覚鑁上人 

 次の日から若左近と十郎太の行人としての生活が始まった。
 朝はまだ暗いうちに床を離れ、粥と焼き塩の食事をとった。その後すぐに角場へ行き、鉄砲の稽古をした。昼からは槍、弓の稽古が続いた。成真院へ帰るのはいつも日がとっぷり暮れてからだった。

 雨の日など稽古が出来ないときは矢を作ったり、火縄を編んだり、鉄砲の手入れをしたりした。また、たまに大伝法院で真言密教について、学侶の説教を聞くこともあった。

 学侶たちは、真言宗の根本教義や経典、弘法大師と覚鑁上人の著作、高僧の事跡などについて話した。
 訓練で疲れている若左近は、説教の間、たいてい居眠りした。しかし、その中で妙に関心を引かれ、内容をよく覚えていたのは、定尋という僧の講義だった。

 定尋は三十を少し過ぎた、講義僧の中では比較的若い僧だった。広い額と澄んだ目を持ち、落ち着いた話し方は誠実な印象を与えた。
 定尋は、他の老僧のように、居眠りしている行人を気にして、起こしたり、叱責したりすることはなかった。
 居眠りしている行人など目に入らないかのように、もの静かではあるが、熱心に説教を続けた。話には説得力があり、人を引き付ける魅力があった。居眠りしている行人は、かえって老僧達の講義の時より少なかった。

「覚鑁上人は桓武天皇の五代の後裔に始まる平氏の子孫として、嘉保二年(一〇九五年)、この世に生を受けられました。父は肥前の国の総追捕使(ついぶし=凶徒逮捕のための役職)、伊佐平次兼元、母は橘氏の娘と伝えられています。
 夫婦の三男として生まれた上人は弥千歳(みちとせ)と名づけられました。八歳の時、敬愛していた父が上司である国司に叱責されたのを目撃して、傲慢な権力者が支配する現世を厭うようになりました。上人は仏門に憧れ、十三歳のときに京都の仁和寺成就院に入門しました。その後、南都東大寺、興福寺、高野山、東寺で研鑚を積み、二十歳のとき、再び高野山に戻りました」

「ここで修行をさらに重ね、かつて弘法大師が始められて、その後すたれていた伝法二会の復活を目指しました。伝法二会は春秋二期、各百日間にわたって行われる勤行で、莫大な経費がかかります。覚鑁上人は伝法二会の費用を捻出するため、貴人に働きかけ、寄進を求めました。ついには、鳥羽禅定法皇までが上人の熱意に動かされ、力を寄せられました」
「大治五年(一一三〇)、高野山において伝法二会を執り行う伝法院が完成し、ここに上人の長年にわたる努力が実を結びました」

「上人は伝法二会の復活で真言の教えを広め、現世で苦しむ人々の救済を目指しました。自らの解脱だけでなく、利他のために尽くすこと、この世での密厳浄土の実現を弟子に求めました」

 覚鑁上人の教えを説く定尋の説教は決して平易ではなかった。聞き慣れない密教の言葉が出てきた。しかし、大体の内容は漠然と若左近にも理解できた。

「『大日如来は衆生の苦界を見て黙しえず、法楽の都を出て、加持門(かじもん=衆生に対する仏の加護)に赴き、衆生の迷情を金場へと導きたもう』
(大日如来は衆生が苦しんでいるのを、だまって見ていられず、極楽を出て、衆生の救済に向かい、衆生の迷いを覚まして、安らかな世界に導かれた)

覚鑁上人はこう説かれています。また、《五輪九字明秘密釈》の中で上人は、『知恵なくとも信があれば、信なき知恵より遥かに功徳が大きい』ともいわれています」

「身口意(しんくい)三密、即ち身に印相を結び、口に真言陀羅尼(だらに=呪文)を唱え、心に大日如来を観じることで即身成仏の悟りを得られるとの真言密教の教えを、上人はさらに押し進め、まことの信があれば、真言を口にするだけで、仏の絶対の慈悲によって、他の身意の二密も備わり、即身に弥陀の境地を体得して、密厳浄土を実現できると説かれました」

「この教えによって、念仏往生を願いながらも身口意三密の力のない、貧しい人々も安心を得ることが出来たのです。新義真言宗がいまも貴顕だけでなく、百姓、職人ら貧しき人々の信仰を受けているのは、まさにこの故です」

「また、上人はいわれました。『十方の極楽は皆これ一仏の土なり。一切如来は皆これ一仏の身なり。何ぞ必ずしも十万億土を隔てし。大日を離れて別に弥陀あらず。娑婆(しゃば)を起たずしてただちに極楽に生ず』と。すなわち浄土を西方に求めず、この世で困難を克服し、この世に極楽をつくるよう説かれました」

「民には慈悲深く、真言だけの信心を説いた上人は、僧に対しては民衆を教化できるだけの厳しい修行と勉学を求めました。
 上人は僧の無知無行を嫌い、人は自らを正知正見を持つものと認識して初めて正しい解脱の道が開かれると説かれました。地位に安住し、慣例に甘んじて修行を怠る僧を退けられました。信仰に関しては、上人に一切の妥協はありませんでした」

「上人は鳥羽法王の帰依を受けて、金剛峰寺の座主に任ぜられ、伝法院を広げ、大伝法院を建立されました。しかし、旧来の秩序と教義に固執する金剛峰寺の僧たちは、改革を進める上人をうとましく思い、末寺の大伝法院が本山の金剛峰寺に取って代わろうとしていると邪推しました。彼らは覚鑁上人の進める改革を憎み、大伝法院の隆盛を妬んで、迫害を加えました。彼らは院の庁に大伝法院を非難する訴えを起こしましたが、覚鑁上人を敬う鳥羽法王から訴えを却下され、かえって、その偏狭さを叱責されるに及び、彼らの憤激は頂点に達しました」

「覚鑁上人四十七歳の保延六年(一一四〇)十二月八日、金剛峰寺の僧徒は、ついに武力をもって、大伝法院を攻撃する暴挙に出ました。大伝法院側の僧徒も武器を手にして守りましたが、数に優る金剛峰寺側が勝ち、大伝法院側の多くの建物を破却しました。上人は自らの改革への志が理解されず、同じ真言宗を信ずるものが互いに争ったことを大いに悲しみ、争いを避けて根来に移られました」

「こうした苦難の中にあっても、上人の密厳浄土建設への情熱はますます強く、根来に円明寺を建立するなど、求道に精進されました。しかるに、晩年に受けた数々の心労は、上人の体を内から蝕み、ついに康治十二年(一一四二)十二月十二日、上人は四十九歳の若さで、入滅されました。現世に極楽を築かんとした上人は、その現世で大変な苦難を受けられました」
  定尋はしみじみと語った。

  定尋は古い本を取り出した。
 『保延六年十二月八日、本寺(=金剛峰寺)坊人、兵士を引率し、伝法密厳両院(=覚鑁上人が高野山内に創建した大伝法院と密厳院)を攻む。院僧(=大伝法院の僧)またこれを待ち受け、甲冑を帯び、相戦う。院僧ついに退散。根来寺に出奔す。本寺方、勝ちに乗じて、僧坊八十余宇を破却す。驕慢にして本寺を蔑(さげす)み、末院を高く挙げんとせしゆえにより、祖神譴責する(=神が罰する)ならん…』

(保延6年12月8日、金剛峰寺の行人が兵士を率いて、伝法密厳の2院を攻めた。大伝法院の僧も待ち受け、よろいかぶとを付けて争った。ついに伝法院の行人が退散して、根来寺に逃げた。金剛峰寺方は、勢いに乗って、大伝法院側の建物80あまりを壊した。傲慢にも本寺をさげすみ、末寺を引き上げようとしたから、神が罰したのだろう)
 

「高野春秋編年輯録には、このように書かれています。覚鑁上人の菩薩行も高野山の衆徒たちの目には、名誉欲に駆られた利己的な行動としか映りませんでした。人がいくら善意の行動をとっても、相手が曲解すれば真心は通じません。他人に侮られ迫害されても『わたしはあなたを決して軽んじません』と言い続けて、ついに仏となられた不軽(ふきょう)菩薩のように、覚鑁上人は堪え忍ばれた結果、命を縮められました。これはまさに大日如来の菩薩行にほかなりません」
 
大日如来がこの世で苦しむ衆生を見て、安楽な世界を棄て、救済のため汚辱に満ちたこの世に下る。
定尋の話を聞いて若左近は心を動かされた。それは、すでに仏となりながら出家者と衆生の擁護のために、奴僕の姿になって冷たい石の上に座す不動明王を連想させた。
 それまで、自分とは無縁の高みにいるように思っていた大日如来が急に身近に思えた。

 とはいえ、本物の信仰に入るには、若左近はまだ若かった。それに加えて厳しい稽古は、信心に浸っている余裕を与えなかった。定尋の説教には心を動かされたものの、自分の行いについて深く考えることもなく、若左近はひたすら戦のすべを学び続けた。

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 行人は、戦の稽古のほかにも、様々な寺の作務(さむ)をしなければならない。食事の準備、風呂の炊き付け、仏に供える閼伽水(あかみず)や香華の用意、生活に必要な品物の買い出し、味噌造り、そして成真院の中だけでなく、根来寺の中の様々な建物の修繕などは、すべて行人が自ら交代で行った。

 単調な生活の中での唯一の楽しみは、買い出しのために根来の門前町に出ることだった。
 根来には東坂本と西坂本の二つの門前町があり、ともに多くの商店が立ち並んでいた。若左近たちは、鉄砲鍛冶の芝辻家にも、弾や火薬の仕入れ、鉄砲の修理に行った。的一坊に連れられて初めに店に入った時と変わらず、中では大勢の職人が忙しそうに立ち働き、客でにぎわっていた。

 職人の話では、柴田勝家と羽柴秀吉との間で大きな戦が起きると予見し、芝辻家では鉄砲の生産を増やしているという。

 参詣客たちが若左近たち行人を見る目は、恐れと敬意の入り混じったものだった。鉄砲や長刀を見るとあわてて道をあけた。
 行人の中には戒律を守らぬ者もいた。百姓出身の素朴な若者とは違い、諸国から流れて来た浪人者の中には、粗暴な振る舞いをする者も少なくなかった。

 彼らの多くは、戦乱の中で、仕えていた戦国大名が滅び、食いつめた者たちである。彼らは各地を放浪した末に根来にやってきた。そして、鉄砲や槍、長刀、忍びなどといった自分達の武技を、強い行人を求める根来の旗親や旗頭たちに売り込んで雇われた。
 その中では、とくに天正九年(一五八一)に起きた伊賀の乱で、信長に領地を奪われた伊賀の地侍たちが多かった。
 戦場での荒んだ暮らしを続けてきた彼らの多くは信仰を持たず刹那的で、寺の戒めを破ることも恐れなかった。

 若左近は、学侶と行人の反目を感じるようになった。行人を見る学侶の表情からは、軽蔑と強い反感が感じられた。行人を恐れながら、「本来、寺には無縁な荒くれ者」「学問とは無関係な無学な輩」とうとんじ、寺を守るために仕方なく置いている、といった気持ちが読み取れた。
 これに対し、行人たちは知識に秀でた学侶に対して引け目を感じつつ、一方では弓ひとつ引けぬ学侶を文弱の徒と侮っていた。同じ寺にいながら、両者は、いがみあっていた。

 建前では、行人は学侶である座主と三綱の指揮下にある。しかし、力ずくの戦国の世にあっては、力を持つものが正義である。寺内で実際に力を持っているのは行人たちであり、その勢力と発言が根来寺全体を動かしていた。

 四人の旗頭の中で、発言が最も重んじられているのは杉の坊だった。
杉の坊は紀州那賀郡小倉庄の豪族津田家持ちの行人坊である。もともと行人を多く抱える大旗頭だったが、先代院主の兄の津田監物が種子島から鉄砲を根来に伝えて以来、さらに存在感を強めていた。
 まだ三十代半ばの現院主の明算は武技に秀でるとともに、冷静沈着で思慮に富み、行人だけでなく学侶にも信頼された。
               
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 若左近たちは、根来の地理を徹底的に教えられた。敵がどの方角から襲って来ても対抗出来るよう、きこりの通る道や獣道を通って、あらゆる峰に登って訓練した。
 背中に銃をしばりつけ、具足を着け、兵糧を負い、刀や槍を持って山に登るのは苦しかった。人一人がやっと通れる獣道を、息を切らしながら登り、時には駆け上がる稽古もさせられた。

 激しい調練だったが、若左近は山が嫌いではなかった。根来の山も、熊取の山に似てそれほど高い木はなく、赤茶けた崩れやすい砂岩に背丈の低いマツや雑木が茂っている。天気のよい日は、ウグイスやツグミが茂みの中でさえずり、ウラジロの密生した薮の中で赤や紫色の花を咲かせているヤマツツジが目を楽しませた。

 子供のころ、よく採ったシャシャンボがここにもあった。黒い実を摘み取って、口に入れると、甘酸っぱい味が広がった。ふもとに近いところには、スダジイの林があり、下に落ちて取り残された実が枯れ葉の下から芽を出していた。スダジイの実は子供達の菓子代わりで、若左近も秋にはよく拾って持ち歩いていた。生でかじったり、母親に煎ってもらったりしたものだ。

 山の頂上に登ると、そこからは根来寺とその周囲が一望のもとに見渡せた。大谷、蓮華谷、菩提谷の三つの谷を流れる川が、大門の近くで合流して根来川となり、遠くに光る紀の川の方に流れていく。川に沿って数多くの僧坊や堂塔が並んでいる。畑では鍬を振るっている百姓の姿も小さく見える。
 両側を山で挟まれた、この狭い空間に、二千七百の建物と数万人の人間が住んでいる。
 山の稜線にはところどころに土塁や石垣が築かれ、櫓が立てられている。戦になれば、ここには行人が配置され、山を越えて寺を攻めてくる敵を迎え撃つことになる。

 晴れた日には、和泉山脈が西から東へ連なっているのが見渡せた。この和泉山脈と紀の川の流れこそ、紀州を畿内の勢力から長年守って来た防波堤だった。内紛続きで微力な畠山氏が紀州守護職を続けることが出来たのは、この天然の要害と、この地域に根来、雑賀衆という強力な勢力が存在したことによる。北からの侵入者はここからは紀伊に入れなかった。

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 紀州は、建武年間に足利氏支族の畠山国清が守護に任ぜられて以来、代々畠山の子孫が後を継いだ。しかし、根来、高野、粉河、雑賀などの宗教勢力が根強く、守護の威令はなかなか国内に及ばなかった。
 中でも北朝方に味方した功で足利尊氏から和泉信達庄の寄進を受けた根来寺は、将軍家の威光を背に紀州の一大勢力となった。根来には守護といえども容易に介入出来なかった。

 長禄四年(一四六〇)、粉河での水利権をめぐって根来寺と円福寺との間で争いが起こった。これに紀州守護の畠山義就(よしなり)が介入したことから、守護軍と根来寺行人との間で合戦となり、畠山義就側の七百人が討ち死にした。根来側の完全勝利だった。

 応仁元年(一四六七)、足利将軍家と畠山・斯波両家の相続争いから起きた応仁の乱では、根来寺は東軍細川勝元側についた管領畠山政長に味方し、西軍山名持豊(宗全)側についた畠山義就と戦った。

 この応仁の乱で都は焼け野原となった。この戦を機に幕府の威信は地に落ち、国内は乱れた。根来は畠山政長とその子の尚順につき、畠山義就とその子の基家と戦った。以後百年以上にわたり、和泉、河内、大和での戦乱に積極的に加わった。

 根来寺は紀州守護の畠山家に味方し、細川家と争った。のちには細川家の家臣からのし上がり、主家をしのぐにいたった三好家とも抗争を続けた。