平家物語

 行人の旗親たちと、秀吉侵攻に備えた作戦会議に出たあと、明算は、光明院のそばにある経蔵に寄った。
 かつて城攻めで誤って幼女を危(あや)めたとき、自分の行為を正当化するために経蔵の本を読み耽った。以来、戦の訓練の合間に本を読むことが、明算のひそかな喜びとなっていた。

 ここには、彼の好む平家物語がしまわれている。
 経蔵を管理する僧から借りた大きな鉄の鍵で、扉の錠を開けると、中は薄暗く、かび臭かった。明かり取りの窓から差し込むわずかな光が、ぼんやりと辺りを照らしている。
 数えられないほどの巻き物、綴じた本、版木が木の棚の上に所狭ましと並べられていた。

 寺の書物の大半は当然ながら、経文とその注釈、解説書などである。その中に混じって平家物語や太平記などの軍記ものを初め、様々な日本、中国の古典が並べられていた。

 行人を多く抱える根来寺では、僧兵が活躍する勇ましくも哀れな平家物語は、軍記の中でも特に持てはやされた。
 学侶もこの物語を好み、根来では、彼らによって、書写も行われていた。後の世に延慶(えんぎょう)本とよばれる平家物語の写本は、根来寺で書写された。

 延慶本平家物語は平家物語の諸本の中では最も古く、鎌倉時代末期の延慶二、三年(一三〇九〜一三一〇)に書き写された。

 平家物語は琵琶法師が語る「語り本系」と、主に読むための「読み本系」に分類される。語り本の中では琵琶法師明石覚一が残した「覚一本」が最も知られ、平家鎮魂の章である「灌頂の巻」が最後についている。
延慶本平家物語も含む読み本系は、語り本系より大部で細部の出来事まで書き込まれている。

 語り本系が音曲にあわせた叙情的な内容と表現を重視したのに対し、読み本は事実を重んじる。例えば、安徳天皇が二位の尼と入水するところは、語り本では二位の尼がさまざまに幼帝を慰める哀れな部分があるが、読み本ではただ一緒に水に入るだけになっている。恐らく読み本が原形で、語り本は聴衆の反応に合わせて潤色されていったと考えられる。
 延慶本平家物語には、俊寛僧都が根来寺の開祖覚鑁上人の説いた教義を語る部分も付け加えられている。

 明算は平家物語の数冊を手に取って経蔵を出ると、経蔵の隣にある書写のための棟に行った。
 ここでは、多くの僧が、黙々と経文の書写に励んでいた。墨を摺(す)る音と、紙を巻きとる音だけが聞こえている。

 明算は空いている文机(ふづくえ)に座り、借りてきた平家物語を開けて読み始めた。
 明算は、この物語の中に出てくる数々の魅力的な人物の中で、特に平知盛が好きだった。
 明算は知盛の出てくる場面を探して読みだした。もう何度も読んで、すっかり頭の中に入っている話だが、読むたびに新鮮な感動を覚えた。
 いつしか、周りの僧の墨を摺る音も小さくなり、明算は物語の中に没入していった。

「いくさは今日ぞ限り、者ども少しも退(しりぞ)く心あるべからず。天竺・震旦にも日本我朝にも並びなき名将勇士といえども、運命つきぬれば力及ばず。されど名こそ惜しけれ。東国の者どもに弱げ見すな。いつのために命をば惜しむべき。者ども。ただこれのみぞ思ふことよ」

 明算は、源氏に追い詰められた壇の浦で、負ける戦いと知りながら、なお舟の屋形に立ち、大音声をあげて味方を叱咤(しった)している知盛に自分を重ね合わせていた。

 人間いつかは死なねばならない。しかし、その死に方が大事なのだ。戦は時の運。武運が尽きれば、どんなに勇敢な兵士であっても敗れる。我々も秀吉と戦って滅ぼされるかもしれない。だが、それを恐れることはない。ふがいなく屈服する方がむしろ恥ずかしいことだ。

 その一方で、死を恐れる人間の気持ちもよく分かった。
「こはされば何事ぞや。なほ妄執の尽きぬにこそ」
「あはれ、人の身に、妻子といふものをば、持つまじかりけるものかな。今生(こんじょう)にて物を思はするのみならず、後世菩提の妨げとなりぬる事こそ口惜しけれ。ただ今も思ひ出でたるぞや。かやうの事を心中に残せば、あまりに罪深かんなる間(=罪深いので)、懺悔(ざんげ)するなり」

 舟から入水自殺する間際になっても、なお断ち切れぬ妻子への恩愛に苦しむ維盛の心が、独り身の明算にもよく分かった。

 人は自分の命が惜しいためにだけ卑怯な振る舞いをするのではない。妻子のために死にきれないのである。
 残された妻子の将来のため勇敢にもなれば、係累のことを考えて卑怯にも臆病にもなる。これもまた人間なのだ。

 両手につかんだ敵方の兵を道連れに「いざ、おのれら、死出の山の供せよ」と海に飛び込んだ能登守教経の壮絶な最期。「この国は、粟散辺土と申して、ものうき境にて候。あの波の下にこそ、極楽浄土とてめでたき都の候。それへ具(ぐ)し参らせ候ふぞ」と死を怖がる幼帝を優しくなだめて、ともに入水する二位の尼。壇の浦での平家の滅亡の物語は、明算の心をとらえて離さなかった。

 自分達もいつかは滅ぶ。それははっきりしている。そうだとすれば、それは単に時間の問題に過ぎない。死は何人も決して逃れられるものではない。
 万葉集の山上憶良の歌の詞書(ことばがき)にも「ゆえに維摩大士(ゆいまだいし)は方丈に在りて、疾(やまい)に染む。釋迦能仁(しゃかのうにん=仏陀)は双林(=沙羅双樹の林)に坐し、苦を免るること無し。故に知る。三千世界、誰か能く黒闇(=死)の捜り来たるを逃れむ」という言葉がある。生まれたものは必ず死ぬ。
 
 筑紫多々良川での足利尊氏のように数十倍の大軍に攻められても、運が強ければ勝てるが、桶狭間での今川義元のように大軍に守られながら僅かの兵に討たれて命を落とすこともある。自分の力だけでは、どうしようもないのが戦であり、死というものだ。
 全力を尽くして、なお敗れるのは、やむをえない。ただ自分たちの出来る限りの戦いをすればよいのだ。

 忍び寄ってきた冷気が、心の高ぶりを静めた。明算は我に帰った。辺りはすでに薄暗く、だれが点けたのか、燭台に火が入っていた。
 周りにいた僧たちの姿は、すでに見えなかった。遠くの坊から読経の声が聞こえて来る。

 部屋の奥の仏壇にも灯がともっていた。年が明けたばかりで、仏壇の中にも鏡餅が供えられている。部屋の障子も張り替えられ、部屋の隅の棚にはウラジロのしめ飾りが付けられて、新年らしいすがすがしい気分が漂っていた。

 和泉に出陣した正月明けから、三月の岸和田と大阪での戦い、そして暮れに秀吉と家康・信雄の突然の講和に驚かされるまで、昨年はめまぐるしい変動の年だった。そして今年も、すでに戦の気配が漂っている。しかし、そんな殺伐とした中でも、新年のゆったりした雰囲気はどこかに感じられた。

 考えてみれば、覚鑁上人が在世のころより、根来はつねに世俗の争いの中にあった。それでも、争ってばかりいたわけではない。平和な生活を僧たちが楽しむこともあった。のんびりと本を読んだり、茶を点(た)てることは、根来寺でも行われていた。正月や盆には、行人たちも出身の村に帰り、縁者と過ごした。彼らは寺で身につけた茶の習慣を持ち帰り、故郷に広めた。

 明算自身も一昨年は、熊取村に帰った。明算は家族と過ごしたのどかな正月を思い出し、幸福な気分になった。
 まだまだ読み続けたい気がしたが、閼伽井坊と話す約束があった。明算は本を閉じ、立ち上がった。