「官兵衛、相談がある」
秀吉の声で孝高は我に帰った。
秀吉は周りにいた小姓や女たちを遠ざけると、声をひそめて話しだした。
「そちも知っての通り、根来の悪僧どもが、わしに刃向かおうとしている。いま長谷川秀一を寺にやって、勝ち目のない戦をやめるように諭しているが、愚かな坊主相手では、必ずうまくいくとは限らぬ。根来と戦わねばならなくなったときに、どのように攻めるか。それをいまからそちに考えておいてほしいのだ」
秀吉は最近白い毛が目立つようになったあごひげに手をやりながら話し続けた。
「紀州は山と川に守られた攻めにくい土地であることは誰でも知っている。信長公でさえ、雑賀との戦では攻めあぐみ、結局、中途半端な形で和睦せざるをえなかった。僧兵たちの蓄えている鉄砲もまた、味方にとって大きな脅威である。鉄砲を封じるために、どのような作戦をとればよいのか。また、紀州に入るには、まず和泉にある根来の出城をつぶさねばならぬが、それには兵糧攻めがよいか、力攻めがよいか。いろいろと考えておかねばならぬ。そちの考えを聞かせてほしい」
孝高の顔を見つめながら、秀吉は答えを待った。
問いかけられた孝高の顔は、生き方に悩む敬謙なキリシタンから、老獪な軍師の表情に変わっていた。しばらく孝高は考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「恐れながら、信長公が雑賀攻めで手こずられたのは、相手に時間を与えすぎたためと思われます」
「どういうことだ」
性急な秀吉は、答えをせかした。
「あのときは先手の堀秀政殿の兵が、敵の計略にかかって雑賀川で討たれ、後詰めの軍は紀の川を渡るのを躊躇いたしました。その間に敵は態勢を立て直し、にらみ合いに持ち込まれました。戦が長引いたが故に、背後の海から毛利の援軍に攻められる恐れが出て、和睦に追い込まれたのです」
秀吉はじっと耳を傾けている。あのときの戦闘には秀吉自身も参加したが、孝高の言うとおり、紀の川の渡渉地点を固めることに時間を費やし、直ちに戦闘に入れなかった。
「確かに紀州は地形的には攻撃側に不利な面がございます。大勢の兵が狭い山あいの道に殺到しても前に進めず、かえって両側から攻撃される危険があります。また渡河中に鉄砲を撃ちかけられれば大きな犠牲が出ましょう。しかし、大軍のまま動かず、慎重に構えていては、ますます敵に攻撃の機会を与えることになります。それでなくとも地の利のある敵がますます有利になりましょう。こちらも兵を細かく分け、多少の犠牲は出ても、多くの方角から一度に攻撃をしかけるのが得策かと存じます」
「おれもそう考えている。紀州に入ったあとは一気に兵を進めねばなるまい。だが、問題はむしろ紀州に入る前にある。紀州に入る前にまず和泉を制圧しなければならぬ。百姓どもの固めている根来の出城をどうするか」
百姓という言葉を口にするとき、秀吉は顔を歪めて不快そうな表情を見せた。
「天地の恵みを受け、万民を養うべき百姓の身でありながら、奴らは畑仕事もろくにせず、鉄砲を撃って戦のまね事をしておる。まったくもって心得違いも甚だしい。しかし、烏合の衆とはいえ、鉄砲の威力は大きい。油断はできぬ」。
「仰せの通りでございます。和泉の千石堀砦は、銃をもった根来の行人と百姓が数千人詰め、相当に長期間立て篭もることが出来ると想像いたします。恐らく力攻めでは当方にも相当な犠牲が出ることでしょう。できれば、ここは慎重に構え、兵糧攻め、または水攻めの作戦を取りたいところ。しかし、その場の状況が許すかどうか。もし敵が攻撃を仕掛けてくるようなら、こちらも力で応戦しなければなりませぬ」
「戦になれば、百姓たちは妻子も砦の中に入れるだろう。たとえ女子供といえど、容赦はせぬ。逆らう奴は、すべてなで切りにしてくれる」
秀吉は険しい表情でいった。
確かに戦となれば女たちもまた敵である。場合によっては男より手ごわい存在になることもある。
砦の石垣をはいのぼる兵に上から鍋や大釜の煮え湯を浴びせ、数人がかりで、てこを使って大石を落とす。落城の間際まで砦の中から鍋釜を投げつける。刀を持った敵兵に押さえつけられても、わめきながら指にかみ付いて最後まで抵抗する。
百姓の女たちは、城の中で震えている大名の奥方や、鉄砲の炸裂する音に卒倒する女房衆のような、か弱い存在では決してない。百姓の女たちには、男とは違った、手を焼くようなしぶとさがあるのを秀吉はよく知っていた。
秀吉は百姓の男と同様に百姓の女も嫌いだった。
秀吉とは違い、孝高は百姓を嫌ってはいなかった。百姓が反抗するにはそれなりの理由があると思っていた。
宣教師たちや紅毛の商人らの話では、百姓たちが自己主張し支配者に反抗するのは彼らの国でも同じだという。
彼らの故国のヨーロッパでは、すでに半世紀前にその動きが始まっていた。西暦一五一七年(永正十四年)にはドイツの修道士ルターが教会の改革を唱えた。これを機に、身分制に疑問を抱き、自由に目覚めた農民たちが、年貢の軽減や農奴制の廃止を求め、領主や教会に反乱を起こした。
農民は槍や鉄砲で武装し、領主の傭兵に立ち向かった。高台に立っている、以前はあれほど敬い、恐れていた領主の館に押し掛け、抵抗した領主とその家族たちを殺した。
かつては信仰の喜びに涙を流し、あるいは己の罪の深さに震えながら告解し懺悔(ざんげ)した教会に乱入し、建物に火を放った。
城や教会に蓄えられていた穀物や宝物を取り出し、反乱の参加者に分配した。魂の救済者として崇めていた司教や枢機郷を圧政者と罵り、裸馬に乗せて追放した。
ワインと美食で太った僧侶たちは、神に祈り助命を求めたが、興奮した百姓たちは聞く耳を持たず、彼らを教会の尖塔に吊して処刑した。
「キリストは自由を得させんがために我らを釈(と)き放ちたまえり」(パウロ、ガラテヤ人への手紙)
農民たちは生まれて初めて得た自由に感激し、神に感謝した。
それまで犬のように従順だと思われていた農民の反乱は諸侯や教会を震え上がらせた。無知で臆病と侮り、まるで人間扱いしていなかった農民が領主に刃向かい、一致団結して勇猛に戦うとは、思っても見なかった。
ドイツの農民戦争では、聖職者トマス・ミュンツアーが「地上における神の国」の実現を農民に呼びかけ、指導した。
しかし、農民たちの蜂起は結局、力によって屈服させられた。秩序を重んじるルターはミュンツアーを批判し、諸侯側に味方した。結局、農民戦争は1525年、農民側の敗北に終わった。
この間、十万人の農民が殺された。首謀者は火あぶりにされ、家族も報復のために殺された。生き残った農民も以前よりもっと悲惨な境遇に落とされた。神の国は一転して、この世の地獄となった。
◇
ヨーロッパで農民の反乱が無残に弾圧され失敗したのは、反乱した人々の側も暴力に慣れ、堕落したからである。
こうした反省が生き残った人々の間に生まれた。その後、カトリック教会を批判する人々は、武力に訴えることをやめ、聖書のみを頼りに、平和な手段で世の中を変えようとした。
彼らはカトリックの腐敗を、刀以上に鋭い言葉で糾弾した。
「聖フランチェスコは清貧を重んじ、父親の財産権を放棄した。みすぼらしいひもを腰にまきつけて、弟子たちと布教に尽くした。死んだときも棺(ひつぎ)を求めなかった。かつての信仰者はかくのごとく清いものであった。それなのに、いまの教会はどうか。世俗の人間以上に富を集め、ワインや肉をたらふく飲み食いして、ぜいたくな生活を送っている。その豊かな日常を支える富は、貧しい暮らしにあえぎながら額に汗をして働く農民から奪ったものである。このような不正が、こともあろうに、そのお方の前では万民が平等であるべきイエスと神の御名によって行われている。このような悪徳を見逃してよいものだろうか」
批判者の舌鋒は鋭かった。
厳しい非難にさらされ、存亡の危機に立ったカトリック側でも、自己批判し改革に乗り出す者が現れた。彼らは儀式に堕していた信仰をもう一度、イエスの教えにさかのぼって見直すことを主張した。
古いヨーロッパではもはや布教に限りがあると考えた彼らは、海を渡り、当時発見されたばかりの新しい大陸を神の支配下に置こうと決心した。
彼らは神の恩寵を説くため、大航海の船に乗って新世界に乗り出した。
イエズス会もこうした団体の一つだった。
イエズス会は、イグナチウス・ロヨラとフランシスコ・ザビエルら七人の同志が一五三四年(天文三年)パリで創立した。彼らはローマ法王から認可を得ると、ポルトガル国王の庇護を受け、海外での布教に乗り出した。
「神の威信を回復する道は遠い。イエスの説いた万民の平等を伝えるためには、自らも他の人と同じことをしなければならない。自ら衣服を洗濯し、自ら乾かし、いっさい人の手を借りずに、同胞の霊魂救済に専念すべきである」
従僕を伴うことを勧められた三十五歳のザビエルは、このように語って申し出を断り、リスボンの港を発ってインドを目指した。彼は蒸し暑い船室で病人の汚れ物を洗い、告解を聞いた。
敗北したとはいえ、ヨーロッパの農民は目覚め、もはや一握りの階級が好き勝手に振る舞うことは許されなくなっていた。
同じころ、日本でも農民の力は強くなっていた。ルターの宗教改革でヨーロッパの農民が目覚めたように、日本でも農民は一向宗などの新しい宗教に鼓舞されて、支配層に抵抗した。
百姓一揆が各地で続発した。加賀では長亨二年(一四八八)に守護富樫氏を倒した一向一揆の勢力が独立国家を作った。
一向宗徒は、本願寺に率いられ、各地で守護勢力と戦い、信長が台頭した後は、信長に長く抵抗した。しかし、桑名や越前では武士に徹底的に弾圧され、最終的に敗北した。
ヨーロッパでは蜂起した農民が、最終的に軍隊に鎮圧され、農民はその後長い間、自由を奪われ、収奪されることになった。日本でもまた、信長や秀吉、家康によって、農民一揆は徹底的に弾圧された。本願寺も秀吉に屈服した。いまも抵抗しているのは根来と雑賀衆だけだった。
◇
《もはや、百姓は昔のように、われわれ武士の言いなりにはならない》
孝高は考える。
《自分達に力があることを知った彼らは、もはや柔順に武士や公家の言いなりになることはないだろう。彼らを従わせるには、武力しかない。長谷川秀一がいくら説得しようと、結局、僧兵たちは従わないだろう》
孝高は、信長に安土城で会ったとき、信長のそばに根来の行人たちもいたのを覚えている。その不遜な面構えを思い出すと、彼らが素直に頭を下げてくるとはとても思えなかった。
「もし和泉の砦の攻略に手間取るようなら、どうすればよいか」
秀吉が尋ねた。秀吉自身、長い間考えながら、どうしてもいい考えが出てこない難題だった。
根来攻略には、孝高自身も大きな関心を抱いていた。和泉に手を煩わされていては、信長公の雑賀攻めの二の舞になりかねない。時間を取られているうちに紀州では態勢を立て直し、防備を固めるだろう。それははっきりしている。やつらに考えるすきを与えてはいけないのだ。
「根来に入るには紀伊の押川から、根来の北の桃坂に出る間道がございます。いま、らっぱ(忍者)に道を探らせておりますが、もし和泉の砦が容易に落ちないようなら、奴らを砦に封じ込めている間に、この間道を通じて別動隊を、根来に直接送り込むのが良策かと存じます」
「ほう、それは初耳。そのような道があるとは知らなんだ。なるほど、それは良い方策だ」
秀吉は感心した後で、すぐにいい足した。
「しかし、小牧の戦では池田勝入の進言を容れ、敵の本拠を突く中入り策をとったばかりに家康に敗れた。あの二の舞は絶対にしたくない。その心配はないか」
家康に煮え湯をのまされた戦いを秀吉は忘れることはできなかった。
大軍をつけてやったのに、小手先の勝敗に捕らわれて大敗した秀次に対する怒りがこみあげてきた。
「小牧の戦では、途中で岩崎城攻めに時間をとられ、追い付かれたのです。押川からの間道を行けば、根来と和泉はわずか数里。追い付かれる気遣いはございませぬ」
「官兵衛のいうことゆえ、そのあたりは十分吟味の上であろう。しかし、念には念を入れて調べてくれ」
秀吉は慎重にいったが、孝高の作戦に疑いは抱いていなかった。
《孝高の見立てが狂ったことは一度もない。こちらが指示する前に、もうそこまで考えて調べておったとは、さすがに官兵衛》
秀吉は孝高の深謀に改めて感心した。
◇
間道を行く策について孝高がさらに話そうとしたところへ、小姓の一人が秀吉のそばに近付いた。
「奈良より、金春大夫さまが参上されました」
それだけいって、小姓は引き下がった。
秀吉はとたんに落ち着きがなくなった。孝高は話し続けようとしたが、秀吉の表情から、聞く気が失せたのを見てとった。
「官兵衛、悪いが能役者の金春大夫が奈良から参った。ちと会って話をしてやらねばならぬ。悪いがこの続きはまた今度にしよう。それに、まだ戦と決まったわけではない。根来の悪僧たちにも我々の力量は分かっていよう。ひょっとして和睦を申し入れてくるやもしれぬ。まずは秀一の手紙を待つことにしよう。それまでじっくりと作戦を考えておいてほしい」
秀吉はこういうと、そそくさと出ていった。
今の秀吉には戦の相談より能の練習の方が大事なようだった。
孝高も立って部屋を出た。
庭を隔てた能舞台から乾いた大鼓の音が聞こえてくる。秀吉が金春大夫安照を相手に早速、稽古を始めたようだった。
庭の灯篭にはすでに火が灯り、庭の草木が明るく照らし出されている。暗闇の中でところどころ黒い影が見えるのは、護衛の庭番である。虫に刺されても彼らは一晩中じっとこうして見張っている。彼らは敵を見付けたとき以外は声を出すことは許されない。
士分として扱われる上忍は別として、下忍、中忍の地位は低い。彼らはだれにも気付かれず、その職務を全うすることを求められる。仮に敵地に忍んでいって見付かり、はりつけにされようと、だれの命令で来たか絶対に明かしてはならない。なぶり殺しにされても無言のまま死んでいくのが彼らの勤めなのである。
彼らの存在を思うと、孝高はかれらもまたキリシタンの教えに触れさせてやらねばと思う。
孝高は仏の教えもまた魅力的に思えた。
「妙音観世音、梵音海潮音」(観音の教えは不思議に美しく、尊い声は潮の音に似て厳かである)
「慈意の妙なること大雲のごとく、甘露の法雨を注ぎ、煩悩の炎を滅除す」
「軍陣の中に怖畏せんに、かの観音の力を念ぜば、衆(もろもろ)の怨(あだ)ことごとく退散せん」
孝高はかつて覚えた法華経の観世音菩薩普門品(観音経)の中の一節を口にした。
宣教師たちから教わった聖書の言葉にも、人々の苦悩を慰める言葉はいくつもあった。
「すべて労するもの、重荷を負うもの、我に来れ。われ、汝らを休まさん」(マタイによる福音書11・28ー30)
「慰めよ。我が民を慰めよ。その服役の期は終わり、その科(とが)はすでに許された」(イザヤ書40・1ー2)
およそ、人が生きていく限り、苦しみは一時も絶えることがない。地獄はこの世の焼き写しに過ぎない。
死はもちろんのこと、病気、老い、飢え、嫉妬、迫害、別離…。様々な苦悩が人間を待ち受けている。
貧しい民衆ばかりか、高貴な人々もこの苦しみは免れることはできない。否、むしろ、高い地位に有るがゆえに、苦しみは多い。高い地位にある人々の恵まれた生活は、重荷に対する埋め合わせとも考えられる。
あの栄華を誇った平家の公達も、ある者は西海の底に沈み、ある者は捕らわれて都大路を引き回され、衆人の前で首をはねられる恥辱を受けた。
また、どれだけ多くの大名の妻子が悲惨な死を遂げたことであろう。
焼け落ちる城の石垣から、女たちが尖った逆茂木の上に手をつないで飛び降り、または井戸に飛び込んで自ら命を断った。あの悲しむべき最期を見れば、いくら生きているうちに華美な生活を送ることができようとも、庶民の誰が彼らのような生活を望むだろうか。
《いったい、人間にとって生きるとはなんだろう。苦しむために生きているのなら、むしろ生まれてこなければよかったのだ》
「生きているものより、死んだものの方が幸いである。しかし、この両者より幸いなものは、まだ生まれないもので、日の下に行われる悪しきわざを見ないものである」(箴言4の3)
「空の空、空の空なるかな。すべて空なり」(伝道の書1・2ー3)
「知恵があっても苦しみは薄まるどころか、かえって苦しみは大きくなる。なぜなら、知恵が多ければ悩みが多く、知識を増すものは憂いを増すからである」(箴言1・18)
孝高は胸がふさがるのを感じた。
「我らが年を経る日は七十歳に過ぎず、あるいは健やかにして八十歳に至らん。されどその誇るところは勤労と悲しみとのみ。その去り行くこと速やかにして我らもまた飛びされり」(詩編90)
戦で勝ったものも、また敗れる。運よく生き延びたとしても、いつかは死ぬ。いずれ死ぬのなら自分が満足できる死に方をしたい。自分は世俗の主人のためではなく神のために死にたい。
孝高はもうかなり以前から殉教に憧れを抱いていた。世俗の領地などよりも、自分にとっては信仰を広めることが大切である。信仰のためなら、喜んでこの身を犠牲にしよう。
孝高は高山右近と信仰について話したことがあった。右近もまた、信仰のために死ぬことを望んでいた。