確かに、岩室坊のいうように、高野の力があれば、どれだけ心強いことか。
明算は荒ぶる高野の行人たちを思い浮かべた。彼らもまた、根来と同様に有力な旗親たちに統率されている。総髪に髭を生やし、鎧(よろい)を着けた彼らの姿は、根来の行人たちの姿と変わるところがなかった。
高野の行人は世間者とも堂衆とも呼ばれる。行人は、もともと学侶の下で雑役を行う下級僧だった。
崇徳天皇の大治五年(一一三〇)六月、奥の院の拝殿に三人の堂衆を置いて、仏への香華やその他の供え物の世話をさせた。これが高野における行人の始まりである。
彼らは山内に庵を構えて集団で暮らし、寺の勤めのかたわら、塗師(ぬし)、表具師、数珠師、鍛冶などを営んだ。根来の行人と同様、彼らもまた領地内の土豪の二、三男が多かった。
世の中が不安定になると、高野の行人は寺院の警備も担うようになった。根来寺など他寺との領地を巡る争いや水争いを続ける中で、その役割が徐々に重くなっていった。同時に寺の中での地位も向上した。
室町期に入り、戦乱が起きると、武力を背景に発言権はさらに強まった。彼らはやがて、主人である学侶をあなどるようになる。
永享二年(一四三〇)七月、日頃から対立していた学侶方と行人方が衝突し、学侶の一人が斬首された。怒った学侶たちは一斉に下山し、山上には行人と念仏衆だけが残った。これが高野での学侶と行人の最初の抗争だった。
永享五年(一四三三)には、高野山と粉河寺の間で用水の権利を巡る争いが起きた。このとき、粉河寺に攻撃をしかけようとした行人たちが、学侶によって制止されたのを不満として学侶側と争いになった。この時は行人方が敗れて下山した。山上の坊舎は大半が焼けた。
以来、学侶と行人の抗争は戦国期まで延々と続く。
両者は対立する一方で、外敵に対しては、ともに協力して戦った。学侶が祈祷し、行人が武器を持って出動した。
平安期に登場した武士が鎌倉時代以降、政治の実権を握ると、寺社の荘園は至るところで武士の侵略を受けた。危機を感じた寺社は僧兵を蓄え、武士に対抗した。武勇を尊ぶという点で、僧兵は武士と少しも変わらなかった。
足利幕府の力が弱まり、武士が群雄割拠していたときは、僧兵も武士に十分対抗できた。しかし、信長、秀吉が天下を統一し、武士の力が巨大になると、個々の寺がかかえるだけの僧兵の力は相対的に弱くなった。信長による叡山の焼き討ちは武士と僧兵の力の差を決定づけた。いまや高野と根来だけが僧兵の伝統を守っていた。
明算には、高野の行人と直接戦った経験はなかった。覚鑁上人以来の両寺の確執から、とかく高野を悪くいう多くの根来の行人とは異なり、明算は高野に対して悪い感情は持っていなかった。むしろ権力者に屈服しない不敵さに感心していた。
明算は三年前の天正八年(一五八〇)、高野が大きな危機に見舞われたときのことを思い出す。
この年の三月、高野山西光院谷の行人、池の坊のもとに五人の落ち武者が逃げ込んできた。天正六年十一月、信長に反旗を翻して敗れた荒木村重の家臣、池田三郎三左衛門、中西小八郎らだった。池の坊は行き場のない彼らを隠まった。
これを知った信長は七月、上使として前田利家、不破光治を高野に派遣し、浪人を差し出すよう求めた。
高野の行人たちは、叡山を焼いた信長を憎んでいた。全山をあげての大衆詮議の結果、彼らは落ち武者引き渡しの要求を拒絶することを決めた。信長に攻撃されることは覚悟のうえの決議だった。
「懐に入った窮鳥を、仏の徒である我々が見放し、むざむざ殺させるわけにはいかない」
これが、拒絶を決めた理由だった。
「五人はすでに逐電して、高野にはいない」
上使の前田利家に、行人は回答した。
利家らは疑いつつも、それ以上は追及できず、やむなく帰った。
だが、信長は執拗だった。
八月十七日、信長の命を受けた堺政所松井友閑の足軽三十二人が荒木浪人探索のため、再び高野に登ってきた。
松井の兵たちは、信長の威勢を笠に着て、土足で堂塔寺院に押し入って捜索した。蔵から経巻を引き出して投げ捨て、止める僧を足蹴にした。
行人たちは、足軽たちの悪行を見て怒りを爆発させた。
彼らは、松井の兵たちを欺き、二十日、西院谷弥勒坊、小田原小石坊、柴之坊の三院に招き、饗応して酔わせた。
兵たちが前後不覚になったのを見届けると、鐘を合図に一斉に襲いかかり、全員を殺害した。
事件を松井友閑から知らされた信長の怒りはすさまじかった。直ちに部下の武将たちに報復を命じた。
各地で布教していた高野の勧進僧たち(高野聖)が次々に捕らえられた。その数は千数百人にものぼった。
高野の門主、理法親王は、信長の怒りに驚愕した。
「このたびのことは、血気にはやる行人の行きすぎ。聖たちには何の罪もない。許してやってほしい」
理法親王は、御所を通じて信長へ詫びを入れた。仲介の依頼を受けた朝廷は、鳴滝法眼を安土に派遣して信長をなだめた。
しかし、信長の怒りは解けなかった。事件から一年たった天正九年九月三十日、信長は、捕らえた高野聖たち全員を京の七条と安土城外、伊勢の出雲河原の三か所で斬らせた。
信長の怒りはそれでもなお、おさまらなかった。十月二日、ついに高野攻めの兵を起こした。
信長の三男、三七信孝を総大将に、堀秀政、筒井順慶ら十三万人の軍勢が出動した。
信長軍は、直ちに紀ノ川一帯に布陣し、高野山への七つの登山口をすべてふさいだうえ、山麓の寺や民家を焼き払った。
これに対し、高野山側は領民や諸国の浪人を狩り集め、三万六千人の人数で防戦した。
行人たちは、信長方の攻撃を協力して、よく防いだ。何度かは逆に敵陣に切り込み、信長軍に被害を与えた。
行人たちを支援するため、学侶たちは護摩をたき、敵軍降伏のため五壇の法や大元帥の法を行して、怨敵退散を祈った。
山懐に囲まれた高野は天然の要害である。信長軍は攻めあぐみ、攻防は一進一退のまま、天正十年になっても続いた。
二月には、信長方の岡田長門守らが西尾山の砦を襲ったが、高野の花王院、金光院らが奮戦し、信長方の二武将を討ち取って撃退した。しかし、高野側も金光院が討ち死にした。
四月には、信長軍の一万五千人が高野方の飯盛山城を攻めた。
城方は、主将南蓮上院弁仙、副将橋口隼人らが防戦に務め、敵の首百三十一を取った。寄せ手は総崩れとなり、紀の川に追い落とされて溺死するものも多かった。
両軍が対峙していた天正十年六月二日の夕刻、高野山麓にいた信長軍の堀秀政のもとに、京都から早馬の知らせが届いた。
それは、信長がその日の未明に京都本能寺で明智光秀に討たれ、信忠も二条城で切腹したとの急報だった。
驚いた堀秀政ら信長軍は、急ぎ包囲を解いて退陣した。
高野方はあわてて逃げる信長軍を追い討ちし、ここでも多くの首を取った。
危うく全滅するところを、高野は奇跡的に救われた。怨敵退散の祈祷をしていた学侶たちは、「霊験が現れた」といって狂喜した。
◇
この時の戦では、根来は中立を守った。
堀秀政は、高野を攻めるに当たって根来に使者を送り、「根来と高野とは本末寺の関係にあるが、もし高野に味方するようなら、まず根来から攻める」と脅した。
これに対し、根来は「高野とは同宗ではあっても、領地をめぐって久しく敵対している。高野に味方することはない」と答え、稚児ら三百五十六人を人質として、信長側に差し出した。
三好一族との抗争を通じ信長と同盟関係にあったものの、信長は根来を信用していなかった。信長の猜疑心を解くためには、人質を出して恭順の意を示す必要があった。
このときの高野の戦いぶりを、明算はいまも驚きと尊敬の念をもって思い出す。信長の威に迎合した根来に比べ、最後まで抵抗の姿勢を示した高野の覇気に明算は感動した。
信長の大軍に持久戦で対抗した高野のやり方をまねれば、根来も秀吉の攻撃に耐えることが出来るかも知れない。
高野が味方についてくれれば、どんなに心強いか。信長に対して見せた、あの不屈の闘志と兵力を、秀吉に対しても向けてくれれば、根来にとっても道は開けるだろう。だが、高野根来双方の怨念は強く、合力の可能性は極めて薄かった。
岩室坊がいったように、いつまでも昔からの確執に囚われている根来、高野双方の行人の頑迷さに、明算は憤りを覚えた。
「高野を味方に引き入れられぬとなれば、先は見えている。そうなれば、もはや秀吉と和議を結ぶしか道はない。いかによい条件で和解するかが問題だ」
考えこんでいる明算に、岩室坊は言った。
和議という言葉に、明算は意表を衝かれる思いだった。戦うことばかり考えて、秀吉との和睦など、まったく思いつかなかった。
商人のように冷静な岩室坊の顔を明算は改めて見た。
岩室坊は表情を変えず、話し続ける。
「泉州表で秀吉の軍勢に一撃を与えて、あとはひたすら砦に立て篭もる。そして、あらゆる手段を使って秀吉との講和を図る。我々にできるのは、その方法しかない」
「例えば、本願寺の顕如や貝塚願泉寺の卜半斎に仲介を頼む。さらには公家に金を贈って禁裏を動かすことも考えねばならぬ。最悪の場合は泉州の知行の大半を手放すことも覚悟せねばなるまい」
ただ力任せの戦だけでは、戦国の世を生き延びることはできない。それは明算も、よく分かっている積もりだった。
だが、いま岩室坊の冷静な考えを聞くと、自分がまだ戦にとらわれていたことを痛感した。
戦は単に自分達の利益を守り、広げるための手段であって、それ自体が目的ではない。戦以外の手段で目的がかなえられれば、戦わないにこしたことはない。
戦を本分とする行人は、そのことになかなか気が付かない。戦をすることに生きがいを感じ、戦わなくともよいときまで、武力に訴えようとする。
行人にとって、戦うことが自らの存在意義なのだから、そう考えるのも無理はない。戦に勝つことで地位を築き、利益を得た者は、戦いを絶対視し、交渉による解決を弱腰と侮る。だが、全軍を指揮する者、寺を指導する者は、さらに広い視野から判断しなければならない。
秀吉には、そのことがわかっている。そう明算は思う。
大軍を集めて相手を威嚇し、戦わずして屈服させる。敵の将を禄で釣って誘降し開城させる。
小牧長久手の戦いでも、秀吉は家康が手ごわいと悟るや、巧みに信雄を説得して篭絡し和睦に持ち込んだ。
奴にとって戦いは絶対ではない。敵を従わせる数多くの手段のうちの一つの方策に過ぎない。
閼伽井坊や専識坊と話をしていると、どうしても戦のことしか考えなくなる。篭城の仕方や、秀吉の侵攻してきそうな道筋の予想などといった狭い範囲のことにとらわれてしまいがちだ。
明算は目の曇りが拭われるように思った。
◇
「まあ、茶でも飲もうか」
そういって岩室坊は横を向き、手をたたいた。
奥の間から姿を見せた稚児に岩室坊は炭を持ってくるよう命じた。稚児は引っ込み、しばらくして真っ赤に火のおこった炭を十能に入れて持ってきた。部屋中に炭の燃える匂いが広がった。岩室坊はパチパチと炭が音を立てている十能を稚児から受け取った。
岩室坊は部屋の隅に置いた風炉に炭火を入れ、ひしゃくで水差しの水を汲んで釜に注いだ。それから、後ろの違い棚の奥から茶碗を出し、布で拭いて風炉の前に置いた。岩室坊の手慣れた所作を明算は静かに目で追った。
富裕な商人や大名の嗜み(たしなみ)だった茶の湯は、いまや広く日本中に普及し、少し金と暇のある人間なら誰もが茶を点てる。もともと茶は薬として僧院に伝わったものだが、やがて茶の湯という趣味に変化し、世間に受け入れられた。
根来寺でも、この数年、茶の湯が盛んになり、門前町には茶道具を商う店も出来ていた。茶の流行と同時に、紀州では九度山などで茶の栽培も盛んになって来ている。
明算は自ら茶を点(た)てることはなかったが、心が安らぐ茶の湯は好きだった。
初めて茶事を見たときは《百姓から年貢を奪う大名や、数奇者の町人の暇つぶし》と蔑んだこともあった。
だが、たまたま戦の訓練の合間に、茶の湯の好きな旗親の一人から野点(のだて)に招かれ、印象は一変した。
戦でささくれだった心を落ち着ける、その不思議な魅力に明算は次第に引き込まれていった。
作法通りに進められる岩室坊の所作を明算が眺めているうち、釜の蓋がチンチンと音を立て、湯がたぎりだした。
岩室坊はおもむろに釜の蓋を取った。わきたつ湯から白い湯気が立ちのぼって消えた。
岩室坊は、なつめの蓋を取り、茶杓を使って、手前に置いた二つの茶碗に緑色の抹茶の粉末を入れた。そして、煮え立つ釜から、ひしゃくで湯を汲んで茶碗に注ぎ、茶筅(ちゃせん)を静かに使って茶を点てた。
茶碗は淡い桜色の志野である。中国渡来の天目茶碗や高麗の井戸茶碗と違って、志野は国内の主に美濃で生産されている。白い素地の上に鉄釉(てつゆう)で描いた、ほんのりとした絵が日本人の好みに合い、最近は愛好する茶人が増えてきていた。
このごろでは、明算も茶碗の種類なども少しは分かるようになってきていた。
岩室坊は、茶を点て終えると、茶碗を板の床に静かに置き、右手で押し出すようにして明算に差し出した。明算は茶碗を受け取り、作法通り茶碗を回した後、口をつけた。
まだ生温かい、泡のたった茶を静かに飲みながら、明算は、昨年の秋、和泉佐野の裕福な町衆に朝の茶会に招かれたときのことを思い出した。
その茶室は、藁をすきこんた土を壁に使った、農家風のわびた造りだった。
土壁の竹釘に懸けられた青竹の一輪差しには、庭から摘んできたばかりらしい、朝露の付いたままのキキョウの花が一輪生けてあった。
秋の草が乱れ咲く庭の景色をめでながら、茶会は行われた。軽い食事と酒のもてなしのあと、亭主自ら茶を点てた。
焼き魚や菱汁などの料理で腹を膨らせたあと、瀬戸の茶碗から、苦味の強い緑の液体を飲むと、それまで小牧での戦況を気にして、いらいらしていた気持ちが安らぐのを明算は感じた。
戦の稽古に明け暮れる荒々しい日常の中で、疲れていた神経が癒されるのを感じた。
恐らく、茶の中に含まれている何らかの成分が、隠者の住まいを思わせる茶室の静かな雰囲気や周りの自然とあいまって、ささくれだった神経を休め、心の疲れを癒すのだろう。
床の間にかかった山水画についての主人の説明や、茶器の由来も興味深いものだった。血生臭い戦とは縁遠い、世間離れした高尚な風雅の世界をのぞき見たような気がした。
方丈の狭い茶室にいると、何か自分が人里離れた庵の中で孤独に修行する禅僧のように思えた。世を捨てたような、解放された気持ちになった。
百姓たちには無縁の贅沢に浸る後ろめたさを感じながらも、明算は茶の湯の魅力を感じないわけにはいかなかった。
いま座っている板壁と板床の岩室坊の部屋に、佐野の町衆の家の茶室の落ち着いた雰囲気を求めることはできなかった。それでも、茶を飲んでいるだけで目が冴え、考えが深まるような気がした。
岩室坊も自分で入れた茶を黙って飲んでいる。明算は改めて部屋の中を眺めた。
◇
岩室坊の座っている後ろのふすまには、大和絵の群鶏図が描かれている。
農家の庭先で、春の暖かい日差しを浴びながら、母鶏と雛たちが、のどかに餌の雑穀をついばんでいる。
萌えだした青草を、小さな口ばしでひっぱりあっている数羽の雛がいる。陽気に誘われて地面からはい出したミミズを追い回す、好奇心の強そうな雛の姿も見える。母鶏は雛たちを離れたところからじっと見守っている。
ほほえましく、平和な風景である。
鮮やかな岩絵の具を金泥の地に厚く塗った、ふすまの大和絵は、きらびやかで、僧院にふさわしいとは言えなかった。むしろ、僧院には枯山水のような絵が似つかわしいのであろう。
豊かな根来の旗親たちの間には、このところ、茶の湯とともに、武将の城にあるようなふすま絵を飾ることが流行していた。
恐らく、堺の豪商たちの目からから見れば、成り上がり者の道楽と思われるのだろう。
しかし、そんな評判はどうでもよい。絵は見て楽しければ、それでよいと明算は思う。相当な技量の絵師の手になるものと思われる、ふすまの巧みな絵に明算は見とれた。
画面の右手には、平和な母子の鶏とは対照的に、縄張りをめぐって争っているらしい、若い二羽のおんどりが見える。
おんどりのとさかは、怒りで真っ赤に怒張し、ともに口ばしを大きく開けて相手を威嚇している。口ばしの中に見える舌と、怒りに燃えた目も、とさかに劣らず火炎のように赤い。それは白い羽根の色と際立った対照を見せている。
おんどりたちの背後には、藁拭きの土壁の小屋が描かれている。小屋の陰で一匹の若い狐が、鳥たちの様子をじっと窺っている様子に明算は心を奪われた。
狐の足元の土の上には、すでに食われたらしい鶏の羽根が散らばっている。白い羽根に付いた赤い血が生々しい。
争っている、おんどりたちは、狐の存在にまったく気がついていないようだ。
明算は、狐の絵を見て胸騒ぎを覚えた。
狐に狙われている鶏は、我々に似ている。いさかう鶏たちが高野と根来ならば、鶏を狙う、ずる賢い狐は秀吉であろう。
我々、紀州の行人たちが勢力争いをしている間に、秀吉は背後にこっそり近付き、次々に襲って殺そうとしている。それを、まだだれも気がついていないのだ。
秀吉は根来と高野の長年の対立をうまく利用している。一向宗徒と本願寺でさえ離反させた秀吉にしてみれば、もともと仲の悪い根来と高野を争わせるくらいのことは何でもないのだ。
勇ましく戦うばかりが能ではない。自分の置かれている状況を知って、最もふさわしい対応をとること。これこそが、いま根来に必要なことだ。閼伽井坊たちにも、そのことを知らせてやらねばならない。
明算は思う。
今は争いをやめ、手をつなぐことが大切だ。たとえ弱い鶏であっても、群れで狐に立ち向かえば、そのうちの何羽かは殺されたとしても、何羽かは生き残れる。
明算はもういちど絵を見た。絵の左上には、低くたなびく黒い雲が描かれている。雲は鶏たちの方に近付いているようだ。
風があるとみえ、鶏たちのそばの桜の木から、花びらが散っている。まもなく春の嵐がやってそうな気配だ。
これもまた、根来の将来を暗示しているような気がした。
「もう一杯どうかな。明算殿」
岩室坊の声に、明算は我に帰った。
「この茶は、わざわざ栂尾(とがのお)から取り寄せた品。やはり、昔から作られている本茶は香りが違う」
岩室坊は茶碗の底に残った、茶をゆっくり飲み干しながら、一人つぶやくように話している。
「いや、もう十分です。結構なお茶でございました」
板床の上に置いた茶碗を、岩室坊の方に押し出しながら、明算は答えた。
「こうして茶をゆっくり飲んでいると、よい方策が浮かぶ。戦の稽古や評定ばかりしていても、名案は出ぬ」
岩室坊はこういいながら、茶碗をゆすぐと、また一杯、茶と湯を入れて、茶筅(ちゃせん)をかき回した。
《こういう冷静な人物が、根来にいるのは心強い》
戦のことなど、まるで念頭にないかのように、ゆっくりと茶を飲む岩室坊を見て、明算は思った。