第二章 成真院        

 若左近は少し行ったところで十郎太に追いついた。鉄砲鍛冶のところに長い間いたので、すっかり遅くなっていた。

 成真院は根来寺の中心を外れた山の手にあった。周囲に石垣と堀をめぐらせた、瓦葺きの大きな僧坊だった。
 入り口には、一人の若い行人が鉄砲を持って立っていた。二人は、自分達が院主道誉の縁者で、熊取から行人になるために来たことを告げた。
 行人はしばし待つようにいって、中に消えた。やがて、黒い袈裟に身を包んだ道誉が中から現れた。
「おお、よく来た。疲れたろう」
 道誉は懐かしそうに、二人に語りかけた。
「鉄砲鍛冶の店を見ていて遅くなりました」
 十郎太は道誉に釈明した。
 「そうか、鉄砲鍛冶をみたのか。よく中を見せてくれたな。なかなか面白かろう」
 道誉は笑顔で答えた。

 道誉もまた、小密茶坊のように髪を長く伸ばし、髭を蓄えていた。鷹揚な立ち居振る舞いに院主の重みと風格がにじみ出ている。しかし、その人懐っこい笑顔は、昔と少しも変わっていなかった。
「よろしくお願いいたします」
 若左近と十郎太は頭を下げた。
「そんな堅苦しい挨拶はわれわれの間では無用。こちらへこよ」
 道誉は二人の挨拶を制し、先に立って坊の方へと歩きだした。

 坊の建物は新しく、垂木の柱の年輪がくっきり見える。白壁が陽光に白く光っている。
 行人の数が増えてきたので、最近、棟を新築したのだと道誉はいった。割り石を積み上げた石垣の、ところどころに開いている穴は銃眼のようだ。
 道誉は勝手口から坊の中に入ると、中にいた稚児に命じて、足を洗う水を持って来させた。まだ十歳位の稚児は、水の入った桶を二人の足元に置いた。
 二人は、上がりがまちに腰を下ろし、わらじをぬいで、順番に足を洗った。冷たい水が、長歩きで熱を帯びた足に心地よかった。

 道誉は、稚児に食事の支度をするよう命じ、二人が足を洗っているそばで、若左近が届けた中家からの書状を封から出して読み始めた。
 乾いた布で足を拭きながら、若左近は僧坊の中を見回した。

 高い天窓からの弱い光が、薄暗い僧坊の中を照らしている。土間は固く踏み固められ、わら草履が何足も脱いだままになっていた。磨かれた、上がりがまちの板が黒光りしている。
 土間の隅の柱には綾藺笠(あやいがさ)と鹿杖がいくつも懸かっている。外は汗ばむほどだったが、中はひんやりとしていた。

 土間の右側の出入り口の板戸が少し開けられ、かまどが見えている。ここが厨(くりや=台所)になっているらしい。野菜を切る音が聞こえ、坊内に味噌のよい香りが漂っている。
 土間の左側には廊下が長く続いている。廊下の向こうには、行人たちの住んでいる部屋があるのだろう。
 土間の正面の板敷きの間には、さっきまで客がいたらしく、藁座(わらざ)が敷かれたままになっていた。その奥には御簾(みす)が吊され、薄暗い中に仏像が祭られているのが見える。

「あそこに祭ってある仏は、この根来寺の本尊と同じ大日如来である」
 書状を読み終えた、道誉が二人の視線に気がついていった。
「大日如来は、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)ともいうて、その名の通り、地上を照らし、万物を育む大日輪である。三千世界の隅々まであまねく照らし出して無知無明を除いて下さる。有り難いみ仏だ」
「どのような利益(りやく)があるのでしょうか」
 若左近が尋ねた。
「我々人間はいつかは死ぬる。しかし、死んでも、ただ土になるのではない。大日如来の光明によって再び生かされ、宇宙の生命の中に帰っていくのだ」
 書状をゆっくりと巻き戻し、封に入れながら、道誉は教え諭すように答えた。

「この戦の世にあっては、我々もいつ死ぬやもしれぬ。しかし、三途(さんず)の悪趣(あくしゅ=悪道)のごとき濁世にあって、大日如来のために戦い、死ぬる者は大日如来のために永遠に生くる命を得る。それが解れば、生死は一如(いちにょ=同じ)、恐るることは何もない。生への煩悩を断ち切れば、死の苦痛はなくなる」

 若左近は、道誉が神仏を心から信じていることに驚いた。
 寺の境内で遊んでいた昔、道誉が「おれは仏や神の罰など信じぬ」といって、若左近たちの前でわざと石仏に供えてある菓子をとって、むしゃむしゃ食ったこともあった。古い卒塔婆を面白半分に引き抜いて捨てたこともある。そんな昔の菊左近からはとても想像できない変わりようだった。
 「死ぬ」という言葉を聞いても、実感はわかなかった。しかし、死と向かい合う行人の厳しさは、漠然とではあるが感じられた。
 二人は黙り込んだ。

「まあ、そう深刻になるな。真言の教えは神妙深甚にして、我ら下根下劣、鈍根の凡夫の容易に解せらるるところではない。まあ、おぬしらもいずれ、真言の貴い教えに接する機会もあろう。それに真言の教えが分からずとも、慈悲深い大日如来は決して見捨てず、我々の後ろについていて下さる。心配はいらぬ」
 道誉は二人の神妙な顔付きを見て、励ますようにいった。

 道誉によれば、大日如来は、智を表す金剛界と理を表す胎蔵界の二身を持つが、成真院の像は胎蔵界の姿で、法界定印を結び、赤色の蓮花の上に座っている。代々成真院の本尊として大切にされているのだという。
 道誉は二人に説明すると、再び仏に手を合わせた。

                        ◇

 まず湯に入って疲れを落とせと勧められ、二人は稚児の案内で風呂場に行った。ほこりに汚れた小袖を脱ぎ、ふんどしを外して湯殿に入る。湯殿は広く、湯気が部屋の中に立ち込めている。
 二人は湯殿の壁に取り付けられた木の台に腰を掛けた。ほんのすこし座っているだけで、たちまち汗が噴き出した。熱い蒸気が疲れた体を快く刺激する。湯気は床の隙間から上がって来る。

 壁に切られた小窓を開けると、暗くなりかけた外の景色が見えた。向かい側の山肌に山桜が白い花を開いているのが、夜目にぼんやりと見える。
 衣を腰に巻き付け、上半身はだかになった僧が、焚き口の前で、炎に照らされながら、一生懸命斧をふるって薪を割っている。昼間の温もりが、まだ夕闇に残っている。

 ひとしきり汗を流した後、中においてあった糠袋で体をこする。湯殿の隅には縁まで水の入った大きな瓶(かめ)が置かれている。ひしゃくで水を汲んで頭からかぶる。ほてった肌が冷たい水を浴びて引き締まった。

 風呂から出ると、稚児が外で待っていた。稚児は二人を、食事の間へと案内した。稚児の後について、二人は廊下を歩いていった。

 厨(くりや)に接する板敷きの間は五十畳ほどもある大きな部屋だった。
 いろりの前に座っていた道誉が、二人を手招きし、自分の座っている、いろりのそばの藁座に座らせた。道誉のほかに、坊の主立った行人たちがすでに座って食事をしている。

 二人は藁座に座り、見つめている一同に頭を下げた。
「皆々方、この二人は若左近と十郎太というて、わしの在所から来た。これからここの行人になる。いろいろと教えてやってくだされ」
 道誉は二人を行人たちに紹介した。
「どうぞよしなにお願いいたします」
 二人は再び頭を下げた。行人たちは、何もいわず、黙々と食事を続けている。

 若左近は、顔を上げて、改めて室内を見回した。四方の壁には根来塗りの床机がいくつも立て掛けてある。塗りや素焼きの食器が、部屋の隅の棚の上に積み重ねられている。ここで行人がいつも一緒に食事をしているようだった。
 目の前の、二間四方もありそうな大きないろりの灰の中には、黒っぽい小魚の串刺しが何本も突き差してある。
 いろりのそばには、炭櫃(すびつ)がおかれ、六十過ぎの行人が五徳に鍋を載せて、汁を温めていた。汁からは湯気と味噌の匂いが立ちのぼっている。

 目の前には、いくつかの根来塗りの食器がおかれている。中には豆腐の田楽、ごまと青菜のあえもの、芋の煮付け、わかめの酢味噌あえ、麩ときゅうりのなますなどの料理が椀一杯に盛り付けられていた。

「大したものはないが、飯だけはたんとある。きょうは長い道を歩いて、疲れたことであろう。腹一杯食ってくれ」
 そういって道誉は二人に食事を勧め、自分も食べ始めた。

 昼前に食事をして、腹をすかせていた若左近と十郎太は、すぐに箸をとり、飯を掻き込んだ。賄い方の行人が給仕し、道誉が手ずから、茶をついでくれる。二人は黙々と料理の皿を空けていく。飯を噛み、汁をすする音だけが続いた。

                        ◇

「熊取の皆は達者にやっておるか」
 食事が一段落したあとで、道誉が再び口を開いた。
 道誉は二人に湯を入れた急須を回し、自分も茶を飲みながら返答を待った。
「皆、息災に暮らしております」
 湯をすすりながら若左近が答える。十郎太はまだ、なすの漬け物で、湯づけを一生懸命掻き込んでいる。

「ところで、おぬしら」
 急に、道誉が真剣な顔になった。
「秀吉が岸和田城に配下の中村一氏を入れたのを知っているか。奴は山崎の戦で都や大坂を手中にしたあと、和泉をうかがっている。大坂を拠り所に畿内を抑えるため、石山本願寺跡に城を作ろうとしている」
 道誉は茶を飲み干してから、話を継いだ。
「今は池田恒興の城になっている大坂石山の本願寺跡は、四方を川に囲まれた要害。十年以上にもわたる信長の攻撃に耐え抜いた土地だ。秀吉は今、江州表で柴田勝家とにらみ合いをしているが、もし勝家との戦に勝てば、必ず大坂を本拠にして和泉に手を出してこよう。そうなれば、根来の泉州知行にとっては大きな脅威となる。いまの内に何とか手を打たねば、取り返しのつかぬ事になる」
 道誉は言葉を切って、また茶を飲んだ。

「わしは秀吉が柴田勝家との戦いに兵力を向けている今のうちに、柴田と組んで、岸和田をたたいておけ、といっているのだが、旗頭たちが慎重で、なかなか許しが出ぬ。この機を逃してはもう二度と秀吉を討つことは出来ぬかもしれぬに」
「兄上様もそのようなことを言われておりました」
 十郎太が言葉をはさんだ。
「書状に書いてあったのはそのことだ。岸和田の中村一氏の兵が増えていることを兄者も心配している。早く手を打たぬと手遅れになる。いまのうちなら岸和田城を攻略できるといっている。俺もそう思う」
 二人は何といってよいか分からず、黙っていた。

「まあ、しかし、旗親たちの気持ちも分からぬではない。雑賀攻めから六年、ようやく落ち着いたのに、また争いを起こしたくないという気になるのは当然だ。本格的な戦になれば、こちらも痛手は受けようし、最悪の場合は滅亡の恐れもある。じっくり考える必要はある」
「いまはただ、何とか柴田に勝ってもらうよう神仏に祈るだけだ。というても、あの戦上手で如才ない秀吉のこと。そう、簡単には敗軍すまい。いずれにせよ秀吉の動きは目が離せぬ」
 道誉は一気に茶を飲み干すと、口の中に残った茶柱を、いろりの灰の中に吐いた。
「いずれにしても、この戦の時代はまだ当分続く。根来もこれからが肝心な時だ。おぬしらにも、これから先、大いに働いてもらわねばならぬ。二人とも頼むぞ」
「分かりました」
 若左近と十郎太は、姿勢を正して答えた。

「我々はこれから何をすればよいのでしょうか」
 若左近が聞いた。
「鉄砲か弓か槍か、いずれかをやってもらうことになろう。しかし、戦ではどの得物(えもの)も心得が必要だ。最初はすべて稽古せねばならぬ。また、鉄砲組になっても槍組になっても、矢は毎日五本ずつ作ってもらう。ここでは、矢を多く作れば、それだけ仏の功徳があるといわれている。日々の稽古がそのまま、己の生死につながることを忘れぬようにしてもらいたい」
「心得ました」
 二人は緊張して答えた。

「まあ、そう心配するな。何というても、我々には大日如来様がついてくれている」
 道誉の声が一段と大きくなった。
「我ら根来衆の鎧の胸板に彫り込まれておる鑁(ばん)の字は、根来寺の開祖覚鑁上人様の尊号の一文字であり、同時に大日如来を表している。これが我らを敵から守ってくれる。魔仏一如(いちにょ=同一)に達すれば、魔障自ら退散す。大日如来を信じておれば、戦わずして敵に勝つという。もっとも、戦わずして敵を滅ぼす事が出来るのなら、我々行人は不要だが」
 道誉は大きな声で笑った。

                      ◇

 食事のあと、道誉は院主の部屋に戻り、二人はこれから生活する行人部屋に案内された。案内役の稚児は信達庄の出身で、来年にはやはり行人になるという。両親はともに病気で死に、ここに引き取られたのだといった。

 二十畳ほどの板敷きの行人部屋は、通りに面して小さな窓が開いているだけで、ほかには調度品もない、暗い殺風景な部屋だった。隅に行人の持ち物を置く棚が置かれ、そばに粗末な藁座が積み重ねられている。部屋の奥に仏壇があり、大日如来の小さな像が祭ってある。
 部屋の中には三十組ばかりの布団が置かれていたが、行人の姿は見えなかった。稚児によれば、今日は全員夜戦の稽古で山に出払っており、夜中にならないと帰って来ないという。
 行人のほとんどは泉州の土豪や百姓出身だ、と道誉はいっていた。その中には、熊取出身の若左近と十郎太の知っている人間も何人かいるはずだった。

 二人は、隣の小部屋に行き、与えられた薄い布団を床に敷いて横になった。遠くで谷川のせせらぎが聞こえるほかは、何の音も聞こえてこない。薄闇の中で、仏に供えられた灯明が周りを照らし出している。二人はしばらく、寺の印象やこれからのことを話していたが、体を休めると、昼間の疲れがどっと出て、知らぬ間に寝込んでしまった。
 真夜中近くなって、大勢の人間が隣の部屋に入ってくる物音を、若左近は夢うつつの中で聞いた。

                   ◇

翌朝、目を覚ました時には、隣の部屋には誰もいなかった。布団が奇麗にたたまれていた。
 仏に供える水を替えに来た稚児の話では、行人たちは、早朝から角場へ鉄砲の稽古にいったという。十郎太も行人衆が帰ってきて風呂に入り、夜食をとっている物音は聞いたが、いつ出ていったかは気付かなかったといった。二人は行人の厳しい修業ぶりに驚いた。

「おお、起きたか。よう眠っておったな」
 食堂へ行くと、すでに食事を済ませた道誉が二人に向かっていった。
「行人衆はもう、出られたそうでござりますな。起こして下されば、いっしょに行きましたのに」
 若左近は申し訳なさそうにいった。
「おぬしらが疲れておったようなので起こさなかったのだ。まあ、そう焦るな。きょうは一日ゆっくりせよ。あしたからは、いやでも仲間に入ってもらう。後で寺の中と、鉄砲の稽古の様子を見せてやろう。さあ、早く朝飯を食え」
 そういって道誉は手ずから椀に飯を盛って二人に差し出した。