三池坊の勧説

 粉河寺の有力行人坊である三池坊の当主、三池法印は配下に千人の行人をかかえている。
 賎ケ岳の戦いがあった天正十一年四月、三池法印は柴田勝家の配下の佐久間盛政と弟の佐久間安次を助けて、羽柴秀長の居城だった大和の霧坂城を落とした。しかし、間もなく秀吉方の軍によって奪い返され、粉河に戻って隠れていた。

秀吉に強い恨みを抱く三池法印が秀吉の懐柔に乗ることは常識的には考えられなかった。しかし、大敗したために相手の力を思い知らされるということもある。慎重な明算にとって、絶対に信頼できる味方などありえなかった。

 現に一向宗の行き着いた先がそうだった。あれだけ世俗権力に長く抵抗した宗門が、いったん信長に敗北し、石山を明け渡したあとは、たちまち気力を失い、いまでは秀吉の前に卑屈にひざまずいている。

 秀吉と家康の和解も予想外だった。長久手の敗北で家康の力を知った秀吉の豹変ぶりと、それに応じた家康の変わり身の早さは、誰も想像できなかった。
 数々の裏切りを見てきた明算には、岩室坊の疑い深さと慎重さはよく理解できた。戦国の世に心を許せる味方は存在しない。気を許せば、いつ寝首をかかれるかも知れない。人を信じることは弱さの現れでしかないのだ。

 三池法印の返事が来た次の日、明算は再び寺の中を歩いて回った。
 数日前から戻ってきた寒さは厳しさを増していた。
 北側の山の尾根には雪が積もっている。聖天堂の前の浄土池には分厚い氷が張っていた。
 数日前には、水面を覆う落ち葉の中に水鳥の通った跡が残っていたが、いまでは落ち葉も完全に氷の中に閉ざされていた。
 岸に近い氷の中から突き出た葦の葉先が鋭い剣のように光っている。
 水鳥たちもどこかで冷たい風を避けているらしく、姿は見えなかった。

 氷の上にうっすらと積もった雪が冷たい風に吹き飛ばされている。
 寺に接した百姓家の軒下の畑には青菜が雪に埋もれていた。
 寒暖の差が激しい根来の地の野菜は甘く、紀州では評判だった。根来の子院でも、僧たちが庭の一角を使って自分達で青菜を作っていた。煮ても、漬け物にしてもうまい根来の青菜は明算も好物だった。

 雪の中からわずかに見えている青菜を若い僧が摘みに来ている。周りの雪を掘り、青菜の根元を持って僧が力いっぱい引き抜くと、黒々とした土が白い雪の上にこぼれた。
 冬眠を妨げられたコガネムシやカブトムシの白い幼虫が土の中でうごめいている。すでに茶色のさなぎとなったものもある。
 冷たい雪の下にも生命は息づいている。やがて冬が過ぎて春になり、初夏になれば、さなぎは羽化し、土からはい出して飛び立つことだろう。

 明算は田んぼで遊んだ子供のころを思い出した。
 冬の固い土を木の棒で掘ると、さまざまな雑草の種が混じっていた。
 小さな種は時が来れば芽を出し、田を覆う。夏になれば、それは、いくら汗を流して刈りとろうとしても、取り尽くせないほど繁茂する。

 地表の葉は枯れても、地下の根はそのまま残り、春に芽をふく。土の中に残っている種も冷たく暗い冬を乗り切れば、発芽する。辛抱強い田の草のように、我々もまた我慢しなければならない。

 明算は大伝法堂に向かった。
 大伝法堂の中では、先の岸和田、堺の戦で寺の為に命を落とした行人たちの葬儀が数日前から続いていた。
 乱戦の中で行方不明になっていた行人たちが次々に死体で見付かり、その都度、葬儀が執り行われた。
 死者の中には首を取られたものも少なくなかった。遺体を探す行人たちが、やはり仲間の遺体を探しにきた敵と出会い、新たな戦闘になることもあった。
 時宗の僧たちは敵味方なく、死体を収容した。

 沓脱(くつぬぎ)に草履をそろえ、冷たい回廊の板を踏んで、明算は大伝法堂の中に入った。
 冷え冷えとした堂の中では、大勢の学侶や行人が座って法要を営んでいた。

 本尊の前の祭壇に座った老僧が、耳になじんだ大日経の経文を唱えている。脇に座った若い僧が護摩を焚き、手に持った金属の法具で、器に入った水を火の上に飛ばした。湯気が護摩の煙とともに舞上る。袈裟を着た学侶たちが声を合わせて経を唱えた。
 僧たちの沈んだ声の読経が明算には不吉な前途を暗示しているように思えた。

             ◇

 長い読経のあと、銅羅が鳴り、葬儀は終わった。
 学侶たちは帰らず、堂内のあちこちに固まり、寺の将来を巡って議論を戦わせている。行人たちもまた、大声で意見を言い合っている。
 秀吉と最後まで戦うか、それとも、もはや勝ち目なしとして鉾を収めるか。
 行人の多くはここでも抗戦を主張した。
「岸和田の無念を晴らさずに済まされようか。このままでは、これらのものたちの死が犬死になってしまうではないか」
 若い行人が息巻いている。
 その一方で、「世の中の流れに合わせ、引くときは引くべきである」と、年寄りの行人や学侶たちが慎重な意見を述べている。
 秀吉との開戦の是非を巡って白熱した、あの大衆詮議と同じ光景がまた繰り返されていた。
 だが、今回はあのときの座主のように話を引き取る者もなく、双方の議論は堂々巡りとなって、いっこうに終わる気配はなかった。

 詮議は昔から行人や学侶の好むところである。白熱のあまり、双方が刀杖を取り刃傷沙汰になることもあった。だが、いまの議論に昔の覇気はない。お互いに何か自信なげだった。
 昔は議論が分かれても、大衆詮議の結果、決定されれば、それに従った。議論が百花乱れても、寺としての行動は一つだった。そんな時代が長く続いた。だが、団結を誇った根来寺も、明算たちが信長と手を結び、雑賀に近い専識坊ら一部の旗親たちが本願寺に味方したころから、行動が乱れるようになった。

 その理由の一つは仏への信心の変化にあるのではないか、と明算は思う。
 かつて、学侶、行人にはお互いの利害を超える共通の目的として信仰と本尊への忠誠があった。
 だが、いまは旗親たちも仏への信仰は薄くなっている。それが根来の団結を弱めた原因かもしれなかった。
 信仰の衰えたのには、南蛮人が伝えた伴天連の教えにもその一因があるかもしれない。
 彼らの新しい神は、仏や日本古来の神以外にも別の神格があることを日本人に教えた。それは、それまでの絶対的な神仏への信仰を揺るがせた。

 何より、日本人の神仏への崇敬に決定的に疑念をもたせたのは、元亀二年(一五七一)の信長による叡山焼き打ちだった。
 武田信玄をして、「天魔波旬(はじゅん=悪魔)の所業」と言わしめた信長の蛮行に対し、世人は驚愕し、多くの人間が仏罰を想像した。
 しかし、予想に反して信長には何の仏罰も下らなかった。それどころか、信長はその後も浅井朝倉を滅ぼし、天下に号令するまでになった。
 確かに、十一年後の天正十年(一五八二)、信長は部下の明智光秀に背かれ殺された。このことを仏罰とみることもできよう。現に叡山では、盛んにそう触れ回っている。
 だが、あれだけ権威を誇り、仏の威光をかざした寺の大伽藍が、世俗の攻撃の前に簡単に灰塵に帰した。仏の徒に危害を与えれば地獄に落ちると信じられ、敬われた僧が四千人も無残に虐殺された。

 その光景を目の当たりに見せ付けられると、神仏などというものが、本当にいるものか、世人が疑念を抱くようになったのも無理はなかった。
 そして、信長の後を継いで天下を牛耳っているのは、やはり叡山の焼き打ちに参加した秀吉である。

 仏に対する信頼が揺らぐとともに、寺の団結も緩んだ。根来は周囲の変化に一致して対応しきれず、それぞれの旗親が別々に行動しがちになった。

 さすがに信長の死後は、秀吉という大きな共通の敵を前に、再び旗親たちが手を結んだが、そこにはもはや昔日の結束はなかった。

 かつて根来では、行人が血気にはやったときは、学侶が法句をもっていさめた。
「恨みは恨みによって止むことなし」
 行人たちに説いた定尋はその一人であった。
 しかし、定尋は根来を去った。
 座主といえども、大衆詮議の結果を覆すことができない寺の取り決めの中で、行人の軽挙妄動を押さえられるのは、いまや行人自身でしかない。
《旗親が判断を誤ると、寺は破滅する。いや、もうすでに破滅しかかっている》
 明算は、崩壊の不吉な予感を努めて振り払った。

                                ◇

 学侶が昔のように行人たちを押さえられなくなったことには、もう一つの理由があった。それは数年来続く学侶内部の内紛で、学侶たちがまとまって行人に対抗することができなくなったことにある。

 根来寺にはこのころ数千人の学侶がいた。
 この学侶たちを束ねるのが能化(のうけ)と呼ばれる職僧である。能化は、座主、三綱に次ぐ地位で、寺の運営に関する大きな権限が与えられている。
 能化には学侶の中で最も学識があると認められた者が就いた。
 この能化の後継を巡って、学侶の内部で対立が起きた。

 根来の学侶は昔から、紀州、泉州、大和など地元出身の常住方と、関東など遠隔地から修行に来ている客方の二つに分れ、互いに人数が拮抗していた。
 天正十二年八月、常住方であった第二十九代能化の頼玄が引退すると、それまでくすぶっていた常住方と客方の対立が表面化した。常住方からは小池坊専誉、客方からは尭性坊玄宥がそれぞれ能化を名乗り、互いに譲らぬ異常な事態となった。両派は反目しあい、学侶方の内部で勢力を争った。
 両派は、どちらも行人を味方に付けようと旗親に近付いた。中立を心がけていた明算のもとにも、常住方、客方の双方から挨拶があり、酒肴が届けられた。

 両派の学侶たちは、行人の意を迎えるため、かつてのように行人を批判しなくなった。学侶方は、もともと秀吉に対し穏健論がとる者が多かったが、能化を巡る争い以来、穏健論を表立って口に出すのは控えるようになった。
 学侶たちが強硬論に与(くみ)したわけではない。しかし、二派に分かれて反目しあう学侶たちの意見はまとまりを欠き、徐々に行人衆の強硬論に押されていった。
 定尋が根来を離れたのは、こういう学侶同士の反目に愛想を尽かしたためでもあった。
 いまとなってはもう、学侶たちが協力して行人の横暴を押さえられる状態ではなかった。
 根来は外からの脅威だけでなく、内側からも危機をむかえていた。

               ◇

《一体、能化とは何か。本来は学侶をまとめる役職である。しかるを、派閥に分かれ地位を争い求めるのは、数に頼って発言力を強めようとするからに外ならない》
 明算は思う。
《人は人の上に立つことを望む。世俗的な身分を捨てて仏につかえる僧侶でさえ位階があり、寺の中では序列がある。地位によって人を動かすものと、動かされるものに分かれる。確かに寺の中では大衆詮議で平等に意見をいえることにはなっている。しかし、それはあくまで詮議の場でのこと。寺の中での地位の違いは厳然としてある。旗親に配下の行人は盲従し、能化に若い学侶は逆らえぬ。結局は寺においても地位がものをいう。だからこそ、能化の座を巡って醜い争いが起きる。人は権力の魅力に逆らうことはできず、それがすべての争いのもとになるのだ》

かつての大衆詮議では、発言者は顔を隠し、手で口を覆って声を変えるしきたりになっていた。それは発言の平等を保証するための不文律だった。だが、それも今は廃れていた。僧兵もいまは武士と同様、親方である旗親の指揮のもとに動いている。

《世俗の権力争いは醜い。恨み、そねみ、ねたみなど、あらゆる人間の否定的側面が現れる。なぜなら権力は本質的に他人を己の手段にしようとする人間の欲望の現れだからだ。しかし、それを嫌っていては、権力は握れない》

《すべての組織は目的をもつ。その目的にかなうものなら、すべてがよしとされる。自分達の組織を守るためには、悪事を行うことも厭わない。組織を脅かす部外の人間を攻撃する。とくに武力を持つ組織では、力が何よりも優先される。侍や我々行人は強ければ、それでよい。それ以外は何も必要ない》

《戦をする人間に、慈悲は妨げでさえある。己に従わぬ百姓たちを釜ゆでにして殺した前田利家をみよ。人間は集団を作った時点で、悪趣に落ちるともいえよう。それは我々仏の徒も免れることはできない。人は一人では生きることはできない。身を保ち、子孫を残すためには、他人の助けがいる。世捨て人以外の人間は、集団に属さざるをえない。そして集団のなかにあって、悪趣に落ちず、正しく生きるのは甚だ困難なことだ》 

 明算は大伝法堂の外に出た。いつのまにか、外は大雪になっていた。大伝法堂を囲む杉の林が吹雪に霞んでいる。隣に立つ大塔の姿も半ば雪に掻き消されている。

 僧たちの脱いだ雪駄や草履が雪に半ば埋もれている。堂の前の庭は雪が積もり、空を覆う厚い雲の下で灰色の陰鬱な世界が広がっている。
 雪が小降りになるまで、明算は堂の中で待つことにした。学侶たちの論議はまだ続いている。
 やがて外が暗くなってきた。明算は目を閉じて瞑想に入った。

               ◇

 二日後、粉河寺から約束通り三池法印がやってきた。供の行人二人を従え、杉の坊の館に着いた三池法印の草履は、雪でぬかるんだ道の泥に汚れていた。
 雪が積もった菅笠の奥には、六十過ぎの年には似合わぬ鋭い二つの目が光っている。

 三池法印らは菅笠を取ると、手で体についた雪を払った。
 剃った頭を布で覆った三池法印は、小柄だが精悍な面構えだった。大勢の行人を束ねているだけの威厳が、小さな体全体からにじみ出ていた。
「よくお出でくださいました。本来なら、こちらからお伺いすべきでしたのに、悪い天気の中、御足労をかけて申し訳ございませぬ」
 三池坊に明算は丁重に礼をいった。

「何、お構いなく。たいした距離でもなし、歩くのは一向に苦にはなりませぬ。お気遣いは御無用です。自からやってきたのは、我々の考えを根来の学侶、行人の方々に聞いていただきたいがため。すぐにも主だった方々にお会いして考えを申し述べたい」
 三池法印は意気込んで話した。

 座主の呼び掛けで、すぐに三綱、能化、旗親らが大伝法堂に集まった。
居並ぶ一同を前に、三池法印は小さな体に似合わぬ大声で語り始めた。

「拙僧が今日、根来に来たのは外でもござらぬ。秀吉に対しては、一刻も早く手を打たねばならぬ。そう、皆様方に訴えたかったためである。先の尾張の陣で家康に敗れた秀吉も、すでに家康と和して、秀吉に後顧の憂いは無くなった。この期に乗じて、秀吉が目の上のこぶである根来に遠からず攻め入って来ることは、火を見るよりも明らかである。当寺と粉河寺、さらには紀州全体の危難は旦夕(たんせき=間近)に迫っている。もはや一刻の躊躇も許されぬ。一日も早く仏敵、神敵の秀吉を倒す策を練らねばならぬ」 

「信長は三好を討つために根来と手を組んだが、秀吉にとって根来は、自分に敵対する邪魔物でしかない。遅かれ早かれ、秀吉は必ず攻めてくる。叡山のように、むざむざと焼かれたくなければ、戦うしかない。じっとしていても滅ぼされる。その位なら、いちかぱちか戦ってみることだ」
 三池坊は唾を飛ばして力説した。

 その意見は明算が思っていた以上に強硬だった。熱情に溢れる説得は全く年を感じさせない。寺の守護に命を賭けてきた行人の気迫があった。
 粉河が秀吉に懐柔されるかも知れないと思っていた明算の危惧は完全に消えた。

「もし、秀吉の軍勢が根来に攻めてきたなら、粉河は無論、雑賀、太田、湯川、熊野、那智などの紀州勢はすべて味方に加わろう。だが、それだけではまだ心もとない。拙僧の考えでは、いまの内に、これまで根来が蓄えた金銀財宝を使って諸国の浪人を誘うのが良策である。これらの浪人を、敵のいまだ至らぬ間に和泉、大和、河内の三州に出して民家を焼き、金銀米穀を奪わせる。さすれば、敵が攻めて来ても泊まる家も無く、食糧も得られぬ。やがて敵が疲れ、手持ちの兵糧がなくなった頃を見計らって一撃をあたえれば、必ず味方は勝利を得る。そうなれば、情勢眺めの諸国の大名たちも我々に味方するかも知れぬ」

 三池坊のいうように、根来の兵力は決定的に足りなかった。先の和泉摂津の戦いで、優秀な行人たちが失われた。その補充は遅々として進んでいない。
 いまは、何としてでも兵を増やさねばならない。蓄えた全ての金銀を使って人を集めなくてはならない。それは三池坊のいう通りだった。
 
「秀吉は至って用心深い男。なるべく損害を出さずに勝つことを心がけている。少しでも手痛い目にあえば、力攻めをやめて兵糧攻めや懐柔策に出る。それは小牧の陣での家康への態度を見ればよく分かる。最初が肝心だ。緒戦に一撃を加えれば、持久戦に持ち込むことも不可能ではない」
 三池坊の勧説は具体的であり、説得力があった。
 三池坊のこの建策は、それでなくとも血気にはやっている若手の行人を、さらに煽るものだった。

どこに防衛線を敷くかについても三池坊はいった。
「紀州と泉州の間の山に引きこもって戦うのも一つの方法だが、それがしはもっと前向きに岸和田、貝塚の線まで出て戦うべきだと思う。和泉は我らが根拠地である。最初から退いていては士気にかかわる」
「大和から攻めてくるときは如何(いかん)」
 旗親の一人が聞いた。
「大和との国境は、粉河の行人が押さえる。粉河勢が持ちこたえている間に和泉からの兵を回せばよかろう」
 三池法印はよどみなく答えた。