工作

 再び、高野へ救援を求める使いが出された。
「根来寺牒す。金剛峰寺の衙(が=役所)。殊(こと=格別)に合力(協力)を致して当寺の破滅を助けられんことを。秀吉ほしいままに仏法を破滅し、王法を乱らんとす。ついに凶器を起こして、当寺に乱入せんと企つ。もとより、根来高野は門跡二つに分かるといえども、学するところは真言の教門に同じ。願わくば、年来の遺恨を水に流し、根来の窮状を救わんがために、大衆を遣わされよ。衆徒の詮議かくのごとし。よって牒奏、件(くだん)のごとし。天正十三年二月二十日、大衆等」

 もはや、見栄も意地もなかった。なんとか、味方を増やしたい。そのためには、長年遺恨を持ち続け、争ってきた相手に頭を下げることも厭わない。
 学侶が書いた高野に送る文章を読みながら、明算は戦のやりかたを考えていた。

 泉州表の砦は固めたとはいえ、城攻めに慣れた秀吉軍にかかっては、いずれは崩される。そうかといって、野戦に持ち込むほどの力はこちらには無い。どうすれば時間を稼ぎ、秀吉軍に打撃を与えられるだろうか。

 坊の外では、泉州表へ派遣される行人を案じてやってきた親たちが、子との面会を求めて立番の行人とやりあっている声が聞こえる。母親たちも今度の戦が勝てない戦いであることを本能的に感じているらしく、その声は悲痛だった。しかし、子供に会うことは一切認められなかった。
 行人たちの多くは、紀北、泉南にある荘園の百姓の二、三男である。中にはまだ十四、五の幼い者も含まれている。母親たちは迫りくる死神の手から息子を何とか救い出そうとしているのだろう。だが、事ここに至っては、それはかなわぬ願いだった。

 母親たちは、これが最後の別れになることを察知して、嘆き悲しんでいる。悲痛な泣き声は、聞く者に根来寺の暗い前途を予感させた。

 明算は粉河寺に送る書を読み直した。
「根来寺牒す。粉河寺の衙。つらつら秀吉の悪逆を見るに、信長横死よりこのかた、僥倖に乗じて増長し、天下に号令す。主君の衣鉢を継ぎ、国家皇室の長久を図ると偽り、信長遺児信孝を生害させ、信雄を滅ぼさんとす。不忠極まりなし。冠位を求めて宸襟(しんきん=天皇の心)を悩まし、諸寺を攻めて仏法を滅す。ほしいままに国郡を横領し、荘園を没収して郎従に与ふ。強欲ここに極まる。鳥取にては篭城の罪なき民を餓死せしめ、高松にては渇え死にに至らしむ。無残なるかな。いままた秀吉、根来の知行横領を企て、数万の軍兵を率して根来に向け発向せんとす。当寺の滅亡目前にあり。もし根来滅せば、粉河もまた同じき命運をたどらん。願わくば年来の友誼をもって根来に合力し、一騎当千の粉河行人衆をして加勢賜らんことを。つらつらこれを察せよ。天正十三年二月二十日、根来寺大衆等」

 本当は軍勢催促状を送るより、高野や粉河に直接出向いて、説得するのがよいのだが、もはやその時間は残されていなかった。
 高野には秀吉に近い木食応其がいて、寺の主導権を握っている。独立開山以来、根来に遺恨を持っている高野がいま自らの滅亡の危険を冒して、根来のために加勢してくれるとは明算自身、期待していなかった。

 根来と関係の深い粉河にしても、どこまで本気で戦ってくれるか。寺を牛耳っている主戦派の三池坊の一派は強硬だが、学侶たちの多くは戦に反対しているという。和泉を生命線とする根来とは違い、粉河寺の行人たちの多くは紀北の出身で、根来ほどには、秀吉の和泉進出の影響を受けるわけではない。
 しかし、あれこれ考えている余裕はない。たとえ一人でも二人でも、味方に付けられるものなら、伏して応援を請わねばならない。
 明算は絶望的な戦いの作戦に没頭した。

               ◇

 明算の頭の中には、大坂から帰った小密茶の配下のものたちがもたらした各地の様子がたたみ込まれていた。
 小密茶はいま、配下の忍びのものを、再度敵地に送り込み、予想される兵力と侵入の道筋を探らせている。

 小密茶の報告によれば、秀吉は秀一に根来寺と交渉させる一方、すでに紀州発向の準備を整えているという。一方で講和を進めながら、もう一方では着実に開戦準備を整える。決して結論を急がず、相手の出方に応じて柔軟に戦略を変える。それが、秀吉の狡猾にして巧妙な戦いの常套手段だった。
 
 明算は最悪の場合も考えなければならなかった。
 仮に和泉表の砦が破られ、根来に敵が殺到してきた時はどうするか。
 寺を守り、長曾我部らの救援を頼りに最後まで戦うか。
 それは、単に滅亡の時間を遅らせるだけである。
 明算は、和泉表が破られた時点で、寺は捨て、湯浅や熊野など紀州の奥に篭ることを考えていた。

 根来は山深いといっても、海や平野に近い。紀州は山深く、守りに適した土地はいくらもある。いくら秀吉の軍勢が大挙してかかってきても、吉野や熊野まで制圧するのは難しい。
 正規の軍勢同士では勝ち目はない。小さな部隊に分かれ、地の利を生かして攻撃をかける。それしか、戦を長引かせる手はない。

 明算の頭の中にあるのは、楠木正成の戦術だった。
 楠木正成の故地、千早赤坂には明算自身も若いころに行ったことがあった。
 小さな山の砦に篭った、わずか五百人の手兵で、数十万の鎌倉幕府派遣軍を苦しめた正成の果敢な戦いぶりは、二百五十年を経た今も、太平記読みを通じて語り継がれている。根来寺の行人には河内出身のものも多い。彼らは、楠木正成を崇め、その子孫と自称する者も少なくなかった。

 物量、人数において圧倒的な軍勢と戦うには、あのような戦いの仕方しかない。敵の軍勢を狭いところに誘い込み、四方から同時に攻めかかる。敵は多ければ多いほど、あわてふためいて身動きがとれなくなる。
 諜報と知略が、正成流の戦の真髄である。根来がいま求められているのは正成流の戦法だ。

 根来の行人の中には、楠木流の兵法を学んだものもいた。足利や新田氏のような由緒ある源氏の名門とは異なり、出自の知れない河内の土豪である楠木正成は、同じように農民の血を引く無名の行人たちに敬まわれた。

 太平記では、楠木正成は後醍醐帝に殉じて、最後まで忠節をつくしたということになっている。だが、事実はそうではない。正成もまた自分と配下の者の利益のために戦ったのだ。
 地方豪族の正成にとって、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画は、幕府の支配から自立する好機だった。北条氏の絶対的権力のもとでは、一地方勢力として終わるしかなかったが、倒幕が成功すれば自らの勢力を広げることが可能になる。帝位争いに端を発した鎌倉幕府との確執から、後醍醐帝が幕府打倒を決心したのを機に、正成の運は大きく開いた。

 だれもが予想していなかった正成の粘り強い戦いで、幕府軍の非力があらわになると、それまで不満を持ちながら面従腹背してきた全国の武士が蜂起し、ついには源氏名門の足利と新田の両氏も北条氏を裏切るに及んだ。
 建武の中興は成功し、正成も河内和泉両国の守護として栄達した。まことに建武の新政の第一の立役者は正成だった。

 だが、後醍醐帝の復古的な政治が期待外れであったことが分かると、批判が高まり、人心は急速に離れた。
 天皇を頼りにしてきた正成は支えを失った。人心はもう一方の権威である足利氏になびいた。

 いったんは正成の奮闘で足利尊氏を九州に敗退させたものの、再起東上した尊氏・直義の大軍に湊川で敗れ、正成は弟の正季ら一族七十人とともに自刃した。
 正成の遺志は子の正行、正儀ら子孫に受け継がれ、その後、南北朝時代を通じて楠木正成の一族は南朝のために戦った。

 根来寺は北朝の足利氏方に付いて勢力を広げた。和泉知行もまた、足利氏からの信達庄の寄進に始まるものだった。
 しかし、農民や土豪の子弟である根来の行人たちにとっては、名門の足利氏よりは、地元の英雄である楠木正成の方がより親しい存在だった。
 彼らは好んで正成の物語を聞き、その活躍に感動した。

 数十万の坂東武者を相手に、地の利を生かした神出鬼没の奇襲作戦と、わら人形や牛などを巧みに使った奇策で劣勢を覆した正成の軍事的な才能は、当時の人々にとって大きな驚きだった。その戦法は模倣され、その後の兵法に大きな影響を与えた。

 平安時代の末期、源平の合戦のころの武士は、騎馬戦を主とし、武将は弓矢をとって馬上で敵と戦った。だが、元寇で敵軍の集団戦法に苦しんだ経験から、鎌倉末期には足軽を中心とした集団戦が主流になった。元軍と戦った経験が伝わらなかった東国の武士は、この点で西国に遅れていた。かつての騎馬中心戦法から脱却できず、馬を使った平地での会戦には長じていても、山の砦を攻めることには慣れていなかった。

 楠木軍は敵の騎馬が近付くと、楯を横に並べ、掛け金でつないで柵とした。突進してきた馬が急に出現した柵に驚いて立ちすくむところを、楯のすきまから矢を浴びせかけた。
 戦に対する兵の考え方も大きく違っていた。東国武士は名誉を重んじ、命を軽んじたが、西国の悪党たちは命を惜しみ、少しでも危険があれば平気で逃げた。
 守るべき家名はもとよりなかった。敵に背を見せることは、東国武士にとって恥ずべき卑怯な振る舞いだったが、悪党たちにとっては何の痛痒も感じない当然の行動だった。

 悪党たちは最初から逃げる道を探しておき、身に危険が迫ると臆面もなく逃亡した。また、逃げると見せかけて、あらかじめ逃げ道に伏兵を忍ばせ、追い掛けてくる敵に両側から矢を射かけた。
 本当に逃げているのか計略なのか、にわかに判断できないところが彼らの強さであり無気味なところだった。
 火のついた油や煮えたぎった湯を掛けるなど、従来の戦の常識では考えられない生活じみた戦法を使った。彼らにとっては戦いに勝つことが総てであり、そのためには手段を選ばない。金掘りを使って穴を掘り、敵の陣地の下から奇襲攻撃するという戦国時代の戦のやり方も、この時代に考案された。

 新田義貞は川を渡るために渡した舟いかだを、世評を気にして流さず、禍根を残した。名を重んじる武士は、京わらべの口を気にし、臆病と呼ばれることをいやがった。敵に背を見せることを極端に嫌い、そのために、退却の時期を逸して全滅した例もあった。

 千早城を攻撃した鎌倉幕府方の名越(なごや)軍は、楠木軍に奪われた家の旗を取り戻そうとして、遮二無二攻めかかり、待ち受けていた楠木軍の反撃にあって、さらに多くの犠牲を出した。
 関東の武士が命を捨てても伝来の家名を守ろうとする名誉心を、楠木軍の悪党たちは巧みに利用し、自滅させることに成功した。
 命にかけても主君を守り、名を残そうという坂東武士と、勝敗だけを考えて恥も外聞もなく行動する楠木軍の足軽とは、そもそも人間の種類が違ったのである。

 千早赤坂の戦いで、正成が幕府の大軍をくい止めることができたのは、こうした思い切った新戦法の採用と幕府軍の硬直した作戦の欠陥によるところが大きかった。

 楠木正成の戦術は、忍びの者を縦横無尽に活用することにも特長があった。
 もともと、楠木家は傀儡(くぐつ)師などの芸能に従事する雑民の住んだ散所の長ともいわれている。猿楽の観世家、忍者の服部家との類縁も推定されている。楠木正成は、こうした芸能の民を装った忍びの者などを駆使し、敵の動向を探らせて、大敵をわずかな手勢で撃ち破った。

 根来でも粉河でも、行人たちは、こうした楠木流の兵学を模範とした。たとえ大軍であっても、地の利を生かして戦えば、撃退できると考えていた。たとえ秀吉軍の勢力が二十万あろうと、敵の動向を忍びの者が知らせ、狭い山道に来たところを鉄砲で狙撃すれば殲滅(せんめつ)できる。そんな考えを持っていた。

 根来の行人たちは、いま峠の上に石を運び、あるいは丸太を運んで蓄える作業を続けている。
 秀吉が朝廷の名を借り、官軍を僭称しても、行人にはそんな肩書や権威は少しも通用しない。自分たちが支え、支えられる寺が大事であり、そのためにはどんなことでもしよう。
 そう行人たちは思っていた。