武士 

 不輸不入の荘園は、一部の特例にとどまらなかった。
 国司の過酷な租税徴収に苦しむ地方の土地所有者たちは、不輸不入の特権を持つ大荘園領主に、形式的に自らの土地を寄進することを思い付いた。

 土地を寄進する代わりに、自分を荘園の管理者である預所(あずかりどころ)や荘司、下司に任命してくれることを条件とする。
 そうすれば、寄進して名義は変わっても、実質的な土地支配を続けることができる。
 国に高い租税を納めるより、土地を借りたことにし、収益の一部を地子(耕作料)として有力者に差し出す方が、はるかに安上がりである。名を捨て実を取るこの手法はたちまち全国に広がった。
 不輸不入を認められた荘園は、国司立ち会いのもとに、四至、坪数を確認して文書化(立券庄号)された。こうして全国に多数の荘園が立券された。

 この結果、荘園からの国への税収は激減した。
 富を蓄積した荘園貴族はさらに勢力を伸ばし、弱体化した国家にとって代わるようになる。藤原摂関家など多くの荘園を有する有力貴族が、かつての蘇我氏のように、再び国政を左右することになった。

 政治は、摂関家の私的機関である政所からの命令によって動かされ、国家(朝廷)は単なる形式的で儀礼的な機関に成り下がった。
 国司(受領)の人事も摂関家が握った。藤原氏一門が押さえる中央での栄達をあきらめた他の貴族は、摂関家に賄賂を贈って国司に任ぜられ、地方に下った。

 国司は自らの利益のために、不輸不入になっていない私有地の租税を農民から厳しく取り立てた。

 当時のことわざに「受領(ずりょう)は倒るるところに土をつかめ」という。
 倒れても、ただでは起きない強欲な国司によって、それでなくとも厳しい税にあえいでいた農民は、さらに苦しめられた。
 国司の過酷な徴税に憤激した農民が国司館を襲う事件も起きた。永祚元年(九八九)には、尾張国の郡司・百姓らが国司の更迭を要求した解文(げぶみ)を朝廷に送った記録が残っている。

 中小の貴族や有力農民が摂関家や寺社に荘園を寄進した背景には、こうした国司の横暴があった。

 このころ、紀州でも、他の国と同じように国家の統制を離れた荘園が増えていた。根来寺の荘園のうち、紀州石手(いわて)荘は、大治元年(一一二六)七月、平為里から寄進された土地である。

 寄進状には、平為里が先祖相伝の私領である石手荘を、高野山の正覚房の聖人(覚鑁上人)に対し、伝法会の供料として随喜して寄進すると書かれている。
 ただし、寄進に当たっては、下司職は自分の一族に伝えたいとの条件が付けられていた。
 為里が覚鑁上人に帰依し土地を寄進したのは、宗教的動機だけでなく、当時皇室に尊崇されていた根来寺の権威を借り、租税を求める国司に対抗するためでもあった。
 覚鑁上人は、この土地の立券を白河法皇に申請し、鳥羽上皇の代になって許可された。

 また、紀州相賀荘(おうがのしょう)も領主の藤原氏から根来寺に寄進された。このとき、荘内の豪族の坂上経澄は、代々相賀荘の管理を司ってきたことを主張し、根来寺から下司職に任じられている。
 坂上氏はかつて、金剛峰寺側に立って根来寺に敵対してきた人物だった。しかし、これ以降は根来寺に従属した。

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 和泉でも、寄進は盛んに行われた。近木庄(貝塚市)は高野山領、信達庄(泉南市)は藤原氏領、日根庄(泉佐野市)は九条家領、鳥取庄(阪南市)は河内観心寺領を経て伊勢神宮領、淡輪庄(泉南郡岬町)は比叡山延暦寺領、といったように、多くは摂関家領か寺社領となった。この結果、律令体制の基礎である公有地は和泉でも急速に減った。

 寛弘九年(一〇一二)、公有地の不足を解決するため、和泉国司の源経頼は、支配下の郡司に対して新田の開発を命じている。その中で経頼は「和泉国の土地は狭いが、居住の民は多数にのぼる。半数は漁業を生業として農業を好まない」といっている。
 痩せた土地であくせく働かなくても、海に出れば豊かな漁獲があるのだから、和泉の民衆が農業をいやがるのも無理はなかった。

 このころの土木技術力はまだ弱く、水害で公有地の溜め池がよく決壊した。国はたびたび太政官符を発して、池の堤の修理を行うよう国司に命じた。国司は農民に修理をさせたが、厳しい税の取り立てと生活に追われる農民に十分な余裕はなく、修理は思うように進まなかった。公有地の農民は逃亡し、土地はいっそう疲弊した。

 もともと班田収授法のもとでの農民の負担は大きかった。租庸調のほか、雑庸や仕丁とよばれる労役、非常時のための強制的蓄えである義倉があり、さらに兵役も課された。
 とくに労役や兵役は家族数の少ない農民を苦しめた。彼らの中には、負担に耐え兼ねて戸籍を偽る者や、逃亡して大家族の農民のもとに身を寄せる者もいた。

 当時の農村は、現在のように見渡す限りの田んぼではなかった。田んぼは池や川の水が潤すことのできる範囲内に限られており、多くは原野のままだった。
 墾田永世私財法により土地の私有が認められるようになると、ゆとりのある有力農民は、自ら下人や所従を使い、公有地内の原野を切り開いて、私営田(治田=はりた)を作った。彼ら有力農民は田堵(たと)と呼ばれた。
 彼らは、自ら所有する私営田や、年貢を払うことを条件に領主から耕作権を得た請作(うけさく)田に自分の名前をつけ、権利を主張した。これを名田といい、名田の持ち主は名主と呼ばれた。

 国司や荘園領主にとっても、従来のように農民単位で税を徴収するより、名田を単位として名主に一括して支払わせた方が好都合だった。そこで、公有地・荘園の田は、徐々に名田を単位に再編成されていった。

 一つの荘園は、だいたい十から三十ぐらいの名田から構成された。広い名田を持つ名主は、大名主(大名)と呼ばれた。
 やがて大名主も、税を免れるため、自らの私有地を進んで摂関家や寺社に寄進し自らは荘官になった。

 公権力の容易に届かぬ遠隔地で荘園の経営を任せられた彼らは、強盗の被害や他の荘園領主の侵略から土地を守るため、あるいは力ずくで徴税するために、もっぱら武術の訓練に明け暮れた。
 彼らはまた、貴族の私兵として、都に上って朝廷や貴族の館を守る任務も負った。
 貴人のそばに、さぶらう(近侍する)ことから名付けられた侍(さむらい)となって貴族の私闘にも駆り出された。

 仏教的な教養を身につけ、優美な生活を重んじる貴族たちにとって、武器を取り、殺生することは卑しむべきことであり、身分の低い侍にまかせておけばよいことだった。

 荘園の荘官が武装する一方、公有地(国衙領=こくがりょう)の国司もまた、徴税を徹底するため、配下の役人を武装させて対抗した。
 こうして貴族のもつ荘園の荘官や国衙領の下級役人は、戦を職業とする武士に成長していった。

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 集団戦法が中心となった中世では、名主に従う下人たちも足軽として戦に動員された。武士は主従関係に基づき、さまざまな階層に分化し変質していく。しかし、その出自は、彼らすべての精神構造に長く痕跡を残した。

 武士はもともと、大和朝廷が隼人や蝦夷など、征服した先住民を兵士として使ったことに由来するという説がある。服属した隼人などは宮廷の警備にあたり、藤原広嗣の乱(七四〇)では、広嗣に味方した同族の攻撃にも駆り出された。
ローマ帝国でも、降伏したゲルマン人は傭兵として辺境の警備や他の異民族の征服戦争に使われた。紀元九年のアルミニウスの反乱では、アルミニウス軍と、ローマ帝国側に付いたアルミニウスの兄弟の軍との、同族間で戦いが行われた。台湾の高砂族やインドのグルカ兵も日本軍やイギリス軍に使われ、勇猛さで知られた。

支配者は身の危険のある戦を、こうした下層の異民族に押し付けた。もともと狩猟をなりわいとしていた彼らは、得意な弓矢で手柄をあげ、成功して官位を得る者も現れた。越の国の蝦夷は、早くから帰属し、官位を与えられている。

日本では昔から、東北、九州の兵が強いとされた。新撰組は戦闘で失った兵士を補うために、関東の農民や郷士を徴発した。

こうした先住民の傭兵が前九年の役、後三年の役を経て東国の武士団に成長した。武士団は桓武平氏、清和源氏など、天皇家と強く結びついた。
このような出自から、武士は天皇に対する臣従意識が強く、高い忠誠心を抱いていた。

のちに日本の支配者となった源頼朝や足利尊氏、織田信長や豊臣秀吉らは、政治の実権を握りながらも、皇室や貴族の権威への依存から脱却できなかった。彼らは「征夷大将軍」や「関白」といった朝廷の官職を借りて、自分たちの正統性と権威を保った。
 それは、もともと貴人の護衛役、番兵としての彼らの発祥に原因があった。

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 僧兵もまた、武士の発生とほぼ同じ時期に出現した。彼らも武士と同じ農民の出自だった。
 貴族の荘園と同様、寺社領の荘園にあっても、治安の維持や徴税は、荘官の重要な役目だった。

 彼らは、貴族の荘園における武士と同様に、ひたすら武芸の修練にいそしんだ。彼らは寺に出入りするため、自らも髪を落とし僧形となった。
 また、学僧たちの中でも出世の望めぬ家柄の低い者や、血気にはやる者は、自ら武器をとって、合戦に活路を見出した。

 さらに、彼らの下には、ふだん夏衆(げしゅ)とよばれて雑用をする農民出身の下人もいた。彼らもまた非常時には兵士として組織され、寺同士の抗争や荘園同士の争いに動員された。
 これら様々な武装の僧が、僧兵集団として発展していく。

 僧兵は寺社によって「大衆」「衆徒」「神人(じにん)」「行人」など様々な名をもっていた。
 興福寺は藤原氏の氏寺として東大寺と勢力を競い、その過程で武力を養うようになった。
 天永四年(一一一三)、比叡山と争った興福寺の僧徒は、天台座主の流罪を要求して都に乱入した。

 当時の記録に「金峯山・吉野の軍兵、大和国の土民・庄民、弓箭(きゅうせん=弓矢)を帯するの輩、みなもって相従う。幾万を知らず」とある。荘園から駆り出された農民出身の兵士が従軍したのである。

 貴族の藤原氏が支援する興福寺は、台頭してきた武士の平家と争うようになる。筒井氏をはじめとする興福寺の僧兵勢力は、三井寺の僧兵と同心し、平家打倒に立ち上がった源頼政に味方した。宇治の戦いでの三井寺の僧兵、筒井の浄妙明秀の奮戦ぶりは平家物語の中で精彩を放っている。

 恐らく、この筒井浄妙明秀もまた興福寺の僧兵である筒井氏の一族だろう。このとき、蜂起した興福寺の僧兵たちは、宇治の戦いには間に合わなかったが、平家は敵対への報復として清盛の五男の平重衡に大仏殿を焼かせた。平重衡は平家没落後、南都の僧徒に引き渡され、木津河原で処刑された。重衡は勇猛さを惜しまれたという。

 筒井氏は、大和の添下郡筒井庄に住み、大神(おおみわ)神社の社家大神氏の支流といわれる。鎌倉時代には春日神社若宮の祭礼を担当する刀祢(とね=役人)となり、やがて興福寺衆徒となって大和に勢力を揮(ふる)った。

 室町時代、筒井氏は、官符衆徒として衆徒の棟梁にのし上がった。
 応仁の乱以降、畠山氏の内紛に大和国内は巻き込まれた。筒井氏は順昭のころから大名化し、大和一国を支配するようになった。
 筒井氏はのちに、順昭の子、筒井順慶の時代に秀吉に味方して、大和一国の領主となる。
 その子の定次は、天正十三年(一五八五)の秀吉の根来寺攻略にも参加したが、のちに家康によって改易された。さらに大坂夏の陣で豊臣氏に内通したとの疑いをかけられ切腹させられている。
 筒井氏のほかにも、多くの大和の土豪が興福寺に子弟を送り込んで僧兵にした。

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 このように中世を動かす原動力となった武士と僧兵は、荘園の成立過程で発生した、いわば双生児のような存在だった。
 農民を出自とする類似の発祥にもかかわらず、彼らは至って不仲だった。武士は、僧兵を「僧の形をした無頼の徒」「悪僧」といって憎み、僧兵は武士を「貴族の番犬」と罵った。近親憎悪にも似た感情から、彼らは互いに憎み相争った。

 平安時代、延暦寺や興福寺の、いわゆる南都北嶺の僧徒はたびたび、都に大挙して乱入し、貴族の警護役であった源氏や平家の武士たちと衝突した。神仏を恐れる貴族とは異なり、殺生を生業とし、神仏を恐れぬ粗野な武士は、僧兵のかつぐ神輿にも平気で矢を射かけた。

 ともに武勇を尊びながら、武士と僧兵の精神構造は異質だった。

 主従のきずなで結ばれていた武士に対し、僧伽(さんが=教団)和合、万人平等を旨とする仏のもとで、僧兵は平等な結合を旨とし、すべてを大衆詮議で決定した。
 詮議での発言は地位にかかわらず、道理によって評価された。発言者が誰かわからぬよう、参加者は裹頭(かとう=頭巾)で顔を隠し、手で口を覆って声を変えた。

 主人の命令には服従することを旨とする武士と、誰もが対等の僧兵とは、その思考形式からいっても、決して相いれることの出来ない存在だった。
 僧兵は上からの一方的命令に反発した。そして、主人には忠実に仕えるが、農民には傲慢な武士を憎んだ。
 
 のちには武士にも仏門に帰依するものが現れたが、大寺院の抱える僧兵に対する対抗心は心の底にいつまでも残った。

 鎌倉時代に武士の多くが禅宗を尊重するようになったのは、貴族が庇護する密教寺院や、庶民が信じる一向宗や法華宗など新興宗教への対抗の意味があった。
 信長が比叡山を焼き、家康が一向宗徒を虐殺し、秀吉が根来寺を襲ったのは、こうした武士と僧兵の歴史的憎悪に一因があった。

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 平安末期、諸国の動乱に乗じて台頭した武士は、貴族ら旧勢力から政治の実権を奪った。しかし、天皇家と貴族、寺社の力はなお根強く、古来の荘園制度は温存された。寺社が抱える僧兵の力は、むしろ増強された。

 太平記には、鎌倉幕府の末期、近江守護の佐々木時信の指揮する北条幕府軍が琵琶湖の唐崎で、後醍醐天皇側についた比叡山の僧兵に敗れ、時信が危うく命を落としかける話が出ている。

  明治まで続いた公武の争いは権益の争いだった。

 源頼朝は、文治元年(一一八五)、義経追討を理由に、御家人を守護、地頭として全国に配置した。
 守護は謀反人の追捕や御家人の統制を任務として一国に一人置かれた。地頭は、荘園ごとに置かれ、治安維持を担うとともに、年貢の徴収を任務とした。
 幕府は初め、全ての荘園に地頭を置こうとしたが、貴族や寺社の抵抗にあい、平家の没収領に限定した。

 後鳥羽上皇が、武士に奪われた実権を奪回しようとして失敗した承久二年(一二二〇)のいわゆる承久の乱後は、武士の支配が強まった。地頭は没収された貴族領にも設置された。

 しかし、幕府の勢力の及ぶ、これら地頭のいる荘園は東国に多く、西日本はなお貴族や寺社が握っていた。地頭のいない荘園では、領主の任命した荘官が年貢を徴収していた。これらの在地武士も後には幕府の御家人となって幕府方につくこともあった。

 鎌倉幕府が衰え、威令が届かなくなると、荘園の荘官や名主の中から、領主と幕府に反抗する、いわゆる悪党が現れる。
 彼らは徒党を組んで領内に砦を構え、年貢を催促にきた領主方と小競り合いを繰り返した。
 やがて彼らは鎌倉幕府に不満をもつ皇族や貴族、寺社など武士の不満勢力と結びついて倒幕に向かう。
 建武の新政に功績のあった楠木正成や赤松円心もまた、河内や播磨の悪党だった。楠木正成は氏寺だった河内の観心寺を通じて後醍醐天皇に協力した。

 鎌倉幕府が崩壊した後の王政復古の失敗後、武家の支配を受け継いだ足利尊氏は、根来など寺社勢力の一部を取り込むとともに、貴族や寺社の多くが支持する南朝に対抗するため武士の処遇に配慮した。

 荘園からの年貢の半分を軍事費や治安の維持費として守護に与える半済(はんぜい)制度は、足利尊氏が室町幕府創設にあたり、武士たちへの恩賞の財源として創設した。

 最初は一作だけの臨時の費用であり、京都周辺の八か国だけが対象だったが、のちには全国に広げられ通年の税となった。
 半済法の制定を機に、守護の力が一気に強まった。守護は地頭をも家臣化し、半済を領主に要求して権益を拡大した。

 しかし、寺社の抵抗は、その後も長く続いた。伊勢神宮と仁木氏、根来寺と細川・三好氏、石山本願寺・比叡山と織田信長など、各地で武士と僧兵や神人(じにん)が衝突した。信長、秀吉は寺社を敵視した。

 
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 地頭や守護が荘園領主とせめぎあっている中で、農作技術の進歩に伴い、ゆとりが出来た百姓たちも、また力を蓄えていた。
 鎌倉時代には、二毛作が行われるようになり、畿内を中心に水田の裏作としての麦作が普及した。水車の使用、耕作用の牛馬の飼育も広まった。山で取れる草木の灰を肥料として使うことも一般化して、生産力は上がった。

 商業が発達し、手工業者は寺社を保護者とする特権的な座をつくって、利益を独占した。商工業の発達は貨幣の流通を促し、金融業者も現れた。金融業者の多くは、有力な名主や寺社の僧侶であり、やがて彼らの中から土倉(どそう)や借上(かしあげ)と呼ばれる高利貸も生まれてくる。領主への年貢も金銭で支払われるようになった。

 室町時代には、海外との貿易も盛んになる。明に臣下の礼までとって交易を求めた足利義満は、勘合貿易によって巨大な利益をあげる。
 日本からの刀剣や硫黄、工芸品などと引き換えに、中国からは大量の銅銭がもたらされ、いっそう貨幣経済化が進んだ。

 こうした変化の中で、平安時代以来の名田制もまた変質していく。名主は、自らは耕作をせず作人から地代を受け取る地侍層と小規模な耕作者に分化した。耕作者たちは「結」(ゆい)などの共同作業を行うようになる。各地に耕地が散在していた名に代わって、一つの地域にまとまった村落が生まれた。

 室町時代になると、農村には荘園の枠を越えた地縁的な結合(惣)ができはじめる。百姓たちは、神社や寺を中心にして組織(宮座)を作り、掟(おきて)を定めた。また、乙名(長老)、番頭、沙汰人などの役人を選んで自治を営むまでに成長した。
 彼らは領主や守護の二重支配に苦しみながら、非道な要求には一揆で対抗した。下人や所従と呼ばれた下層農民も力をつけ、自分で土地を買い取る自作農が増えていった。
 こうして、戦国時代には、土地の権利を巡って領主と守護、農民が三つ巴の抗争を繰り広げるようになる。