和泉の国
 

 じいさんが行ってしまったあと、二人は何もいわずにいた。おようは、涙を浮かべたまま唇を噛んでいる。何が正しいのか、戦の理由がわからず、混乱しているようだった。
 おちかには、おようを慰めることはできなかった。
「戦には、いいもわるいもない。力の強いものが勝つ。戦の理屈はなんとでも付けられる」という、じいさんの言葉が、おちかの頭の中に強く残っていた。

《根来寺は、力で寺領を増やし、行人に人を殺させてきた。自らも力に頼りながら、秀吉が力で領地を奪おうとすることを責めるのは、間違っている》
 宗助じいさんがいったことは正しいと思う。

 おちかの脳裏には、日夜鉄砲の訓練に明け暮れる殺伐とした行人たちの姿が浮かんだ。その中には、若左近や十郎太もいる。

おちかが見ても、行人は大名の兵たちと少しも変わらない、力ずくの集団だった。

《でも、仏の教えが通じない末世の世で、寺がこれまで続いてきたのは、行人の力、鉄砲があったから。覚鑁上人様の教えの功徳だけでは、守護から領地は守れなかった》

 おちかは年貢を取り上げようとする守護方の兵の非道な振る舞いを知っている。彼らは村人を拉致し、人質にして年貢を求めた。

《こんな時代には御仏の教えは役にたたない。殺生禁断を守って抵抗しなかったら、自分たちが殺されるか、奴婢にされてしまう》
 力の前には、仏の教えは無力であることは、はっきりしている。

 おちかは、おようのように「だれでもいいから世の中を鎮めてほしい」とは、思わなかった。
《秀吉のような人間には、世の中を采配されたくない。世の中が平和になったとしても、武士が支配するなら、百姓は苦しむ》
 すそについた、そばがらを払いながら、おちかは立ち上がった。

「おようちゃん、きょうはこのくらいにしとこうか」
 落ち着きを取り戻し、静かに作業を続けていたおように、おちかが声をかけた。おようも手を止めた。

 二人は、食事を炊き出している砦の中の小屋へ、夕食を食べに行った。握り飯と漬け物の粗末な食事をとりながら、おちかはまだ考え続けていた。
《人間が武器を持つこと。それが殺しあいを生む原因ではないか》 
 すすで黒く汚れた天井に吊されている竹槍の束を見あげながら、おちかは考える。
《鉄砲が南蛮から、もたらされて殺し合いが激しくなった。一度の合戦で何千人もが死ぬ》
 おちかは武器庫の中の鉄砲を壊して、火に投げ入れたい衝動を覚えた。

 おちかには、そもそも、人々が所有を争ってきた土地自体が悪の源のように思える。
《もともと土地は誰の物でもない。それが、いまは深い山の一つ一つまで持ち主が決まっている。いったいだれが決めたのか》
 おちかは、自分達の先祖がこの和泉の土地に暮らし始めた遠い時代に思いを馳せた。

               ◇

 山に近く、海に面した和泉の狭い土地は、もともと狩猟や漁労の地で、農耕に適した土地ではなかった。
 大阪湾と金剛山脈、和泉山脈に挟まれ、海に向かって傾斜した土地は、降った雨がすぐに海に流出し、養分は少なかった。気候は、いわゆる瀬戸内式気候に位置づけられ、冬場は雨が少なく痩せた荒れ地が多かった。

 米作は、縄文時代後期、人口の増加に伴って、自然に得られる食物が足りなくなった西日本から始まったといわれる。
 森が深く豊かで狩猟採集の成果が多かった南九州や東日本では、稲作の伝播と開始は遅れた。
 西日本でも、海と森の豊かな恵みを享受していた和泉地方は、稲作の普及は遅かった。

 弥生時代になっても、和泉の人々の生活は縄文の昔とあまり変わらなかった。耕作に向いた土地は少なく、住民は相変わらず、近くの海で漁(すなどり)したり、海水から塩を取って食料と交換したりして、生計を立てた。

 古代の和泉には、先住の人々のほかに、新たに大陸からわたってきた人々が住み着き、混交した。

              ◇

 日本語がいつできたかは、いまも謎である。言葉は国家の形成と結びついている。国家ができるまでは、狭い範囲の人間の間で意志が通じればよく、大勢の人間が理解できる共通の言葉はいらなかった。国ができて初めて、統治に共通語が必要となる。そこで方言を統一し、共通の言葉をつくろうという動きが出る。古事記や日本書紀ができたのは、そのためだった。

 恐らく、1万年以上続いた縄文時代には言葉は多くの方言に分かれ、遠隔地の集団とはお互いに言葉が通じなかったことだろう。
西暦の紀元数世紀前に大陸から来た弥生人たちの言葉が、縄文人の言葉を飲み込んだという説があるが、三世紀にできた邪馬台国さえ、まだ国の連合体にすぎなかった。大陸から来た弥生人たちが自分たちの言葉を、各地に住んでいる縄文人に強制する力はなかったと考えられる。

 万葉集には、方言ではあるが東国の兵士が大和言葉で歌を残している。4世紀以降の大和朝廷が東国経営の中で、言語の違う縄文人に自分たちの言葉を強制したとすれば、東歌などに縄文語の痕跡があってもおかしくはない。庶民の言葉に、縄文語の痕跡がないとすれば、もともと東国の人も弥生人と同じ言葉を使っていたのではないか。

江戸時代になるまで、本土の直接支配を受けなかった沖縄の人々も、千年以上日本語を使ってきた。これらから推測するに、日本語は縄文時代から続いてきた言葉で、大陸から来た弥生人もその言葉を習得し、国家が形成されたときには、すでに共通語となっていたのではないか。スペインに支配された南米でも人は先住民の言語を守ってきた。まして国家の脆弱だった時代は、征服されても、先住民の言語はしぶとく生き残ったと思われる。日本の言葉が共通なのは、もともと一つだったからではないか。

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 大陸から来た氏族の中には紀氏がいた。紀氏の出自はよくわかっていないが、朝鮮や華北地方に「紀」の名字があることから渡来人とも考えられる。あるいは「木の国」「紀の川」の名前をとったのかも知れない。いずれにしても最初に紀州の紀ノ川沿いに定着した紀氏は、そこから大阪平野に進出したと考えられている。

 記紀によれば、和泉の国には紀氏のほか、新羅出身の日根造の一族や百済から来た神前(こうざき)氏、天皇家の縁戚(別族)といわれる和気(別)氏の一族も住んでいた。和泉の国の豪族としては、そのほかに天皇家の古い家臣である大伴氏が知られる。
 当時はまだ、国家が明確でなく、氏族の長を中心に、一族が集団をつくって暮らす部族社会だった。朝鮮半島と日本列島の間も自由に人は行き来し、交易した。
 彼らは、農耕に適した土地に定住し、勢力を広げた。やがて歴史時代になって、天皇家を中心に氏族の連合政権である大和朝廷が形成され、和泉もその支配下に入った。

 大和朝廷の草創期を支えた大伴氏は、天忍日命(アメノオシヒノミコト)を祖とする軍事氏族である。物部氏、阿倍氏、中臣氏などと同じく大王家(天皇家)と共に歩んできた。

 大伴天忍日命の子孫の道臣命(みちのおみのみこと)は、神武天皇の東征に従ったと伝えられている。伝説では熊野から大和への道案内を行ったことにちなみ、道臣命の名を与えられた。一族の大伴武日は、日本武尊の東国遠征に従った。

 大伴氏は歴史時代になってからは大和盆地東南部(橿原市、桜井市、明日香村付近)を本拠としたが、より古くは難波地方を本拠とし、和泉、紀伊方面に勢力を伸ばしていたとされる。

 日本書紀によれば、神武天皇は初め難波から大和を目指したが、河内の孔舎衛坂(くさえざか)で敵に阻止され、やむなく進路を紀州経由に変更した。大阪湾を南下し、和泉日根郡の「呼唹郷(おお)さと」に上陸した。
 呼唹郷はいまの泉南市男里(おのさと)付近を指す。ここにある延喜式内社の男(おの)神社には、神武天皇東征のとき、矢傷がもとで絶命した神武天皇の兄、五瀬命(いつせのみこと)が祭られている。呼唹郷は天皇家の直轄地となった。

 「男神社」のいわれとして、古事記や日本書紀には、五瀬命がなくなるとき、「卑しい者の手に掛かって死ぬのは無念である」と「雄叫び」をしたことから、「男(おお=呼唹)」の地名がついたと説明されている。しかし、これは後からできた地名説話であろう。

 泉南市の北の和泉市にある延喜式内社の「男乃宇刀(おのうと)神社」には神武天皇と兄の五瀬命(いつせのみこと)が祭られている。「男乃(おの)」は「兄」を「宇刀(うと)」は弟を意味しているという。

 また、岡山市西大寺にある備前国旧一宮の安仁神社(あにじんじゃ)は古くは「兄(あに)神社」と書かれていたといわれ、神武天皇の兄の五瀬命・稲氷命・御毛沼命の3神を祭っている。

これらの神社名から類推すると、泉南市の「男神社(おのじんじゃ)」も「兄神社」を意味していると考えられる。 記紀ができた8世紀にはすでに「男(おの)」という言葉の古い意味が失われていたのだろう。

 泉南市には大苗代(おのしろ)という地名もある。ここには古い一丘神社(祇園さん)がある。泉南市の全域が含まれる信達荘は古くは男(おお=呼唹)郷と呼ばれていたことから、大苗代もあるいは「おのやしろ=男の郷にある社」あるいは「おのしろ=男郷にある城」から由来しているのかも知れない。

 泉南市大苗代には、白鳳時代(六五〇〜六五四)に海会寺(かいえじ)が建てられた。発掘調査では、四天王寺と同じ型の瓦が出土し、法隆寺式伽藍があったことが判っている。海会寺跡に現在存在する一丘神社の社伝では聖徳太子が海会寺を建立したと書かれているが、太子は推古三十年(六二二)に死去しており、寺が白鳳時代の建立だとすれば時代が少し合わない。聖徳太子開基といわれる寺院は全国に数多くあり、社伝の真偽は明らかでない。

 海会寺跡に接した土地から、貴族の屋敷や倉の跡が出土している。これらの貴族の屋敷は紀氏あるいは和気氏の住居跡とも考えられている。海会寺はこれらの氏族か、あるいは五世紀に大きな勢力を持った大伴氏が建立したものとも推測できる。

 日本書紀の雄略九年(五世紀後半?)五月の条には、新羅で没した日本軍の指導者、紀小弓(きのおゆみ)の墓を作る際、大伴氏と紀氏の本拠地が隣接していることから、雄略天皇が大伴室屋に命じて、和泉の西端付近の淡輪邑(たんのわむら=大阪府泉南郡岬町淡輪)の大伴氏の土地に作らせたと書かれている。朝鮮出兵のころ、海に面した和泉に本拠地を持ち軍事を担当していた大伴氏と、紀州を支配し木造船を供給していた紀氏とは密接な関係があった。

 呼唹郷(おおさと)は淡輪にもほど近く、このころ朝鮮出兵などで活躍した大伴氏が氏寺として海会寺を建てたのではないかという説もある。

 淡輪には、垂仁天皇の子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)の墓とされる宇度墓古墳(うどはかこふん)がある。大阪府阪南市自然田には「菟砥川上宮」(うとのかわかみのみや)という宮殿があったとも伝えられる。宇度(うど)や菟砥(うと)の地名は、弟(うと)である神武天皇と関係があるのかも知れない。

 海会寺跡に立つ一丘神社の社伝によれば、この神社が京都の祇園神社(祇園祭り)のもとになったと記録されている。社伝の真偽は不明だが、説得力はある。

【一岡神社】 泉南市信達大苗代373番地

祭神  建速須佐之男命、稻田姫命、八王子命
由緒
 一岡神社(一丘神社)は海会宮(かいぐ=海営宮)祇園さんとして古くから世人に親しまれていた。日根郡内では唯一の大社であった。その社伝によれば、二十九代欽明天皇の御代(西暦五三九年)悪疫流行し、勢い日に増し激しく止まる事知らざるに及び、時の長人(長者?=金持ち)一丘神社に平癒祈願させた処、神徳現証(=神の御利益顕著)であったので、その寄徳(奇特=奇跡)を仰ぎ山城國(現京都府)に御分霊を斉(もたら)して帝都の疫病除け(よけ)祈願の神と定められ、毎年大祭には御神輿(しんよ=みこし)を迎えて祭典を執行する事となった。即ち毎年六月七日、当社を御発輦(はつれん=みこしが出発)し十三日御着輦、十四日大祭を行い、三日間滞在され、その間帝都の氏子達は御神輿を奉じて各地の御巡行をされ、一丘神社御供人(おともにん)等は、その間山海の珍味を以て接待を受け十八日に御発輦還行の途につき、二十四日当社に還御し、二十五日御供人等、供洗(ともあらい)川で身を浄め二十八日還行祭を執行して居た。かくて三三代推古天皇の御代(西暦五九二年)に厩戸王子(うまやどおうじ=聖徳太子)はこの地に七堂伽藍を建立し海会寺(かいえじ=海営寺)と称して、当社も海会宮(海営宮)と改め、鎮守神として御供田三反歩を供して崇敬された。
 後、四十五代聖武天皇の御代(西暦七二四年)高僧行基は当社の南の方に一大溜池を築造し、海営宮池(かいぐいけ)と名附けて、この地の潅漑用に供し、同時に神社と寺の修繕を行った。境内神社の中の厩戸皇子神社は聖徳太子、即ち馬戸王子命(厩戸皇子或いは馬留王子)が祀られている。第八二代天皇の後鳥羽院熊野御幸記建仁元年(西暦一二〇一年)十月七日の条に日く「騎馬競い出て先づ厩戸王子に参る。今、筆王子と云ふ」と記されており、昔日より崇敬を集めていた。社の西方、中小路二〇番地(大阪府史跡指定二一号)から明治の御代に境内に移された。

 熊野街道沿いのこの地になぜ聖徳太子ゆかりの「厩戸王子社」があるのか。社伝がいうように、聖徳太子が寺を建立したのなら納得できる。
 発掘では、海会寺は7世紀、大化の改新(645)前後につくられたと推定されている。海会寺は九世紀に焼けたといわれるが、史書には一切登場しない。

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 元正天皇の霊亀二年(七一六)に凡河内国(おおしこうち=河内)のうち、大鳥、和泉、日根の三郡を分けて和泉監(いずみげん)とした。孝謙天皇の天平宝字元年(七五七)、和泉監(げん)は国に昇格した。安房、能登などもこのとき国になった。
 和泉の国の名は、現在の和泉市にある泉井上神社の境内に涌く清水に由来するといわれる。

 国に昇格したあとも、耕地の少ない和泉の国は貧しかった。律令制度下の大・上・中・下の国の等級では、下の国に位置づけられた。
 米の産地としてよりも、むしろ魚介類の供給地や、狩猟の地として知られた。また、土器類の産地でもあった。
 延喜式によれば、和泉国の調(班田の農民が中央に納入する土地の産物)として、種々の土器類があげられている。

 開発が遅れ、原野の多く残る和泉の国は、狩りの獲物も多く、都に近いこともあって、古代律令官人が好んで行楽に訪れた。

 日本書紀によれば、五世紀半ばの允恭(いんぎょう)天皇(=仁徳天皇の子)は、寵妃の衣通(そとおり)姫が大和藤原宮から移り営んだ珍努(ちぬ=茅淳)の宮にしばしば通い、郡内の広大な日根野(泉佐野市)で狩猟を楽しんだといわれる。

 衣通姫はその名の通り、肌が衣を通して輝いたといわれる美女だった。允恭天皇が寵愛し過ぎたため、衣通姫の姉で皇后の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)に憎まれ、珍努宮に身を隠した。天皇は姫が忘れられず、大和から通ったといわれる。

 珍努宮はいまの和泉市府中町あるいは泉佐野市上之郷中村あたりにあったといわれる。
 珍努宮の経営には和泉郡、日根郡の2郡の税が充てられた。書紀によれば、允恭天皇があまりにたびたび珍努宮に赴いたため、百姓の負担が増え不満が出た。そこで、天皇は珍努宮に行くのを控えるようになったという。

 桓務天皇も平安京遷都十年後の延暦二三年(八〇四)十月、日根野に連なる熊取野(泉南郡熊取町)で狩猟を楽しんでいる。
 狩猟は、貴族たちの娯楽であると同時に、領地内の民情視察も兼ねていた。
 生産力の低い和泉ではあったが、難波宮や外国文化の窓口である難波の港にも近く、文化の水準は高かった。

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 雨が少なく、田畑を潤す大きな河川がない和泉では、雨水をためておく溜め池は稲作になくてはならない。

 晴天の続く冬場は、ほとんどの池は干上がる。春から梅雨にかけ、降った雨が溜め池に貯えられる。
 池の最も低いところには、樋門(ひもん)が掘られている。田植え時になると、樋門をふさいでいた木の杭が抜かれる。
 樋門に吸い込まれた池の水は、小川や水路を通って、勢いよく下流の田畑に流れ、乾ききって白くなっていた土を黒々と潤す。
 鍬で耕したあと、水を張った田んぼは、鋤でならされ、苗代で育てられていた早苗が早乙女たちによって整然と植えつけられる。

 やがて夏になり、苗が盛んに分蘖(ぶんけつ=枝分かれ)し、浮草が水面をびっしり覆うようになると、畦道にも草が生い茂り、カエルの声が聞こえてくる。
 底に積もった泥に跡を付けてタニシがはいまわり、オタマジャクシや、ヤゴやタガメ、タイコウチなどの水生動物が浮草の下を泳ぎ回る。
 稲の葉は水面を渡る風に波打ちながら、真夏の強い太陽の光を浴びて、ぐんぐん成長していく。

 夏の終わりには、田の水は落とされ、葉の間から稲穂が伸びて開花し、結実する。
 この後、大雨や風の被害がなければ、田は黄金色に熟れて、収穫の秋を迎える。
 のどかな農村風景は、汗にまみれて池や水路を開削した先人たちの辛苦に満ちた労働の賜物だった。

                  ◇

 稲作が伝わった最初のころは、川沿いの肥沃な土地や、あるいは谷地田(やちだ)と呼ばれる、枯れ葉などの有機物をよく含んだ山裾の谷が水田として利用された。
 谷池田の場合は、山から流れ出す小川をせき止めて池をつくり、田に水を引く。こうした土地なら、家族などの少ない労力でも開墾することができた。
 しかし、こうした自然条件のよい土地はそう多くはない。さらに大勢の人間を養うためには、どうしても平野部を開墾しなければならない。
 平野部での水路や池の開削には、大勢の人手と莫大な費用、さらに高度な土木技術を必要とする。

 大きな川を土砂でせき止め、あるいは窪地を掘り下げて池を作る。
 池の底には木をくり抜いた導水管を埋めて、用水路に水を流すようにする。

 これができるのは、朝鮮半島や中国から渡って来た技術力を持った帰化人の一族や、裕福な土地から得た財力を持つ国家や寺社、貴族だけだった。彼らは痩せた土地を次々に開発し、豊かな田に変えた。
 荒れ地を開墾するときは、当時まだ貴重だった鉄製の斧を使って、立ち木を切った。
 灌漑のための水路も、鋤や鍬で少しずつ土を掘り下げ、崩れないように石で補強した。炎天下や凍える寒さの中での辛い仕事をするのは、氏族が抱える奴婢や使用人たちだった。
 有力者たちは、これらの新しい田を奴婢や部の民に耕させ、収穫をほとんど自分のものとした。

 広大な水田を手に入れた氏族は富を蓄え、七世紀には蘇我氏など、天皇家をしのぐ力をつけるようになった豪族も現れた。
 強大になり、天皇家さえも軽んじるようになった蘇我氏に、天皇家や他の氏族は危機感を抱いた。
 ちょうど、このころはアジアで国家間の緊張が高まり、強力な中央集権国家が求められる時期でもあった。これは欧米列強の圧力から国家を維持し強化するため、明治維新が行われた状況と似ている。

 大化元年(六四五年)、中大兄皇子は中臣鎌足と協力し、蘇我氏の専横を憎む他の氏族と結んで蘇我氏を倒した。
 天智天皇、天武天皇は中国の制度を取り入れ、唐、新羅にも対抗できる中央集権国家をめざした。その財政的な基礎として、天皇は土地の国家所有を打ち出した。
 それまでの氏族による土地の私有を廃止し、土地と百姓はすべて公地公民とした。
 条里制が敷かれて、納めるべき税が決められた。中央から派遣された国司が税を徴収し、治安を維持した。

 その後、大宝元年(七〇一)には大宝律令が制定され、氏族に対する国家の優位が示された。大化の改新とそれに続く律令政治は、日本におけるその後の大改革と同様、土地制度の改革であった。
 大宝律令の制定には壱岐出身の伊吉(壱岐)博徳(いきのはかとこ)が貢献した。博徳は唐に渡り、日本書紀には壱岐博徳の日記が引用されている。
壱岐氏は大陸との中継点にあって外交も担い、古代日本の開化に重要な役割を果たしている。
             ◇

 そもそも土地の国家所有という考え方は、中国に由来する。
 中国では漢の末期から、豪族が広い土地を所有し、貨幣経済の普及とともに没落した農民や奴隷を使って富を蓄え、大きな政治的力を持つようになった。
 国家財政の基礎となる小農民が没落することは、国家にとって大きな脅威となる。
 このため、政府はしばしば奴隷と土地の所有制限(限田法)をしたが、効果は上がらなかった。
 前漢を滅ぼした新の王莽(おうもう)は、全国の土地を国有とした(王田)。さらに、土地と奴隷の売買を禁止し、所有できる土地面積を制限した。
 しかし、新は豪族の反乱で十五年で滅んだ。
 後漢に入ると、豪族は地方官僚を兼ねて、ますます強大となり、政府権力は衰退した。
 後漢以降の歴代王朝もまた、中央権力の強化を図るため、大土地所有を制限して豪族の力を抑えることに力を注いだ。

 西暦二八〇年に中国を統一した西晋の武帝は、占田・課田法を定めた。男女の年令に応じて、一定の土地を与えることによって、大土地所有の制限と租税の確保を狙った。
 北魏の孝文帝も、四八五年に西晋にならって均田法を定め、土地を農民に与えることで、税を払える自作農をつくろうとした。
 しかし、これらの政策も大土地私有の進行をくい止めることはできなかった。
 特に、江南地方では、肥沃な土地の開発を進めた豪族はそれまで以上に強大となり、宋・斉・梁・陳の歴代王朝は、有力豪族と結ぶことで、ようやく政権を維持することができた。

 南北朝を統一した隋は、これら先行王朝の土地国有制を引き継いで改良し、豪族を抑えた中央集権国家をつくることに成功した。
 隋の政策を継いだ唐は、さらに、この政策を推し進め、所有者のない土地を国有地として農民に分配した。農民には租庸調の各種税を納めさせるとともに兵役につく義務も課した。この政策によって、豪族の大土地所有と軍事支配に歯止めをかけることが可能となった。国力を高めた唐は、世界帝国に発展した。

 しかし、その唐も、安史の乱(七五五〜七六三)を機に衰え始める。商業経済が広がるにつれて、農民の中には借金のかたに口分田を手放すものが出てきた。
 貴族、官僚、寺社はこれらの土地を手に入れて私有地とした。こうして均田制は崩壊し、再び大土地所有が復活することになる。荘園を持つ豪族の勢力が強くなり、やがて唐は滅亡する。

 結局、中国において土地は常に国権と私権の葛藤の対象であった。歴代王朝は、私権を主張する豪族を抑えることに心を砕いたが、最後まで思うようにはいかなかった。

                 ◇

 大化の改新で、唐の土地国有制を取り入れた日本でも、その後は唐と同様に公地公民制度が徐々に崩れ、国は大土地を所有する貴族たちの扱いに悩むことになる。

 中央集権を目指した律令政治ではあったが、氏族の力はなお強力であり、その意向を完全に無視することはできなかった。
 土地は私有禁止を建前としていたが、実際には寺田や神田、賜田として、寺社や皇室、豪族の私有地のかなりな部分は残された。土地改革は最初から不徹底なものだった。
 そのうえ、大仏の建立や都城の建設、蝦夷討伐など、国の費用は増える一方だった。

 鉄の農具はなお貴重で、農業の生産力はそれほど上がっていなかった。苛税に苦しんだ農民たちは、戸籍への申告を偽って租税を免れたり、逃亡して有力者や寺社の土地に流れたりした。放棄された口分田は荒れ、公民に支給すべき土地がなくなった。

 財政的に行き詰まった国は、やむをえず土地の私有を認め、有力者に新しい土地を開墾させ、所有者に税を出させる方法をとった。
 公有地では人は最低限しか働かないが、自分の土地となれば一生懸命に鍬をふるう。国は人々の所有欲を刺激して、土地を増やそうとした。

 養老七年(七二三)、新しく土地を開墾した人間に、三代までの土地の占有を、また荒廃した土地を回復した者には一代に限って占有を認める「三世一身法」が制定された。しかし、収穫物を納める収公の時期が近付くと耕作を放棄するものが出て、実効は上がらなかった。そこで天平一五年(七四三年)に「墾田永世私財法」が施行され、土地の永代の私有が認められた。

 永世私財法は、土地私有を保証した一方で、最高所有面積を五百町として身分による制限をつけ、これを超える土地は国に返還することを命じるなど、大土地所有を抑える配慮はした。
 しかし、この制限は守られなかった。天平神護元年(七六五)に一時、永世私財法は廃止されたが、宝亀三年(七七二)再び私有が許可され、その際に土地面積の制限も撤廃された。
 これ以降、有力貴族や寺社は、その領地をますます拡大させていく。これが、その後の日本の歴史を動かす原動力となった荘園の始まりである。荘園は、秀吉による検地によって廃止されるまで、所有者が変わり、国の干渉や侵略を受けながらも綿々と続く。

 日本の政治も中国と同様、土地という私有財産をめぐる国家と私権との血みどろの戦いだった。

 当初は、荘園も寺田、神田など一部を除いて国に租税を納めていたが、領主である宮家、権門勢家はやがて政治力を使い、租税そのものが免除される不輸の権利と、徴税と犯罪捜査のための官人立ち入りを拒む不入の権利、いわゆる不輸不入の特権も得る。
 これは、国家の中における一種の治外法権の容認であり、私権に対する当時の国家の未熟さと弱さの反映だった。