一夜が明け、長谷川秀一が襲われ逃げたという噂は根来の全山に広がった。
もはや戦は避けがたい。それは誰もが予想できることだった。前夜の大衆詮議で和平論が大勢を占めたことを聞いて安堵していた人々は、思いがけない展開に落胆した。彼らは、ついに根来が戦いに巻き込まれたことを悟った。
門前の人々は秀吉軍の攻撃が近いことを確信し、あわてて避難を始めた。
店や民家の前に荷車が留まり、荷が積まれた。荷が運び出されると、店は閉められ、雨戸には板が釘づけされた。
秀吉の軍勢が攻めてくれば戸は破られ、家の中に残した物はすべて持ち去られる。そればかりか、火を放たれ家は灰になってしまう。わかってはいても愛着のある家の戸を開けたまま放置する気にはならなかった。
ひょっとして家が残ってくれれば、また帰ってきて住めるかもしれない。日ごろ集まって食事をし、団欒した居間に、家族の無事を祈る神仏への願文を残し、思い出と帰宅へのはかない希望を残して彼らは家を出ていった。
人々は家財道具や幼児を荷車に載せ、縁者のいる麓の坂本や荘園の村々に逃げた。近くの村に縁者のいないものは、山に逃れ、山中に掘っ立て小屋を作って戦の終わるのを待った。
これからは持ち出した食糧を少しずつ食べ、雨水を飲んで過ごすことになる。昔から戦が起きそうになると、人々はこうした方法で難を避けた。
庶民にとって戦は、疾病や風水害と同じ災忌以外の何物でもない。取り入れ間際の稲田を馬や兵が蹂躪し、熟れた稲穂を泥にめり込ませて台なしにする。
せっかく作った家も財産も焼かれ、灰になる。いや、それぐらいならまだよい。自分と家族の命まで奪われるかもしれない。
もう、何十年も戦は続いている。戦で苦しめられてきた人々は、その辛い体験から、いまでは戦の気配を本能的に感じることができた。
戦は急に起きるわけではない。戦機が熟すまでには一定の時が必要だ。
敵対していても、できれば戦を避けようとする気持ちは、どちらの側にもある。傷つかずに自分の要求が通れば、それに越したことはない。
あれこれ相互に交渉を繰り返し、駆け引きを続けたあげく、ついに行き詰まり、引くに引けなくなったところで戦は起きる。
まず物や人の行き来が少なくなり、ついには境界が封じられて双方に通うことができなくなる。
次に境界を守っている双方の足軽の小競り合いが起きる。最初は石を投げて威嚇する程度の衝突に過ぎなかった争いが、やがて拡大し、後方から応援の大部隊が送りこまれる。そしてついに大部隊同士が衝突する。そうなれば、もはや停戦は難しい。どちらかが潰滅的打撃を受けて撤収するまで戦は続く。
どんな戦にも兆しがある。平和な時代に暮らしていれば、決して気付かないことも、戦慣れした人々は絶対に見逃すことはない。
例えば、砦と本拠の城の間を頻繁に早馬が走るようになる。間諜が国境をうろつく。米や縄など、物の値段が急に上がる。そして、何よりも戦が近いとの流言が流れる。
常日頃、近所の人と噂話を交わし、また周りの様子の変化を冷静に観察していれば、戦はある程度予知できる。虫たちが生温かい風の匂いをかぎわけて、嵐が近付いてくるのを知り、草葉の陰にあわてて隠れるように、戦が近いことを人々は肌で感じ、逃げ出す。
しかし、鉄砲職人や弓職人は、戦が近付いてきることがわかっていても、逃れることはできない。
最新の武器である鉄砲の製造は、日頃から厳重な管理下に置かれている。すでにだいぶ前から、門前の鉄砲職人や弓職人の家には、根来寺から行人が派遣されていた。彼らは職人に鉄砲と弾の増産を指示し、同時に職人たちが逃げ出さないように監視した。
逃げた職人は行人たちが追跡し、捕まえて処刑する。普段どんなに親しくても、戦時の規律は過酷だった。
和泉の砦にも早馬で秀吉の来襲が近いことが伝えられた。逃亡した秀一を領地内で探すよう、根来惣分から砦の行人たちに厳しい命令が届いた。
しかし、秀一が危険な根来の領地を通って、大坂に行くとは思えなかった。
秀一は根来の周辺にいる知り合いを頼って高野に逃げた可能性が高い。高野には、秀吉と通じる木食応其(もくじきおうご)もいる。秀一が高野に助けを求めれば、高野は秀吉に取り入る好機と考え、秀一をかくまうことだろう。
高野に限らず、かつてあれほど日本国中に猛威を奮った僧兵は、信長の叡山焼き討ち以来、かつての覇気を失っていた。
「加茂川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師。これぞ朕(ちん)が心にかなわぬもの」と白河法王を嘆かせ、南北朝の騒乱では南朝に味方して歴史を動かした叡山の僧兵は、信長によって根絶やしにされた。三井寺園城寺や南都興福寺の僧兵もいまはかつての面影はない。
高野は信長に反抗し、多くの高野聖を殺された。その傷は大きく、以来権力者に刃向かう気迫を失った。秀吉に力が移ってからは、むしろ秀吉に取り入ろうとする姿勢が目立った。
顔に草の葉で擦った傷をつけ、やつれて山中を彷徨する秀一の姿を、明算は想像した。
いくら急いでも、秀一が高野に着くまでにはまだ一日はかかる。そこから大坂の秀吉に破談の知らせが届くまでには、少なくともまだ数日はある。それまでに、できるだけの準備を整えておかねばならない。
明算は、焦燥のあまり、額に汗がにじんでくるのを覚えた。
寺では、三綱と主だった旗親が集まって策を練った。
配下の行人が岩室坊の長谷川秀一を襲撃した責任をとって、西蔵院は座主から謹慎を命じられた。
しかし、西蔵院の一派の跳ね返り行為をいまさら追及しても、意味がなかった。愚かな行動を責めても、もはや取り返しはつかない。彼らは大局をわきまえず、一時の激情に駆られて、和平の好機を自ら潰した。戦にはいくら勇敢でも、自らの置かれた状況がわからなくては、戦に勝てる道理はない。
明算は座主や旗親たちに対し、秀吉方にこれ以上こちらからの手出しはしないことを強く求めた。
秀一の襲撃を機に、一時は和平論が大勢を占めた寺の中は、空気が一変した。もはや、和平がありえない以上、行き着くところまで行くしかないという諦めが広がった。
明算もまた覚悟を決めていた。
事態はすでに次の段階に移った。西蔵院の手のものたちの襲撃は、秀吉には願ってもないお膳立てとなるだろう。
《恐れ多くも朝廷のご意向に沿って進め奉った今回の和平交渉に、根来はこともあろうに銃弾を以って回答した。宸襟(しんきん=天皇の心)を悩ましめた和泉知行をめぐる争いの調停案は、粗暴な行人らによって完全に潰(つい)えた。天をも恐れぬ、このような無礼無法を手を拱(こまぬ)いて放置しておくことは断じてできぬ》
秀吉が内心では、ほくそえみながら、怒り狂っている様子を明算は思い浮かべた。
《事ここに至っては、じたばたしても仕方がない。もはや賽(さい)は投げられた。我々は滅びに至る門をくぐったのだ》
明算の心はむしろ穏やかだった。
◇
明算は大伝法堂の外に出た。
寺の境内に人影は少なく、遠くの山でうぐいすの声が聞こえた。
芽生えた薄緑色のケヤキの若葉が枝を覆っている。枯れた木に巻き付いたサネカズラのつるにも小さな葉が出てきている。初夏に薄黄色の花を咲かせ、秋には赤く美しい円い実を付けるサネカズラは、明算が好む山の花の一つだった。
サネカズラは美男葛(かずら)ともいい、その蔓を切って出る汁は、髪を洗うのに用いられる。根来寺の行人たちは、夏の戦闘訓練のあと、よく山の中の池や川に入って汗を流した。その際、水辺の木に絡まるサネカズラの蔓を切って頭を洗ったものだ。
蔓からむしりとられて水に浮かぶサネカズラの実の赤い色の記憶とともに、平和だったころの、行人たちののどかな昼下がりの水浴の情景が、明算の脳裏に蘇った。
信長が畿内に出て来るまでは、根来も穏やかだった。この五十年、和泉表では三好一族との知行をめぐるいざこざはあったものの、根来の地までは及ばず、紀伊は比較的平和だった。
すべてが変わったのは信長が上洛してからだ。それまで畿内には、根来に対抗できる有力大名はいなかった。
戦とはいっても、弱小勢力の小競り合い程度だったものが、信長上洛以後、一挙に情勢が変わり、世の中は信長になびくようになった。
いままではどんな極悪な人非人の大名であっても寺社を敬った。神仏の罰を恐れる気持ち、人間を超えた存在を信じる素朴な心がどこかにあった。富裕な武士や町人は寺を建て、田を寄進した。
いまは全く違う。松永弾正は大仏殿を焼き、信長は叡山や甲斐の恵林寺を焼いた。
あれだけ昔の人が恐れおののいた神仏の祟(たた)りを、彼らは全く信じていない。自分の目と耳で確かめられないことは、彼らにとっては存在せず、何の意味も持たない。
寺社を平気で破壊し、墓石や仏像を弾除けにするのが、いまの足軽である。
平家が大仏殿を焼き、六波羅探題が京都西山の寺を焼くなど、戦で寺社が類焼することはどの時代もあった。だが、信長ほどの蛮行はかつてなかった。仏に対する敬意が失われたのは、南蛮人たちが船でやってきてからだ。そのように明算は感じていた。
南蛮人の宣教師たちは、仏教は無知な人間が信じる邪教であると、大名に説いた。彼らは南蛮の武器を土産に権力者に取り入り、仏の徒を殺すことに積極的に協力した。
信長も、南蛮人たちから仏の悪口を聞かされなければ、あれほど叡山に対して残酷なことをするのは、ためらったのではないか。
幸いなことに信長は、明智光秀に殺されたが、仏を軽んじる風潮は、秀吉によってさらにひどくなっている。根来が滅ぼされれば、世間の人間はさらに仏を侮ることだろう。
仏の教えを守るためには、我々が捨て石となって秀吉の軍勢から寺を守らねばならない。
いつの間にか、根来の谷にも春が来ていた。
大伝法堂のそばの大塔に、山鳩や雀が群れている。暖かい春の日差しが屋根の瓦に注いでいる。塔の水煙に浮き彫りにされた飛天の衣の裾が、柔らかな春風にひるがえっているように見える。
根来を見守ってきた、この大塔も、やがては灰塵に帰すかも知れない。
そうなれば、塔の内側の壁に色彩豊かに描かれた天人たちも兵火に焼かれ、焦がされる。
まさに天人五衰の例えどおり、天女の花の顔(かんばせ)も炎のなかで色あせ、きらびやかだった羽衣と瓔珞(ようらく)も煙に汚れる。
衰えた天人の脇の下ににじみ出るといわれる汗のように、壁の壁画に炎の染みが現われ、やがて壁は崩れ落ちる。
大伝法堂の本尊として、貴賎の人々の尊崇を集めた三体の御仏もまた、燃え上がって、灼熱の呵責を受けられよう。
わずかに焼け残り、かすかに仏の形を残す真っ黒な木杭が、まるで涅槃(ねはん)仏のように焼け跡に横たわって、諸行無常、世のはかなさを訴えることであろう。
しかし、たとえ根来寺が塵となって消え失せても、根来が秀吉の圧政に抗して最後まで戦った事実と行人たちの勲(いさおし)は永遠に後世に語り継がれる。
人間はどんなに身を庇い、危険を避けてもいつまでも生きられるものではない。たとえ百年生きても、もっと生きたいという気持ちは残る。
老いさらばえて死んでも、人はそれほど悲しんでくれない。若いうちに死んだ方が惜しまれ、いつまでも若いままに人の記憶に残るものだ。命を惜しむべきではない。
明算は思う。
「仏もなほ、生死の掟に従ふ。たとひ君、長生の楽しみに誇りたまふとも、この御恨みはつひになくてしもや候ふべき。たとひ又百年の齢(よわい)を保たせたまふとも、この御別れはいつもただ、同じ事と思しめさるべし。」
平維盛入水のときに滝口入道が諭した平家物語の中の言葉が思い出された。
本当にそうだ。人は必ず死ぬ。その死に際が大切だ。どんなに立派に生きようと、死に際が見苦しければ、一生の不覚である。未練たらしい死は、世間にも妻子にも幻滅を与える。まさに往生際のため、死ぬ一点のためにこそ、人は生きているのである。
「観音勢至、無数の聖衆、化仏(けぶつ)菩薩、百重千重に囲繞(いにょう=囲む)し、伎楽歌詠して、ただいま極楽の東門を出でて来迎(らいごう)したまはんずれば、御身こそ蒼海の底に沈むと思しめさるとも、紫雲の上にのぼりたまふべし」
自分は、滝口入道の説くように死んで極楽にのぼりたいとは思わない。いままで殺生を繰り返してきた我ら行人が、極楽往生を望むのは厚かましいというものだ。地獄に堕ちるのは、もとより覚悟している。ただ、死に際は闘争に身を捧げてきた行人として潔くありたい。
明算は心から願う。
外の参道を荷車がひっきりなしに行き来する音が聞こえる。子供の泣き声、女の甲高い叫び声、店の主人が下男に命令する声、犬のほえ声、馬のいななき。様々な音から、あわただしい外の様子が感じられた。外を行人の集団が駆けていく音が聞こえる。
行人たちは、根来防衛のため、寺の周辺の山々に陣地を作りに行くのである。寺に通じる道は四方八方にあり、そのいずれの入り口にも、新たに頑丈な門が作られた。山から杉の大木を切り出して丸太にし、道の狭くなったところに積み重ね、即席の城門をつくる。
秀吉の軍勢が侵攻してきた際には、この城門を死に場所と心得て、最後まで抵抗する使命を行人たちは課せられている。
根来寺の大伝法堂と大塔など中心になる施設の周りに高い塀が築かれている。それぞれの坊の周りにも石垣がめぐらされ、いわば寺全体が城郭になっている。一向宗の寺内町と同様の固い守りだったが、実際に攻められた経験がないことに、明算は不安を感じていた。
《秀吉の軍勢が攻めてきたとしても、そう簡単に制圧されることはないだろう。それぞれの坊にこもって抵抗を続ければ、秀吉軍といえども攻略できまい。仮に根来が破られれば、そのときは雑賀の太田城へ逃げ込んで最後まで抵抗しよう》
作戦を練っている三綱や旗頭たちの中には、そんなことをいっている者もいる。だが、その考えの甘いことを明算は知っていた。
どこか一か所でも防衛線が破られれば、狭い谷に多くの坊がひしめく根来では、一挙に守りの体制が崩壊してしまう。
いくつもの曲輪で仕切られている城と異なり、寺はあくまで信仰の場所であり、参拝に来る人々に開放された造りになっている。寺を城と同じように考えるのは、無理がある。
「秀吉の軍勢が根来にまで押し寄せてきたら、持ちこたえるのは難しい。和泉表の砦にこもって奴らの進路をふさぎ、釘づけにする。その間に粉河や長曾我部、湯浅らの救援を待つのが望ましい。いまのうちに、泉州に出来る限りの行人や在所の若者たちを集め、防衛線を広げる必要がある」
明算は力説した。
少ない人数を補うため、西蔵院の配下の行人も監禁を解かれ、泉州に遣られた。無分別な発砲で根来を戦に引きずりこんだ責任を、命で贖(あがな)うことになった行人たちは、それでも勇んで戦地に赴いた。