孝高は自らには厳格だが、他人には寛容だった。戦に勝利したときも、投降した敵は許した。
三木城攻めの際、城に兵糧を入れて救援した丹生山明要寺(神戸市)の衆徒に怒った秀吉は、弟の秀長に命じて全山を焼き打ちさせた.
不意を襲われた僧徒は逃げ惑い、谷底に転げ落ちた。憤怒に駆られた秀吉は衆徒だけでなく、幼い稚児まで残らず殺そうとした。
孝高は秀吉を諌め、稚児だけは助けるようにと進言した。
しかし、激高した秀吉は忠言を聞かず、全員を殺させた。
諌めることができなかった孝高は、戦の後、自らを責めて教会堂にこもった。
生き残るためには他人を殺さねばならぬ戦国の世にあって、殺戮を禁じる信仰を持つことは大きな二律背反である。
信仰は救いであると同時に苦悩でもある。孝高は、信仰を深めるにつれ、主の教えに反する自らの行いを恥じた。孝高の懊悩(おうのう)は、戦で勝利を重ねるごとに、より深く心の底に沈潜した。
入信したころ、孝高は愛を説く新約聖書のイエスの教えより、むしろ勇ましい旧約聖書を好んだ。イスラエル軍のラッパの音と兵士の歓呼の中、崩れ落ちるエリコの城壁の物語(ヨシュア記)は、実際に何度も城攻めを経験した孝高に、陥落の情景を思い出させた。
あるいは、ペリシテ軍との戦いに敗れ、自ら剣の上に伏して命を断つサウル王の壮烈な死(サムエル記上)は、自害の光景を見慣れ、自らもまた、いつ自決を迫られるかも知れぬ戦国の武将として大いに共感を覚えた。
これに対し、「敵さえも愛せよ」と説くイエスの教えは、どこか軟弱なものに思われ、違和感を覚えた。
その考えが変わったのは、荒木村重によって有岡城の土牢に閉じ込められてからだった。
幽閉された土牢の中で、死と向き合い、いままでの自分の生き方を見直す中で、生への考えが根底から変わった。
捕らえられた時、孝高は自分を裏切った荒木村重を呪い、みじめな虜囚となって恥をさらすよりは自害しようと考えた。
このまま朽ち果てるのかという絶望感が絶頂まで高まり、牢の壁に頭を打ち付けて果てようと決意したその時、「あるいは明日にでも、城が明け渡されるかもしれない」という期待が心の隅から顔をもたげた。孝高の死への決意は、たちまち鈍った。
人間は容易に希望を失わないこと、生への執着の極めて強い生き物であることを、孝高は思い知った。
やがて心の変化が静かに訪れた。土牢の太い木格子の間から見える石垣に生えた藤の紫の花を見ているうち、この逆境にあって自分がまだ生きていることが神の恩寵であり、奇跡のように思えた。
かの山上でのイエスの垂訓が思い起こされた。
「栄華を極めたソロモンでさえ、野の花ほどには着飾ってはいない。今日は生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。あすのことを思い煩うな。まず神の国と神の義とを思え」
土牢の外の藤は、石垣の間のわずかな土に根をはって、茎と枝葉を伸ばし、薄紫の花房を垂らしている。その花には蜂が群がっている。蜂は藤の花の蜜を離れた巣に運んでいる。恐らく秋から冬にはすべての蜂が死に絶えてしまうだろう。その前に次の世代のための食糧を蓄えているのだ。
だれもその存在に気がつかない小さな草や虫でさえ、それぞれの与えられた生命を尊び、次の世代を育てるために一生懸命生きている。
まして万物の長たる人間が生きることに絶望してはならない。いくら湿った土牢の中で、惨めな命を永らえていても、自ら命を断つことを願ってはいけない。あらゆる生き物を殺し、糧としてきた人間には、どんなに苦しくとも命が尽きるまで生き続けなければならない責務がある。
生きているだけでありがたい。何をこれ以上望むことがあろうか。
このとき、孝高は初めて生命の神秘を感じた。
有岡城が落ち、土牢から救出されたあとも、この体験は鮮明に残った。すべての生物を生かす絶対神が、この世にいることが確信できた。
キリシタン宣教師から、戦への援助や珍しい南蛮の品々など現世での利益を得たいという気持ちは、もはや消えていた。
生命への畏敬の念が深まるにつれ、孝高の心の中では、命を奪い合う争いに対する疑念が広がった。
「すべて分かれ争う国は滅び、分かれ争う町また家は立たず」(マタイ福音書)
争いは無益であり、欲望に踊らされているに過ぎない。あすのことを思い煩わなければ、争う必要もなくなる。主イエスのいうように、敵をも愛することができるのだ。
孝高は思う。
だが、それでもなお一族と家臣の命をつなぐためには、殺戮を続けなければならない。信仰と戦争という二つの行為は決して両立せず、いつかは破綻することは、孝高にはよく分かっていた。
信長と秀吉は仏の徒を惨殺した。南蛮の宣教師たちも寺を攻めることには賛成し、焼き殺された仏徒たちにはもちろん、幼い稚児にも何等同情しなかった。
南蛮の宣教師たちは説いた。
「神は、モーゼの書の中で『取り入れのときには神のぶどう園から雑草を引き抜かねばならぬ』といわれた。また、『偶像崇拝者を容赦するなかれ。彼らの壇をこぼち、その偶像を打ち砕き、火もてそれを焼くべし。そは我、なんじらに怒りを発せざらんがためなり(申命記7の5)』とも神は命じられている」
宣教師たちは、聖書の言葉をよりどころにして、「僧侶たちの滅亡は自らの悪行が招いた結果であり、神のなせる罰である」と冷たく切り捨てた。
「神の啓示に逆らうものはバール神につかえる僧たちのように情容赦なく取り除かれなければならぬ。さもなくば、キリスト教会はその源に帰ることは絶対にないだろう。主は鉄の棒もて古き壷を、いかにみごとに砕きたもうことだろう」
宣教師たちの言葉は、幼いころより仏の慈悲の教えに親しんできた孝高には、あまりに厳格すぎるように思えた。
愛を説くイエス自身も、自分に敵意を持つものには厳しい言葉を投げ付けているのを孝高は知っている。
「われは平和をもたらさんために来たるにあらず、剣(つるぎ)をもたらさんために来たれり」(マタイによる福音書10ー34)
「我が敵をここに捕らえ来たりて、我が目の前にて殺せ」(ルカによる福音書19の27)
だが、それらの激しい言葉はその通りに受け止めるべきではない、と孝高は思う。どれだけ口を酸っぱくして教えを説いても自分を理解しようとしない者に対する怒りの表現であって、本当に戦を勧め、人を殺せといっているわけではない。イエスがよく使う一種の例えだろう。
戦は人の命を奪う行為である。すべての人間の罪を引き受け、自らの命を犠牲にされたイエスが、命を奪うことを認めるはずがない。
それなのに宣教師たちは自分たちの布教を大名に認めさせるために、大名たちに大砲や銃さえ用立てている。キリシタンでないものは人間でないというのか。神がすべての人間を支配しているなら、仏の徒にもまた恩寵を与えるはずである。野の花にも愛を施される神が、たとえ異教の神を信じているからといって、人間を見捨てられるはずがあろうか。
そう思う一方で、孝高は自分もまた命を奪い続けていることを自覚していた。いったい職業的な戦士である自分には信仰を語る資格があるのか。
殺戮はどんな理由をもってしても許されない。それはもはや孝高の確信となっていた。
世には信長公を、古い世界を果断に改革しようとした英雄のように持てはやす人がいる。
しかし、信長公の非道な振る舞いは、どんなに時代が変わっても許せるものではない。まして人間とは思えぬ、その残虐な所業を褒めたたえることは、権力者へのへつらいとしかいいようがない。
そう孝高は思う。
《新しい時代を切り開くためには、古い階級の犠牲が必要であり、暴力も必要だった》という人間がいる。
彼らに言わせれば、信長公は社会変革のため、果敢に既成の権威に立ち向かった不世出の英雄であるという。しかし、叡山を焼きつくし、子供まで皆殺しにした悪魔のごとき残虐行為を「歴史の歯車を進めた革命的な行い」として賞賛するのは誤っている。
平気で女子供の命をも奪う冷酷な独裁者を英雄と崇める人間は、独裁者に追従する、いやしむべき奴隷精神の持ち主である。
だが、そういう自分は何か。その憎むべき独裁者である信長公や秀吉公のお先棒を担いでいる。他人を批判する資格など少しもない。
かつて高山右近殿と話したとき、右近殿は「もし『武士を続けるか信仰を守るか』と選択を迫られれば、自分は喜んで武士をやめる」といわれた。
同じキリシタンとして自分には右近殿の気持ちがよく分かる。高潔な右近殿はもはや殺戮に耐えられないのだ。機会があれば、武士を捨て、神の元に戻りたいと思っているに違いない。それはおれも同じだ。
だが、自分にはまだ、その決心はできない。もし自分がイエスの教えを貫き、武士を捨てたなら、たちまち自分の領地は召し上げられ、一族郎党は路頭に迷う。
孝高は聖書の中に解決を見いだそうとして、表紙が擦り切れるほど聖書を隅々まで読んだが、答えは見つからなかった。