秀吉もまた足利尊氏や織田信長と同様に、表向きは皇室を敬った。
源頼朝や足利尊氏ら武士の名門に生まれた将軍たちとは違い、生まれの卑しい秀吉にとって、天皇は本来近づくことさえできない雲の上の存在だった。
その天皇に親しくまみえる地位についたことは、秀吉の自尊心を大いに満足させた。秀吉は進んで皇室に接近した。もちろん、皇室によって自らの天下を権威づけることも計算の上だった。
秀吉は懇意だった右大臣の菊亭晴季を通じて朝廷にたびたび金銀や物品を献上した。
長らく続いた戦国の騒乱で内裏の修復費にもこと欠いていた朝廷は、支援者の出現を喜んだ。
天正十年(一五八二)十月、朝廷は明智光秀討伐の功により、秀吉に昇殿を許した。十一年五月には柴田勝家討伐の功で参議に任命した。
天正十三年三月、秀吉は内大臣に昇進した。秀吉は参内して、銀子千両、太刀一振りを献じた。秀吉と朝廷の関係はますます緊密になった。
秀吉が農民を踏み台にする一方で、伝統的な天皇の権威には追従することが、根来の行人たちが秀吉を憎む理由の一つだった。伝統的権威を利用する秀吉と、独立不羈の根来はお互いに相容れない存在だった。
◇
秀吉の侵攻に備える砦の構築は突貫工事で進められた。
和泉表の多くの砦は小高い岡の頂上に作られていた。尾根を伝って敵が攻めないように尾根道を切り、頂上部分だけを孤立させて矢倉を築いた。矢倉には鉄砲を持った番衆が詰めた。
砦は城とも呼ばれる。城は「代(しろ)」であり、苗代や屋代(社)と同様に、「区画」「占有地」を意味する。山頂の一画を仕切って、防御に用いたのが城の語源という。
山の頂上には露出した岩が多く、防御の陣地に適している。また、古くから山頂は山岳宗教の聖地であり、神が降臨するところとされていた。精神的な「依代(よりしろ=神が占拠したもの)」として、守る側の最後の拠り所でもあった。山の上の岩が集まったところを「岩代」(いわしろ)という。古い城の多くは山城であり、山頂の岩を防御に使ったことから、「しろ」が城の意味になったのかも知れない。城は「き」とも呼ばれた。
もともと「しろ」は動詞「しる」から派生した言葉である。「領(し)る」「治(し)る」と書かれるように「占有支配する」意味がある。事物を意のままに支配する(マスター)という意味から「知る」という意味が派生した。占有したことを示すため、土地に目印をつけることから「印(しる)す」「印(しるし)」という言葉が生まれた。印には目立つ(しるい=著しい)色として「しろ=白」色が着けられたとも考えられる。
古代には、山頂を石塁と土塁で囲む朝鮮式の城が築かれた。塁の内側には食糧倉庫や住居などが作られ、平野部が敵に占拠されても、峻険な山頂に逃げ込めば、敵の追撃を逃れて抵抗を続けることができた。
鎌倉末期から南北朝時代、諸国に台頭した「悪党」たちは、この山城を大いに活用した。幕府軍から追われると、彼らはすぐに山城に逃げ込み、険しい地形を利用して、追ってきた軍隊を寄せ付けなかった。
楠木正成は、千早、赤坂城にこもったわずかな兵で、数十万の鎌倉幕府軍を翻弄したが、それも山岳戦に彼らが慣れていたからに外ならない。
山は水の浸食から残った部分が尾根となって、頂上から木の根状に四方に伸びている。山頂にある城を攻める場合、敵に見下ろされる山裾から直登するよりも、尾根伝いに進むのが安全である。守る側からすれば、この尾根道を切ることで敵の侵入を妨害することができる。これを「堀切」という。
味方が通れるよう切らずに残された一、二本の尾根道が砦への通路となる。砦への入り口には石を積み上げて城門(木戸)とした。
山裾から斜面を直登してきた敵が、横に移動するのを防ぐため、山腹から下に向かって縦に複数の堀が掘られた。これを「竪堀」という。
その後、城が平地に造られるようになると、周囲に空堀を何重にも掘って、その土を内側に積み上げ、全体を土塁で囲った堅固な曲輪(くるわ)が設けられた。土塁の内側は平らにならされ、平場をつくった。
平場には小屋が建てられ、守備兵や作事の職人たちが住んだ。篭城ともなれば、多くの兵や領民が長期間、城の中で暮らすことになる。
曲輪と曲輪の間は土橋で結び、行き来ができるようにした。仮に敵の攻撃が激しくて持ちこたえられず、一つの曲輪が敵に落とされても、次の曲輪まで退却して、防御できる構造になっていた。
砦の出入りは土塁を小さく切って設けられた小口、すなわち虎口(こぐち)が使われた。虎口は守る側にとっては防御上の弱点でもある。そこで、虎口の前に虎口を守る前進基地の役目を果たす小曲輪「馬出し」が設けられた。
曲輪の側面には、塁壁を折り曲げて、塁の一部を突き出させた「横矢がかり」が作られた。塁に押し寄せてくる敵に横方向から矢や鉄砲を浴びせるための仕掛けである。「横矢がかり」は塁に開けられた虎口の左右にも作られることが多かった。
城を攻める側は、まずこの「横矢がかり」に押し寄せ、矢を射る敵兵を攻撃した。横矢がかりの敵兵がいなくなって初めて、塁の攻略に取り掛かることが出来る。
曲輪の角には櫓が作られた。櫓は矢座(やぐら)のことであり、足場を組んで高所から敵に矢を浴びせかけるための建物だった。矢倉には、山車矢倉(だしやぐら)と呼ばれるものもあった。木で作った矢倉に大きな車輪を付け、敵が攻めてきた場所に移動させて、上から矢を射かけた。祭礼の山車ややぐらはこれに由来するという説もある。
砦のふもとには根小屋と呼ばれる集落が作られ、平時はここに住んだ。
大きな砦の周りには小さな砦が築かれ、相互に支援できるようにした。和泉表の根来側の砦では、千石堀城や積善寺城が主城に、沢城や畠中城などは支城にあたる。城は連携して防衛線を作っていた。
城を攻めるときに造られる小さな城は、付城(つけじろ)や向城(むかいじろ)と呼ばれた。戦が膠着状態になったときに造られ、攻め手は付城を拠点に相手の城に圧力をかけた。
山城と山城との意志疎通は狼煙(のろし)によって行われた。狼煙とは、文字通り、もとは狼の糞を乾かしたものを燃やして煙を上らせる通信方法だった。
城の周りには逆茂木(さかもぎ)や乱杭(らんぐい)、虎落(もがり)をめぐらした。
逆茂木は土塁の外側に杭を打って、杭と杭の間に横木を渡し、枝を外側に向けた木を並べた防御の道具である。乱杭は両端を尖らせた杭を土塁に打ち込み、杭の間につるなどを結び付けて侵入を防いだもの。虎落は竹を斜めに結び合わせて柵にしたものをいう。
水の確保は築城では最も重要である。山城を築く場合は、湧き水のあるところに本丸が造られ、泉は敵に奪われないように土塁で囲んだ。平地につくられる平城の場合は、城の中に深い井戸を掘った。
また、深い池を掘って塁で囲み、貯水池と堀を兼ねることもあった。
これらの築城法は戦国時代になって急速に発達した。
先の岸和田の戦で城の攻略にてこずった経験から、根来側は攻撃より防御を優先すると決めていた。
近郷の荘園の若者を駆り出して、千石堀城、積善寺城、沢城、畠中城、田中城など近木川の流域に構えた城を補強した。このうち、千石堀城は小高い丘陵を利用した砦で、片方は灌漑用の大池を堀代わりにし、もう一方は山を切り取って断崖にした。
凍てついた土を鍬で掘り、木の根を起こして堀をつくった。工事は厳しく、作業中に倒れてきた木の下敷きになったり、切り立った崖から落ちて命を落としたりする者もいた。
秀吉の攻撃は迫っていた。もはや一刻の猶予もならなかった。
◇
根来側が和泉表で砦の補強にかかったころ、根来を脱出した長谷川秀一は従者二人とともに高野に向かっていた。
宿坊を襲われた時、秀一と家臣たちは寝付いたところだった。
突然の銃声とともに銃弾が雨戸を突き破って飛んできた。
秀一たちは飛び起き、銃弾が飛ぶ中を、身をかがめて宿坊の裏側に逃れた。
寝込みを襲われ、枕もとの短刀をつかむのが精一杯だった。
宿坊を逃れてから三日間、山野をかきわけ、崖下で夜を過ごした。生のキノコや木の実以外はほとんど何も食べていなかった。崖を登るときに握った笹やすすきで手は傷つき、裸足の指も切れて血まみれになった。はげた木の皮をつるで足にくくりつけ、沓(くつ)にした。
途中、根来方の行人に追いつかれた。後ろから近付いてくる集団の気配に気付いた秀一らは、息を殺して道端の松の陰に隠れた。その直後に鉄砲をかついだ五、六人の行人たちが、急ぎ足で息を切らして通っていった。
「気をつけよ。敵が潜んでおるやも知れぬ」
行人の一人が前を行く行人に声をかけている。
「心得た」
前の行人は緊張した面持ちで応じた。
行人たちは鎧を着け、脚半をはいている。
あわただしく行人たちが通ったあと、焦げ臭い臭いが漂ってきた。火縄の燃える臭いだった。
秀一らは身を堅くして、彼らが通り過ぎ、声が聞こえなくなるのを待った。秀一は短刀を握り締めた。
秀一たちが息を潜めているそばを、遅れてきた男たちが通り過ぎていく。秀一らの武器は一本の刀だけだった。男達に見付かったら、たちまち射殺されるだろう。
男達は遠ざかっていった。行人たちが秀一たちを追ってきたのか。それとも、秀吉との戦に備えて、根来の旗親が紀州の各地の砦に鉄砲隊を派遣したのか。いずれにしても、このまま道を進むのは危険だった。三人は道を外れ、尾根を目指して山の中を草木を掻き分けて進んだ。
方角の見当をつけ、音を立てずに、ゆっくりと進む。松の葉が目に突き刺さらないように、手で目を守りながら、頭を低くし、這うように山の頂上をめざした。
四人いた従者のうち、二人はついてこなかった。恐らく宿舎で撃ち殺されたのだろう。
三人は沢を上り、上から地形が見てとれる山頂を目指した。従者の一人は先導し、危険なところでは、他の者に注意を促した。秀一は二人をつけてくれた秀長の配慮に感謝した。この二人がいなかったら、紀州の山の中で道を失って、疲労で死んでしまったに違いない。
秀吉の舎弟、豊臣秀長は兄とは異なり、穏やかな性格だった。直接、秀吉にものをいいにくい諸国の大名たちは、もっぱら秀長に口利きを依頼した。秀長もまた、心安く頼みを聞いて仲介した。
秀長は、ときには兄に厳しい批判もした。連戦連勝でつい自惚れがちになる兄に率直に意見し、慢心を戒めた。
兄に接する武将達の振る舞いを冷静に観察して、信用できる人物であるかどうかを見極め、秀吉に助言した。ほかの人間の諫言には容易に耳を貸さない秀吉も秀長の意見には静かに耳を傾けた。絶対に裏切られる心配のない肉親の秀長を、秀吉は心から頼りにしていた。
秀一は、今回の根来への出発に当たって、秀長に挨拶に行った。
秀長は秀一に対して、有益な注意を与えた。
根来の中の行人の勢力図や旗親たちの関係、高野と根来の対立の由来などの知識のほか、根来の行人の気質まで語った。そして、万一の場合に備え、自分の家臣の中から、高野に通じる道などを詳しく知っている二人を供につけてくれた。
木の枝を支えに、急な勾配を登って尾根に上がると、眼下に紀の川の流れが見えた。根来からはもう相当遠くへ来ていた。
あと少し行けば、高野の領地に入る。そう思うと、疲れた体に力が蘇ってきた。
尾根から地理を確かめた三人は、敵に見付からないように、再び尾根道を外れ、谷沿いに進んだ。赤い沢蟹があわてて左右に逃げ、川の中の岩陰に身を隠した。
根来から高野まで、普段なら一日で十分行ける道のりだが、敵を警戒しながら、道を避けて谷沿いを進むのは手間取った。根来を脱出して四日目の夜、ようやく秀一たちは、高野の麓の村にたどり着いた。
◇
麓の村には金剛峰寺の末寺があり、高野の行人たちが、山から下りて警備していた。
寺の門前に着くと、秀一たちは門をたたいて、大声で人を呼んだ。槍や刀を持った大勢の行人が飛び出してきて彼らを取り囲んだ。
秀一は、根来を追われ逃げてきたと話し、木食応其上人に会わせてくれるよう頼んだ。
高野の行人たちは最初、なかなか警戒を解かなかった。だが、秀一が懐から取り出した秀長の朱印を見て納得した。ここでも、万一に備えて秀一に朱印を持たせた秀長の細かい配慮が役に立った。もし朱印を持っていなかったら、得体の知れない風体の三人の言葉を行人たちが信じるはずがなかった。
行人たちは寺の中に三人を導きいれて食事を与え、高野の山上に使者を送った。
高野山金剛峰寺からの指示はその夜のうちに村に届いた。夜が明け次第、すぐに三人を山に上げよ、との指示だった。
次の朝、秀一らは行人たちが担ぐ輿に乗って山上に上った。
早朝にもかかわらず、大勢の行人が本堂に集まってきた。
秀一は、本堂に居並ぶ高野の行人たちに闘争心が欠けているのに驚いた。根来の行人たちに見られた、あふれる活気と覇気は、ここでは全く感じられなかった。
かつて信長に敵対し、多くの高野聖を殺された高野山金剛峰寺は、大きな打撃を受けていた。勇敢な行人たちの多くが死に、傷ついた。残ったものも意気を阻喪していた。
信長との長期にわたる戦は、寺全体を疲弊させた。本能寺の変で信長が横死していなかったら、高野は比叡山延暦寺と同じ運命をたどっていたことだろう。高野は運がよかったのだ。
高野にはもはや、権力者を敵に回して戦う力は残っていなかった。一向宗と同様、高野もまた、長い戦いで疲弊していた。
高野は、時代の流れを悟っていた。もはや僧兵が恐れられる時代ではない。群雄が割拠し、小集団の戦闘だった昔とは異なり、信長や秀吉の兵力ははるかに大きい。寺のだれもが、権力者を相手に戦うことの無謀さを身にしみて感じていた。
貴賎の尊崇を集めて栄えた金剛峰寺は、紀州はむろん全国各地に多くの荘園を持っていた。根来と同様に、領内の有力農民は競って、高野の庇護を求め、次三男を行人として山内の寺院に送り込んだ。
しかし、相次ぐ戦乱で荘園は荒れ、年貢収入も滞っていた。帰依した貴顕からの布施や寄進も途絶えた。年貢を督促すべき荘園の代官も戦乱で没落し、音信が途絶えた。
なるほど、高野の領地はいまも名目だけは広大だった。畿内ばかりでなく、全国に荘園を所有している。しかし、実際はこれらの土地も大名たちに簒奪され、年貢はほとんど入ってこなかった。
寺を維持するための資金は枯渇していた。戦火で傷んだ堂塔を再建する費用はおろか、大勢の僧や行人の食糧にもこと欠いていた。寺を守るための鉄砲や武具をそろえる金などの余裕は全くなかった。
あれだけ信長に楯ついた高野が、信長の臣下である秀吉には全く刃向かう姿勢を見せなかったのは、結局のところ、対抗できる力がなかったのだ。それどころか、高野は破滅の危機に瀕していた。もう戦は沢山だった。
こうした寺の厭戦気分を感じとり、秀吉との和平路線を進めたのは、客僧の木食応其だった。
近江の武士だった応其は主家の没落後に出家し、高野で修行した。穀を断ち、木の実や野草を食べて修行したため、木食上人と呼ばれた。
出家をしたとはいえ、もとは武士だった応其は豊臣方の武士にも多くの知り合いがいた。武士たちは近親者が死ぬと、高野に墓を立て、応其に供養を頼んだ。
応其の交友の広さを知った金剛峰寺の座主らは、秀吉との関係の修復を目指し、応其に仲介を求めた。応其は求めに応じ、高野を守るため、武将を通じて秀吉に近付いた。
秀吉の母のなか(大政所)は霍乱(かくらん=気分が悪くなり、嘔吐したりする症状)を長らく患っていた。親思いの秀吉は、これを心配して、近江の多賀大社を初めとする神社仏閣に祈祷を行わせた。しかし、大政所の病気は進行し、よく発作を起こした。
大政所の病気が重症となった時、秀吉は心配のあまり、食事もとらないほどだった。
「なおもって命の儀、三か年、しからずば二か年、それもならずば三十日にても延命できまするよう頼みおぼし召し候」
母の回復を必死で祈願する秀吉の手紙が各地の寺や神社に残っている。
母の回復を願う秀吉の祈祷依頼は高野にも届いた。応其自ら護摩を焚き、大政所の快癒を祈った。その甲斐あって、大政所の病気は快方に向かった。秀吉の喜びは大きかった。
秀吉は高野の所領を安堵し、信長によって破壊された堂宇の再建も約束した。一方で、平癒祈願の依頼を無視した根来や粉河への憎悪はさらに強まった。