昔から自分は生き方が不器用だった。敵を正面から攻めるだけで、裏から手を回して篭絡するなどいう器用な芸当は出来なかった。敵の武将の心をうまくつかみ、寝返らせる秀吉の巧妙なやりかたは、正直なところ不思議だった。
《あんなやり方は邪道だ。自分は自分のやり方でいく》
そう思う一方で、ねたましさも感じた。
そんな不器用な自分を、信長公は重用してくれた。厳しい人ではあったが、実力で人間を評価して取り立ててくれた。自分にとっては恩義のある方だ。信長公の恩に報いるためにも、秀吉なんぞに天下を左右させてはならぬ。
吹雪の音を聞きながら、成政はいつしか眠りに落ちた。
目が覚めると、家来たちはすでに起き、それぞれ焼き米の朝飯をとっていた。
成政は体についた雪を払って外に出た。すでに風と雪はやみ、雪を頂いた山々がくっきりと青空に浮き上がっていた。木々の枝には氷が張り付いて白い花が咲いたように見える。辺りは、まばゆいほど明るかった。
朝飯を済ますと、成政らは再び出発した。昨夜のうちに降り積もった新雪が、それでなくとも、たどりにくい道をさらに分かりにくくしていた。
彼らは地元の猟師を案内に雇っていたが、それでも深い雪に何度か道に迷った。
途中、二人の家来が、相次いで山陰の凍った道に足を滑らせ、深い谷に落ちた。
長い悲鳴が雪の谷にこだまして急に止んだ。
谷は深く、誰も助けにいくことが出来なかった。谷底に下りて行ったとしても、生きているとは思えなかった。一行は、ただ茫然(ぼうぜん)と立ちすくむだけだった。
過酷な山越えだった。寒さのため感覚を失った手で、肩まである雪を交代で掻き分け、人一人がようやく通れるだけの道を作って、少しずつ前進した。
雪の山は、どこまでも続いているように思えた。富山の町からは、はるかかなたに雪をかぶり、ただ美しいとしか見えなかった立山の山々が、いまは巨大な魔物のように成政には感じられた。
寒さに苦しみ、雪崩の恐怖に脅えながら、日のあるうちは、ひたすら歩き続けた。木の枝に降り積もった雪が滑り落ちる音が、時折聞こえるだけで、雪の山中は静寂そのものだった。
峰に光る雪は神々しく、成政は、まるで自分たちが誤って、人間が入ってはならない神々の世界に足を踏み入れてしまったような感覚に陥った。
修験者たちが、ただ一人で深山に入り苦行しているときに、仏や神の影向(ようごう=出現)を見るというのは、こういう経験をいうのだろう。
この清浄な神々の世界にいると、たった今、下界では血で血を洗う人間の争いが行われているとは、とても信じられなかった。
山に入って二十日目に、一行は、やっとの思いで立山連峰を越え、信州大町に抜けた。どの顔も、ひげは伸び放題に伸び、疲労と飢えに、ほおがこけていた。
十二月一日、一行はようやく上諏訪に着いた。
彼らは諏訪安芸守頼忠の屋敷に逗留し、そこから馬を飛ばして、浜松の家康に来訪を知らせた。
やがて家康から遣わされた使者が迎えに来た。乗馬五十匹、伝馬百匹を連れた盛大な迎えだった。
一行は、同月二十五日、ようやく家康のいる浜松にたどり着いた。
消耗しきっていた一行を、家康は手厚くもてなした。寺に宿を設け、風呂と、遠州灘でとれた新鮮な魚、極上の酒で接待した。死ぬ思いで雪の山を越えてきた一行にとっては、骨身にしみる歓待だった。
しかし、湯に浸かって、ゆっくり旅の疲れを癒している余裕はなかった。身支度を整える間も惜しんで、成政はさっそく家康に面会を求めた。
雪の山の中を歩きながら、成政は和議への反対意見をどういおうか、ずっと考えていた。説得の順序も、一応は心の中で整理していたつもりだった。
だが、家康に会った途端、感情が高まり自分でも抑えられなくなった。それらの考えが前後の脈絡もなく、一挙に口から出てきた。
言葉を選ぶ余裕も前置きもなく、成政はいきなり和議の破談を申し入れた。思わず声が大きく荒くなった。
「今回の和議は秀吉の策略である。いまここで秀吉の手に乗れば、奴はますます増長し、君臣の義は廃(すた)れる。上下ところを変え、ついには織田家が筑前の門前に馬をつなぐ(=臣下の礼をとる)辱めを免れないであろう。尾張半国を秀吉に取られ、気弱になられた信雄公が秀吉の和議案に乗ったのは、それがしもわからぬではない。しかし、長久手の戦いで秀吉方を撃破された家康殿まで和議に応じられたのは全く理解できぬ。ここで和議に応じては、せっかくの長久手での勝利が無駄になってしまう。我々としても、拠り所であった家康殿に和解されては、大いに迷惑である。もはや我々としては秀吉に滅ぼされるしか道は残っていない。それでも、やはり我々を見捨てられるお積もりか。信雄殿と家康殿の言葉を信じて秀吉を敵に回した我々の立場も考え、ぜひとも、もう一度我々とともに秀吉追討に立ち上がっていただきたい」
家康との二人だけの会談で、成政はあるいは怒り、あるいは懇願するように訴えた。その大声は、会談に当てられた浜松城の天守に近い一室から、外へも聞こえた。成政に同行した佐々平左衛門らも別室で心配そうに交渉の結果を待った。
信長のもとで勇猛さをうたわれた成政は気性が激しく気が短かった。また、信長の父信秀に請われ、近江の主家佐々木氏から離れて以来、織田家に仕えてきた名門としての気位も高かった。家康のように不利な情勢の時はじっと我慢し、来るべき時節を待つなどということは、とても出来ない性格だった。
反応のない家康の顔を見ていると、ますます、いらだちが募った。話すにつれて感情が高ぶり、もともと大きい声はさらに大きくなった。
「秀吉を討つのは、いまをおいてない。この機を逃さず、共に力を合わせて、秀吉を挟み打ちにすれば、秀吉を倒すことは決して難しくない。我々が立ち上がれば、去就に迷っている他の武将たちも呼応するだろう」
成政は口から泡を飛ばし、戦を続けるようにと力説した。
だが、家康の反応は鈍かった。声涙下る成政の訴えにも、家康は応じなかった。
仮にもう十日ほど早く、成政が浜松へ来て家康を説得していたら、あるいは家康の心も揺れたかもしれなかった。だが、成政たちが雪の山中を彷徨(ほうこう)している間に、すでに時の流れは完全に変わっていた。
家康は成政の主張を黙って聞いていたが、成政の話が終わると、静かに自分の考えを話した。
「秀吉が、先君恩顧の者たちを手なずけ、主家あるかなきかの振る舞いは、自分としても到底許しがたい。自分としては最後まで秀吉と戦いを続ける積もりであった。しかし、この戦いは自分が仕掛けた戦ではない。秀吉の非道な仕打ちから信雄殿を助けるために加わった義の戦いである。その信雄殿が秀吉と和議を結ばれた以上、自分としてはそれに従うしかない。悪く思わないで欲しい」
家康の心は、すでに固まっていた。いまさら和議を白紙に戻すことなど、全く考えてはいなかった。成政の強硬論がかえって成政の追い詰められた状況を物語っているのを、冷静な家康はとっくに見抜いていた。
家康は他人への義理や遠慮で心を動かされる人間ではなかった。
《成政がいくら嘆こうと恨もうと、自分の知ったことではない。人情や義理で物事を判断しては大局を見誤る。戦は、あくまで損得勘定である。戦いを続けて勝ち目があるかないか。それだけで判断しなければならぬ。いま再び秀吉に戦いを挑んだとしても、信雄を支えるという大義名分の失われた戦いに勝ち目はない。それに、いったん決心したことは決して変えないのが、将たるものの節操というものである。人の意見で将がぐらつけば、兵は混乱し戦に負ける》
そう、家康は考えていた。
「自分は決して上方勢に屈したのではない。もし、秀吉が再び織田家を軽んじ、粗略にするような事があれば、すぐに立ち上がるだろう。秀吉を許せぬという人々も、まだまだ多い。天下の大勢が秀吉を討つべしということになれば、自分も積極的に加わる。自分は天下の大勢に従う積もりである。しかし、いまは、自重し、しばらく様子を見ようと思う。春になって、紀州の雑賀と根来、四国の長曾我部の蜂起があれば、その時に改めて考えよう」
不満をあらわにしている成政に、家康は慰めるようにいった。だが、家康が本気で再起を考えていないことは、すでに成政には分かっていた。
「人の心、浮雲のごとき時勢に、先君の恩顧を忘れず、主家にあくまで忠節を貫く成政殿の心意気。この家康、心から感じいった。まことに武士は、こうありたきもの」
会談のあとの宴で、家康は成政の忠誠を称え、自ら酒を注いで成政の労を慰めた。だが、家康から盃を受ける成政の顔は硬く、落胆の色が溢れていた。
家康に断られても、成政は諦めなかった。というより、死に物狂いだった。ここで、引き下がっては破滅しかない。何のために、雪と氷の山をはるばる越えて、ここまでやってきたのか。
成政は、あの辛かった山越えを思い出す。あの厳しさ、苦しさ、せつなさを思えば、どんな逆境、つれない仕打ち、絶望にも耐えられると思う。
家康の説得に失敗した成政は、今度は信雄の説得にかかった。
十二月三十日、成政は古くからの知り合いである生駒八右衛門の案内で尾張の清洲城に赴いて、信雄に面会した。
成政は、ここでも弁舌をふるい、和議破談を強く申し入れた。信雄を説得すれば、家康もまた心を動かすかもしれないとの期待があった。
成政は必死になって、佐々家と自分がいかに昔から織田家に尽くしてきたか、織田家の将来を案じているかを、信雄にかきくどいた。
しかし、説得の効果はなかった。信雄も、家康と同様、すでに戦意を失っていた。ここでも扱いは丁重ではあったが、肝腎の破談要請に反応はなかった。
信雄の顔には、むしろ迷惑に感じている様子が現れていた。うんうんと相槌を打つだけで、本当に真剣に聞いているのか疑問だった。口に泡を溜めて話しながら、成政は失望と疲労が体中に広がるのを感じていた。
翌日も、その翌日も、成政は信雄に面会を求めた。北陸における情勢や上方での根来・雑賀勢の動向を説明し、反秀吉網が決して破れていないことを強調した。だが、信雄の態度は、日を追って冷たくなった。三日目には、うんざりした様子を露骨に顔に出し、成政の話が終わると、そそくさと席を立った。
信雄との折衝も、結局は徒労に終わった。
成政が家康・信雄と折衝している間、同行した家臣たちもまた、それぞれの縁を頼って、和議破談への働き掛けを続けていた。前野小兵衛勝長も、十五歳の息子の嘉兵衛を連れて、生家でもある前野村(江南市)のいとこ、小坂孫九郎雄吉の家を尋ねた。
ここで小兵衛は主人成政と同様に、自分の縁者たちを説得したが、もとより賛同は得られなかった。
すでに年は改まり、尾張の村々では家ごとに門松を立て、久々にやってきた平和な新春を祝っていた。
戦闘が行われている間、山の中に隠れていた百姓の女房や子供たちも村に戻り、村内には久し振りに子供達のはしゃぐ声があふれた。
失意の成政たちは、逗留先である総見院の近くにある神社に参拝した。行き詰まった交渉の進展を、神に祈る気持ちもあった。
神社には、多くの善男善女が参拝していた。社殿には、戦の終結を神に感謝する祝詞の紙が張られている。神楽殿では、白い装束の巫女(みこ)たちが、村の安泰を祝う神楽を、笛や太鼓に合わせて、賑やかに舞っていた。
境内の広場では、ちょうど餅まきがおこなわれているところだった。やぐらから餅がばら撒かれると、大勢の人々が笑いさざめきながら、手で受けたり拾ったりした。
様々な食べ物の屋台や見せ物小屋が並び、笑顔の子供達が、食べ物をほお張りながら、傀儡(くぐつ)師の芸に見とれ、暦売りの口上に熱心に聞き入っている。足軽たちも今は鎧を脱ぎ、刀も持たずに境内の見世物小屋を暢気(のんき)そうに、のぞいて回っている。
人々は平和を心から喜び、楽しんでいる。いつまでも戦にこだわっているのは、成政たちだけだった。
彼らは孤立を感じ、惨めな気持ちで寺に戻った。
成政は、浜松と清洲の城下で、自分たちが人々から煙たがられていることを肌で感じていた。とりわけ女たちの冷たい視線を感じた。夫や息子たちが無事に戦場から戻ってきたことを喜んでいる彼女たちにとって、再び戦をたきつける成政たちは、身内を再び死地につれもどしに来た、不吉な死に神か疫病神としか見えなかったのだ。
もはや自分たちの出る幕はない。家康や信雄に頼らず、自分たちだけで戦うしかない。成政は覚悟した。
「はるばる家居を出て、越信の剣山雪峰千里を相越え、誰が為に来るか。然らば、弱主の禍を相除かんがため。寒天暖を囲む暇あらず、北風骨を貫き、粗衣風雪を払って故地を彷徨す。やんぬるかな(=やむなし)、和議すでに成る。一片の忠節相究むるところの隙これなし」
嘆きの詩を、生駒家の屏風に書き残し、一月四日、成政は家臣とともに尾張を発った。
成政は、家臣とともに、再び雪の立山を越えて、越中への帰路をたどった。前野小兵衛は、いっしょに連れてきた息子嘉兵衛を前野村の親戚に預けて、ひとり帰郷した。あの辛い山越えを、再び我が子にさせたくなかったのと同時に、自らの前途に不吉なものを感じていたからである。
来たときと同様、帰路も道は険しく、積もった雪はすでに固い氷に変わっていた。疲れと寒さによる衰弱のため、家臣の二人が眠っている間に凍死した。出たときの半数になって、成政らは越中に戻った。
富山城に入ったあとも、疲労が成政の肩に重くのしかかっていた。だが、疲れを癒している余裕はなかった。遠からずやって来る秀吉の攻撃に備えておかねばならなかった。
前田利家だけでなく、越後の上杉も秀吉と手を結ぶ気配を見せていた。越中の国内でさえ、成政の苦境に乗じて、一向一揆が蠢き(うごめき)はじめていた。
協力を誓っておきながら、勝手に秀吉と和解した家康や信雄のことを思うと、成政は、今もはらわたが煮えくり返る思いだった。だが、いまとなっては、どうしようもなかった。
成政は、秀吉との不利な戦いを考えて、暗澹(あんたん)たる気持ちになった。四面楚歌の中で、もはや頼りは根来、雑賀の紀州勢と、四国の長曾我部だけだった。
◇
雑賀や根来の紀州勢にとっても、秀吉と信雄・家康の講和は、晴天の霹靂(へきれき)だった。
家康と組んで、再び秀吉を攻めようという紀州勢の計画は、完全に裏切られた。そればかりか、東の憂いを無くした秀吉が、報復のため、紀州を攻めてくる恐れが出てきたのである。
根来寺の門前は恐慌を来した。すぐにも秀吉軍が攻めてくるような流言飛語が乱れ飛んだ。早くも店を畳み、堺あたりの縁者を頼って出ていく機敏な商人もいた。
「家康などと組むのではなかった」
いっても仕方のない繰り言を行人や学侶たちは口にした。家康と信雄への恨みと呪詛の声が寺の中に満ちた。
驚き慌て、騒ぐ学侶や行人の中で、明算は、むしろ落ち着いていた。
済んだことを嘆いても仕方がない、と明算は思う。
《家康に同心し、秀吉に敵対すること。それは我々自身が、全員で詮議の上、正しい道と信じて選んだ結果である。その思惑が狂ったからといって、いまさら騒いでも何になろう。だれにも判断の誤りはある。誤った選択をどのように挽回して危機を切り抜けるか。これからどう行動するかが大事なのだ。いまとなれば、自分達の決めた道をどこまでも進むしかない。自分達は、すでに大河を渡ったのだ》
そう思うと、かえって腹が座り、すがすがしい気持ちになった。
すでに明算は、秀吉の侵攻にそなえて、あらかじめ様々な手を考えていた。
何よりも、泉州表の砦の守りを早く固めなければならなかった。大坂から根来を攻めるには、和泉を通る道しか考えられない。ここで持ちこたえれば、舟での雑賀から和泉への弾薬や食糧の補給も可能になる。また、海を隔てた四国の長曾我部の援軍も期待できる。
しかし、和泉を破られれば、あとは守るべき砦がない。敵は紀泉の国境の峠を越えて、一気に根来まで殺到してくることだろう。
さらに鉄砲の補充も、急がねばならなかった。紀州勢が秀吉軍に対抗できる唯一の拠り所は鉄砲である。いま、根来と雑賀が保有している鉄砲の数では、秀吉の大軍にとても対抗できない。秀吉が来る前に、なんとしてでも、鉄砲を増やし、撃ち手も確保しておかねばならない。
領内の若い農民は、あらかた和泉の砦に駆り出されており、浪人を雇うしかないだろう。
それにはまず金がいる。戦の費用をどうして工面するか。寺宝を売り、収穫した米を金に替える必要がある。各地の反秀吉陣営へ救援と協力を求める使者も出さねばならない。
あれやこれやを考えると、明算には、とても過ぎてしまったことを嘆いている暇などなかった。
根来寺では、行人の旗親が連日、大伝法堂に集まって、秀吉軍来襲に備える作戦を練った。中には弱気になっている旗親もいた。
「家康が秀吉に下った今、根来に勝ち目はない。もはや秀吉に敵対するのは、やめた方がよい。即刻和議を申し出るべきである」
これに対し、旗親の多くは徹底抗戦を主張した。
「家康も本心で和議を結んだのではない。機会をうかがっているのだ。北の佐々成政、南の長曽我部はなお秀吉に対抗している。弱みを見せれば、かえって攻められる。ここは辛抱のしどころである」
明算もまた、自分の意見を述べた。
「いま秀吉と和議を結ぼうとしても、秀吉は応じないだろう。秀吉は、根来の存在を天下統一の障害と思っている。家康が寝返ったいま、秀吉は根来を滅ぼすことしか考えていない。いまさら弱気を出しても仕方がない。和議を請うのでなく、ここは戦って和議に持ち込むしかない」
明算の意見に、他の旗親たちも同調した。
紀州勢の生命線である南泉州の前線を守り抜けば、展望は開ける。信長の雑賀攻めのときは貝塚を落とされたため、一気に紀州に乱入された。何としても、ここで秀吉軍をくい止めねばならない。
この認識は旗親たちも共有していた。
根来寺の領内の土豪たちに和泉への総動員が命令された。雑賀、根来から残っていた行人が続々とと和泉の諸城に入った。領内の村々から男たちが駆り集められ、砦の補強が急ぎ行われた。
大坂に諜者が再び潜入した。本願寺が石山の地から、紀州鷺の森、泉州貝塚へと次々に拠点を移したあとも、一向宗の信者たちは、なお大坂に大勢住んでいた。彼らは、本願寺が秀吉に屈服したあとも、秀吉には反感を抱き続けていた。彼らは情報を探りに来た根来の諜者たちに、秀吉方の動きを知らせた。
鉄砲の増産にも拍車がかけられた。鉄砲の大生産地の堺、国友は秀吉の勢力下にあり、注文することはできない。結局、足りない鉄砲は、根来でつくるしかなかった。芝辻の店の奥からは、鉄砲の筒を鍛える槌の音が、昼夜絶え間無く、あたりに響いた。
四方の大名に檄(げき)が飛ばされ、秀吉が紀州に侵攻してきた時の速やかな支援を求めた。これに対し、四国の長曽我部元親、越中の佐々成政からは承諾の旨が届いた。これらの大名にとっても、根来の存在は心強かった。
家康に対しても、根来からの救援依頼は届けられた。だが、家康からの返事は、根来の依頼にまともに答えていなかった。
《常日頃の御協力まことにかたじけない。紀州勢の与力のお陰を以って、小牧長久手の陣は我が方の優勢のうちに終結できた。今後とも一層の同心をねがう》
儀礼的で、曖昧(あいまい)な返事が返ってきただけであった。
家康に秀吉と戦う気が全くないこと、家康がもはや頼れないことを、明算は悟った。