過去の栄光

 稽古を終えて成真院に帰ってきた若左近たちはすぐ湯浴みし、食堂(じきどう)に向かった。食堂では、賄い方の十全坊が、寺男や稚児を使って夜食の支度をしていた。
 腹をすかせた大勢の行人たちの話し声で、食堂の中は、にわかに活気付いた。
 十全坊は手ずから漆塗りの椀に飯を装(よそ)い(=盛り付け)、行人たちに渡した。行人たちは野菜の煮付けや胡麻豆腐を菜に味噌汁とともに飯を掻き込んだ。

 いまは賄い方を務めている十全坊は、かつて弓矢の腕で根来中に知られた人物だった。
二十年前の永禄五年(一五六二)五月、根来寺行人が三好長慶と戦った河内教興寺(現八尾市)の合戦で敵の鉄砲に撃たれて左手が不自由となり、実戦を離れた。数年前までは弓の師範をしていたが、年をとって体が弱ったため、今は厨房で働いている。

 十全坊はいまも興に乗ると、若い行人たちを相手に、激しかった教興寺合戦の思い出を話した。

 その当時、根来寺は泉州南部の知行(=支配)をめぐり、和泉守護細川家の家臣で阿波出身の三好一族と敵対していた。根来寺は、三好一族と畿内の覇権をめぐり争っていた近江の六角義賢(よしかた)や河内の畠山高政と組んで、三好氏とたびたび合戦を繰り返した。

 永禄四年(一五六一)七月、近江の佐々木六角義賢が京都の三好長慶を攻めるのに呼応し、根来衆と畠山高政は、三好一族の安宅木(あたぎ)冬康ら淡路の軍勢二千余が守る岸和田城を攻めた。
 これに対し、三好長慶は阿波にいた舎弟の三好実休を急ぎ堺に上陸させ、救援させた。

 永禄五年三月五日、久米田(現岸和田市)付近で戦闘が始まった。紀州勢は実休の率いる三好軍を攻撃した。
 実休は根来衆の撃った鉄砲に当たって落命し、三好軍は敗走した。これを見た岸和田城の安宅木冬康も城を捨てて逃げた。

 畠山高政と根来衆は、勢いに乗って河内まで追撃し、三好長慶の居城の飯盛城(四条畷市)に迫った。しかし、五月十四日、河内教興寺(八尾市)で三好長慶を救援する松永久秀軍の攻撃を受けて大敗北を喫した。
 この戦で三好長慶は和泉、河内、大和を手中にし、畿内の支配権を確立した。

「教興寺の合戦のとき、わしは鉄砲隊の一員であったが、それは厳しい戦だった。和泉から長い道を走ってきて、みな疲れているところに、思いがけぬ松永の攻撃を受けて味方は総崩れになった」
「旗頭は必死で態勢を立て直そうとしたが、いったん崩れた守りは簡単に立て直せるものではない。行人たちは先を争って逃げようとする。倒れたところを味方の馬に踏まれて死んだり、狭い橋の上から川に落ちて、溺れ死んだりするものもいた。おれも必死で走って逃げた」
「気がつくと、左手が血まみれになっていて、手首を動かそうとしても動かぬ。逃げるのに夢中で、手首を鉄砲玉に貫かれていたのに気が付かなかったのだ。手当て出来る者も死んでしまい、手遅れで腕が動かなくなってしもうた」
  実戦に参加した十全坊の話は迫力にあふれ、行人たちは引き込まれた。

 教興寺合戦のあとの一時期、合戦の手柄の記録役を勤めていた十全坊は、その後の戦にも詳しかった。

 永禄六年(一五六三)、三好長慶と根来衆は、堺でいったん和議を結んだ。しかし、翌七年に三好長慶が死んで、三好長逸、三好政康、岩成友通のいわゆる「三好三人衆」が跡を継ぐと、和平は破れた。
 根来衆と畠山高政は、三好一族に反旗を翻した松永弾正久秀らと結んで三人衆に対抗した。

 永禄十年(一五六七)九月、根来衆は、紀伊河内国境の紀見峠を越え、三好方の河内烏帽子形城(河内長野市)を包囲攻撃した。十月には、松永久秀の軍が三人衆方の軍勢のこもる奈良の大仏殿に火をかけ、大仏を焼いた。

《丑の刻に大仏殿たちまち焼けおわんぬ(=焼けてしまった)。猛火天に満つ。さながら雷電のごとく一時に頓滅しおわんぬ(=壊滅した)。釈迦像も湯にならせたまひおわんぬ(=溶けてしまわれた)。言語道断。あさましあさましとも思慮に及ばざる処なり》
 奈良興福寺の僧、多聞院英俊は、日記にその時の情景をこう書いて松永弾正の暴挙を憤っている。

 その後も根来は、三好一族との争いを続けた。永禄十一年(一五六八)九月、織田信長が将軍足利義昭を奉じて上洛すると、すぐに三好一族を共通の敵とする同盟を信長と結んだ。
               
 強敵信長の出現で、三好一族は畿内を追われ、故国阿波に逃げ帰った。
 元亀元年(一五七〇)、信長が一時都を離れたすきに、三好一族は失地回復を図って七月に大坂に上陸し、野田、福島に布陣した。信長は急ぎ岐阜から戻って三好を攻めた。根来寺も動員に応じて信長軍に加わった。

 当時、信長に脅威を感じていた石山本願寺は、信長が石山にも攻撃を仕掛けてくることを恐れ、同年九月十二日、全国の門徒に檄(げき)を飛ばして蜂起を促した。そして三好一族や越前朝倉氏、甲斐武田氏と結び信長に抵抗した。これが前後十年の長きに及んだ石山合戦の始まりである。

 この石山合戦では、紀州一向宗の本拠地であり、根来と同様に鉄砲衆で知られていた雑賀の人々が、本願寺門主の顕如光佐の呼び掛けに応じて参戦した。
 光佐は根来にも協力を求めたが、信長との同盟を重んじる根来は、これに応じなかった。
 この結果、ともに仏の徒であり、地縁血縁ともに浅からぬ根来と雑賀が敵味方に別れて戦うことになった。

 天正五年(一五七七)二月、信長が本願寺を支援する雑賀を攻めたとき、根来寺の杉の坊は、信長の求めに応じて参戦し、信長軍の先頭に立って軍勢を雑賀へ導いている。若左近たちが根来に来る途中で老商人から聞いた話は、このときの出来事だった。

 一向宗徒の多かった近江の国の門徒にも本願寺は救援を求めた。近江犬上郡佐目(さめ=現犬上郡多賀町)の左女谷道場(現遠久寺)には、本願寺や雑賀からの密使が持参した、加勢を求める檄文が残っている。

「密使をもって知らせる。近日、仏敵信長めが大軍で石山へ攻め寄せてきた。防戦の用意はあるが、微力で敵対は難しい。一向宗の敗北はこの時だと思われ、実に嘆かわしい。すぐに門徒に加勢してもらえるよう、取り計らっていただきたい。楠太郎右衛門、下間与四郎」(元亀元年九月七日)

 「密使をもって知らせる。雑賀の三緘(みからみ)衆と根来の杉の坊が、仏敵信長に降参して、雑賀への道案内を引き受けた。秋田城之助(=織田信忠)、北畠中将(=織田信雄)、神戸三七(=織田信孝)ら、その勢三万余りが雑賀に押し寄せてきたと注進があった。徐々に味方の軍勢もはせ集まり、防御の準備をしている。そちらも国中の門徒を、夜を日に継いで急ぎ到着させ、加勢してくれるよう、取り計らっていただきたい。 下間与四郎、鈴木孫一 (=雑賀孫市)」(天正五年二月五日)
 

 本願寺の要請を受け、近江の国四十九院(犬上郡豊郷町)の一向宗唯念寺でも、門徒二百人が、住職の巧空に率いられて大坂に向け出陣したが、安土で信長の軍勢に取り囲まれ、多くが殺された。米原市の福田(ふくでん)寺には、信長に殺された一向宗徒を弔った「万人塚」が残っている。六角氏、比叡山、一向宗が支配した近江は、上洛を図る信長によって蹂躙され、大勢の犠牲者を出したことがわかる。

                            ◇

 根来寺が武力を蓄えた理由は、もとはといえば高野山への敵愾心(てきがいしん)だった。

 太平記巻十八の「高野根来不和の事」の条には、両寺の対立は平安時代末期の覚鑁上人の高野追放に起因すると書かれている。
「そもそも釈門徒(=仏教徒)たるものは、柔和を以て宗(むね)となし、忍辱(にんにく=屈辱を忍ぶ)を以て衣とする事にてこそあるに、根来と高野とは何事により、これほどまでに確執の心をば結ぶとぞ、ことの起こりを尋ぬれば、中頃(なかごろ=昔)、高野の伝法院に覚鑁とて一人の上人おはしけり・・・」

【現代語訳】

(仏の徒は柔和を本旨とし、屈辱を耐え忍ばねばならないのに、根来と高野はなぜ、これまでに確執を続けるのかと原因を探ると、昔、高野山の伝法院に覚鑁という高僧がいた)

「高野の衆徒等これ(=覚鑁上人が即身成仏のために禅定に入ったこと)を聞きて「なんでふ(=どうして)その御坊(=覚鑁)、我慢の心にて掘り埋まれ(=思い上がった心にとらわれ)、高祖大師(=空海)の御入定(=座禅しながら涅槃に入ること)に同じからんとすべきやうやある。その儀(=そういう事)ならば一院(=伝法院)を破却せよ」とて伝法院へ押し寄せ、堂舎を焼き払ひ、御廟を掘り破ってこれを見るに、上人は不動明王の形像(ぎょうぞう)にて、伽楼羅炎(かるらえん=巨鳥ガルーダの翼のような炎)の内に座したまへり。(中略)
 悪僧ら(中略)大きなる石を拾い懸けて、十方よりこれを打つに、投ぐる飛礫(つぶて)の声(=音)、大日の真言(=呪文)に聞こえて、かつて(=全く)その身にあたらず、あらけて(=ばらけて)微塵(みじん)に砕け去る。
 この時覚鑁、「さればこそ(=それ見たことか)なんぢ等が打つところの飛礫全くわが身にあたる事あるべからず」と少し驕慢の心起こされければ、一つの飛礫上人の額にあたって、血の色やうやくにして見えたりけり。「さればこそ」とて大衆ども同音に(=いっせいに)どっと笑ひ、おのおの院々谷々へぞ帰りける。これより覚鑁上人の門徒五百坊、心憂き事に思ひて、伝法院の御廟を根来に移して、真言秘密の道場を建立す。その時の宿意(しゅくい=遺恨)相残って、高野・根来の両寺、ややもすれば確執の心をさしはさめり」

【現代語訳】

(高野山の行人たちは、覚鑁上人が即身成仏のための座禅に入ったと聞いて、「どうして、その僧は、おごり高ぶって、空海大師の即身成仏のまねをするのか。そういうことなら、伝法院を壊そう」といって、伝法院に押し寄せた。堂を焼き払い、墓を掘ったところ、上人は不動明王の形になって、巨鳥の羽
のような炎の中に座っていた。悪僧たちは、大きい石を拾って、四方から投げたが、つぶての音は、大日如来の呪文に聞こえて、全く当たらず、ばらけて砕けた。このとき、覚鑁上人が「それみよ。お前たちが投げる石が私に当たるわけがない」とすこし、慢心した途端、ひとつの石が上人の額にあたって、血が流れた。「ざまを見ろ」と、高野の行人たちはどっと嘲笑し、それぞれの坊舎に帰った。このときより、覚鑁上人の弟子たち五百人は、うとましく思い、伝法院の建物を根来に移して、真言密教の道場を作った。このときの恨みが残り、高野と根来はややもすれば、争うようになった)

 覚鑁上人が受けた仕打ちを深く恨んだ根来寺は、その後領地の争いもあって、、同じ真言宗でありながら、高野山金剛峰寺を敵視する。両寺はともに僧兵を蓄え、世俗の権力と結んで対抗しあった。
 建武の新政が挫折したあとの延元元年(一三三六)十一月、後醍醐天皇は足利尊氏の和睦呼びかけに応じて比叡山から帰京した。しかし、約束は裏切られ、天皇は花山院に幽閉された。後醍醐帝は神器を奉じて花山院を脱出、吉野へ逃れた。

 このときから吉野の朝廷と京都の足利幕府が争う南北朝時代が始まった。

「先帝、花山院を忍び出させたまひ吉野に潜幸(=ひそかな行幸)なりしかば、諸国の軍勢は申すに及ばず、諸寺諸社の衆徒神官に至るまで、みな王化(=天皇の徳)にしたがって、あるいは軍用(=軍資金)を整へ、あるいは御祈祷をいたしけるに、根来の大衆は一人も吉野へ参らず。これ必ずしも武家をひいきして公家を背き申すにはあらず、この君、高野山を御崇敬(そうきょう=崇拝)あって方々の所領を寄せられ(=寄進され)、さまざまの御立願ありと聞いて、偏執(=片意地)の心をさし挟みける故なり」

【現代語訳】

(後醍醐天皇が足利氏に幽閉されていた花山院をひそかに脱出して吉野に移ったとき、諸国の軍勢はもちろん、あちこちの寺社の行人や神官までも、皆天皇に従って、軍資金を出し、祈祷をしたが、根来の行人はひとりも吉野へ行かなかった。これは必ずしも、朝廷にそむき、足利氏をひいきしたわけではない。後醍醐天皇が高野山を信仰し、領地を寄進し、願を立てたと聞いて、うらんだためだった)

これ以後五十七年間にわたって続いた南北朝の抗争の間、根来は足利側に味方し、高野は朝廷側に味方して張り合った。

 建武三年(一三三五)、根来は、南朝側の新田義貞討伐のため援軍派遣を求めた足利尊氏に応じて兵を出した。
尊氏はこれに報いるため、根来寺の寺領と知行を安堵し、翌四年には、「四季大般若転読料」(=読経代)として、紀泉国境に位置する和泉の信達庄を根来寺に寄進した。祈祷料の形をとっているが、実質的には援軍を出したことに対する恩賞だった。これが根来の和泉進出のきっかけとなった。

               ◇

 根来寺が得た信達庄は、大阪平野の南部が和泉山脈と接する地に位置する古くからの荘園である。
 荘園内を熊野街道が走り、熊野詣への御幸の途中、後鳥羽上皇が泊まったこともある市場村(御所村)を中心に村落が点在する。
 男里川と樫井川に挟まれた広大な土地には、多くの溜め池が掘られ、広々とした水田が開けている。この新領地から得る莫大な収入は、根来に大きな富をもたらした。
 根来は信達庄を拠点にして、その後、和泉南部全域に勢力を伸ばしていく。

 北朝側を支えた根来は、そのために大きな犠牲も払うことになった。延文五年(一三六〇)八月、根来寺の東にある春日山城に篭城していた根来の行人三百人が、南朝方の粉河寺、恩地、牲川(にえがわ)勢の攻撃を受け全滅した。

 血を流して足利政権に協力した根来寺を、代々の将軍は厚く保護した。
 応永三年(一三九六)には、足利義満が紀泉両国での根来寺の寺領を安堵し、諸公事国役の課税を免じ、守護使の入部を禁じた。
 この結果、根来寺の領地は守護の支配から脱した。紀州、和泉の農民と土豪は根来寺の武力による庇護と軽課を求めて、寺に積極的に近付いた。

 室町末期から戦国時代にかけ、根来は和泉の知行(=領有)をめぐって和泉守護細川氏と抗争を重ね、さらに細川氏没落後は三好氏と戦った。
 泉州の支配地からの収入を寺の財政基盤にする根来寺にとって、領国和泉を名義だけでなく現実に支配しようとする和泉守護職との抗争は避けられなかった。

 室町幕府の権威が衰えると、守護はそれぞれの領地で独立割拠し、領地内の土豪を支配下に組み入れようとした。
 これに対し、勃興しつつあった土豪たちは独立を守るため抵抗した。
 守護の武力は強く、これに対抗するためには、守護以上の強大な武力が必要だった。
 そこで名主たちは、守護と対抗できる強力な後ろ盾として、農民達が熱心に信仰している一向宗や新義真言宗の有力寺院と結び付いた。寺は単なる信仰の対象のみならず、守護の過酷な収奪から現世利益をも守ってくれる文字通りの法城だった。

 土豪たちは寺に土地を寄進し、また子弟を寺の行人に出して、寺を支える代わりに寺の武力による庇護を得た。根来寺内に成真院を持つ熊取の中家はその一例である。

こうした土豪と寺院の関係は平安時代の荘園にまでさかのぼる。大寺院では土豪の子弟が僧兵となって寺を守った。
幼時に父を亡くして鞍馬山に預けられた源氏の御曹司義経が、僧兵から武術を学んだように、土豪の子弟は寺に預けられ、僧兵に武術を学んだ。
鎌倉時代末期、河内の観心寺に子院を持っていた楠木氏もまた同じように子弟を観心寺に送り込んだ。楠木正成は八歳から十五歳まで、観心寺の中院で学問を学んだといわれている。おそらく、このときに観心寺の僧兵たちとも関係を結んだのだろう。

 熊取の中氏と同様、近木庄の神前(要)氏や橋本(出原)氏、日根庄泉佐野の藤田氏、その他泉南一円の地侍が根来寺に頼った。岸和田の古くからの武士松浦氏も、根来寺と組んで三好衆と戦った。
 一方、泉北(北泉州)では守護の力が強く、土豪の多くは守護方に付いた。根来の勢力圏の泉南でも、名門武士の日根野氏は守護の細川氏やその家臣の三好氏につき、根来寺についた松浦氏らと戦った。

 その後、日根野氏は主家の三好氏の没落に伴って勢力を失った。日根野氏は根来寺との抗争に敗れて一部は美濃に移った。

 合従連衡を繰り返した当時の戦国大名と同様、これらの土豪たちにとっても、同盟者を選ぶことは、文字通り存亡をかけた選択だった。

               ◇

「十全坊殿の話を聞いて、寺の来し方がよくわかり申した。同じ和泉の国でありながら、北と南が何故昔(いにしえ)から、激しい対立を続けてきたのか、長い間不思議に思うておりましたが、いまようやく合点がいきました」

 若左近たちと一緒に話を聞いていた真如坊がうなずいた。真如坊は成真院に昔からいる行人で、和泉の国鳥取庄の土豪の息子である。

 根来寺の泉州領有から二百年。泉州の南部と紀伊の北部は、言葉と気風、習慣も似通っていた。これに対し、同じ和泉の国でも南北では全く風土が違った。

「泉南はこの百年、守護との戦乱に明け暮れて、百姓は苦しい生活を送ってきた。それに比べ、泉北の人間は、細川や三好の庇護を受けて、よい暮らしをしてきた。堺が栄えているのは彼らがうまく立ち回ったというより、運がよかったからに過ぎぬ」
 十全坊は食器を片づけながらいった。

都を廃虚にした応仁の乱が堺に幸いをもたらした。それまでは、堺はどこにでもある地方の小さな港だった。応仁の乱が起き、播磨の兵庫港が西国の大内氏に押さえられて瀬戸内海の航路が使えなくなった。このため幕府と和泉守護の細川氏が、堺から出航して土佐沖を回り、明に向かう勘合船航路を始めた。堺が栄え出したのは、その新航路が定着してからだった。

 堺の商人は明やルソンとの貿易にも進出するようになった。南蛮船が来て、大型船の建造法や航海技術が伝わると、堺の町衆は自らも船を造って、日本の外に乗り出した。タイやベトナムまで渡り、陶器や薬草などの商品を持ち帰って、巨万の富を築いた。堺は、博多はおろか都さえ凌駕する繁栄を謳歌するようになった。

 堺の商人たちは、細川や三好、松永らの大名たちとも親しく交わった。豪商の中には大名と姻戚関係を持つ者もいた。
 やがて日本一の貿易都市となった堺は、独立不羈の気風を強め、町を豪商たち自らが治める自由都市にする。
 町の周りに堀を巡らし、雇い入れた武士に町を守らせた。

「堺の商人は西は唐天竺から、南はルソンまで行って、世の中のことを実によく知っておる。天竺の向こうには南蛮人の住む国が広がっているそうな」
 銃や食料、食器などの買い入れで堺に行く十全坊は、堺の商人ともつきあいがあった。

 堺の有力者は、蓄えた富を守るため、権力者との関係に心を砕いた。細川、大内、三好という代々の和泉の支配者に気を遣った。
 とりわけ、海上輸送に頼る堺の貿易は、阿波に本拠地を持ち、紀伊の安宅(あたき)水軍を率いて瀬戸内海ににらみを効かす三好一族との協調なしには成り立たなかった。
 堺の商人は、三好一族と血縁関係を持つなどして積極的に結び付いた。一方、三好もまた堺の富を利用して力をつけた。

 細川家の家宰に過ぎなかった三好家が主家細川氏に代わって勢力を伸ばし、ついには三好長慶が足利将軍を操って京畿を支配するに至ったのも、堺と手を握ったことが一つの大きな理由だった。

 永禄十一年(一五六八)の信長上洛は、堺にとって、それまでの繁栄を脅かす大事件だった。しかし、堺はここでもうまく立ち回った。
 長年、三好一族と結び付いていた堺は当初、信長からの矢銭の要求に応じなかった。三好三人衆が畿内回復を図って信長と戦ったときも、堺の豪商たちは三好氏を援助した。
 しかし、機を見るに敏な豪商たちは、信長の威勢が強いとみるや、あっさり三好を見限り、信長に鞍替えした。彼らは信長に矢銭を提供し、茶道具を贈って歓心を買った。

 本能寺の変で信長が死んだ後は、堺は後継の秀吉と結び付いた。
 秀吉の厚い信任を受け、政治向きの相談にものっている千利休は堺の商人の出身である。また、秀吉から水軍を任されている小西行長も堺の商人小西立佐の息子だった。

 利にさとい堺商人にとって、自分に役に立つ人間ならだれでも良かった。一方で信長、秀吉ら新しい権力者も三好一族と同様に堺の富を利用しようとした。
彼らは堺の商人に武力をみせつける一方、彼らが好む茶道を自らも愛好し、彼らを懐柔し支配下に組み入れることに成功した。

              ◇

「いや、話が長くなってしもうた。教興寺の戦いから、まだ二十年しか経っていないのに、もう遠い昔の話になってしもうた。時の流れは早い」
十全坊は感慨深げにいった。

 給仕をしていた稚児が大あくびをしたのを潮に、十全坊の長い話は終わった。行人たちは大部屋に戻って横になった。

 門を閉める音が聞こえる。門番の行人たちが、何か話しているのが聞こえる。山の上で、ふくろうが鳴いている。
 若左近たちの枕元には、刀が置かれている。いつ何時、敵が攻めてきても、すぐに応戦できるように心がけていた。ときには訓練のため、夜中不意に起こされることもあった。

 銃や腹巻などの武具は、まとめて部屋の一角に置いてあった。どれも塗りのはげた古いものだった。十全坊の話では教興寺合戦のころから使われているものだという。

 夢うつつの中で、若左近は自分が長刀を振りかざし、戦っている姿をみた。最初は味方の勢いが敵に勝っていたが、いつの間にか劣勢となり、周りを敵に取り囲まれている。
 囲みを破ろうとしたが、敵の包囲網は堅く、味方は倒れていく。銃弾が激しく飛び交い、もはやこれまでと覚悟を決めたところで、夢から目が覚めた。

 暗闇の中で、大日如来の灯明が周囲を明るく照らし出している。行人たちの安らかな寝息が聞こえる。静かな夜だった。
 若左近は、起き上がったまま、しばらく大日如来をみつめていたが、また横になり目を閉じた。川のせせらぎとふくろうの鳴き声が聞こえていたが、やがて眠りに落ちた。