)に毛利輝元の娘をめとらせた。十二年の二月には輝元からの人質である小早川秀包に河内で一万石を与えた。西国の有力大名、毛利への懐柔工作も抜かりなく進めていた。
根来、雑賀はじわじわと包囲されつつあった。あとは攻撃のきっかけがあればよかった。
◇
「まことに殿下の仰せられるとおりでございます。根来の破戒坊主や和泉の百姓たちなど、何程のことがありましょう。かつて信長公が紀伊を攻めたときは西国に毛利もおり、京もまた三好の残党に攻撃される恐れがありました。しかし、今は状況が異なります。畿内は我が軍の手中にあり、毛利も我が味方となりました。土佐の長曾我部など恐るるに足りませぬ」
黒田官兵衛が、秀吉をなだめるようにいった。
「さっそく岸和田の中村一氏には、攻撃の準備をするように命じておきました。根来は近木川の岸にある砦を急ぎ修復しておりますが、工事が完成せぬうちに攻めるのが肝要と存じます。根来の鉄砲にはくれぐれも警戒が必要です」
官兵衛は慎重だった。
「小早川隆景に岸和田に警護船を出すように伝えよ。砦の中にいる人間は、一人も生かすな。皆殺しにせよ」
秀吉は表情を変えず、攻撃準備を命じた。
怒りが収まると、秀吉はそのまま黙って考えこんだ。
いま秀吉の頭にあるのは、南蛮人の宣教師たちのことだった。
彼らの乗ってきたガリオン船を借り、紀州勢が貝塚の浜に築いた砦を砲撃できないかと考えたのだ。
《宣教師たちには随分と布教のために便宜を図ってやった。これからも布教を認めてやる代わりに協力せよといってやれば、いうことを聞くだろう》
《奴らは仏僧を悪魔のように嫌っている。悪魔を倒すといえば、味方するに違いない》
秀吉は、仏や日本の神のことをサタンと呼んで、忌み嫌うイエズス会の宣教師たちの顔を思い浮かべた。
ガリオン船に積んだ大砲の射程は一里はある。和泉表の根来の出城のうち、浜の城など近いところなら届くはずだ。
南蛮人が自分達に攻撃を仕掛けたのを見れば、根来や一向宗の坊主はいきり立つかもしれないが、南蛮の大砲の威力を見たことのない砦の百姓どもはさぞかし、腰を抜かせるに違いない。
秀吉は冷酷な笑みを浮かべた。
◇
信長が存命中に日本に滞在したパードレのガスパル・ビレラによる「耶蘇会士日本通信」(イエズス会への通信)には、根来について次のように記述されている。
《日本の他の坊主らはことごとく頭を剃り、髪を切って、世の中の快楽を一切捨てることを表すが、根来と称する者のみは頭髪を伸ばし、剃ることをしない。彼らは騎士団員のごとく、その職は戦争にして、日本の諸国に戦争多きがゆえに、金銭をもって彼らを雇い入れる。彼らは常に二万余人の専ら戦を練習せる者を準備し、たとえ戦争で多数死するも、これらの僧院はじきに再び欠員を補う。同所においては衣食および肉の欲する所はことごとく得られること確実なるがゆえなり》(村上直次郎氏の訳による)
《彼らは死を恐れる事甚だしからざる人にして、来世を求めんとする人のごとくならず。むしろ畜生のごとき生活をなす。戦争のため、各人毎日七本の矢を作るを職とし、毎週銃および弓の試射をなし、武技を重んじ、常にこれを練習す。婦人は彼らの忌むべきものなるがゆえに、僧院に入ることを得ず。しかし、彼らは長命ならざることを知るがゆえに、その生存中、この世を楽しまんといいて、これを実行する》
また、宣教師ルイス・フロイスによる一五八五年十月一日付の書簡には次のように記されている。
《根来の仏僧の生活の仕方は、絶え間のない軍事訓練で、その宗派の憲章として、毎日矢を作ることを規則としており、たくさん射れば射るほど価値がある。世俗の兵士のような服装をし、絹の着物を着、豊かなので大小の刀には金の飾りを付け、衣服については世俗の人と変わるところがない。容貌は傲慢・不機嫌で、彼らが仕えている主が何者かすぐわかる。都の近くの国で、日本の諸侯や領主が戦う時は、これらの仏僧を兵士として雇う。彼らはヨーロッパにおけるゲルマン人のように、戦の熟練者で、とくに日常訓練している銃と弓矢に長けており、良い待遇を与えるものと行動をともにする》(松田氏訳)
このように宣教師たちは、根来の僧を悪魔のように描写している。
その没落は彼らが神に祈ってきたことであった。
パードレたちが日本にもたらしたキリスト教は博愛を説く。
盲目の琵琶法師であったロレンソ(了斎)は、ザビエルの説く人間愛の教えに打たれて入信した。
武将たちには現実的な利益をあてにして入信したものもあったが、子女たちは女性に理解あるキリスト教の教えに引き込まれた。
とはいえ、キリスト教の愛はなべての生き物に注がれるのではない。あくまでもキリストを信仰するものに限っての慈愛である。
キリストに敵対するものはだれであっても悪魔の手先であり、滅ぼされるべきものだった。
結果的にキリストに帰依するものが増えるのなら、寺が焼かれ仏僧が殺されることは、むしろパードレたちにとっては歓迎すべきことである。
のちの江戸時代に天草四郎指導のキリシタン宗徒たちによる島原の乱が起きたとき、オランダの軍艦は幕府に依頼され、島原城のキリシタン農民たちに大砲を打ち込んだ。
当時、島原の農民たちの信じるカトリック旧教は、オランダなどの信奉するプロテスタント新教とは敵対していた。
同じキリストを信じる者であっても、宗派が違えば攻撃をはばからないのは、日本の寺院勢力と似ている。キリシタンの説く他者への愛も、他宗派の信者には与えられない。
秀吉はパードレたちが、要請を受け入れると信じた。
秀吉は一月ほど前に大坂城を訪ねてきた高山右近の顔を思い出した。
右近は領地の高槻で領民をキリスト教に改宗させる帰信令を出すことに秀吉の許可を得るため、秀吉に目通りを求めてきた。
このとき、秀吉は長谷川秀一と根来の交渉が気になって、右近にはわずかの時間会っただけだった。帰信令の許可は初めから与える積もりだったので、面会はすぐに終わった。右近は丁重に礼をいって帰っていった。
右近のいる高槻の教会には、キリシタンの宣教師たちも多数滞在しているはずだった。
右近とキリシタンのパードレたちを通じて、軍艦と大砲を調達し、根来との戦いに使いたい。そんな思い付きに、秀吉は少し興奮した。
秀吉は右筆に、船の斡旋が可能かどうかを問う右近への書状を書かせた。それから小姓を呼んで、高槻の右近に届けるように伝えた。