堂の外に溢れた学侶、行人の間でも、戦うべきか鉾を収めるべきかで二つに分かれて激論が続いていた。
昨年の詮議の時に徹底した反対論を唱えた定尋は、行人らの好戦的な姿勢に嫌気を起こし、遠国で修行するといって寺を離れた。
はじめ海を渡って長曾我部の支配する土佐に行き、一年ほど根来の末寺に滞在していたが、その後九州に向かったという。いまは誰も定尋の行方を知っているものはいなかった。
定尋がいたら、西蔵院や専識坊ら強硬派を向こうに回して、正面から戦に反対したに違いない。だが、いまは厳しい意見を吐く学侶はいない。
一方で、強硬派も単に秀吉を憎むだけで、対抗するだけの緻密な作戦は考えていなかった。
戦を諌めるものも、開戦やむなしとする者も、いたずらに大声で自分の意見を主張するだけで、相手を説得する力はない。寺を真っ二つに割った論争は、いつまでたっても決着がつきそうになかった。
「杉の坊殿はいかがお考えか」
行き詰まった場の雰囲気を感じとったのか、不意に智積院玄宥が杉の坊明算に意見を求めた。
明算は、閉じていた目を見開いた。
西蔵院、専識坊らも明算の方を見た。
声を荒げて論争していた学侶や行人たちも静かになった。皆は黙って、明算が発言するのを待っている。
「私も岩室坊や玄宥能化と同じ意見を持っております。秀吉の武力は我らの比ではない。まともにぶつかっては到底勝ち目がない。いかにして、交渉でよい条件を引き出すかが肝要と考えます。挑発に乗らず、じっくり交渉を続けるべきでありましょう」
明算は静かに話し出した。
「根来の領地は歴代の聖主賢王から賜った神聖な土地であり、世俗の者の容喙(ようかい)できるところではないのは全くその通り。秀吉の理不尽な要求には、私も到底納得はできませぬ。しかし、岩室坊、玄宥能化ご両人のいわれた通り、何と申しても、秀吉はいまが勢いの絶頂。いま仮に秀吉と争ったとしても、根来が勝てる見通しは全くありませぬ。あれだけ頑強に立ち向かった三河の家康さえもついに秀吉に屈したのは、皆々方もご存知の通り。勝てる見通しがない今の状況で意味のない戦をするより、ここはいったん和泉の経営から手を引いて、有利な時期が来るまで、じっと待つのが得策と考えます」
明算は、はっきりと戦に反対した。
明算の返答を心配しながら待っていた玄宥と岩室坊は、安堵の表情を見せた。
慎重派の岩室坊は、かねがね若い行人たちの独断専行に危機感を持ち、老僧の意見をもっと尊重するように求めていた。今度の秀吉の提案に対しても、和解の方策を探ろうと努めていた。
秀吉がもう少し礼を尽くして和議を申し出ていたら、根来寺も軟化したかもしれなかった。だが、百姓を憎悪する秀吉は、百姓が支える根来寺を敵視し、居丈高な姿勢をとった。
相手に有無をいわせぬ高圧的な秀吉の出方により、無血の和解を探ろうとした岩室坊は、苦しい立場に立たされた。
だが、いま明算が戦を避ける態度を見せたことで、融和を主張する岩室坊の立場は一気に強まった。
逆に強硬派は、同調を期待していた明算の予想外の態度に失望し狼狽した。
裏切られたと感じた彼らは、いままで信頼していた明算に対して怒りをあらわにした。
「これは慮外。勇猛ぶりを関東にまで知られた杉の坊殿までが、そのような弱気の虫を起こされるとは、全くもって思いもよらなんだ。情けなくも軟弱な言葉かな。驚きじゃ。無念じゃ」
専識坊は、さも嘆かわしいといった風に、天を仰ぎ、ことさら大きな声を出していった。その顔には意気消沈と落胆と怒りがないまぜになっている。
「世に恐れられた根来の行人も落ちぶれたものだ。秀吉ごとき成り出し者に少々脅されただけで、このように誰も彼も怖じ気づくとは、何たる笑止。剛勇で聞こえた根来法師の名が泣く。戦う前から根来は負けておる。これでは勝てる道理がない」
専識坊は嘲るようにいった。
専識坊のわざとらしい大仰な態度にも、明算は動じなかった。むしろ、そんな子供じみた専識坊の振る舞いを見るにつけ、いっそう危うさを感じた。
秀吉にはどのような大言壮語や虚勢も通じない。あの男にとっては、実力がただ一つの判断材料である。敵がいくら強さを誇示しようと、勇敢さで知られていようと、そんなことは問題ではない。味方と敵の戦力を引き比べて、勝てるかどうかを周到に計算する。あたかも利に聡い商人のように、ただひたすら冷徹に戦の損得を秤にかけるだけである。
相手が弱いと見れば、力攻めにして一気に攻める。逆に力のある敵に対しては焦ることなく遠巻きに包囲してじっと勝機を待つ。水攻め、兵糧攻めにする。あるいは人を介して篭絡にかかる。
家康に対して包囲戦をとった小牧山の戦いが、まさにその典型的な戦だった。挑発するだけで、すぐに軍を引き、相手がしびれを切らして出てくるまで、じっと待つ。長久手の戦いでは、焦った池田恒興の進言に乗り、大胆な中入りの戦術をとったために失敗したが、そのあとはすぐに持久戦に戻っている。
秀吉は単なる戦上手ではない。世故(せこ)にたけ、民の心理を知り尽くした苦労人である。敵を窮地に追い込むためには、およそ考えられる、あらゆる手段をとる。その一方で、相手の心のひだに入りこむように、ひそかに使者を送り、慇懃(いんぎん)に好条件を出して降伏を勧告する。
墨俣の築城では、仕事を分けて、それぞれの担当者に成果を競わせ、誰もが想像しなかった早さで完成させた。敵の城を攻略する前に大金を出して米を買い占め、戦わずして敵を兵糧攻めにしたこともあった。
このような作戦をとるには、米の作柄をあらかじめ調べ、米の値を収穫の前につかまねばならない。
米の収穫などしたことのない侍には、難しいことかも知れぬが、百姓あがりの秀吉にとっては、何の造作もないことだ。畦で稲穂を手にとって実の付きかたを眺めるだけで、大体の作柄はつかむことができる。
秀吉は、侍になる前は商人だった。若いころ針を売って身過ぎ世過ぎをしてきた習いで、相手方との駆け引きはお手の物といってもよい。
最初は法外な値を吹き掛け、あとで大幅に値引きして相手に得をしたと思わせる。警戒心を抱かせることなく、たやすく人の心に入り込む話術は、商売で鍛えて得た特技である。ただ武張っているだけの無骨な武将には考えられぬ特異な才能だった。
信長が秀吉を重用したのは、秀吉が取り入ったためではない。そんな阿諛(あゆ)や追従は、人間を見る眼に厳しい信長にとっては、何の意味も持たない。
百姓上がりの秀吉が、織田家累代の重臣をさしおいて、あれほど信長に信頼され、重要な役回りを与えられたのは、信長が秀吉の優秀さを見てとったからに外ならない。
秀吉は敵にとって実に恐ろしい人間である。彼我の戦力や互いの情勢を直感的に見極める能力は、まさに本能的な勘といってもよい。幼いころ、村の子供達と山野で戦のまね事をして遊んだことも、おそらく役にたっているのだろう。
それに比べて、相手の力を確かめもせず、圧倒的に優勢な敵に体当たりしようとしている根来法師たちは、過去の栄光に目が曇っているとしか思えない。
秀吉がいままでの敵とは、まったく異なった発想をする人間であることが分かっていない。根来の僧兵は山の寺にいて世間が狭く、夜郎自大と言われても仕方がない。
やはり、ここは行人たちを諌めねばならぬと明算は思う。
実のところ、明算は数日前から、今回の戦に徹底して反対する覚悟を決めていた。
信長の死を聞いて備中高松から長駆引き返し、山崎の戦で光秀を打ち負かすまでの秀吉の機敏な行動は、明算も小密茶坊らからの報告で聞いていた。
あのときの距離に比べれば、大阪から根来までは、まさに指呼(しこ)の間にすぎない。大軍が大坂から一気に押し寄せてくれば、毛利や佐々らに援軍を求める暇はない。泉州表でいくら抵抗しても、いつまでも支えられない。泉州の砦が落とされ、根来が攻められるのは、所詮時間の問題である。大坂に城ができた今となっては、持ち時間は限られている。
尾張や京から遠征してきて兵も疲れていた信長の時代とは全く事情が違う。大軍が幾手にも分かれて多くの方向から一挙に攻めてくれば、たとえ二万人、三万人の兵がいても到底防げるものではない。
こんなことは分かりきったことだ。これが理解できないようでは、旗頭は勤まらない。
だが、難しいのは大衆の説得である。彼らを納得させるためには、言葉だけでは足りない。信頼と忠誠心を得なければならない。自らが信頼し、命を預けているものの命令なら人は従う。たとえ不利な情勢であっても必死に戦うのが兵である。
詳しい情報がなく、ただ血気にはやる若い行人たちは、専識坊や西蔵院の勇ましい発言に鼓舞されることだろう。
彼らにとって秀吉の専横は許しがたく、膺懲(ようちょう)すべきものである。それに比べて、秀吉に妥協する玄宥能化や岩室坊の穏健論は、最初から敗北を想定した軟弱な態度に映るかも知れない。
いつもそうなのだ。強硬論にひきずられる事は、戦では昔からよくあることだった。
◇
情勢を冷静に見ない蛮勇が戦術を誤らせた例はいくらもある。
たとえば、山崎の戦での光秀がそうだった。
秀吉方の戦力を知った光秀の勇将、斎藤内蔵助は味方の戦力が少なく、近辺の地理にも暗いことから、いったん退却して坂本城に立てこもることを進言した。
だが、本能寺で思いの外たやすく信長を倒したため、己の力を過信した光秀は内蔵助の意見を聞かなかった。
光秀は、秀吉の軍勢を狭い山崎の地で迎え撃てば、破ることができると考え、あくまで会戦を主張した。
結果は味方の大敗北に終わった。頼りにしていた筒井順慶は動かず、姻戚関係を結んでいた細川藤高は離反した。
己の意見が容れられなかった斎藤内蔵助は、主君の恩顧に報いるため敗北覚悟で果敢に戦ったが、捕われて処刑された。まだ四十歳だった。
あのとき光秀が内蔵助の忠告に従って、坂本に退き持久戦に持ち込んでいたら、あるいは形勢が変わっていたかもしれない。
坂本城にこもって根来などに援軍を求め、力を合わせれば、勝機が生まれたかも知れない。勝負を急ぎすぎたことが敗北を早めた。
八年前、天正三年(一五七五)の長篠の戦もそうだった。
あのとき、武田家の重臣たちは味方の装備に危惧を抱き、退却を主張した。しかし、武田勝頼は彼らの意見を聞かなかった。
武田軍は猪突猛進して大敗北を喫し、勝頼はせっかく父信玄が築いた京進出への地歩を失った。そればかりか、家勢の衰えを招く大きな犠牲と威信の失墜を招き、ついには武田家を滅亡させてしまった。
考えてみれば、勝頼も決して勇敢なだけの軽率な将ではなかった。むしろ父に似て重厚沈着な人物だった。
天正元年に父信玄が死んだ後、当初は勝頼も父の遺訓に従い、軍事行動を慎んで国の守りを固めた。
甲斐から信濃を南下して京を目指すには、途中に強敵が多く、準備と力が足りない。そのことを父の信玄は知っていた。それゆえ、自分の死後には性急な行動をせぬよう、息子を戒めたのである。
勝頼も戦力を蓄えることの重要さはよく分かっていた。
すぐ京に上って天下に号令するだけの力量が武田家にあるとは、勝頼自身も思っていなかった。
しかし、年若く血気にはやる勝頼には功名への衝動がどうしても押さえられなかった。
偉大な父を持った子は、常に父と比較された。
生前、父の威光の陰に隠れていた勝頼は、父が死んだ後もなお、父の影から容易に抜け出ることができなかった。
父の遺訓を忠実に守っていくことを周りから求められた。
親族や重臣たちは、いまわの際の信玄の言葉を引き合いに出して、常に慎重論を説いた。
守りの大切さは十分わかっていた。だれにも指示されなかったとしたら、勝頼自身が率先して守りを固めたことだろう。だが、それを遺訓として当然のように義務づけられることに反発があった。
《おれは父親のいいなりになる傀儡(かいらい=人形)ではない》
自立心の強い勝頼は、人から命令されることを何より嫌った。
父に似て生来剛毅であった勝頼はまた、会戦を得意とし、耐えることを必要とする篭城は不得手だった。
じっと城にこもって敵の出方をあれこれ評定することは、武将には似つかわしくない軟弱で情けないことのように思っていた。
勝頼が自重しているのをよいことに、家康は盛んに三河で武田方の城に攻撃をしかけていた。勝頼にはそれが自分への挑発であり、嘲りのように感じられた。
◇
父の死から二年。ついに勝頼はこらえることができなくなった。
天正三年(一五七五)五月、勝頼は重代の宿将たちの反対を押し切り、三河への出兵を決めた。勝頼は自ら一万五千の軍勢を率いて奥三河に侵攻した。
武田軍は同時に美濃、遠江にも進出した。満を持して越境した武田の兵は、たちまち美濃の明智城、遠江の高天神城を落とした。気勢のあがる武田軍は三河でも優勢に戦いを進めた。
はじめ勝頼は、家康のこもる吉田城(豊橋)を囲んだ。家康を誘い出して得意の野戦に持ち込もうとしたのである。しかし、元亀三年(一五七二)の三方原の戦いでの手痛い敗北を経験していた家康は、会戦に応じなかった。家康は吉田城を出ず、持久戦になった。
家康と同盟関係にある信長が背後に回るのを恐れた勝頼軍は囲みを解き、引き返して長篠城を攻めた。
長篠城はもともと奥三河の地侍である山家三方衆の一人、菅沼氏の居城だった。菅沼氏はかつては家康の配下にあったが、武田勢が強力になってきたのを見て家康を見限り、武田側についた。
失地回復の機会を狙っていた家康は、信玄が死ぬや、武田方の混乱に乗じて長篠城を攻め、奪還した。
家康は菅沼氏が逃亡したあとの長篠城を、同じ山家三方衆の一人である作手(つくで)の奥平信昌に守らせた。
勝頼が長篠城を攻めたのは、ここが信濃から三河、東海道への出口にあたり、中央に進出するための足掛かりになるからである。
大野川と寒狭(かんさ)川の合流点に立つ長篠城は、断崖と深い堀に守られて容易に落とすことのできない要害だった。
城の地下から攻め口を作るための金掘り職人らも動員し、武田軍は総力で長篠城を攻めた。これに対し、わずか三百人ばかりの守兵は、地の利を生かして果敢に戦い、武田軍の猛攻に耐えた。
武田軍は本丸、二の丸と野牛曲輪(くるわ)だけを残して周囲の曲輪をすべて落としたが、そこから先はなかなか進めなかった。
武田軍が攻めあぐねている間に、城内からひそかに鳥居強右衛門(すねえもん)が脱出した。
強右衛門は真夜中に川に飛び込み、水中に張られた網を切って、向こう岸に泳ぎついた。対岸の山上でのろしをたいて、城内に脱出の成功を知らせると、夜の三河路をひた走って、家康のいる岡崎城へ急いだ。
岡崎で強右衛門は、救援に来ていた信長と面会し、落とされようとしている城の危機を訴え、出兵を求めた。
家康と信長にとっても、ここは極めて重要な局面だった。
もし、長篠が落ちれば、武田勢はここを拠点に、たやすく三河を侵すに違いない。そうなれば、家康は常に背後を脅かされて東に兵を割かれ、西の信長に援兵を出すことは難しくなる。危険を冒しても、どうしてもここは武田に一撃を与え、三河進出の野望を打ち砕いておかねばならない。
信長と家康は長篠への派兵を決めた。派遣する部隊には、名高い武田の騎馬軍団に対抗するため、火縄銃をできるだけ多く集めるよう命じた。
その間に、強右衛門は再び長篠に戻った。しかし、城に戻る直前に武田勢に見つかり、捕縛された。強右衛門は川を隔てた城方から見える場所ではりつけにされた。
武田方は強右衛門に「援軍は来ないと味方に伝えたら命は助ける」と約束した。強右衛門は武田方の提案を受け入れると見せかけ、大声で呼び出した城兵たちに「援軍が来るぞ」と叫んだ。強右衛門は、怒った武田の兵にその場で突き殺された。
信長・家康の連合軍が長篠城の対岸の設楽原に到着したのは、その数日後だった。
織田・徳川連合軍は設楽原に陣を構え、決戦の時期を探った。
大軍の着陣に、武田の宿将たちはみな撤退を主張した。
長篠城から奥平の兵が打って出てくれば、背後の織田・徳川軍との挟み打ちにされる恐れがある。そう重臣たちは懸念した。
しかし、功にはやり、父の遺訓を破って出兵したことへの体面もあり、勝頼は彼らの主張を聞き入れなかった。
長い軍議のあと、ついに勝頼は家宝である源氏の御旗と楯無しの鎧に誓って、設楽原での決戦を命令した。
武田家では、先祖の武勲を表す神聖な御旗と楯無しの鎧を前に誓ったことは絶対に取り消せない決まりだった。
重臣たちもいまは説得をあきらめ、死を覚悟して戦の支度を始めた。彼らは髪や爪を家族への形見に送り届け、あるものは髪を下ろし、あるものは、帷子(かたびら)に身を包んで戦に臨んだ。
天正三年(一五七五)五月二十一日早朝、両軍は長篠城近くの設楽原で激突した。
勇猛果敢な武田隊は得意の騎馬戦法で、攻め太鼓を鳴らしながら、入れ代わりたち代わり、次々に押し寄せる波のように、徳川・織田連合軍に攻めかかった。
しかし、あらかじめ丸太と縄で作られていた徳川・織田軍の馬防柵は横に長く、突破することは難しかった。かえって新式の武器、鉄砲の一斉射撃の標的となって、武田の武将たちは、馬とともに次々に大地になぎ倒された。
騎馬隊に続く二間槍の長槍隊も、敵と槍を交わす間もなく、ことごとく鉄砲の餌食となった。
勝頼は優れた武将だった。父信玄が三方原の戦で家康と戦ったとき、両軍が一進一退の攻防を繰り広げているさなかに、一気に押し出し、家康軍の総崩れを引き起こしたのも、勝頼の部隊だった。
勇猛な勝頼はこのときの勝利が忘れられなかった。長篠の戦でも、同じように馬で敵中に突っ込めば、勝利を得られると考えていた。
伝統的な騎馬戦に長じた武田方はだれも、馬の時代がすでに終わっていることに気がついていなかった。
山県三郎兵衛、馬場美濃守、真田信綱ら名のある武将が多く討ち死にした。
そのほか数千人の兵が死んだ。設楽原に横たわる馬と武将の累々たる死骸は、源平の時代から連綿と続いた伝統的騎馬兵法の終焉(しゅうえん)を示していた。