説得交渉              

 長谷川秀一が根来寺に着いたのは、二月初めの冷え込みの厳しい夕方だった。尾張を出てから、すでに半月がたっていた。
 途中、大和郡山に寄り、豊臣秀長に目通りして、正式に使者の委任を受けた。その後数日かけ、秀長やその臣下の武将たちとともに、根来寺との交渉の方法を話し合い、根来への書状を練り上げた。

 それは提案というよりは、降伏勧告といってもよいような厳しい内容だった。しかし、文章には行人たちの自尊心を傷つけないよう、できるだけ丁重な表現が使われた。

 戦の使者にとっては、言葉はまさに言魂(ことだま)であり、生命である。秀一たちは言葉を吟味し、何度も書き直して推敲した。

 しかし、そのような表面的な工夫で、根来を懐柔できないことは、秀一自身よくわかっていた。単なる言葉の言い換えでは、服従を求める文書の本質は変わらない。言葉を選びながらも、秀一は空しさを感じないではいられなかった。

 秀長の家臣たちの見送りを受け、大和郡山を出た秀一らの一行は、そのまま街道を南下した。秀一に従うのは、尾張から秀一に付いてきた二人の家臣と秀長が供につけた家臣二人、合わせて四人だった。

 大和郡山を朝早く出た一行は、橿原を経由して吉野川を目指した。大淀で吉野川にたどり着いたときは、すっかり日が暮れていた。農家に宿を借りて一夜を明かし、翌朝地元の漁師を雇い、小舟に乗って吉野川を下った。

 吉野川は五条を過ぎたあたりで紀ノ川となる。冬場で水は少なく、流れは緩やかだった。
 葉を落として寒々とした両岸の木々が、冷たい風の中で肩を寄せあうように裸の枝をこすり合わせている。風で川面に白い波頭が立っていた。
 紀ノ川が貴志川に合流する辺りで、川は広くなった。ここで一行は舟を下り、岸に上がった。ここから根来までは、わずかな距離だった。

 夕方、一行は根来寺の玄関口、東坂本の旅篭(はたご)に着いた。秀一は旅装を解く間もなく、旅篭の主人に手紙を持たせ、根来寺の僧綱たちに自分達の到着を告げさせた。
「急ぎの話があり、大和郡山から小人数でやってきた。我々が来たことは、内密に願いたい」
 手紙には、それだけを書いた。

 旅篭の主人からの知らせを受けた寺は、不意の客を迎えて、動揺した。座主は、すぐに返書を書くと、僧の一人に命じて旅篭の秀一に届けさせた。
「遠路はるばる大事な使いの旅、ご足労でござる。会談の日取り、場所など決まりますまで、しばらくそこでご逗留願いたい」
 走り書きされた挨拶状からは、あわただしさが伝わってきた。

「長谷川秀一が着いた」との知らせは、すぐに四人の旗親に伝えられた。
 旗頭が座主のもとに招集された。学侶のごく少数の者にも知らされた。

 秀吉の使者が来ることは、すでに誰もが、かなり前から予感していた。しかし、いざ到着したと聞くと、緊張せずにはいられなかった。いままで頭の中でしか理解できなかった事態の深刻さが肌身に迫った。誰もが言葉少なかった。

 旗親たちの、あわただしい協議の結果、秀一たちとの会見は翌日の正午と決められた。寺での彼らの宿舎は岩室坊と決まった。再び手紙が、旅篭で待機する秀一と家臣に届けられた。

                                ◇

 坂本の宿から寺に使いを出したあと、秀一は二階の窓の障子を開けて、山の麓に見える根来寺の大塔を見ていた。同行の者たちは先に食事に行って、部屋には秀一しかいなかった。
 開け放した窓から寒気が入ってきたが、秀一には全く気にならなかった。

《ついに敵地に乗り込んだ》
 これから臨まねばならない、厳しい交渉の重圧が、両肩に重くのしかかっていた。緊張感が胸を締め付けた。
 息苦しさから逃れるように、秀一は、供のものがいなくなると、すぐに窓を開け放した。

 日没が近付く中、落ちる夕日が、いままさに遠い山の端(は)に入ろうとしていた。稜線から、衰えた冬の光が、夕空に向かって放射線状に噴き出している。
 その光を受けて、山の麓(ふもと)にそびえる根来寺の大塔の塔身が金色に染まり、夕空に浮かび上がっている。空は、茜(あかね)色から、早や紺色に変わりつつある。静かで厳かな光景だった。

 大塔の上には、赤紫色に染まった雲が浮かんでいる。風はなく、幾つかの薄い層に分かれた雲は夕空にじっととどまっている。
 その光景を見て、秀一は子供のころに見た、法華経の経巻に描かれていた仏画を思い出した。

 その絵入りの経巻を見たのは、京の寺だった。若いけれど信心深い叔母に連れられて、一族の者の墓参りをした。菩提を弔ったあと、特別に寺の住職の好意で、寺宝の経巻を見せてもらった。

 数百年もの昔、さる高貴な女性が寺に納めたという経巻は、銅(あかがね)の壷に入れられ、大切に保管されていた。

 緑青が吹いた銅の壷から、住職が経巻をうやうやしく取り出した。経巻に巻いてある紐を慎重に解き、巻物を畳に敷いた白い布の上に広げると、鮮やかな濃紺の和紙の下地に、きらびやかな金泥で細かく書かれた経文が現れた。
 宝蔵の中で保管されていた経巻は、色あせることもなく、納められたときのままの状態で残っていた。

 流れるような草書で書かれた字は、秀一には全く読めなかった。しかし、その柔らかい曲線は優美で、この経を寄進した女性の優しさと奥ゆかしさ、深い教養を感じさせた。

 経文と経文の間には、仏師の手による仏の絵が、やはり金泥で描かれている。
 その絵は、二人の童子を従えた金色の大きな仏が、たなびく紫雲に乗って、いままさに山の彼方から、こちらに向かって急いで降りて来ようとしているところだった。

 叔母が、来迎図の仏に静かに手を合わせた。秀一も真似て合掌した。叔母は目を閉じて合掌している。その横顔に、秀一は、菩薩のような気品を感じた。

 母のすぐ下の妹である年若い叔母は、数年前に夫を戦で無くしていた。夫といっしょにいたのは、嫁いでから、ほんのわずかな間だったという。
 叔母は美しく優しい人だった。子供がいなかったので、おい、めいを自分の子供のようにかわいがった。しかし、その柔らかな笑顔の中に、いつもどこか寂しさと悲しさが漂っているのを秀一ら子供たちも感じていた。

「この仏は、苦しむ衆生を救い、浄土に迎えるために、いままさに西方浄土から紫雲に乗って急ぎ降りてこようとされています。慈悲に満ちた、ありがたく優しいお姿ではありませんか」
 住職の説明を聞いて、叔母は、また手を合わせた。細い白い手だった。横で、同じように手を合わせている秀一に叔母は、やわらかくほほ笑んだ。 
 悲しみと優しさの交じった美しい叔母の表情は、観音菩薩の憂いと慈悲に満ちたまなざしを思わせた。
 一方で、衣類から立ちのぼる、かぐわしい香りと、優美な体の線は、現実の若い女性の魅力をただよわせていた。
 寺での光景は、その後も長らく秀一の記憶に残った。

 寺参りからしばらくして、叔母は、父親の意志によって、再び他の侍に嫁ぐことになった。
 秀一が母親から後に聞いた話では、叔母は前の夫が忘れられず、再婚をいやがったのだという。しかし、結婚を通じ相手方の家と昵懇(じっこん)になろうという下心を持つ父親は、娘の気持ちを少しも思いやらなかった。父の命令には逆らえず、叔母は泣く泣く嫁いだ。

 薄幸の叔母は、その後すぐに病気にかかった。治療の甲斐もなく病状は悪化し、嫁いで一年後、叔母は新しい夫や父の嘆き悲しむ中で、三十にもならぬ若さで死んだ。
 残された者たちは悲しみながら、叔母の遺言によって衣類や道具一切を旦那寺に寄進した。

 いま窓の外で移り変わっていく、たそがれ時の光景を見て、秀一は経巻の中に描かれた浄土世界と、その絵に手を合わせていた叔母の姿を思い出した。

《衆生の苦しむ、この世に下向した阿弥陀仏が救済を終え、満足の微笑を浮かべて再び山の向こうの西方浄土に戻ろうとしている》
 日没時のわずかな薄明の間、夕空に浮かび出た大塔は、すぐまた闇に溶け込もうとしている。
 金色に輝く大塔の姿は神々しく、阿弥陀仏とみまごう不思議な幻想を見るものに抱かせた。

 空の残照も、いまはすでに消えた。闇の中にただぼんやりと見える、ふっくらとした白い塔身が、優しく美しかった叔母の面影に重なって見えた。

               ◇

 窓から入ってきた冷たい風を感じて、秀一は現実に戻った。
 幾羽ものカラスが、山の端を目指して高い夕空を飛んでいく。近くの竹むらからはスズメの騒ぐ声が聞こえてくる。旅篭の女が、道を行く商人を、かん高い声で、呼び込んでいる。馬屋に引かれていく馬がいなないている。

 秀一は暮れていく坂本の町並みを眺めた。
 窓の外からは、飯の炊ける匂いが漂ってくる。外で遊ぶ子供を呼ぶ母親の声が近くで聞こえる。遠くの野良では、枯れ草を焼く火がちらちらと燃え、畑の上を煙が低くたなびいている。どこも変わらぬ、平和な冬の夕暮れだった。

 秀一は交渉の行方を考えて、暗澹とした気持ちになった。先程までの懐かしく、心を安らがせた気分が急速に萎えていくのを感じた。
《行人たちを何と説得すればよいのだろう。力づくで抵抗する奴らには、こちらも、力のあることを見せつけて脅すしかない。奴らは秀吉公の力を侮(あなど)っている。いままで根来が互角に戦ってきた細川や三好と同じ程度にしか思っていないのだ》

《戦は、一方が敵の力量を知らないからこそ起きる》
 これは秀一の持論だった。
《絶対に勝てぬと最初から分かっておれば、だれが進んで自ら身を滅ぼすだろう。圧倒的な力を見せ付ければ、敵は戦わずして屈服する。信長公が京で馬揃えをしたのも、洛中に自分の力を見せ付けるためだった。戦わずして相手を威圧しようとしたのだ。その賢明な信長公が明智光秀に滅ぼされたのは、武田を滅ぼしたことで油断し、隙を見せたからにほかならない。

小人数で本能寺に逗留するなどという、それまでの信長公では考えられない心の緩みだった。光秀の反逆を自ら誘ったともいえよう。無益な戦を避けるためには、敵を脅えさせ、謀反心を起こさせないだけの十分な武力を見せ付けなければならぬ。敵に隙を見せて甘く見られないことが肝要だ》

 そのことを思えば、小人数の供を連れてきただけの自分が、根来衆に甘く見られる懸念はあった。武力による威嚇を伴わない説得が成功するかどうかは、はなはだ心もとなかった。
 とはいえ、交渉は秘密を旨とする。大勢の軍勢を従えて、本音で交渉に臨むことはできない。もし、そんなことをすれば、相手を刺激して、交渉の余地もなく、戦になってしまう危険がある。結局のところは、味方の武力の強大さを、よくよく説明して敵に知らせ、争うことの無益さを悟らせるほかはない。自分の説得力と、それを理解できる敵の冷静さに頼るしかないのだ。

《やつらも馬鹿ではなかろう。世間知らずの堂衆といえど、秀吉公に逆らう無謀さを、理をもって説けば、理解はできよう。自分には、それができるだけの弁舌があるはずだ。恐れることは何もない》
 秀一は、自分に言い聞かせる。だが、強硬な行人たちの武骨な面構えを想像すると、説得の自信は揺らいだ。

 下駄の音が響き、食事から帰ってきた供の者たちの話し声が聞こえた。秀一は窓を閉めた。あれこれ思っているうちに、すでに、日は完全に山に沈み、大塔と山々は、漆黒の闇に溶け込んで見えなかった。

             ◇

 宿の食事は、ひなびた質素な料理だった。近くの山で取れた山菜が使われていた。秀一は早々と食事を終えると、供の者たちとは別に取った部屋にこもって、交渉の仕方をあれこれと考えた。

 多人数を相手に、公の場で交渉すれば、本音が話せないことは分かっていた。なるべく、座主や有力な旗頭だけを相手に話をしたかった。だが、全山そろっての大衆詮議を旨としている寺は秘密の交渉に慣れていない。ひそかに話を進めることは難しいように思われた。

 お互いが建前だけで、ぶつかりあう事態だけは、何とかして避けたい。それには、話の分かる人間が交渉相手にいなければならない。
 しかし、果たしてそのような人間がいるだろうか。いたとしても、どうして見分けることができるだろうか。

 あれやこれやを考えると興奮し、目が冴えて眠れそうになかった。壁から外の寒さが伝わってくる、だだっ広い部屋の中で、秀一は布団にも入らず、文机に座ったまま、じっと考えこんだ。
 蝋燭の光りに照らし出された秀一の眉間のしわは、一層深くなっていった。
 明け方近くなって、ようやく秀一は床に着いた。窓の外が明るくなり、竹むらの雀が騒ぎ出す声を聞きながら、眠りに落ちた。