足利氏

 そもそも、権力者からの押し付け、介入は根来の行人たちの最も忌み嫌うことだった。権力に対して強い不信感を持っていた。
 あれだけ天皇に忠誠を尽くし、鎌倉幕府打倒に功績のあった楠木正成の処遇はどうだったか。河内和泉の守護にはなったものの、最後まで源氏の棟梁新田義貞の下位に置かれた。
 九州から攻め上ってきた足利尊氏を京都に引き込み、糧道を断ったうえで挟撃しようという正成の進言は、戦を知らぬ公家の反対で採用されなかった。そこには「功ありといえど、所詮は氏素性の知れぬ河内の悪党上がり」という、権力者たちの侮り(あなどり)と蔑みの気持ちは無かったか。

 行人たちは、自分たちもまた寺の中で疎外されていると感じていた。表向きは寺の守護者、「護法の楯」と持てはやされても、本音では学侶らから「仏に花を供える無学な夏衆あがり」「仏門にふさわしからぬ闘諍殺戮(とうじょうさつりく=戦い殺しあうこと)をなりわいとする輩」と軽蔑されていることを知っている。

 所詮、下部(しもべ=僕)は下部でしかない。いくら努力しても我ら行人は、使い捨ての将棋の駒であり、いくらでも取り替えのきく有象無象なのだ。
 後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良(おおとうのみや・もりよし)親王が出家してすぐに延暦寺の座主になったように、昔から寺社は王族、貴種を敬い、特別な待遇で受け入れてきた。

 肥前の中流武士の家柄から高野山金剛峰寺の座主にまで上り詰めた覚鑁上人のような人はむしろ例外である。
 何事につけ、大衆詮議で事を決する根来のような寺でさえも、皇族や貴族など名門の子弟は昇進も早かった。定尋のように優秀な学侶であっても、一族の後ろ楯がない出自では僧位の昇進は望めなかった。

 人間として仏の前ではあまねく平等であるはずなのに、何ゆえこのような分け隔てがあるのか。
 それは寺も現実の世界と密接に結び付いているからである。寺の経営も荘園からの収入で成り立っている。収入がなければ、仏に供える香華(こうげ)も買えず、唐や天竺請来(しょうらい)のありがたい経巻、仏の尊像も手に入れることは出来ない。僧は乞食行だけで食べていけるものではなく、信者も極楽浄土に無償で行けるものではない。貧者といえど一灯、すなわち蝋燭の一本でも出さねば寺には入れてもらえず、極楽往生できないのが、娑婆世界の現実である。

 貴族や名主の子弟は、節季のたびに実家から届く季節の品々を座主ら寺の実力者に贈った。寺で建物の修復が必要なときは、実家に頼って費用を出した。座主にしてみれば、普段から援助を惜しまない、こうした有力な檀家の縁者を、どうして粗略にできようか。

 やんごとなき生まれの人間は、どんなに凡庸であっても、態度振る舞いにどこか犯しがたい威厳と品位が感じられると世間の人間はいう。育ちのよい人間には、卑しい育ちの人間によく見られる、人を押し退けても上にはい上がろうとする強引さがない。それゆえに下克上の世の中では、かえって信頼できる存在なのかも知れない。
 とはいえ、命をかけ体を張って寺を守っている者が、鍬ひとつ持たず、他人の育てた米を食ってきただけの人間より劣った扱いを受けてよいものか。単に血筋がよく、学問に通じているというだけで、そのような不公平が許されるのか。
不満を行人たちは常に感じていた。

 農民あがりの行人には、読み書きができない者も少なくなかった。寺に入って、それぞれの坊で、日常生活に必要な多少の字は覚えたが、弓矢や槍の訓練に明け暮れる毎日では、文字を使う機会はめったになかった。
 さすがに旗親ともなれば、それぞれ有力農民の一族であり、最低の教育は受けていた。自分の村にある根来寺の末寺の住職や神社の神官に読み書きを習った。また、村に来る琵琶法師や講釈師から、平家物語や大平記などを聞く機会もあり、昔のこともある程度は知っていた。しかし、彼らが必要とするのは、弁舌よりむしろ判断力だった。

 彼らの生き延びる知恵は、学習よりむしろ実践で鍛えられたものだった。
 大衆詮議では、寺の中での地位や帰属している坊の大小といったものは役にたたない。また、学識の深さも大して用をなさない。主張が大衆に聞き入れられるかどうかは、一にその論の正しさと説得力にかかっている。

 様々な言葉を駆使し、主張の正しさを述べるだけでは足りない。聴衆の心情と自尊心、気概、損得感情といった様々な側面に働き掛けて、相手の心を動かすことが肝要である。

 しかし、火のような弁舌や声涙下る訴えが、常に行人たちを奮い立たせ、死の危険に立ち向かわせるとは限らない。とつとつと語られる静かな言葉が、かえって説得力を持つ場合もある。そして、何よりも語っている本人が、それまでにどれだけ実戦で功があったか、予測したことがどれだけ実現したかも信頼を得る大きな要素だった。言葉は行動に裏付けられて初めて意味を持った。

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 根来寺での行人の地位は、決して低くはなかった。旗親は多くの行人をかかえて威勢をふるい、よい待遇を与えられていた。旗親たちは学侶たちから畏れられていた。
 それでも、行人たちは学侶に引け目を感じていた。軟弱な学問の徒と一方では侮りながら、自分には全く思いもよらない高貴な人との交遊や、裕福な環境で幼いころから自然と身についた教養には、劣等感を感じないわけにはいかなかった。とくに皇室の権威は、荒くれの行人といえども、無視できるものではなかった。

 皇室の権威は、武家の支配が続いたこの時代においてもなお犯しがたいものがあった。
 武力で政権を奪った足利尊氏でさえ、皇室の権威を全面的に否定することはできなかった。
 九州から再起東上して都を落とし、後醍醐帝といったん和解した尊氏は、幽閉された花山院から脱出して吉野に落ちた後醍醐帝を、あえて追わなかった。捕らえた帝を無きものにすれば、足利の世は安泰であったのに、それが出来なかったのは何ゆえか。

 それは武士の体に染み付いた皇室への畏れの故である。かつて北条を滅ぼした功績への褒美として、帝の名前である「尊治」の「尊」の一文字を賜った足利尊氏にとって、恩義ある帝に弓を引くことはあまりに恐れ多いことだった。尊氏の配下の武将たちも、天皇に反逆することに恐怖を感じていた。

 正成との戦に敗れ、いったんは西国に落ちた尊氏が劣勢を挽回して、奇跡的に再起できたのは、九州への敗走の途中、新田義貞追討を命ずる光厳院の院宣を得たことが大きかった。
 大義名分を得た尊氏は九州で軍勢を集め、捲土重来を果たした。ここでも皇室の権威は絶大な力を発揮した。
 このとき光厳院の院宣獲得を仲介した足利尊氏の陣僧の醍醐三宝院賢俊は、この功績で後に根来寺座主に任ぜられた。

 尊氏が政権を掌握したあとも、南朝の天皇の威光は吉野にあって失われず、南北対立の時代が五十年続いた。その背景には、分裂し退潮したとはいえ、天皇家に弓を引くことに武士たちが躊躇したことがあった。

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 既成の権威を否定した信長もまた、皇室に背くことはできなかった。足利義昭を廃することには何の痛痒も感じなかった信長が、天皇に対しては、最後まで表向きは忠誠の立場をとった。
 永禄一一年冬(一五六九)、上洛して都通りに馬揃えした信長は、皇居にうやうやしく参内し、正親町天皇に謁見した。直ちに皇居の修復を村井民部らに命じ、清涼殿など長年の使用と風雨に傷んだ建物を立て直した。
 おのれの財力を人々に見せ付け、天皇の権威を利用する目的だったとはいえ、そこには天皇家への畏怖の念が含まれていた。

 かつて天皇家から朝敵とされた過去の支配者たちが、どれだけ大勢、滅んでいったことか。南北朝時代には、佐々木道誉や高師直、土岐頼遠たちが、天皇も恐れず、不遜な振る舞いをして、世間の非難を受け、身を滅ぼした。御簾の中から聞こえてくる、か細い天皇の声が、武士たちにとっては、自分の運命を決める厳かな神託のように聞こえたのだった。

 信長は、それまで聖武天皇しか使ったことがなかった東大寺の珍香、蘭奢待(らんじゃたい)の一部を切り取った。それは、信長の権力を物語る逸話とされているが、それさえも天皇の裁可を得て、初めてなしえたことだった。
 天皇の権威をどうしても崩せない信長にとっては、聖武天皇以来の珍宝を、意のままにできることを世間に知らしめることが、せめてもの慰めであり、子供じみた権力の誇示であったのかも知れない。

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 侍がこのように逆賊と呼ばれることを恐れる背景には、その出自が関係している。
 侍とは「さぶらう者」であり、もともと禁中や親王家、貴族の家に伺侯した身分の卑しい護衛の兵士の職名に由来する。
 藤原氏が権力を独占する都で、出世競争から外れた中流以下の貴族は、都を離れた地方に活路を求めた。
 彼らは派遣された地方での任期が終わったあとも都に帰らず、そのまま土着し、広大な土地に田を広げて富と力をつけた。彼らは地方の有力者と縁戚関係を結び、武士団をつくった。

 武士たちは、不輸不入の特権を持った藤原氏ら権門勢家や大寺、神社に土地を寄進し、国の過酷な税を逃れた。
 その見返りに荘園からの年貢を荘園主に納入した。また、一族を都に登らせて市中の治安維持に当たらせ、貴族や寺院の手兵として館や寺の警護につかせた。やがて武士の中でも、とくに天皇の血を引く源氏、平家の二家の勢力は、平安末期に地方で起きた数々の内乱を鎮圧した功績によって強大となった。

 嘉承三年(1107)正月、山陰地方で反乱を起こした源義親を討伐した平正盛(平清盛の祖父)は、京中男女の盛大な歓迎の中を羅城門から威風堂々と帰還した。これが平家の繁栄の始まりだった。
 正盛の後を継いだ忠盛も、後白河院の信任を得て、平氏は繁栄した。安芸守、大宰大弐の地位を得た平清盛は内海航路、日宋貿易を通じて大きな富と発言権を得た。ついには安徳天皇の外戚にまでのし上がり、太政大臣となって天下を掌握するに至った。

 しかし、いくら実力をつけ富を誇っても、その出自の卑しさは争えず、もとの主人であった天皇家、貴族らの権門、大寺社の僧に対する劣等感は拭えなかった。
 彼らには、政を司る煩瑣な知識と文章を書く教養がまだ乏しかった。
 平家の一族は、自らも貴族の仲間に入ろうと努力した。平経正が琵琶に長じたように、若き公達たちは歌や管弦の道に励み、漢詩をそらんじて貴族的な教養を身につけた。やがて貴族化した彼らは、彼らの力の源であった武事を怠るようになった。こうして彼らは自ら弱体化への道を進んでいった。

 おごった平家が世間の恨みをかって没落したあと、とってかわった武家の源頼朝は、都の豊かさにおぼれて質実さを失った平家の没落を教訓にした。頼朝は幕府を都から遠く離れた鎌倉に開いた。これは貴族文化に染まらず、質実な武士の心意気を守るのに役立った。
 しかし、一方で都を支配することが不完全になり、政治の中心は鎌倉と都に二極化した。六波羅探題だけでは十分に幕府の威令は届かず、やがて後醍醐天皇のように武士の支配を脅かす存在を生むことになる。退廃に染まることは免れたものの、都の監視は行き届かず、王政復古を夢見る貴族や僧侶たちの暗躍を許すことになった。

 庶民の朝廷への畏敬の念も強かった。幕府から任命された守護地頭は、平安以来の荘園を完全に解体することは出来なかった。
 承久の乱では北条氏打倒を呼びかける後鳥羽上皇に、三河の足助氏らが呼応した。乱はすぐに平定されたが、火種は残った。
 百年後に後醍醐帝が王政に戻すことができたのは、こうした王権基盤が残っていたからである。

 しかし、建武の王政復古はつかの間だった。貴族には政治をする能力が失われており、源氏の血を引く足利尊氏が再び、実権を握って武士の世に戻した。

 尊氏は都に幕府を開いて、再び都を政治の中心とし、武家と貴族の対立を払拭する政治体制を目指した。
 だが、その尊氏もまた、皇室や貴族の権威に飲まれ、かつての平家と同様、かえって彼らの文化に取り込まれた。尊氏が都に幕府を置いたのは、古来から続く王統政治を頼朝のように否定はせず、むしろ天皇の権威と融合しようとしたためである。いわば、公武合体の考え方だった。

 尊氏の弟の足利直義(ただよし)は鎌倉幕府初期の質実さを尊び、鎌倉を拠点にすることを主張した。直義が定めたといわれる建武式目は第一条で倹約を奨励している。華美な生活に富を費やし、欲に駆られて為政者が堕落することを戒めた。しかし、直義の願いはかなわず、公武合体派の主張が通り、結局幕府は京に置かれた。

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 ばさら(華美)を懸念した直義の懸念は、やがて現実となった。足利の将軍たちは、御所に似せて、都の中心部に花の御所と呼ばれる豪邸を建て、公家と親しく交わった。彼らはまた「わび」「さび」に憧れ、風流さを競った。
 現世を離れた桃源境に遊ぶ風流の道は気高く、殺伐とした政治の世界は空しい。
 遁世に憧れた尊氏を初めとして、もともと現世逃避的な傾向のあった足利一族は、中国から渡来した文人趣味にのめり込んだ。

 足利義満や足利義政は金閣や銀閣を建てて貴族趣味の美的世界に溺れた。義満は、幻想の世界に遊ぶ能を愛好し、世阿弥の保護者となった。また、義教、義政は隠遁者の嗜好の強い茶の湯を好み、彼らの趣味は後の世の茶道の基となった。ともに後世に文化を遺す上で功績はあったが、武士たちの生活は華美惰弱に流れ、秩序は乱れた。

 新政の崩壊で武士が実権を握り、都の公家達は零落した。実生活において、かつての主従の関係は完全に逆転した。
 南北朝の動乱期、あるいはその後の応仁の乱などの時期に、公家たちは都を逃れた。かつての領主と荘官の縁を頼って地方の武士の世話になるものも少なくなかった。公家の中には妻子を連れて都を出たものの、頼る知人もなく、路傍で飢え死にする者もいた。現世に絶望した公家は、山野に草庵を結んで隠棲した。

 武士の権力者は栄華を極め、足利氏やその家臣は都に広壮な邸宅を構えた。永和四年(一三七八)、足利義満によって建てられた室町殿、いわゆる「花の御所」は寝殿、中門廊など公家の伝統を引く建築物が甍(いらか)を並べ、会所では様々な年中行事が繰り広げられた。

 足利時代は武士の支配する世であり、皇室や公家は実権を持たず、公家の中には武士に迎合する者も少なくなかった。それにもかかわらず、武家の心の底にはなお、公家の文化、教養に対する引け目がいつまでもぬぐえなかった。

 公家の中で教養のある者は、「わび」「さび」に耽溺した。
 「わび」とは貧しさや心細さ、わびしさを意味し、「さび」とは孤独、寂しさをいう。即ち、公家達は、新興の武士たちの富裕を成り上がり者の奢侈と軽蔑し、崩れた草庵での寂寥(せきりょう)と質実、孤独な生活を尊んだ。

 一丈四方の空間での簡素な生活の中で、移り変わる自然の美しさに心を慰め、ただ一人自分の内面を見つめる。方丈記を書いた鴨長明のように、世俗の名利を離れた心安らかな生活に、金では買えぬ豊かな精神的な価値を見いだしたのだった。
 「配所の月にあこがれる」といった逃避的な静寂を尊重する。発想の転換ともいえる境地はやがて茶道にも継承されていく。

 どんなに富と権勢をもっていても、嗜(たしな)みがなく心が貧しければ人生は空しい。粗野な人間はともに人生を語るに値しない。
 公家たちは、このように考えて自分を慰め、教養を自分達の独占物にしようとした。中国伝統の文人趣味、隠者の生活にあこがれた。
 彼らは歌や茶の湯、生け花、絵画、禅など日本古来、あるいは中国渡来の教養の習得にさまざまな約束事を決め、指導者がなければ、たどれない険しい「道」を作りあげた。
 道を極めるためには、彼らに相応の対価を支払い、敬意をもって遇しなければならない。そのような制度を没落貴族たちは巧みに設けた。

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 教養とともに、皇室と公家たちは宗教的な権威をも独占した。
 日本古来から、この地にまします八百万の神々の頂点には、皇室の先祖である太陽神の天照大神が君臨していた。また、天皇家の皇子や公家の子弟は、山門や南都の大寺、あちこちの門跡寺院に入り、外来宗教である仏教の権威をも独占した。
 世俗化が進んだとはいえ、この時代はなお、宗教が強い権威を持っていた。人は神仏の力に頼り、怨霊のたたりを何よりも恐れた。

 神道は壱岐氏に由来するという説がある。玄界灘に位置し、海上交通に精通していた壱岐氏は、島に上陸する海亀の甲羅を使って亀卜を行った。占いを生業とする彼らは占部氏と称し、占部氏は後に中臣氏となった。
 中臣氏は藤原氏を名乗り政界を牛耳る。占部氏は吉田神社など全国各地の神社の神職を担うようになる。中国殷の時代の亀卜(きぼく)のように、古代では神の意向を聞き取る占いや鎮魂儀式は、重要な政治的意味を持っていた。

 後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒の計画を実行に移す前に、中宮の安産祈願を名目に関東調伏の祈祷をした。足利尊氏もまた、吉野で怒りのうちに崩御した後醍醐帝のたたりを恐れて、洛西嵯峨野に天龍寺を造立した。

 文化と宗教的権威を独占した皇室と貴族に、新興の武士たちはどうしても逆らえなかった。

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 皇室の権威の強い古代や中世の日本では、権力争いは天皇家の相続争いと結びつく事が少なくない。保元の乱はその一例である。
 第七十四代の鳥羽天皇は、息子の第七十五代崇徳天皇と折り合いが悪かった。
 鳥羽上皇は、第一皇子の崇徳天皇にいったん皇位を譲りながら、まだ二十三歳の崇徳天皇に退位を強いて、第九皇子の第七十六代近衛天皇を即位させた。さらに近衛天皇が崩御した後も、皇位を子に譲りたいという崇徳上皇の願いを容れず、鳥羽上皇自らの子で崇徳上皇の弟である後白河天皇を帝位につけた。

 そのころ、関白藤原忠通と左大臣藤原頼長が、摂政関白の地位を巡って争っていた。忠通は鳥羽上皇・後白河天皇と結び、頼長は崇徳上皇と結んで対抗した。
 保元元年(一一五六年)、政治を取り仕切っていた鳥羽上皇が崩ずると、長年の両派の確執は一挙に頂点に達した。双方はそれぞれ武士を味方につけて戦った。
保元の乱といわれる権力闘争はわずか一日で決着がつき、崇徳上皇側は惨敗して、上皇は讃岐に流された。この戦いでは、源氏平家もそれぞれ、親子や叔父甥が敵味方に分かれ戦った。

 権力をめぐる争いで、武力が勝敗を決したことから、武士の力は急速に強まった。やがてまた源平の勢力争いに藤原氏内部の勢力争いが絡んだ平治の乱(一一五九年)が起き、平清盛が源義朝を倒して、覇権を握った。平家一族は要職を独占し、三十年間の平家の天下が続く。

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 南北朝の分裂も、皇位をめぐる争いに関係している。
 第八十八代の後嵯峨天皇は皇位を第一皇子の後深草天皇(第八十九代)に譲ったが、間もなく愛していた第二皇子の亀山天皇(第九十代)に位を譲らせた。
 後嵯峨天皇の死後、後深草上皇系の持明院統と、亀山天皇系の大覚寺統の間で皇位継承をめぐる争いが起きた。鎌倉幕府は争いに介入し、後深草系と亀山系の両統から交互に天皇を出す両統迭立(てつりつ=交代)案を双方に飲ませた。幕府の干渉は皇室の反発の土壌を作った。
 やがて第九十六代の帝位についた大覚寺統の後醍醐帝は両統迭立の約束に反して自分の皇子を天皇にしようと画策した。
 鎌倉幕府がこれに反対したことに憤った後醍醐天皇は正中元年(一三二四)九月、密かに幕府を倒す計画をたてた。しかし、計画は事前に発覚し失敗した。味方した多治見国長、土岐頼貞らは幕府軍に攻められ、京の宿舎で討死した(正中の変)。

 雌伏した後醍醐天皇は、再度討幕を謀り、元徳三年(一三三一)八月、笠置山に逃れて反幕の軍を起こした。しかし、決起は再び失敗した。
 幕府は後醍醐天皇に譲位を迫り、持明院統の光厳天皇が即位した。後醍醐天皇は隠岐に流された。

 その後、楠木正成らが粘り強く戦いを続けたことにより、後醍醐天皇に同調する勢力が増え、元弘三年(一三三三)五月、鎌倉幕府はついに滅亡した。
 後醍醐天皇は京に帰って建武の新政を始めた。しかし、新政を不満とする足利尊氏が離反し、これに武士たちが追随した。尊氏は敗れていったん九州に落ちたが、光厳天皇の院宣を得て勢力を盛り返し、ついに天下を制した。

 これらの例に見られるように、武士にとっては天皇を味方につけることが、政権を握るうえできわめて重要な要件であった。彼らは、天皇家に表向き恭順の意を表し、敬意を払った。