黒田官兵衛

 百姓から年貢を取り立てるため土地を測る検地は、秀吉が始めたものではない。永正十七年(一五二〇)、北条氏綱が相模で実施したのをはじめとして、今川、毛利、武田などの諸大名も盛んに行った。織田信長も伊勢、近江、山城などで領土を広げるたびに検地をしている。
 これらの検地はそれぞれやり方が異なり、尺度も違った。

《秦の始皇帝以来、度量衡の統一は覇者がとりかかるべき第一の仕事である。名実共に天下を支配するためには、日本国中の土地を同じ方法、尺度で測る必要がある》

 明智光秀、柴田勝家を倒して天下統一を意識しだした秀吉には、検地がそのための必須条件のように思えた。

《世の中を隅々まで遺漏なく治めるためには、まず元になる数をつかんでおかねばならぬ。あいまいな数で満足し妥協していると、誤魔化しが生じ、争いのもとになる。百姓や大名が良からぬ考えを起こして余分な米を蓄えぬよう、年貢をきちんと決めておかねばならぬ》

 秀吉は、早くも山崎合戦直後の天正十年(一五八二)、増田長盛と浅野長政に命じて従来の検地のやり方を改良するよう命じた。七月には山城で、初めて指出(さしだし=領地台帳)を提出させた。いわゆる指出検地である。

 田畑の等級を上中下に分類し、上田は一反について一石五斗、中田は一石三斗、下田は一石一斗とそれぞれ石高を決めた。このうち三分の二を年貢として地頭がとり、残りを百姓に与えるとした。

一石は百升(千合=約200キロ)で、江戸時代の一人の年間米消費量(3俵=180キロ、現代は年間60キロ)とほぼ同じ。一反(=10アール)の収穫は6〜7俵(1俵はもみ60キロ)として、400キロ程度。もみガラや糠(合計3割程度)を除くと、1・5人分の年間消費量となる。

田畑を登録せずに隠したり、収穫量を偽ったりした場合は、身分を問わず、すべてなで切りにする。百姓から領主に至るまで秀吉は厳しく警告した。

 それまで村落ごとに比較的緩やかな自治を享受していた農民にとって、検地は、厳しい農耕生活の中にわずかに残された、ささやかなゆとりさえも取り上げる過酷な収税制度だった。

 根来寺と、寺を支える和泉の農民達が秀吉に反抗する背景には検地への恐怖があった。全国に先駆けて検地が行われた山崎での厳しい年貢の取り立てと、それによる農民の困窮を聞いていたからだ。

 刀狩りによって農民の抵抗力を奪ったうえで、検地によって徹底的な年貢の徴収を図るやり方は、秀吉が農民階級の出身であり、百姓の実態を知りつくしているからこそ出来たことである。

 農民たちにとってみれば、検地は百姓への裏切りであり、同類への背信行為だった。根来の行人たちは、自分達と同じ農民の出身でありながら、自分達の存在を脅かす圧政者となった秀吉を憎んだ。

 これまで皇室や足利将軍家と良好な関係が続いた根来寺は、古い体制からの利益を十分に享受してきた。行人たちは禁裏や将軍家には敬意を抱き、常に体制を擁護する側に立った。
 その皇室と足利将軍家の権威を、農民出身の秀吉が凌駕することには、とても我慢がならなかった。
 そのうえ、朝廷や将軍家が根来に保証した神聖な領地を侵そうとしている。何の権威もない尾張の山出しの貧相な小男に、勝手な振る舞いをされてどうして黙っておられようか。

 行人たちの憤りの背後には、秀吉の出自に対するぬきがたい軽蔑と侮りの感情が隠されていた。
 もっとも、同じ階級出身者としての近親憎悪に似た反感は、秀吉の方でも強く感じていた。
《百姓ほど、こすっからいものはない。力のあるものには、はいつくばって従うが、敗残の兵と見ると嵩(かさ)にかかり、虻や青蝿のように執拗に、よってたかって襲い掛かってくる》

 十数年前の越前・金ケ崎の戦いで体験した落ち武者狩りの恐ろしさは、いまも秀吉の脳裏に焼き付いていた。

 元亀元年(一五七〇)四月、将軍義昭の上洛命令に応じなかった朝倉義景を討つため、信長は二万の大軍を率いて京都から越前敦賀に侵攻した。信長勢は、木の芽峠を越えて、一気に朝倉の本拠地一条谷に攻め入ろうとした。
そのとき背後にいた盟友の浅井長政が突然反旗を翻し、背後から信長軍を攻撃する構えを見せた。
 挟み打ちの危機に陥った信長は、形勢不利を悟り、即座に退却を決意した。

 味方の主力を逃がすため、敵の追撃を妨害する最も危険な殿軍(しんがり)はだれが引き受けるか。古くからの家臣達が躊躇(ちゅうちょ)する中で、殿軍を自ら買って出たのが秀吉だった。

 身命の危うきを顧みない秀吉の申し出に喜んだ信長は、他の家臣から精強の兵を割き、秀吉に与えた。
 家康もまた、残って殿軍に参加すると申し出た。

 敵が集結しないうちに、信長たち主力はすぐに撤収にかかった。琵琶湖西岸の朽木谷を経由して京への帰路を急ぐ段取りだった。
 朽木谷は信長に好意的な名門武士、朽木氏が支配している。朽木氏が朝倉氏に味方して信長軍に刃向かわないという保証はないが、ほかに選択の余地はなかった。

 信長たちは一斉に出発した。あとには秀吉と家康ら五百人ばかりが残された。
 越前の野に夜の闇が迫ってきた。周りの山に、たいまつの明かりがちらつき、脅すような叫び声があちこちで聞こえた。

 薄闇の中に暗く沈む尾花の群落が、まるで潜んでいる人間のように見えた。無言の殺気を感じるのか、いなないていた馬も今は息をひそめている。盛んに鳴いている虫の声だけが聞こえている。

 辺りが完全に闇に包まれたとき、突然前後から、空気を切って矢が飛んできた。朝倉方の指図を受けた数千人の一揆勢が、おめき声ととともに襲い掛かってきた。

「固まれ。恐れるな。百姓ごときに怖じけるな」
 侍大将の下知の声は、一揆勢の鯨波(とき)の声に掻き消された。
 百姓とはいえ、一揆は槍や弓で武装し、中には鉄砲を持つ者もいる。職業的な戦の訓練は受けていないとはいえ、集団の力は武士に劣らない。
 わずか五百人ばかりの秀吉の部隊は対決を避け、鉄砲を撃って一揆勢を威嚇しながら、塊となって道を押し進んだ。最後尾は蜂須賀正勝が守った。

 両側から山がせり出した狭い道で、別の百姓の一団が待ち構えていた。
 山の上から矢が降り注ぎ、大きな石が転がり落ちてきた。途中の岩に当たって、はねあがった石が兜に当たり、侍大将が馬から落ちた。茂みから突き出された長槍に貫かれて、何人かの足軽がその場に倒れた。
 道を急ぐ秀吉軍には、倒れた者を助ける余裕などなかった。後ろで悲鳴が聞こえたが、振り向かずに突っ走った。

 秀吉も馬につかまって一目散に駆け抜けた。鉄砲の弾が音を立てて、後ろからわきをすりぬけていった。

《おれも様々な危ない目にはあったが、あの時ほど恐ろしい思いをしたことはない。一人の落ち武者を十人、二十人がかりで襲ってくる。まるで群れから離れたカモシカに牙をむいて襲い掛かる狼の群れのようだった。おれが百姓を心底憎むようになったのは、あのときからだ。よってたかって、なぶり殺しにされかけた恨みは、そう簡単に忘れられるものではない》

 田畑仕事を嫌い、村の大人達に怠け者とののしられた幼いころの体験から、秀吉は百姓を嫌っていた。しかし、心底、百姓に憎悪を抱くようになったのは、このときからだった。

 野伏は山伏と同様、文字どおり山野に伏して敵を待ち、奇襲する伏兵のことをいう。民俗学者折口信夫氏によれば、「武士」という表現は当て字で、もともと野伏、山伏が略された言葉だった。普段は農民だが、荘園領主から召集されると、武器を持って山野に隠れ、敵を襲った。

 農民にとって敗残兵は脅威だった。飢えた敗兵は在家に押し入り、食料や金品を脅し取ったり、住民を殺したりした。農民は、敗残兵たちの害を受ける前に先んじて彼らを攻撃した。
 金ヶ崎撤退のときに秀吉たちを襲ったのも、こうした野伏や山伏、一揆の農民だった。

 殿軍は生きて帰れる可能性より、死ぬ危険性の方が高い。秀吉が信長の信頼を得たのは、金ヶ崎撤退のときに殿軍を勤めた功績が大きかった。
 
    ◇

 秀吉が全国で徹底した検地を目指す背景には、農民への不信と怨念があった。

 秀吉は不快なことの多かった子供時代を思い出す。
 生まれ育った尾張中村は、信長の居城のある清洲の東南に位置している。尾張平野の真ん中にある小さな村で、数十軒の貧しい家が田んぼに取り囲まれていた。

 下級の侍と百姓の区別は、まだ後の時代ほど、はっきりしてはいなかった。百姓たちは戦があると織田家の足軽に雇われた。
 百姓たちは戦を厭いながらも、一方で織田家に雇われることを誇りにし、足軽に娘を嫁がせることもあった。百姓と区別できない低い身分とはいえ、自分たちが侍の末端であるとの誇りは持っていた。

 とくに村長は織田家の侍や足軽に卑屈だった。そのくせ、村人には長の権威をかさにかけて威張った。村の悪童たちが何か悪さをすると、本気で折檻した。
 秀吉も十歳のとき、村長の畑の柿を盗んだのを見付けられ、棒切れで死ぬほど殴られたことがあった。
 今でも、秋になり実ったつややかな赤い柿を見ると、殴られた痛みが思い出された。
《あやつが今も生きておったなら、ひっつかまえて鋸(のこぎり)引きにしてやったものを》

 こぶしで殴りつけた村長の鬼のような形相はいまも忘れることはできない。わずかな柿を盗んだくらいの事で、あのように子供を痛めつけるとは、なんと強欲な男か。思い返すたびに、はらわたが煮えくりかえった。
 だが、その当時すでに七十歳を越えていた村長はとうに死んで、この世にいない。その家族も秀吉の仕返しを恐れたのか、行方をくらませていた。
《あのたわけが・・・。とろくせー》
 村長の死を知った秀吉は思わず尾張言葉で罵った。

 折檻した後、村長は、泣いている日吉丸(秀吉の幼名)の首をつかんで前を歩かせ、家にどなりこんできた。詫びる母親にさんざん悪態をついたあと、土間に日吉丸をたたきつけるようにして去った。
 悪いことに、ちょうど畑から帰る途中の義父が、村長に出会って嫌みをいわれた。
「おまえのお陰で大恥をかいた。おのれは、わしの顔に泥を塗りくさった」
 こういって、義父もまた、日吉丸をさんざん殴った。

 義父は、詫びを入れる母親にまで当たり散らし、日吉丸を裏の物置に放り込んで外から錠をかけた。
 飯も与えられず、空腹と情けなさに泣きながら、このとき日吉丸は百姓への決別と家出を決心した。

《まあ、あのことがあったからこそ、今のおれがあるともいえる。苦しい嫌な経験も人間には必要だ。そう思えば、あの村長に礼をいわねばならないのかもしれんな》
 時にはそんな風に思ったりもした。とはいえ、殴られた憎しみは容易に消えなかった。

《百姓や因業坊主どもに、なめられてたまるか》
 秀吉は、手に持った秀長からの手紙をゆっくりと巻き戻した。
 もし根来が、こちらの提示した条件を飲まなければ、躊躇せずに攻め込む。そのときに、最も味方の犠牲を少なくするには、どうすればよいか。秀吉は、根来寺との交渉を長谷川秀一にさせる一方で、根来攻略の道筋を慎重に考えていた。
 
                        ◇

「官兵衛はおるか」
 秀吉は近習に黒田官兵衛を呼んでくるように命じた。

 黒田官兵衛孝高(よしたか)は、秀吉が最も頼りにしている軍師だった。秀吉より十歳若かったが、戦に秀でていた。
 黒田孝高は、鎌倉末期、佐々木京極満信の次男で近江伊香郡黒田(=長浜市木之本町黒田)に住んだ黒田宗清の子孫といわれる。一族が備前に移り住み、官兵衛の父、黒田満隆は赤松氏の一族の小寺政識に取り立てられた。黒田満隆は、小寺政識から小寺の名を賜り、小寺識隆と名前を変えた。
 
 小寺政識が織田信長に従った天正五年(一五七七)十月、中国征伐の責任者として秀吉が姫路城にやってきた。小寺政識筆頭家老になっていた小寺(黒田)識隆とその子の孝高は、政識の名代として秀吉を出迎えた。

 当初は百姓出身の秀吉を軽蔑し、敵意さえ抱いていた孝高だったが、秀吉に会うと、すぐにその器量の大きさに引き込まれた。
 以前から孝高の知略を聞き及んでいた秀吉もまた、孝高とじかに会って、即座に才能を認めた。
 その後、孝高は中国道の案内者として秀吉とともに転戦し、信頼を勝ち得ていく。小寺孝高は、主君小寺政識の没落後、姓をもとの黒田に変えた。

 秀吉にとって中国地方での最初の試練は、天正六年三月の三木城(三木市)の戦いである。
 この年二月、信長に背いて毛利方についた別所長治は一万人を率いて三木城にたてこもった。
 三木川に張り出した台地の上にある三木城は堅固な要害で、容易には落とせなかった。

 秀吉が三木城を包囲していた天正六年(一五七八年)十月、信長に臣従して神吉城(加古川市)攻略に参加していた摂津の荒木村重が毛利氏に通じて謀反を起こした。村重は突然、陣を引き払い居城の伊丹有岡城に帰った。

 村重と旧知の孝高は秀吉に命じられ、村重説得のため有岡城に赴いた。だが、身を呈しての説得は実らず、逆に荒木村重によって城内の土牢に幽閉されてしまった。

 湿って冷たい土牢の中で、孝高の健康は蝕まれた。
 差し入れられる一日二回のわずかな食事と水で、かろうじて露命をつないだ。しかし、たくましかった体は、見る影もなくやせおとろえた。
 送り込んだ秀吉方では、孝高は村重によって懐柔されたか、あるいは殺されたものと考えた。

 天正七年十月十二日、長く持ちこたえた有岡城がついに陥落した。土牢の中から、衰弱した孝高が救出された。一年に及ぶ長い牢生活で、孝高の両足は萎えて立つこともできなかった。
 生還した孝高を秀吉は涙を浮かべて迎えた。
 孝高もまた、感激で胸が一杯になった。秀吉の気遣いで、孝高は有馬温泉に逗留して療養を続けた。

 荒木村重は尼崎に逃亡し、残された妻子や家臣は、秀吉に惨殺された。成算のない謀反を企て、妻子を悲惨な死に追いやった村重の軽挙を責めながらも、孝高は全てを失った村重に一抹の哀れさを感じた。

 有岡城の陥落で三木城も苦境に陥った。包囲され封鎖された城内ではすでに食糧も尽き、将兵は犬猫鳥蛇蛙などあらゆるものを食べ、松の甘皮や草を煮て腹の足しにした、だが、それさえもなくなり、落城はもはや時間の問題となった。

 別所長治は、自らが自害することと引き換えに残った三千余人の命は助けるとの条件で、開城に同意した。

「今はただ、うらみもあらじ諸人(もろびと=多くの人)の命にかはる(代わる)我が身と思えば」

 諦観が漂う潔い辞世を残して別所長治は自害した。まだ二十三歳の若さだった。
 こうして、天正八年(一五八〇年)一月、三木城をめぐる二年にわたる長期戦は終結した。

 三木城をめぐる戦いのさ中の天正七年六月、日本の諸葛孔明といわれた軍師、竹中半兵衛重治が没した。黒田孝高とともに、中国攻略での秀吉の参謀役を勤めた。三木城の兵糧攻めは、半兵衛の策であったが、それを仕上げたのは黒田孝高だった。

 まことに秀吉の中国計略は、竹中半兵衛と黒田孝高がいてこそ為しえた事業だった。
 重治の没後、それまでにもまして秀吉は、孝高の知謀と胆力を重用した。

                   ◇

「ただいま参上いたしました」
 ふすまの向こうで、孝高の低い声がした。
「おお、官兵衛来たか。待っておった。入れ」
 秀吉は脇息から起き上がった。
「失礼いたします」
 ふすまが開いて、孝高が入ってきた。

 孝高はキリシタンだった。天正十一年(一五八三)、高山右近の勧めによって入信した。洗礼名はシメオンという。

 実のところ孝高の入信はそれほど真剣な動機によるものではなかった。親友であり畏友である右近の勧めに従ったというのが事実だった。
 宣教師たちと親しくなることによって、自分がまだ知らぬ外国の武器や戦術を身につけることが出来るのではないか、という世俗的な打算もあった。
 だが、なにごとにも打ち込む孝高の一途な性格は、信仰についても変わらなかった。入信してからの孝高は熱心に教義を学び、優秀なキリシタンになった。
 孝高は教会堂に通って、宣教師の教えを聞くだけでなく、自ら率先してキリスト教の布教に努めた。

 自らの家臣や知己、親類を通じ、中国、四国地方の武士、百姓に入信を勧めた。後に自分と同じキリシタン大名で、関ヶ原の戦いに敗れて処刑された小西行長の旧臣をも召し抱えている。