《騎馬戦が古くなったように、鉄砲もいつかは時代遅れになる。長篠の戦のときには鉄砲は最新の武器だったが、いまではだれもが持っている。鉄砲の力を過信していては裏切られる》
明算は思う。
長篠の戦の前に宿将たちは、戦に勝ち目がないのを見てとり、勝頼を説得した。だが、勝頼は聞かなかった。
《あのとき、家臣たちが主張した撤退論は至極まっとうだった。それなのに、勝頼と勝頼に追従する過激な主戦論者に押し切られた。家臣のだれかが、もっと強く反対していたら、あれだけの大敗をしなくても済んだかもしれない》
今回の秀吉との対立もまた同じことがいえる。彼我の戦力を冷静に比べて、十分に勝算がないときは、外聞や体面を考えずに戦いをやめる。その潔い決断が戦には必要である。
《戦場では、真っ先に兵を進める先鋒より、最後に兵を引く殿軍の方が危険が大きい。それと同じように戦を始めるより、戦を終わらせ和平に持ち込む方がよほど難しい。戦うことを生業とする者に「戦わず、平和裏に交渉せよ」というのは、もともと無理な話なのだ》
大伝法堂の内外にひしめく行人たちは押し黙って、明算をにらんでいる。
明算は、秀吉の提案が招いた行人たちの憤りをひしひしと感じていた。
行人たちの本分は戦うことである。戦をして寺の権益を守ることで、彼らは寺に貢献してきた。いまの寺の中での彼らの威勢も地位も、ひとえに彼らのもつ武力のお陰にほかならない。戦いにこそ、彼らの存在意義がある、その戦を放棄するということは、彼らの存在を否定することである。
戦に全存在をかけ、日々戦闘の訓練に明け暮れてきた行人たちが、妥協を説く明算や岩室坊の意見を容易に理解できないのは当然のことであり、責められないことだった。
明算は秀吉の力を知っている。いまの秀吉と根来の力の差は、織田・徳川連合軍と武田軍の力の差よりはるかに大きい。長篠の戦では、緒戦はむしろ武田軍の方が優勢だった。勝頼が勝利を信じていたのは、無理からぬところもある。
だが、いまの秀吉軍と根来は比較にならない。根来が誇る鉄砲自体、いまでは秀吉軍の方が圧倒的に大量に持っている。素直に考えれば、根来が秀吉軍を敵に回して戦うという強硬意見など言えるはずもないのである。
天正五年(一五七七)の信長の雑賀出兵から八年、根来が自らの力を過信している間に、戦の形がすっかり変わってしまった。僧兵が活躍した平家物語や太平記の時代は遠い昔に終わっているのに、行人たちは気がついていない。
《孫子の兵法を持ち出すまでもなく、敵を知るのは戦では最も大事なことだ。それなのに、専識坊らは素直に敵を見ようとしない。秀吉の力量を彼らにもっとわからせる方法はないものか》
明算は大坂に潜入させた小密茶坊から、秀吉軍の軍備について詳しい報告を聞いていた。
それによれば、秀吉軍の装備は最近さらに強化され、鉄砲隊を大量に増やしたうえ、大砲を南蛮人から買い入れたという。根来寺がいくら城のように堅固につくられていようと、大砲の砲弾を打ち込まれれば一たまりもない。行人衆がいくら勇猛でも、何千人という兵による銃の一斉射撃を受ければ、長刀をふるう間もなく、射殺されてしまうに違いない。
ここは戦を諦めるしかない。
根来では昔から、物事を決めるのは大衆詮議による。各人意見はいうが、賛成となれば決にしたがう。どんなに反対していても、決まった以上は潔く受け入れ、ともに行動する。これがしきたりだった。
秀吉と争うようなことになれば、全山破滅は明らかである。大衆詮議が「開戦やむなし」と決める前に、その無謀さを大衆に知らしめねばならない。大衆詮議がしばしば陥りがちな欠点、すなわち大勢に流されることがあってはならない。
「明算殿、何とかいわれよ。それとも、もはや物をいう気力も失われておられるのか」
とげとげしい専識坊の声に、明算は我に返った。
目を開けると、心配そうにこちらを見ている岩室坊の顔が目に入った。
「専識坊殿も西蔵院殿もよくお聞きください。皆様方の力と勇敢さは誰もが認めている。しかし、いまの戦は勇敢さより物量が勝負を決する。怯懦(きょうだ)な兵でも銃があれば、刀だけの勇士を打ち倒すことができる。勇猛果敢な武田の騎馬軍団が、柵の後ろに隠れた雑兵の撃ちかける鉄砲に薙ぎ倒された。いまの根来は物量で劣っている。いくら気力に勝っても、肉は鉛をはねかえすことはできぬ…」
「そんなことはない。われらには、十分な鉄砲がある。たとえ、秀吉軍が我らより数多い鉄砲をもっていようと、技量が違う。われらの鉄砲衆の一人は、やつらの未熟な鉄砲足軽四、五人に勝る。怖じけづく必要は何もない」
明算の言葉を遮るように西蔵院が大声でいった。
「西蔵院殿はそのようにいわれるが、実際に秀吉方の鉄砲足軽の腕を、その目で見られたのか。自分の側に都合よく見るのでなく、現実を見て判断していただきたい」
明算は静かに反駁した。西蔵院には何をいっても無駄なことはわかっているが、ここは引くことはできなかった。
「臆病風に吹かれた者には、何を言っても通じない。戦う気など初めから無いのだ。もう、無益な論議はやめよ」
泉識坊が向こうから怒鳴っている。
中央で成り行きを見守っていた座主ら三綱に向かって、西蔵院がいった。
「これ以上、いい合っていても、らちがあかぬ。ここで決めるべきではないか。座主殿、お取り計らいを」
「尤も、尤も」
西蔵院を取り囲んでいる行人たちが、声をそろえて同調した。
確かに、これ以上論議をしても、両者の意見が歩み寄るとは、明算にも思えなかった。詮議を打ち切る潮時かも知れなかった。
「ただいま、西蔵院殿より詮議を打ち切り、根来一山の意志を決めようとのご提案があった。ここで決をとっても不都合はござらぬか」
三綱の一人で座主に次ぐ能化の一人、昭英坊が大衆に向かって聞いた。
「その議、謂(いい=意味)あり」
「その議、謂あり」
そこかしこから、採決に賛同する声が上がった。
「異議なしと承った。ではただいまから、決をとることとする。今回の秀吉の提案を飲めぬという方は立ち上がられよ」
昭英坊の言葉で、ぞろぞろと行人たちは立ち上がった。
その数は思った以上に多く、座っているものとほぼ、拮抗しているように思えた。
《やはり強硬派が多いのか》
手に汗がにじみでるのを明算は感じた。
学侶の中で数えるのが得意な者五、六人が、立った人間の数を手際よく数えていく。
「遺漏なく数えよ」
専識坊が注意している。
坊ごとに所属する学侶と行人の数は登録されている。
数を数える学侶たちは、坊と谷ごとに数をまとめ、紙に書き付けていく。伝法堂の外にも学侶が出て数えている。やがて、座主のもとに、それぞれが紙を持ってきた。
昭英坊が集まった紙を広げて集計した。やがて計算は終わり、座主に結果が伝えられた。
堂の中にいる者全員が、座主の発言を待った。
「満山の大衆に詮議の結果を伝え申す。秀吉との決戦をやむなしとするもの、四千九百五十。ここは隠忍自重すべきであるとするもの、五千二十一。自重すべきものが七十一上回った。かるが故に根来はひとまず鉾をおさむることとする」
座主の言葉が終わると同時に、堂内は喧騒に包まれた。
主戦論の行人は目を吊り上げて憤っている。安堵の余り、へたりこむ学侶もいる。
結論は出た。詮議で決まった以上、もはや誰も結果をくつがえすことはできない。不満でも結果に従うしかないのだ。
明算は深い安堵に包まれていた。
自分の説得を学侶たちだけでなく、好戦的な行人たちもわかってくれた。受け入れられたという安心感が全身を満たした。
《根来は助かった》
覚鑁上人が心血を注いで築き、多くの学侶行人が乱世から守ってきた堂塔と多くの人命を救うことができた。事を成し遂げた深い喜びを明算だけではなく、多くの自重派の僧や行人も同様に感じていた。
武力でなく、理性的な判断が勝った。根来では画期的なことだった。