交渉               

 秀吉にとって、意のままにならぬ利久は、いまや憎しみの対象となっていた。それにもかかわらず、決定的な対立まで至らなかったのは、他にもっと強力な敵が残っていたからである。

 家康、成政、長曾我部…。秀吉の天下取りを阻む人間のうち、家康とは既に和睦がなった。いずれは雌雄を決する時が来るかも知れないが、今は争わずともよい。家康に比べれば、佐々成政、長曾我部の力は恐るるに足りない。

 むしろ、これから対決しなければならない最大の敵は、大阪城を脅かした根来寺だった。秀吉は根来に敵愾心を燃やした。

 根来は数多い鉄砲と、よく調練をした僧兵を蓄え、畿内で最も強力な軍事力を誇っている。しかも、彼らは武士とはまったく異なる規範のもとに組織されている。

 武士は家名や一族郎党のために主人に忠節を尽くす。自分が死んでも家族が優遇されることを信じて死地に飛び込む。
 これに対し、僧兵の多くは妻帯をせず、妻子のために戦うことはない。
 彼らは主君をももたない。行動は大衆詮議の結果によって決められる。座主といえども詮議の結果を覆すことはできない。

 戦のときは旗親に従うが、旗親が勝手な判断で大衆詮議の結果に背くことは許されない。敵の武将と一対一で密かに交渉して戦わずに篭絡するといった秀吉の得意な戦法は、僧兵には全く通用しなかった。

 農村の出身者が多い僧兵は、土豪が寄進してつくった坊ごとに組織されていたが、寺の指導機関である惣分を中心にまとまっており、武装も訓練も大名の軍勢以上に強力だった。
 そして最も恐るべきことは、彼らが宗教のもとに結束していることだった。行人は自分達を加護する大日如来の神通力を信じ、死を恐れぬ勇敢さで敵に向かって突き進んだ。

 彼らは仏の前ではだれもが対等であると信じていた。他人におのれの意志を押し付ける、いかなる世俗的な権威も認めなかった。
 このような自由を重んじる集団の存在は、すべてを自分の一存で決め、すべての人間をおのれの意のままにしたいと考えている独裁者にとって、まことに不気味であり、同時に危険である。

 秀吉の根来寺への反発は、民衆の抵抗組織に対する独裁者の本能的な憎悪の感情だったといえよう。

                ◇

《根来の僧兵たちは、信長公亡き後、余に従わず、家康の呼び掛けに応じて敵対した。家康と対峙している余の背後を脅かした。奴らに邪魔されて出兵が遅れたことで、長久手では、どれだけ煮え湯を飲まされたことか》

 根来の僧兵たちに対する秀吉の憎しみは、長久手の敗戦から日がたつにつれて、薄れるどころか、ますます募った。
 
 秀吉にとって根来との争いは、単なる地方の一勢力との敵対を超える重要な意味を持っていた。
《奴らをこのまま放置すれば、他の大名や寺社にも侮られ、九州、四国制圧も難しくなる。ここは、どんなに大きな犠牲が出ようと、奴らを徹底的にたたき、屈服させる必要がある》

 秀吉が根来をどのように扱うのか。大名たちは、根来の前途を固唾を飲んで見守っている。

 もし、ここで自分が弱みを見せて妥協すれば、畿内はむろん、遠国の大名にも「秀吉恐るるに足らず」の評判は、すぐに伝わるだろう。
 無用な損害をなるべく出さず、大名たちを屈服させるためには、絶対に歯向かえないという恐怖心を植え付けて、最初から戦う意志を失わせておくことが大切だ。
秀吉は延暦寺を滅ぼした信長の徹底した攻撃を思い浮かべていた。

 一方で、予想される犠牲の大きさを考えると、楽観的な秀吉も、慎重に構えずには、いられなかった。
《春には、おそらく泉州表へ出兵することになろう。今のうちに、十分準備をしておく必要がある。しかし、その前にもう一度、奴らに考える機会を与えてやっても、悪くはあるまい。戦をせずに泉州と紀州が手に入れば、それに超したことはない》

 しばらく考えたあとで、秀吉は小姓に命じて筆と紙を持って来させた。
 
 筆まめな秀吉は、右筆の手を煩わすことなく、しばしば手ずから手紙を書いた。
 妻や母親には、必ず自分の手で近況を知らせた。
 うまい字とはいえなかったが、心がこもり、秀吉直筆の手紙をもらった人間はだれもが喜んだ。
 ささいな事だが、人の感情を大事にするきめこまやかな配慮もまた、秀吉の栄達を支えた大きな力となった。

 秀吉は、筆にたっぷり墨を付けると、癖のある字で、秀長にあてて手紙を書き出した。
《昨今の根来法師ばらの傍若無人なる振る舞いは、目を覆うものがある。このうえ、奴らを放置すれば、天下を治めるものの怠慢と世間から指弾されよう。このうえは泉紀に出兵し、奴らを膺懲(ようちょう=こらしめる)せざるを得ぬが、その前に慈悲を以て、なお一度だけ考える猶予を与えてやろうと思う。そなたは使者を根来にやって威圧し、過分な泉州の知行を返上せよと伝えよ。従わぬときは、一宇残らず根来全山を焼き払うと》
 秀吉は根来との交渉を秀長に指示した。

 手紙を書きながら、秀吉は筆先に力が入り、紙に墨が広がるのを感じていた。
《早い目に今井宗久に命じて鉄砲を調達する必要がある》
 秀吉は根来を服従させるよう秀長に命じたものの、根来の僧兵たちが恫喝に屈して易々といいなりになるとは、自分でも信じていなかった。

                ◇
                
  秀吉の命を受けた秀長は、すぐに紀伊河内の寺社、土豪に書状を回した。
《すでに承知の通り、亡き信長公に代わって、今後は秀吉公が天下のまつりごとを取り仕切ることと相なった。畏(かしこ)くも、禁裏におかれては、近く秀吉公を関白に任官せらるるとの御意向である。万民は今後、秀吉公の命令に服するよう心得よ。また、大坂城に登城して秀吉公を拝し、何事にも下知を仰ぐようにせよ》
 回状には、そう書いた。

 この命令を根来を始め雑賀、太田、高野、熊野など紀州の諸勢力は総て黙殺した。大坂城への登城はむろん、返書も寄こさなかった。

 紀州の不遜な態度に対して、秀長は冷静だった。彼らが大坂城への登城要求を無視することは、あらかじめ予想されたことである。
 泉州の知行を手放す気がない根来寺が、こちらの要求に応じるはずがないことは分かっていた。

 根来寺と泉州の土豪たちは、土地を媒介に一心同体となっている。根来の行人の多くは、泉州の土豪の子弟である。泉州知行を手放すことは、根来寺がこれらの土豪との縁を切ることを意味する。それは生身の人間の体を二つに裂くようなものだった。

《知行をすべて取り上げるということになれば、根来は死にもの狂いで抵抗するだろう。戦となれば、こちらにも相当の損害がでることを覚悟しなければならない。まずは奴らが、どの位の知行なら妥協する気があるのか、打診してみよう。そして我々に敵対しても勝ち目がないことを、奴らによく説明して分からせてやらねば》

 穏便な秀長は、「力に訴えても服従させよ」という秀吉の命令を実行する前に、まず説得に臨むことにした。

 交渉が成功すれば、味方の損害は出さずに済む。これから天下を押さえるまでには、まだまだ数多くの戦を覚悟しなければならない。戦力を温存できるものなら、それが最もよい方法である。

 もし交渉がうまくいかなかったとしても、交渉の間に敵情を探ることもできる。その間に万全の攻撃準備をすればよい。
 秀長はいつものように、慎重にあれこれと考えを巡らした。

                 ◇

 秀長は秀吉の許可を得て、根来にまず説得のための使者を差し向けることにした。
 秀長の慎重さと交渉の巧みさをよく知っている秀吉には、もとより異論はなかった。すぐに秀長の願いは聞き入れられた。

 秀長は、あらかじめ根来に書状を届けた。書状には、泉州での根来の知行について話し合いたい旨を率直に記した。

《秀吉公は、根来寺との近年の軋轢(あつれき)を悲しまれ、話し合いで事を解決されようと考えられている。貴寺の最大の関心は、泉州の知行であろうが、それについても、貴寺の満足が得られるよう、穏便にとり計らいたいとのお考えである。寺を率いる旗頭衆におかれては、よくよく寺の将来をおもんばかり、当方の申し出を十分吟味されられるよう、熟慮願いたい。もし、貴寺の了解が得られるならば、こちらから交渉のための正式な使者を送る所存である》
 根来の僧兵たちの自尊心を傷つけぬよう、書状の言葉は慎重に選ばれた。

《評定には時間がかかるかもしれぬ》
 秀長は思う。
《命令で動く武士と異なり、何事も大衆詮議で決める根来寺では、意見をまとめるのには、時を要する。ひと月くらいは、かかるやも知れぬ》
 秀長は長い交渉を覚悟した。

 しかし、秀長の予想以上に根来の反応は迅速だった。
 書状を出して三日後に、早くも根来からの返事が秀長の元に届けられた。
 秀長は急いで書状の封を切った。

 返書には、座主のほか、杉の坊、岩室坊、閼伽井坊、泉識坊の四人の旗頭の連名で、「交渉の使者を受け入れる」旨が書かれていた。勢い込んで手紙を読んでいた秀長の顔に安堵の表情が浮かんだ。

《できるものなら犠牲を出さず、平和的な交渉で自分達の利益を守りたい》
 根来の意向は明らかだった。

 秀長は、秀吉にこの旨を報告すると同時に、根来への使者の人選にかかった。

                 ◇

 居丈高に恫喝しても、気位が高く戦意の盛んな根来には逆効果になる恐れがある。相手の言い分もよく聞いてやらねばならない。そのうえで、勝ち目のない戦に無謀に踏み切るより、こちらの要求を飲むほうが得策であることを、感情的にならず理詰めで説得できる人物が望まれる。
 難しい人選だった。
 一日考えた末に、秀長は昨年、小牧長久手の戦に参戦した秀吉の直臣である長谷川藤五郎秀一に交渉役を頼むことを思いついた。

 長谷川秀一は、父の代から信長に仕え、重用された。天正六年(一五七八)六月、播磨神吉城攻めに参加して手柄をあげた。翌七年には安土でのバテレン屋敷の造営、馬場築造の奉行を担当した。
 天正十年の本能寺の変のときは、家康の接待役として堺に滞在していたが、異変を聞いて家康とともに堺を脱出し、伊賀を越えて三河に逃げた。このとき、秀一は知人を頼り、家康を無事逃がすことに貢献した。
 山崎の合戦で秀吉が光秀を破った後は、秀吉に従い、賎ケ岳の戦にも従軍した。

 小牧・長久手の戦では、二千の兵を率いた。秀次の中入り作戦に加わり、追ってきた徳川軍に襲われた。秀一は秀次を守ろうとして必死で戦った。すんでのところで、池田勝入や森長可らと同様に、命を落とすところだったが、奇跡的に助かり、いまは尾張で秀吉の命令を待っていた。

 慎重な長谷川秀一は、何事も力づくで事を進めることは決してしなかった。焦らず、じっくりと機会を待ち、敵の心理を探りながら駆け引きをした。

 秀一はまた弁舌にも優れていた。
 京でのバテレン屋敷の造営では、ポルトガルの宣教師たちと屋敷の作りかたをめぐって議論になることもあった。
 秀一は、ポルトガル形式の建築に固執する宣教師たちに、日本の気候への配慮など日本の建築の長所をわかりやすく説明し、納得させた。
 また、異教の布教施設に反発する周辺の寺社にも、その権益を十分保証して鉾を収めさせるなど、優れた説得能力と交渉の才を見せた。

 秀長はこの起用案について秀吉の了解を得ると、早速、長谷川秀一に手紙を送り、根来への使者役を依頼した。

「秀吉公は、亡き信長公の遺志を受け継ぎ、乱れた天下を再び収めて、万民の暮らしを安定させようと望まれている。それにはまず、京師に近い畿内平定が欠かせぬが、紀泉に蟠踞する(ばんきょ=勢力を持つ)根来や雑賀などの一揆がこれを妨害している。帝より天下鎮撫の命を受けた秀吉公に弓を引くことは、即ち禁裏に対する大逆であり、国家安泰に背く行為である。滅ぼされてしかるべき重い罪業である。しかるに、秀吉公は慈悲心から、武力に訴える前に教え諭そうとされている。ついては、調略の技に長けた貴殿の力を借り、根来寺に対し抵抗の無益なことと、僧侶が刀を取ることの不毛を知らしめたい。なにとぞ貴殿のご協力を賜りたい」

 戦の渦中にある一軍の将を敵との交渉に引き出すのは、無理な話ではあったが、強力な根来を説得させるには、相手にも実力を認められる人間がどうしても求められた。秀一のほかに人物はいなかった。秀長は大役を引き受けてくれるよう、心をこめて秀一に頼んだ。
 
              ◇

 思っても見なかった説得役を依頼され、秀一は当惑した。手紙を読み終えたあと、額にしわを寄せ、書面を状袋に包んで天井を見あげた。

 小牧長久手の戦いで、いったんは死を覚悟した秀一に、敵中に飛び込むことへの恐れは全くなかった。しかし、根来説得の難しいことは、すぐに分かった。
 簡単には、根来は恫喝には屈しない。それは容易に予想がついた。バテレン宣教師の説得などとは比較にならない困難な交渉である。

 結果がほとんど期待できない困難な交渉を思うと、たやすく秀長の申し出を受け入れる気にはならなかった。
 だが一方で、今を時めく天下人秀吉の舎弟秀長の礼を尽くしての申し出を無下に断ることもできなかった。自分が直接、戦に参加するより、交渉で相手を説得できれば、秀吉公の天下統一に貢献できるし、味方の犠牲も防げる。
《さて困った。どうしたものやら》
 秀一は、眉間に深いしわを寄せて考えこんだ。

 寝床の中でも、あれこれ考えて眠れなかった。根来寺説得の可能性を考えると、ほとんど展望が描けなかった。

 秀一には、行人たちは狂信的な集団としか思えなかった。
《果たして、彼らに道理での説得というものは通じるのだろうか》
 そう考えると、全く自信が持てなかった。
《やはり、秀長殿にお断りすることにしよう。成果が望めない交渉に希望を持たせるのは、かえって交渉を引き受けない方がましだ》
 断りの言葉を考えていたとき、ふと秀一の脳裏に杉の坊の顔が浮かんだ。
《杉の坊なら、あるいは交渉できるかも知れぬ》

 秀一は、信長が雑賀を攻めたとき、杉の坊が信長方についた事を思い出した。
 あのとき、根来の他の旗頭は、それまでの石山寺や雑賀との関係を重んじて信長に敵対した。しかし、杉の坊だけは雑賀を見切り、信長に味方した。それは、信長の力を見抜き、あえて信仰や地域の連帯を破棄した大胆な決断だった。
 利害を冷静に計算できる男。それが、信長に会いに安土城に来た杉の坊に対し、秀一が感じた印象だった。

《あの男なら、根来の置かれている状況を客観的に見ることが出来るかも知れない。少なくとも、他の旗親と違って、交渉するだけの価値はある》
 秀一は寝床の中で天井を見上げて長考した。

 一晩考えたあと、秀一は秀長の要請を受けることに決めた。
 秀長に応諾の返事を出すと同時に、秀一は旅支度をした。
 秀長からの依頼状を受けとってから数日後、秀一は、わずかな家臣を引き連れ、尾張を発って根来に向かった。
 天正十三年三月の初めのことだった。

               ◇

 長谷川秀一が根来に向かって出発したころ、泉州貝塚の千石堀城では、戦に備えて必要な道具や食糧を蓄えていた。
 米、大豆、まき、味噌、塩、ぬか、わら、干し魚、海草、燃料・・・。用意できるものは、すべて商人から買い取り、城の中の倉庫に運びこんだ。

 秀吉の支配下にある近隣の堺や大坂の商人たちとは取引ができない。そこで、いまだ秀吉の勢力の及んでない遠国の関東や四国、九州の商人たちが、船で雑賀まで物資を持ってくるのを待って買い付けた。
 商人たちは、根来勢の足元を見て、普段の何倍もの高値で取引しようとする。
「高すぎる」と苦情をいうと、取引を打ち切ろうとする高飛車な者もいた。

 千石堀砦のおちかは、同じ年頃の娘たちと、食糧の保存を手伝っていた。
 塩が水気を吸わないように火で煎ったり、豆やそばを袋に小分けし、いざ合戦が始まったときにすぐに使えるようにした。

 なたね油は、照明にも料理にも、また敵に火矢をうちかけるときにも使われる極めて貴重な物資であり、とくに厳重に保管された。
 油は、備前焼きの大壷に入れて土の中に埋めた。
 根来の各寺院では、それぞれの坊が幾つもの備前焼きの壷を床下に埋めて油を保存していたが、それらの壷もいくつかは掘り出されて、出城に持ち込まれた。

 放置しておくと、敵が城を攻める際に竹束にしたり、井楼(せいろう=櫓)の材料に使う恐れのある、城の周りの竹や木はすべて切り払われて、城の中に持ち込まれた。
 敵が攻めてくる直前には、敵が泊まることのできる周りの民家もすべて焼き払われる。

 信長がかつて貝塚の願泉寺を攻めたときも、事前に寺の周りの民家は一向衆側によって焼かれた。家財道具を運び出したあとで、泣く泣く火をかけて、焼け落ちる家をいつまでも見ている百姓は哀れだった。

 鍋や釜、畳、むしろ、こも…。敵の役に立ちそうなものは、すべて城の中に取り込まれるか、入りきらないものは壊され、焼き捨てられた。川にかけられた橋は壊され、井戸には糞便や家畜の死体を投げ入れて、敵が飲めないように水を汚した。

 戦が終わったあと、生き残ったものたちは、井戸の水も飲めず、大変な苦労を強いられる。だが、命令に背いて井戸をそのまま放置したことが分かれば、厳しく処罰された。