武器庫の前を通り掛かると、ちょうど、行人たちが泉州に送る物資を荷造りし、馬の背にくくりつけているところだった。砦を補強する柵に使う木や竹束、それらを縛る縄などが領内の農村から集められ、ここで砦ごとに仕分けられている。
秀吉が、尾張での戦で消耗した兵士を休ませているうちに、砦の防備を固めておかねばならなかった。
恐らく十万を超す大軍が攻めてくることだろう。それだけの人数を数万の人間で阻止するには、堅固な城に立て篭もるしかない。
城を落とすには、守る側の少なくとも三倍の兵力が必要というのは兵法の常識である。城に敵を釘づけにしておけば、その間に同盟している勢力からの後詰め(=援軍)を期待することもできる。
明算は、昨年(天正十四年)三月の岸和田の敗戦を思い起こした。
城を包囲し、押し込めたつもりだったが、ひそかにからめ手から出て背後に回っていた城方の兵に銃撃された。同時に城から飛び出してきた守備兵に挟み撃ちされて囲みは破れ、手痛い敗北を喫した。城攻めの難しさが身にしみてわかった。
今度は我々が城を守る側に回る。貝のように身を固くし、攻撃をしのいで砦を守り抜かねばならない。
岸和田城の中村一氏がしたように、敵の猛攻に耐え、機を見て城門を開けて打って出る。砦と砦で連絡を取り合い、守りと攻撃を繰り返すことで、一時的には相手に打撃を与えることができるだろう。
だが、その後はどうするか。
海を隔てた長曾我部や遠い北陸の佐々の救援は、あてにならない。盟友の粉河寺や熊野の力も微々たるものだ。とても秀吉の大軍と戦うための後ろ盾となるものではない。
強力な高野の力を借りることも、いままでの両寺の確執からは考えにくいことだった。それに高野は根来のように秀吉に敵対する姿勢を見せていない。
信長には、あれほど頑強に抵抗した高野だが、寺社に対し一見融和的な姿勢を見せる秀吉には、むしろ好意的な姿勢を見せていた。本願寺と同様、高野も懐柔と恫喝(どうかつ)によって、秀吉に屈服したと明算には思えた。高野は信長から長年受けた攻撃に疲れ果てたのだ。
結局、根来は単独で戦わねばならない。そして強力な秀吉の軍勢の前に根来の砦は孤立し、いつかは兵糧も尽きるだろう。最後は全滅覚悟で打って出るしかないのかもしれない…。
展望のない戦を考えるのは苦しかった。だが事ここに至れば、戦うしか道は残っていない。死に物狂いで戦えば、運が開けることもないとはいえない。
元弘の勇士、楠木正成は孤立した千早城に、わずかな兵とともに、たて篭り、鎌倉幕府の大軍に抵抗を続けた。河内での正成の奮戦が幕府軍を引き付けて京都を守る兵力を削ぎ、幕府から離反した足利尊氏らの六波羅攻撃を成功させた。後醍醐天皇側が形勢逆転を果たせたのは、まさしく正成の孤軍奮闘の功績だった。
紀州勢も秀吉の大軍に対抗して持ちこたえれば、秀吉に不満を持つ者たちの離反や反逆を誘うことが出来るかも知れない。秀吉側につく勢力が圧倒的に多いといっても、その大半は強い側に従うだけの日和見に過ぎない。
かすかな期待が、ややもすると絶望に陥りそうな明算を勇気付けた。
しかし、それもこちらが長く抵抗できてこその話だ。すぐに潰されるようでは、とても援軍は期待できない。人を味方に付けるためには、それなりの力を見せて、安心させる必要がある。
明算は思う。
人間は時流に乗りたがる。流れを見て不利と思えば平気で乗り換える。それが、いまも昔も人間というものだ。
秀吉の勢いが強い今は、根来に味方するものが少ないのは当然である。しかし、根来が容易に屈服しなければ、秀吉の強さに対する疑念も生じて来よう。
とにかく持ちこたえることだ。
城を堅く守るためには、在地の百姓たちを砦の中に入れる必要がある。
根来の領地の百姓であっても、いざ敵方が攻めて来れば、必ず味方を裏切る人間が出る。身命が惜しいのは、だれしも同じ。卑怯とか裏切りなどといっても詮無い。裏切りをさせない手だてを考えるしかない。
親や妻子が、ともに砦の中にいるとなれば、自分一人で逃げることは絶対にない。むしろ家族を守るために、必死になって戦うだろう。
女子供まで戦に巻き込むのは不憫、などといってはいられない。長年連れ添った妻や、いたいけな子供を預かるからこそ、人質の意味がある。
人質は、たとえ一人でも目こぼしがあれば、示しがつかない。村の全員を駆りこむことが肝要である。戦闘が始まれば、老若男女すべてが戦闘要員となる。全員が砦にこもり、篭城戦に敗れたときは一緒に死ぬのだ。
大坂城内でも、秀吉方についた武将の子供や母親が人質として監視されながら大勢暮らしている。
明算は、これまで経験した城攻めで、多くの女子供が死んでいくのを見てきた。炎上し落城する城の中で、脅え泣き叫ぶ幼い子供たちの声と、狂ったように子供を呼ぶ母親の声は、決して忘れることはできない。
敵の刀にかかって殺される痛みや、炎に焼かれる苦しみから子を逃れさせるため、短刀で子供の喉を突き刺し、自らも自害した母親がいる。子供の首を締めたあと、自分も木に首を吊って死んだ女もいた。
目を開けたまま事切れた親子の死体の形相は、目を背けさせた。
何とか助かろうと、幼い子供とともに砦の石垣の上から下に飛び降り、逆茂木に身を突き刺されて死んだ母親と子供。命乞いも聞き入れられず、雑兵の槍に刺されて倒れる老女。六道絵の阿鼻叫喚地獄も、これ以上残酷ではないと思われた。
南蛮人の話では、彼らの国でも大昔の戦で、ローマの軍隊に取り囲まれたゲルマニア人の集団の女たちが、幼い子供の首を締めて殺し、自らは長い髪を木にかけて、首をつって死んだという。どこの国でも、女子供は戦の巻き添えになって非業の死を遂げている。戦を始めた以上、家族を巻き込むことはやむをえない。
大勢の人質を入れるためには、砦も広げなければならない。
砦の中に深い堀を掘って、その中に小屋を作り、鉄砲や矢、石火矢が飛んできても、耐えられるようにする。
塀も補強し、柵や堀をつくる。敵がよじ登って来たときに砦の上から落とす大石や丸太も運び上げる必要がある。
そのためには大勢の職人の動員が求められる。和泉の砦でも、すでに大勢の番匠たちが領内から駆り出され、大きな鋸で逆茂木を作り、櫓を建てていた。
砦の下から攻め込むため、金掘りを使って穴を掘り進める敵には、こちらからも穴を掘って迎え、鉄砲を撃ち込んだり、松葉をいぶしたりして作業を妨害する。そのためには穴掘り道具や松葉も要る。
武田信玄は、鉱山の金掘りを使った城攻めが得意だった。
永禄五年(一五六二)正月、信玄は北条氏政に味方して、上杉謙信方の武蔵松山城(埼玉県比企郡吉見町)を攻めた。
城方の抵抗が激しく、寄せ手の損害が大きかった。このため、武田軍は金掘りを動員し、地下から攻めることにした。
城の櫓二つを下から掘り崩したが、穴が開くと同時に、城方は大瓶に入れて用意していた大量の水を一気に攻め手のいる坑道に流した。金掘りの半数が溺れ、城攻めは失敗した。
天正二年(一五七四)に武田勝頼が遠州高天神城を攻めたときも、武田軍は金掘りを使った。櫓を掘り崩された城主小笠原長忠は、城を明け渡して退去した。
番匠や金掘りのほかにも様々な職人が砦の中に入れられた。弓矢や鉄砲の修理をする弓職人と鉄砲鍛冶、刃こぼれした刀や槍の研ぎ師、医師、占い師、それに棺桶を作る桶職人も確保しなければならない。
命懸けの戦となれば、金で縛るだけでは、職人たちを城にはとどまらせることはできない。百姓たちと同様、家族を人質に取り、無理矢理、篭城させねばならない。逃げる者は殺すこともやむをえない。
何より大事なのは、食糧だ。米、麦、大豆、芋、干し魚、塩、醤油、酒など、砦に立て篭もる数千人が三、四か月暮らせる食糧を集め、それを蓄えるには時間がかかる。また、それを貯蔵する場所もいる。
鉄砲の調達、弾薬、火縄の貯蔵、弓矢の増産、すべきことは幾らもある。一刻の猶予もゆるされない。
根来をどうして秀吉の軍隊から守るか。明算は焦っていた。
◇
人の動きがあわただしい寺の中を抜け、明算は、蓮華川沿いに上流に向かって歩いて行った。
目指す岩室坊は蓮華谷の奥の最も小高いところにあった。大伝法堂や大塔のある根来寺の中心部から離れた、寺の中でも最も辺鄙(へんぴ)な一画である。
小川沿いの小道を登って行く途中、上から下りてきた顔見知りの岩室坊の行人頭の安国坊と出会った。
「これは明算殿。どちらへ」
「岩室坊殿と相談したいことがある。おぬしはどちらへ」
「泉州表の砦に油を送るため、坂本へ買い出しにいくところでございます」
「岩室坊殿はお手すきかな」
「さきほどまでは弓矢の稽古をなされていましたが、いまは本を読んでおられます」
「御身も忙しそうだな」
明算は、以前に比べ、やせたように見える安国坊をいたわった。
「忙しいのは何とも思いませぬが、このところ、何もかも諸式(=値)が高くなって困っております。戦が近づくと、商人どもは品不足に付け込んで、すぐに値段を吊り上げます」
「商売人とはそういうものだ。まだ手に入るだけましと思わねば。戦はいつ起きるかもしれぬ。金に糸目をつけず、できるだけ多く買い込むことだ」
「仰せの通りにいたします。では、ご無礼します」
安国坊は会釈すると、早足で行ってしまった。
寺の中では身分の違いは無かったから、だれとでも気軽に話ができた。そこ武士との大きな違いだった。
小川が小さな滝になっているところで、ヤブツバキが赤い花を付けている。
落ちた花弁が水に浮かんで、ゆっくりと川下へ流れて行く。ツバキの薮の中から、小鳥のさえずる声が聞こえた。
道端のツツジの茂みにはクモの巣がかかり、滝から水しぶきとともに吹き上げて来る風に震えている。水玉が、クモの巣について光っている。
クモは冬眠中なのか、姿は見えなかった。川の中では、小魚が群れになって、動いているのが見える。まだ水は冷たく、魚の動きも鈍かった。
滝の横の岩には、石の不動明王が置かれている。滝のしぶきで、不動明王の岩肌が濡れて光っている。
歯をむいた不動明王の目には水滴が付いて、まるで泣いているように見える。右手に持った鉄剣は錆びて赤茶け、左手に握り締めた石の索丈には苔が生えている。
滝を挟んで両側の木の間に張り渡された縄には、白い紙を切って作った幣(ぬさ)が下がっている。水に濡れた紙の幣は、取り替えられたばかりで、真新しかった。幣の白い色が、薄暗い一角に浮き上がって見える。
滝の真下には、人が座れる位の大きさの平たい岩が、水面から露出して、落ちてくる水にしぶきをあげている。
この石の上で、学侶や行人たちが、滝に打たれて仏の加護を祈ったり、神通力を得るための修業をするのである。明算も昔は、よくここで滝に打たれて心を統一したものだった。
真冬に、凍りついた滝つぼで冷水に打たれると、全身の感覚が麻痺し、さまざまな幻覚を見た。その中には、諸天を従えた仏の来迎もあった。それは、大伝法堂の中の大日如来と左右に控える仏であり、後ろには鑁の字を押し立てた、仏の軍勢がどこまでも続いていた。
仏の軍列の中には、過去の戦で死んだ行人たちの顔もあった。冷たさの余り、失神寸前の状態の中で、明算はひたすら仏の守護者たちの加護を願った。
◇
滝の音を聞きながら、再び山道を登っていく。道が曲がり、少し広くなったところで、木の間から岩室坊の僧坊が見えた。
山の中腹を切り開き、組み上げた石垣の上に立つ僧坊は、いくつもの棟が重なり、まるで城郭のように見える。その前には、練兵のための広場と鉄砲や弓の射場が設けられている。僧坊の後ろには、武器や食料の倉が並んでいる。
根来の行人組織の一大勢力である岩室坊には、数百人の行人が住み、日々訓練に明け暮れていた。
僧坊の表には、二人の行人が、長刀を持って立っている。一人はよく知っている行人だった。
明算は、顔見知りの行人に、岩室坊と約束があることを告げた。行人は、木戸を開けて明算を中に入れた。
別の行人が明算を案内した。台所では訓練を終えたばかりの行人たちが、食事をとっているところだった。
◇
岩室坊当主の玄英は明算より十歳年上の五十二歳、旗頭の中では最年長である。血気にはやる者の多い根来の行人の中では、穏健な人物だった。
今回の秀吉との戦いでも、閼伽井坊が家康と組むのに積極的だったのに比べ、岩室坊は終始慎重だった。
《いまの秀吉の勢いは、容易に止めがたい。世の流れに逆らうのは、決して得策ではない。家康に同心する前に、いましばし様子を見るべきではないか》
これが大衆詮議での岩室坊の意見だった。
いまとなって見れば、岩室坊の意見は正しかった。しかし、若く荒らぶる行人たちには、岩室坊の言葉は弱気に映った。岩室坊の主張を彼らは冷笑をもって黙殺した。
明算はこの老練な知将に、これからの方策を聞きたかった。戦の準備に忙しい中で、きょうわざわざ訪ねて来たのは、そのためだった。
岩室坊は食事を終え、奥の部屋で兵法書を読んでいた。
岩室坊が得意とした槍は、鉄砲の普及によって実戦では影が薄くなっていた。しかし、岩室坊の経験と戦術の知識は、いまも根来寺の中では大きな信頼を得ている。泉州表の砦の位置や人員配置などは、岩室坊の意見に基づいていた。
根来寺の行人の中では楠木正成の流れをくむ兵学が盛んだった。奇策を駆使した楠木流の戦術は後世に尊ばれ、楠木流を称する兵学者が各地を渡り歩いて兵法指南をした。岩室坊もまた楠木流を名乗った。
「これは明算殿、よく来られた」
岩室坊は愛想よく迎えると、明算に藁座(わらざ)を勧めた。
「恐れ入ります」
明算は岩室坊の前に座り、胡座(あぐら)をかいた。
「戦が迫っているというのに、書物など読んでいるので驚かれたろう。だが、戦は事前に策を練るのが何より肝心。それには軍書を読み、過去の戦をよく調べねばならぬ。」
「その通りです」
明算は岩室坊の言葉に同意した。岩室坊もまた、正成のように知略を重んじているのがわかり、親近感を覚えた。
「ところで、きょうは何用かな」
岩室坊は、読んでいた本をそばに置いて聞いた。
「秀吉との戦に入る前に何を用意すべきか。秀吉はどこから攻めてくるか。どういう策があるか。ご教示願いたく参上いたしました」
「それはわしも相談したいと思っていた。そちらの忍びの報告も是非聞かせてほしい」
「大坂では、諸大名たちが集まり始めています。秀吉が攻撃をしかけてくるのは、もうそう遠くはないでしょう」
明算は小密茶坊から聞いた話を伝えた。
根来では、杉の坊が最も多く忍びを抱えている。旗頭たちは、明算の忍びたちがもたらす秀吉方の情報を知りたがっていた。
「なるほど」
明算の言葉を聞いて、岩室坊は厳しい表情でいった。
「わしも攻撃は春先だろうと思っていた。時が立てば立つほど、根来の守りは堅くなる。春になって雪が溶ければ、越中の佐々成政が動き出す。家康・信雄は服従したが、成政はまだ戦う気だ。しぶとい成政を秀吉は恐れている」
「どこから攻めて来ましょうか」
「秀吉の軍は、あらゆる方角からやって来るだろう。海からは九鬼や小西、真鍋の舟が来る。大坂城から来る敵は、泉州表の砦で食い止めることもできようが、大和方面から来る敵をどうするか」
「粉河寺は我々に同心を約束しています」
「粉河だけでは心もとない。もっと強力な味方がほしい。例えば高野や熊野のような」
「高野が我々に同心することは難しいでしょう」
「昔からの遺恨があるのはやむをえない。しかし、いまは高野と根来がいさかいを続けている時ではない。秀吉が天下を取れば、どこの寺であっても、今のように行人を養い、知行を守ることはできなくなる。今は力を合わせて、共通の敵に立ち向かわなければならぬ。覚鑁上人以来の古い確執にとらわれて、存亡のときに敵対をしているのは愚かなことだ」
岩室坊は、眉間にしわを寄せ。
「十万の秀吉軍を支える力は、根来にはもちろん、高野にもない。それぞれに戦っていては、到底勝ち目はない。ここは過去の恨みを水に流し、手を組まなければ、共倒れになる」
岩室坊は力説した。
「強大な力を誇った、あの叡山でさえ、信長の軍勢によって、あえなく焼かれた。信長や秀吉を泉州守護の細川や三好などと同じように考えてはならぬ。根来の力を過信している閼伽井坊や専識坊の考えは甘い」
岩室坊は、強硬派の旗親を批判した。
「明算殿には本当のことを言うが、わしは高野の知り合いの行人を通じて、高野との関係の修復を図っているのだ」
思いがけない岩室坊の言葉に、明算は驚いた。
「高野も秀吉には脅威を感じている。根来ほどに秀吉との知行の争いはないが、秀吉が天下を取れば、高野の所領もいまのままではすまぬ。高野の行人の中にも先を読んでいる人間はいる。ただ、木食の応其が邪魔をしている」
岩室坊は不満そうにいった。
木食の応其上人は、明算もよく知っていた。もともと近江の佐々木氏の家臣だったが、三十七歳のときに出家し、いまは高野山の客僧となっている。世を捨てた僧とはいえ、なお、俗世間とのつながりを保ち、その巧みな弁舌で、高野山の対外交渉を任されている。根来にも何度か来たことがあるのを明算は覚えている。
勧進僧をしていた応其は諸国の情勢に詳しく、政治経済に精通していた。また、里村紹巴ら当時著名な歌人とも親交があり、高い教養を持っていた。
「応其には、根来と組んで秀吉と戦う気などない。奴は秀吉とひそかにつながっているのではないか、とわしは思う」
岩室坊の顔に憎悪の色が浮かんだ。