ささら越え

 和議交渉は、家康抜きで行われた。家康に信雄から和議について伝えられたのは、すでに和議が固まったあとだった。事前に相談して反対されることを信雄が恐れたためである。

 救援を求めておきながら自分を無視し、勝手に秀吉との和議を進めた信雄に、家康は怒りと不快を感じた。小牧と長久手の戦で多くの家来や味方を犠牲にし苦労して戦ってきたのに、何の断りもなく戦を終結させられることに無性に腹が立った。
 家康の家来達も口々に不満を訴えた。桑名城にいた酒井忠次は浜松城の家康に手紙を送り、信雄の不義理を激しく非難した。
 それでも家康は腹の中の不快な感情を家臣に見せなかった。

「自分は元亀の昔から、乱れた天下を静め、万民平和な世をつくることを亡き信長公と誓ってきた。その信長公の恩義に報いるため、この度の戦では手弱な信雄殿を助け、不遜な秀吉と敵対した。だが、長陣に尾張国の疲弊は甚だしい。人々も戦いに倦んで平和を望んでいる。信雄殿が秀吉と和議を結ばれるのならば、それで結構。当方に少しも遺恨はない」
 家康は、あくまでも建前を述べ、家臣にさえ決して本音を漏らそうとはしなかった。
 無邪気なまでに開けっ広げに本心を語る秀吉とは、大きな性格の違いだった。

 このような家康の性格を、人は「本心が知れぬ」とか「狡猾」と評する。
 だが、家康にとって、これは乱世を生き抜くための知恵だった。若い頃、人質として今川義元のもとで育った体験が、他人に不用意に本心を漏らさない用心深さを培った。

 家康は信雄に対し、和議に少しも異存はない旨を伝えた。単独和解に後ろめたさを感じていた信雄は家康の穏やかな対応に喜び、感謝の言葉を伝えた。

 秀吉は信雄との和議を固めると、次は家康の懐柔にかかった。敵を分断し、それぞれに硬軟両用の構えで交渉して従わせる。秀吉流の巧妙なやりかたである。

 使者に立った富田知信と津田信勝の二人は、家康の家臣の石川数正を通じて浜松城の家康に面会を求めた。二人の使者から家康に伝えられた秀吉の言葉は次のような内容だった。

「この度の戦は、信雄殿がいわれなく、自分を滅ぼさんとしたため、是非なく対陣に及んだのである。もとより徳川殿には何の恨みもない。信長公との古い盟約を重んじ、信雄殿を救わんがために出馬された徳川殿の実直さには心から敬意を抱いている。この度、かたじけなくも禁裏の御仲介によって、信雄殿との間の確執が解け、和解することができた。このうえは、徳川殿とも和議を結び、今までの争いを水に流して、末長くおつきあい願いたい」
 家康の自尊心をくすぐり、低姿勢で和平を請う秀吉は、相変わらず、そつがなかった。
 しかし、その本心は見えすいていた。秀吉の狙いは家康を手なずけ、自らの配下に組み入れることにある。丁重な言葉の裏に隠された打算は、家康と家康の家来たちを反発させた。
 とくに、秀吉が信雄を通じ、家康の子の於義丸(秀康)を養子として求めたことが家康の家臣たちを立腹させた。

 榊原、酒井、大久保といった徳川譜代の宿将たちはみな和議に強く反対した。
「養子と申しても、まことは人質。この度の秀吉の申し出は、天下の将たる我が君を自らの旗本に落としめんとする無礼な振る舞いである。もし、このまま秀吉の言葉に従うなら、いままで我が殿の威光を恐れ、従っていた他の大名たちも我が殿を軽んずるようになるであろう。そもそも、大事な於義丸様を危険な敵中にさらすようなことはできぬ。絶対に断るべきである」
 これが彼らの共通した意見だった。

 勇猛さと名誉を重んじる彼らには、和睦は即ち秀吉の軍門に下ることを意味した。長久手の戦いで池田勝入を討ち取り、戦では決して負けていない。そう自負していた彼らには、受け入れ難い屈辱的な条件だった。
「足軽上がりの筑前に臣従することなどできぬ」
 激高し、声高に罵る者もいた。

 しかし、本多平八郎忠勝の考えは他の宿将たちとは違っていた。和議に反対する武将たちの意見が出尽くしたあと、忠勝は主張した。

「明智と柴田を滅ぼして以来、羽柴筑前の向かうところ敵が無い。まさに朝日の昇るがごとき破竹の勢いにある。その領地はいまや日本の西半国に及び、帝都をも守護している。この現実のもとでは、織田家の旧臣をはじめ天下の諸将が秀吉の風下に立っているのも、けだし当然である。今、この時勢に逆らって秀吉に敵対を続けるのは決して得策でない」

 秀吉の力を率直に認める忠勝の意見を他の武将たちは不満そうな表情で聞いている。忠勝はそれにはかまわず話し続けた。

「この情勢の下で我が君が一時秀吉と和解し、秀吉に一味したとしても、あくまで時の流れに従ったまで。決して恥などではない。そもそも今回の和睦は秀吉の方から求めてきた。いわば我が君の武徳による勝利であって、むしろ誇ってよいものである」

 忠勝の意見は感情を離れ、冷静に天下の形勢を見すえた極めて常識的な考えだった。
 穏やかだが説得力のある物言いに引き込まれ、武将たちも口を差し挟まず、じっと聞いている。

「さきほど、どなたかが秀吉の出自を嘲けられたが、今の秀吉は信長公に仕えていたころの秀吉ではない。卑賎の出とはいえど、いまは天子から大納言の位を授かっている身分。秀吉を謗(そし)ることは天子を侮辱することである。そもそも、今の下克上の世に出生の卑しさなど持ち出して何になりましょうぞ」
 忠勝は、さきほど秀吉の出自を罵った武将に向かって、たしなめるように言った。武将は顔をしかめて横を向いている。

 家康は忠勝の意見をじっと聞いていた。信雄が秀吉と和解し、諸大名が秀吉になびいている今、自分一人が秀吉と敵対を続けたとしても、結局孤立する。そのことは忠勝にいわれるまでもなく、家康にもよく分かっていた。

 忠勝のあとは、もう誰も発言する人間はいなかった。もはや論議も尽き、あとは家康の判断を待つだけだった。
「忠勝のいうのは、まことに尤も。ここは、ひとまず鉾を収めるしかあるまい」
 主君の言葉をじっと見守っていた家臣たちに、家康は諭すようにいった。
「養子が人質と変わらないとしても、心配はないと思う。それに於義丸が秀吉の養子となるからには、もはや家康の子ではない。たとえ今後、秀吉との間で再び確執が起き、秀吉が於義丸を殺したとしても、秀吉が子殺しの汚名を受けるだけで、この家康の科(とが)ではない。そもそも秀吉が天下の盟主になる大志があるなら、この家康を欺き人質を殺すようなことをするはずがあろうか」

 家康も、本心は秀吉と和解などはしたくはなかった。ここで和解すれば、もはや秀吉には敵はいなくなるのも同様である。早晩、秀吉が天下を握るのは目に見えている。
 信長と組んで、東に勢力を伸ばそうと考えていた家康にとって、信長の死は予期せぬ痛手だった。さらに、追悼の戦に出遅れ、秀吉に仇討ちの功を許したことは家康の自尊心を大きく傷つけた。

 信長の後継者然として尊大に振る舞い、他の大名に号令する秀吉に対し、家康も反発を感じないわけにはいかなかった。
 確かに忠勝のいうように、いまの世は実力がすべてであり、出自は何ら役にたたない。そのことは、家康もよく分かっていた。とはいえ、かつて信長と盟友関係にあった家康にとって、信長の草履取り上がりの秀吉に実権を掌握され、臣従させられるのは腹立たしく、屈辱感を覚えるのも事実だった。

 しかし、家康は感情に流される人間ではなかった。ここで短気を起こし、秀吉と争いを続けても展望のないことは、はっきりと認識していた。大義名分もなく、自分一人では勝つことはできない。ここは辛抱して、時が巡ってくるのを、じっと待つしかない。家康は、ここでも持ち前の忍耐強さを発揮した。

 その忍耐心もまた、本音を漏らさぬ用心深さと同様に、幼いころの人質生活で身についたものである。屈辱にじっと耐え、むしろその屈辱をバネとして奮起するのは、家康の真骨頂だった。

《時流に逆らってはならない。今川が強いときは今川に付き、今川が滅べば、滅ぼした信長に付く。自分はそうやって生き長らえてきた。今回の戦では、秀吉に対抗して信雄を立てたが、信雄に天下を取る器量がないのは誰が見ても明らかだ。悔しいが、忠勝のいう通り、これからは秀吉の時代だ》

《自分より力を持っている人間に逆らうことは、避けねばならない。力に勝っている者に、本気で刃向かえば身を滅ぼす。相手に力があるうちは、ただ耐えよ。感情は押し殺し、時が来るまで、じっと我慢しよう。運は望んでつかめるものではない。向こうから転がり込んでくるものだ》

《明智光秀は鋭い男だったが、辛抱を忘れたために身を滅ぼした。勇猛な信長公も、自らの激情を抑えられず、光秀の恨みを買い、天下統一まであと一歩というところで殺された。信長公も光秀も、ともに自滅したといえよう。一時の感情に引き回されることは、絶対に避けねばならない。その点、秀吉は下賎の生まれだけに辛抱強い。信長公の理不尽な仕打ちにも黙って耐え、人の好き嫌いを決して顔に出さない。そういうところは自分も見習わなければならない》
 家康は顔をしかめ、爪を噛む。

 すでに日は落ち、清洲の城内は薄暗かった。手に紙燭を持って広間に入ってきた小姓たちが四隅に蝋燭をともした。考え込んでいる家康と、辛抱強く家康の下知を待っている家臣たちの姿が明かりに浮き上がった。

「明日にも筑前に書を持たせよ。息子をくれてやる、と伝えよ」
  家康は、乱れる心を思い切るようにいった。
 家康は家臣に直ちに陣を払うよう命じると、座を立ち、寝所に向かった。

 家康の決定は浜松城下で待っていた富田知信と津田信勝の二人に伝えられた。仲介の大役を果たした二人は喜び、大坂の秀吉に急使を出して知らせた。

 十二月に秀吉は家康と講和を結んだ。信雄の三家老誅殺(ちゅうさつ)に始まり、八ケ月の長きにわたった小牧長久手の戦いは、ここに終息した。

                ◇

 家康・信雄と秀吉の突然の和議は天下を驚かせた。中でも、信雄、家康と同盟を結んでいた大名たちの驚きと落胆は大きかった。

 越中の佐々成政もその一人だった。尾張に置いていた家臣から、和議を知らせる書状を富山城で受け取った成政は、鉄槌で脳天を打ち割られたような衝撃を受けた。

 この年九月、成政は家康・信雄の動きに呼応して、秀吉方前田利家の重臣奥村永福が占拠する末森城(石川県羽咋郡押水町)を攻めた。末森城は能登と加賀を結ぶ地にある要衝である。
 成政方は二万二千の兵で城を包囲し、激しい攻撃をしかけた。
 城の守兵は少なく、一時は三の丸まで落とし、落城は間近と思われた。しかし、加賀の前田利家が後詰め(=援軍)を出してきたため、成政軍は一転し劣勢となった。成政軍は耐え切れず、佐々喜左衛門ら多くの家来を失って退却した。
 成政はもともと柴田勝家の配下だったが、勝家戦死後に剃髪して秀吉に謝り越中を安堵された。その成政が秀吉を裏切り、敵対したのは、「合力して秀吉を倒そう」という家康・信雄からの申し入れを信じたためである。

 反旗をひるがえした成政に秀吉は激怒し、成政から人質として預かっていた成政の幼い娘を殺して報復した。それほどまで犠牲をはらって家康と信雄に協力したというのに、いまさら勝手に秀吉と和議を結ばれては、成政の立つ瀬がなかった。

 和議に納得できない成政は、焦りと悔しさに眠れない日を過ごした。家康と信雄の翻意を促すには、いったいどうすればよいのか。蝋燭の光が照らし出す天井板の木目を見詰めながら、寝床の中で成政はひたすら考え続けた。

 手紙で申し入れても、効果があるとは思えなかった。それよりも自ら二人を訪ね、和議を破談にするよう説得するのはどうだろうか。直接会い、改めて秀吉への共同作戦の継続を誠意を以って説けば、家康と信雄も分かってくれるかも知れない。

 そう考えると、成政はもうじっとしていられなかった。
 飛び起きて、布団の上に座り込み、枕元の水差しから湯飲みに水を入れて、一気に飲んだ。成政は自ら出向いて、二人を説得することを決心した。

                 ◇

 説得のための出立を決めた成政は、加賀にいる秀吉方の前田利家にさとられぬよう、仮病を使った。
 風邪のため臥せっているという話をあらかじめ城内に広めた。女中には自分の留守中も毎日、普段通り食事を部屋に運ぶよう命じた。さらに小姓、お伽衆たちには起請文を書かせ、主人の留守を絶対に口外しないと誓わせた。

 天正十二年(一五八四)十一月二十三日の夜、成政は、ひそかに富山城を出発した。佐々平左衛門、前野小兵衛、桜木甚左衛門らおよそ三十余名の近習が同行した。

 一行は、黒部峡谷から雪のささら峠を越える道を選んだ。険しいが最短の道筋である。
 いくら出発を隠していても、不在をいつまでも家臣たちに知られずに済むものではない。
 家臣が知れば、うわさは広がり、富山に入り込んでいる敵方の間者を通じて、早晩、利家の耳にも入る。
 そうなれば、利家方が主のいない富山に攻め込んでくるのは確実である。気付かれぬうちに、家康・信雄との面会をすませ、できるだけ早く帰る必要があった。

 熊の毛皮の胴着に半袴、頭巾、野太刀という熊撃ちの猟師のような装束に一行は身を固めた。
 熊や山賊に備えて火縄銃も携えた。雪に足を取られぬよう、かんじきをはいて、厳寒深雪の立山を登った。

 人気のない山の中、腰まである雪を交代で鋤を使って左右にかき分けながら、一行は少しずつ前進した。
 時折、雪の上にリスやキツネのような小動物の足跡を見るだけで、熊は冬眠に入ったらしく足跡を見かけなかった。

 険しい山道を登る夏でさえ厳しい行程が、雪に邪魔されてさらに困難さを加えていた。
 山は日が暮れるのも早い。暗くなると雪庇(せっぴ)を踏み外し、谷底に転落する危険がある。日が落ちる前に風の弱い斜面を選び、雪の中に洞をつくって寝た。
 雪洞の中は、意外に暖かかった。雪を集め、鍋に入れて湯を沸かし、冷えきった体を中から暖めた。焼き米と干した魚をかじり、すきっ腹をふくらませた。

 誰もが口も聞けないほど疲れきっていた。かんじきを外し、携行した牛の革を雪の上に敷いて横になると、すぐに眠りに襲われた。外は雪混じりの風が音を立てて吹いている。
 家臣たちが寝入ったあとも、成政は眠れないでいた。体は疲れているのに目は冴えていた。風の鳴る音を聞きながら、成政は家康に会った時に、どう説得するか考えていた。

 家康のことはよく知っていた。家康を初めて見たのは、成政が信長の黒母衣衆の一人として参戦した元亀元年(一五七〇)の姉川の合戦のときだった。このときは、信長の盟友である家康とは格も違い、話す機会もなかった。
 その後、鉄砲奉行として加わった天正三年(一五七五)の長篠の合戦でも、家康とともに戦った。このときは、祝勝の宴席で話す機会があった。
 余り自分からは話さず、何を考えているかよくわからぬ男。それが、家康の第一印象だった。その後、何度か家康と会う機会はあったが、最初の印象はますます強くなる一方だった。

 あの男をどうすれば説きふせられるだろう。疲れた体を横たえたまま、あれこれと思案しても、考えはいっこうにまとまらなかった。
 誠意を見せて、自分の経験を話して聞かせよう。秀吉が口先だけの男であり、秀吉の約束がいかに信用できないかを説明すれば、分かってくれるのではないか。
 例えば、備中高松城を見よ。信長公の死を知るや、そのことを隠して、毛利方に和議を提案し、城主清水宗治を切腹させている。なんというずる賢さ、厚顔さか。これだけ見ても、奴が信用できないことは分かる。

 家康たちの理解を期待する一方で、いったん固まった和議を壊すのは難しいのではないか、との不安も拭いきれなかった。
 家康が人質まで差し出して取り決めた和議を覆すことは、果たして可能だろうか。子を見捨てて、家康が再び秀吉と戦うか。

 かつて信長の命令で、我が子信康を自刃させた家康は、そのことをいつまでも悔やんでいたと聞く。今度、秀吉に差し出した九歳の於義丸を、再び見殺しにすることは、家康といえど、ためらうであろう。

 自分は娘を見捨てた。秀吉に反抗すれば、人質の娘が殺されることは分かっていた。
 それなのに敢えて前田方を攻めたのは、娘の命より自分や領地が大事だったからではないのか。自分は人非人といわれても仕方がない非情な人間ではないのか。
 そう思うと、説得への不安は、己に対する嫌悪と絶望感に変わった。

                 ◇

 こんな不安な気持ちになったのは、桶狭間の戦い以来のことだった。
 あの日、成政は山の中で、いつ来るかも知れない今川の軍を不安と焦燥の混じった気持ちで、ひたすら待っていた。
 今川軍が別の道を進んでいるということはないか。いまごろ、味方の砦が攻められているのではないか。
 そんな不安が、頭の中から消えなかった。
 たとえ予想通り、今川軍が目の前に姿を見せたとしても、圧倒的に優勢な今川軍に勝てるだろうか。
 そんな心配もあった。
 結局、今川軍は成政の待ち構える道とは別の道を進み、桶狭間で信長軍の奇襲を受けて壊滅した。成政が戦に参加することはなかった。

 その時の落ち着かぬ気持ちを、成政はいまもはっきりと覚えていた。雪崩が起きそうな雪の斜面を、きょう歩いて感じたような、胃の痛くなるような不安だった。

 あのときは不安の一方で、気分の高ぶりもあった。当時はまだ自分も若かった。信長公とともに死ぬことに、何の疑問も感じなかった。今川軍が来るか来ないか、いらいらしたのは死ぬ恐ろしさのためではない。奇襲が失敗することで今川軍に敗れ、尾張を蹂躪(じゅうりん)されるのを恐れたためだ。

 死ぬことは少しも怖くなかった。だが、今は違う。秀吉に攻め滅ぼされたくはない。滅ぶのは、もはや自分だけではない。成政の決断に、自分の家族や大勢の家臣の命がかかっている。

 雪明かりの洞の中で、成政はこれまでの自分の人生を振り返った。
 死んだ兄の隼人正孫介とともに、信長公の父信秀公に従った若いころ。信長公に抜擢され、比良城主となったころ。元亀元年(一五七〇)、近江小谷城から信長軍が撤退したときは、殿軍(しんがり)の栄誉を担った。天正三年、長篠の戦いに参戦したあとは、北陸の一向一揆討伐、摂津有岡城攻略と休む間もなく、各地を転戦した。前途は洋々と開けているように思えた。

 自分の人生が変わったのは、やはり本能寺で信長公が明智光秀に殺されてからだ。柴田勝家とともに越中松倉城を攻撃中に、凶報を知らされた。急ぎ軍を引いて上洛しようとしたが、途中で秀吉が光秀を討ち取ったと聞かされた。
 賎ケ岳の戦のときは、柴田勝家に味方した。だが、越中にいて秀吉と戦う機会もないまま、勝家の自刃で鉾を収めた。