能のおもしろさに目覚め、能役者に演技を褒められて自信をつけた秀吉は、新しい趣向を考えていた。
近習の大村由己に命じて、自分と明智光秀、柴田勝家らを配役にした新作能を作らせる案だった。
自らの事績をもとにした能を、自らがシテとなって演じたら、どんなに愉快なことだろう。本人が本人を演ずる能とは、我ながら気がきいている。今までこんな趣向はだれも考えつかなかった。なんとも奇抜な着想ではないか。
稚気あふれる、この思いつきは秀吉を満足させた。
秀吉は女たちに、この案を語った。
女たちは笑ったが、秀吉は意に介さなかった。
古今の古典漢籍と和歌連歌俳諧に通じた物知りで文章家の由己なら、きっと雅びで味わいに富んだ詞章を書くことだろう。
節づけはやはり、金春大夫安照に任せよう。やつの曲は、どんな暗い内容の作品でも、どこか晴れやかな気分を感じさせる。悲しく寂しい曲目であっても、舞い終えた後、なにか不思議に朗らかな気分にさせるのは、天性陽気なあ奴の性格の故であろう。
それは俺も同じだ。陰気くさいのは俺の趣味ではない。そもそも、枯れた中にも華があるのが能の味わいである。シテの語る悲しく哀れな物語の合間に、アイ狂言が滑稽(こっけい)な振る舞いをするのが能の面白さというものだ。人生は悲しみの中に喜びがあり、笑いの中に淋しさが交じる。どちらか一方では退屈ではないか。
創作能のことをあれこれ考えると、秀吉は興奮してくるのを抑えられなかった。
《勝家も修羅能の主人公にしてやれば、浮かばれるというものだろう》
秀吉はいかめしい柴田勝家の髭面を思い出す。
先年賎が岳の戦いで打ち破り、越前北の庄に追い詰めて攻め滅ぼした勝家に対し、秀吉は特別な感情を持っていた。
織田家の勇将たちにあやかり、若かりしころの秀吉は柴田勝家の「柴」の字と、丹羽長秀の「羽」の字と合わせて「羽柴」と名乗った。それほど、勝家は秀吉が畏敬していた武将だった。
一五七〇年(元亀元年)、佐々木六角承禎の軍四千人に囲まれた近江長光寺城(東近江市)の篭城戦で、勝家軍は水不足に悩まされた。いつまで待っても援軍はこない。雨は降らず、ついに三つの甕(かめ)に水が残るだけとなったとき、勝家は八百人の守備兵を集めて言った。
「このまま渇き死ぬより、敵中に打って出て、ともに討ち死にしようではないか」
勝家は、兵たちに末期の水として、甕の水をすべて分かち与えた。
「死ぬ者に、もはや水甕は無用」
こういうと、勝家は空になった水甕を長刀の石突きで打ち割った。
死を覚悟した勝家と城兵は、閉ざしていた城門を一気に開け、包囲している敵の中に打って出た。
不意の出撃に、虚を衝かれた敵は狼狽して乱れた。
討ち死にするはずだった柴田軍はかえって、予想外の大戦果を上げた。
戦場での兵の士気を鼓舞するための芝居がかった演出と、背水の陣ともいうべき思い切った奇襲。それを支える豪胆さと用兵の妙を語るこの逸話から、それ以来、勝家には「甕割り柴田」の異名が付けられた。
勝家が長光寺城に布陣した記録はあるが、戦闘の記録はなく、「甕割り柴田」の逸話は伝承ともいわれる。史実ではないにしても、勝家の勇猛さが、こうした伝説を生んだのだろう。
その武士の鑑ともいうべき恩人を、自らの手で葬り去った罪悪感と負い目の感情は、いまも秀吉の心の中にわだかまっていた。
さらにそこには、勝家夫人のお市の方への思慕の情と、自分が夫人に示したひそやかな好意を無視された心の傷、さらに勝家への嫉妬の感情も複雑に重なりあっていた。
なぜ、彼女は北の庄城を出よとの自分の呼びかけに答えず、勝家と最期を共にしたのか。
おれはそれほどまでに嫌われていたのか。それは俺が勝家などとは違う卑しい出自であるからか。それとも俺の顔が猿のように醜いからか。
勝家夫妻への複雑な思いは、秀吉を今も悩ませ、夢にまで勝家夫妻の姿を見るほどであった。
出すぎた茶を飲んだあとのような苦い、他人に打ち明けることのできない、不快で落ち着かない感情がその後もつきまとっていた。勝家のことを考えると自分でも気付かずに眉間にしわが寄った。
勝家を主役にした新作能を思い付いたのは、そんないやな思い出を忘れたいために、能に打ち込んでいる時のことだった。
《そうだ。勝家の亡霊を能の舞台に登場させ、北国行脚の僧に回向させて成仏させたことにしよう。そうすれば、この不安で不愉快な気持ちも少しは晴れるかもしれない》
《勝家は俺を恨んでいるかも知れぬが、敵味方になったのも前世の宿縁。人間の力でどうなるものでもない。その辺りの道理を由己にうまく語らせ、仏の道を説く一つの曲としよう》
《すべては因縁であり、悪縁を断ち切れば、迷いの世界から解脱できる。僧に諭された勝家の亡霊は、読経のもたらす仏恩によって、迷いと、この世への執心を絶って心静かに成仏する。よいぞ、よいぞ。我ながら実によい思い付きだ》
秀吉は、それまでの憂鬱な気分がみるみる消え、心が晴れていくのを感じた。
僧は勝家の本拠地である尾張の末森からやって来たことにしよう。舞台はもちろん、勝家夫妻が自害した越前北の庄だ。
焼け落ちて、今は一面に夏草が生い茂っている古い城跡の塚の前で、一夜を明かそうとしている旅の僧の前に、花を手向けにきた里の老翁と若い女が姿を現す。老人は、落城の有り様を尋ねる僧に、勝家夫妻最期の様子を語り聞かせる。このあと、僧に夫妻のための回向を頼み、女とともに草の陰に忽然と姿を消す。
僧は、アイ狂言が演じる土地の者から話を聞いて、消えた二人が勝家とお市の方の亡霊であったことを知る。
二人のため法華経を読誦(ずしょう)した僧は、やがて草の上に伏してまどろむ。夜が更け、静寂があたりを支配する。
眠けを催すような小鼓のゆったりとした調べが続いたあと、突然、能管(=笛)の甲高い音が舞台に響き渡り、橋掛かりの奥の上げ幕が勢いよく上に翻って、黒頭(くろがしら)をかぶった後シテが姿を見せる。
長刀を抱えた後シテは、きらびやかな衣装をまとい、激しい太鼓の出囃子に合わせて、橋掛かりを走るように進んでくる。
驚いて起き上がった僧に向かって、後シテは敗北への無念の思いと、後に残した三人の娘達への断ち切れぬ恩愛の情を語り、長刀をふるって舞働きを見せる。
身もだえするように、太鼓に合わせて激しく舞いながら、地獄の苦しみを訴える場面は、さぞかし、緊迫した勇壮な印象を見所(=観客)に与えることだろう。
僧は立ち上がって数珠を擦り合わせ、亡霊を鎮めるために法華経を一心不乱に念誦(ねんじゅ)する。右手の謡座では地謡が亡霊になり代わって、この世への恨みを歌い連ねる。
やがて僧の必死の祈りが通じたのか、徐々に亡霊の怒りは収まり、動きは鈍くなっていく。
最後は、勝家の霊が僧の弔いに感謝して成仏することにしよう。読経の功徳によって、非業の死を遂げたことへの恨みも今は晴れ、明け方の鐘の音と、ホトトギスの鋭い鳴き声とともに、亡霊は夢のように消えていく。いつもの能の終わりの型だが、やはり最後はこれしかあるまい。
夏の短い夜は明けていく。夢とも現実とも知れぬ朝ぼらけ。ワキの僧が露に濡れたススキの原に立ちつくして茫然(ぼうぜん)と見送る中、武将の亡霊は橋掛かりを静かに退場する。
幕の手前で武将が振り返り、留め拍子を踏むのと同時に、大鼓(おおかわ)の乾いた鋭い音が、ホトトギスの最後の叫びのように空気を切り裂いて終幕を告げる。
「さらぬだにうちぬるほども夏の夜の別れを誘うほととぎすかな」
=それでなくとも寝る間もない短い夏の夜に別れを急がせるほととぎすよ(お市の方)
「夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井に揚げよ山ほととぎす」(勝家)
勝家夫妻が最期に詠んだ歌は秀吉もよく知っていた。あの落城の夜、闇夜に盛んにホトトギスの鳴き声が聞こえていたのを覚えている。血を吐くような悲痛な鳴き声が、いまも秀吉の耳の中に残っていた。
◇
秀吉は、新作能の構想と過去の回想に耽っていて、近習の若侍が、そばで何度も呼び掛けているのに気付かなかった。
「殿、殿」
「申しまする、申しまする」
「申し、申し」
耳元で繰り返される呼び掛けに、ようやく秀吉は気付き、我に返った。
「何事じゃ」
物音で午睡から目を覚ました幼児のように不機嫌な表情で、秀吉は近習をにらんだ。
「大和の秀長様から、たったいま手紙が届きました」
「何、秀長から」
秀吉は、脇息によりかかっていた体を起こした。
「見せよ」
近習は手紙を両手で差し出した。秀吉は急いで受け取ると、封を切って読み出した。
秀長の手紙には、根来寺に着いた長谷川秀一が出した急ぎの報告の内容が書かれていた。
秀吉が命じたとおり、秀一は根来寺に寺領二万石の安堵を提示したが、寺側が反発している。現在、秀一は宿で寺側の次の返事を待っているという。
根来寺の反発は、秀吉も最初から予想していたことであり、驚きはなかった。
さすがに二万石は自分でも少ないとは思ったが、最初に出す条件としてはできるだけ低く抑えた方がよいと考えていた。
《あと五千石くらいは加増してやってもよいが、それも奴らの出方次第だ。最初から、はずんでやる必要は毛頭ない。それが駆け引きというものだ》
秀吉は期待通りの進み具合に、上機嫌になった。
《まずまず、俺の思った通りに事は進んでいる。根来は最初は反発するだろうが、最終的にはこちらの案を飲むだろう。長谷川秀一は交渉事にたけている。きっとうまく説得するに違いない。秀長が奴を使者に選んだのは賢明だった》
手紙を読み終えると、秀吉は近習に命じて、硯(すずり)と筆を持って来させた。そして、右筆に命じ、自分のいう通り秀長への返事を書かせた。
根来には最後まで強硬姿勢をとること。石高はあと五千石を積んでもよいが、それはあくまで最終条件であること。交渉がうまくいけば、秀一には千石の所領を増やしてやるつもりでいることなどを書き連ねた。
《無抵抗で根来を屈服させることができるならば、二万五千石など安いものだ。あの根来の破戒坊主どもを放逐するためには、犠牲を出すことは少しも厭わぬが、それでも死人は出ないのに越したことはない》
秀吉は手紙の最後に、母の大政所の最近の様子を伝え、母親思いの秀長を安心させた。
六十歳の半ばを過ぎた大政所は足を痛めていたが、秀吉が有馬へ度々湯治に連れていった効果が現れたのか、このところ、だいぶ回復してきていた。
《だいたいにおいて、根来の殺生坊主どもはけしからぬ。わしも寺にいたので坊主の堕落はよく知っているが、それでも俺の知っている坊主は人殺しはせなんだ。そもそも仏に仕える者は、なべての生き物をいとおしむべきである。その坊主が自ら刀を取って人を殺すとは、全くもってのほかの許しがたい行い。南蛮の宣教師たちのいうところの悪魔の所行じゃ》
寺を嫌って飛び出した秀吉ではあったが、修行の間に多少は仏教や僧についての知識は得ていた。その中でも、秀吉が覚えているのは、尾張甚目寺の寺にいるときに聞いた良観房忍性上人の逸話だった。
◇
大和国屏風の里に生まれ、西大寺の僧となった忍性上人は慈悲に満ちた人で、菩薩の再来といわれた。すべての生き物の命を惜しみ、孤独な者(=孤児や独居老人)、乞食非人、病気の者、盲人(めしい)、さらには弱って路傍に捨てられた牛馬にさえ憐れみをかけた。自分に害を加え、そしる人さえも善友として扱った。
害を与えようとする人に対し「私はあなたを軽んじない」といって接した仏典中の「不軽(ふきょう)菩薩」を思わせる人となりだった。
らい病(=ハンセン病)患者のための日本最古の救護施設である「北山十八間戸」を奈良坂に建設した。
忍性上人は、他人のためには犠牲を厭わぬ一方、自らを労(いたわ)ることは潔しとしなかった。病気のとき以外は決して馬や輿(こし)に乗らず、調理に手間をかけた食事を断ち、貧しい食事を心がけた。
上人の利他行は個人に対してだけではなかった。
険しい山には道をつくり、川には橋をかけた。水なきところには井戸を掘り、山野には薬草、役に立つ樹木を植えた。これらの工事には、多くの財貨が費やされたが、上人はそれを自分に帰依する豊かな人々からの布施でまかなった。
これらの善行に対し、上人は何ら報いを望まず、「もし仏の功徳があるならば、自らではなく十方界の衆生に分かち与えよ」との誓願を立てた。
後に東国布教のため鎌倉の極楽寺に移り、鎌倉幕府の援助を受けて慈善活動を続けた。
元寇の後の弘安十年(一二八七)、鎌倉桑谷に療養所をつくり、六万人もの貧しい病人を癒した。
永仁元年(一二九三)に死者二万人を出した鎌倉大地震に際しては、末寺の僧を大動員して被災者の救済に当たらせた。
永仁六年(一二九八)には、鎌倉に我が国最初の馬病舎を立てた。
晩年は難波四天王寺の別当に任ぜられ、聖徳太子が創建した孤児や孤老のための悲田院を再興した。
嘉元元年(一三〇三)、八十七歳で菩薩行に徹した一生を終えた。
忍性上人は推古天皇時代に建てられた難波の四天王寺西門(さいもん)の木造鳥居を石造に作り替えた。後に北条幕府の老臣、人見四郎恩阿が楠木正成のこもる赤坂城を攻める前、この西門の石の鳥居に討ち死にを決意する歌を書きつけたことが、太平記に伝えられている。
上人の献身的な逸話は、僧を侮り、いやいや寺の勤めをしていた秀吉の心さえ動かした。
一時は、本心で貧しい人々の救済に当たろうと、秀吉が思ったほどだった。もちろん、戦のまねが好きで、下積みの仕事を嫌っている秀吉に、己を空しくして他人のために尽くすというようなことが出来るはずは無かった。
《世の中には、これほど偉い僧もいるというのに、それに引き比べて根来の行人どもの行状は何事か。末世とはいえ、何たる堕落であろう》
秀吉は口を歪めた。
《おれは信長公とは違って、慈悲深いつもりだ。生まれながら家来に仕えられることに慣れた信長公には、他人を思いやる気持ちというものがまるで無かった。不世出の英雄ではあったが、他人の感情にはまるで無頓着だった。信長公にとって他人は利用するだけの存在でしかなかった。佐久間親子のように主君に精いっぱい尽くした者も、役に立たなくなればすぐに捨てられた。家臣たちは恐れおののいて平伏したが、本心では恨み憎んでいた。だからこそ、最後は腹心の光秀に背かれ、道半ばで非業の死を遂げられたのだ》
《だが、おれは違う。百姓の子に生まれ、貧しいことの悲しさや悔しさ、情けなさ、世間の人間の冷たさを、いやというほど見てきた。その反対に、恩をかけてくれる人の有り難みも身にしみて知っている。病気の辛さもよく分かっている。忍性上人のような聖者には到底なれぬが、人には慈悲深くありたいと願ってきた》
秀吉の脳裏には、針を売って生計を立てた若いころのことが浮かび上がってきた。
義父をはじめとして周りの大人達から厄介者扱いされた中で、息子をかばい、いつくしんでくれた母親の愛情、さらに窮乏していた自分を召し抱えてくれた最初の主人である松下之綱の恩義は、いまも忘れることはできない。
人間は他人から受けた冷たい仕打ちは、いくら恨んでいても年とともに忘れてしまうが、苦しいときに助けられた恩はいつまでも覚えている。
いくら立派なことをいおうと、賢明な人であろうと、自分のために何かをしてくれなければ、その人間はあくまで自分とは無関係な他人にすぎない。どれだけ自分のために力を尽くしてくれたかで、人への信頼、人間と人間の関係は決まるのだ。
それが分かっているからこそ、自分は義理や恩はできるだけ大切にしてきた。また、その故に俺は他人の信頼を得てきたのだ。
美濃攻略のときは、つねづね贈り物などをして良い関係を保っていた木曾川の川筋衆のお陰で、墨俣に短期間に砦を築くことにも成功した。いまから思えば、あれが自分の出世の糸口だった。
また、美濃三人衆といわれた稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就ら地侍を懐柔することができたのは、戦の相手を敵視するだけでなく、いつも交渉の窓口、逃げ道を開けておくのを心がけていたためだ。
こちらが優勢なときに高飛車な態度を取れば相手は恨む。そういうときこそ、慈悲をかけてやれば、相手は感謝し、いつかこちらが窮地にたったときに応えてくれるものだ。
備中高松城攻めで城主清水宗治が切腹して開城した時も、清水を称え、懇ろ(ねんごろ)に遺族を慰めた。だからこそ、毛利は信長が死んだと知ったあとも、山崎へ向かう俺を追撃してこなかった。そう自分は信じている。
人に恩義を施せば、いつか自分に戻ってくる。人間は功利、打算で行動するものだが、一方ではまた感情の動物でもある。人間らしい思いやりが肝心なところで効いてくる。恩義への感謝の気持ちは、こちらが死地に追い詰められたときに百人の兵よりも強い援軍となって返ってくる。
しかし、根来寺の僧兵どもに恩義をかけてやる気は毛頭ない。奴らは狂信的な集団で、情の通じる相手ではない。奴らに譲歩すれば、増長し、こちらを見くびるだろう。ああいう奴ばらは徹底的に根絶やしにするしか手はない。
まことに一向宗といい、真言宗といい、神仏を信じる人間共は、何故こうも扱いにくいのか。南蛮の宣教師にしてもそうだ。いまは信者を増やすために俺に従っているが、気を許せばたちまち、信徒を使って反逆するに違いない。
それは、人間を神や仏の下にあるものと考えているからだろう。奴らにとって、最も偉いのは神や仏であって、地上の権力者ではない。地上の権威を認めない奴らには、いくら情をかけ説得しても、気持ちが通じない。
それでも一向宗の顕如は、ようやくわれわれ武士の力が分かってきたようだ。あれだけ信長公に抵抗した顕如や教如は、いまや骨抜きといってもよい。おれに頭を垂れてへつらいにくる。信長公に弓を引いた、あのころの気概はいったいどこへ消えたのか。
問題は根来だ。奴らはまだ反抗しようとしている。天下の形勢がまるでわかっていない。効きもしない呪文の魔力を信じて、俺の力を認めようとせぬ。ああいう奴らには神や仏がこの世に存在しないことを、力ずくで教えてやらねばならぬ。
秀吉は百姓や坊主から武器を取りあげる方法を考えていた。
秀吉の頭には、天正四年(一五七六)ごろ、柴田勝家が越前で行った「刀さらえ」の先例があった。
勝家は一向一揆の力をそぐため、巧妙な方法を考えだした。それは、農具を作るという口実で、百姓や寺が蓄えている武器を取りあげることだった。
勝家は領内の農村の有力者や寺に命じて、村々から刀や槍を出させた。これを溶かして農具を作り、百姓に与えるとともに、大きな鉄の鎖を作って、九頭竜川に浮かべた舟をつないで舟橋とした。
武器の提出にこたえず、敵対した一揆に対しては、首謀者を釜ゆでにするなどして弾圧した。一方で、自分に屈した農民たちには、年貢を一定期間免除するなどの特典を与えた。
これによって越前の一揆は目に見えて減った。
《さすがに勝家は知恵者だ。あの方法は確かにうまいやり方だった。なんとか、あれをまねする手はないものか》
秀吉はあれこれ考えてみた。
そもそも土を相手にする百姓になぜ刀がいるのか。百姓は自分たちの財産や村を守るためというが、刀を手にすれば侍への反抗心がわき、年貢を出し渋るようになる。また、守護に反抗して一揆を企てることになる。
争いがあるから身を守る武器が必要だというが、武器があるから争いが起こる。武器をなくしてしまえば、不満はあっても戦にはならぬ。
百姓たちは愚かだからこの道理に気がつかない。農具や仏を作るからと説得されても、刀を供出しようとしない。
越前で「刀さらえ」ができたのは、何といってもその前に、勝家が武力で百姓たちの力を押さえ付けたからだ。
根来の支配する泉州の百姓から刀を取りあげるためには、どうしても戦は覚悟しなければならない。
秀吉はまた、百姓たちが年貢を逃れるために、新しく開墾した田畑を隠していることもよく知っていた。彼らが武装するのは、守護の被官を牽制して隠し田を見付けられないようにするためでもあった。