和解

 長久手の戦いで手痛い敗北を喫した秀吉は、いったん大坂へ帰った。
 途中、美濃と尾張国境の木曾川中洲にある信雄方の加賀野井城(=羽島市)を攻めた。加賀野井城は黒田城や竹鼻城などとともに清洲本城の西北を守る支城である。
 加賀野井城は城主加賀野井重宗と、救援に信雄から派遣された伊勢神戸城主の神戸正武(=林与五郎)ら計二千人が守っていた。

 天正十二年(一五八四)五月四日、秀吉軍は細川忠興が先手となって攻撃を開始した。
 城の周りを三重、四重に柵で囲い、間断なく鉄砲を撃ちかける秀吉軍の猛攻に城兵は耐えられず、降伏を申し出た。
 しかし、秀吉は許さず攻撃を続けた。長久手の敗戦がそれほど悔しかったのである。

 追い詰められた城兵は五日の夜、追手門から打って出て決死の脱出を計った。しかし、圧倒的な数の敵に取り囲まれ、城主加賀野井重宗をはじめ千二百人が討ち取られた。

 勢いに乗った秀吉軍は六日、木曾川を渡り、対岸の竹ケ鼻城(羽島市)を包囲した。
 ここは信雄の家臣の不破広綱が守っていた。
 秀吉は周辺の農民を駆り出して、六昼夜で土手を築き、木曾川の水を引いて水攻めにした。水攻めは天正十年(一五八二)六月の高松城攻めでも成功している秀吉得意の戦法だった。

 孤立した不破広綱は小牧山の信雄に救援を求めた。
 しかし、小牧山周辺は秀吉の軍勢に包囲されていて信雄も動けなかった。結局、広綱は一ケ月後の六月十日に信雄の了解のもと、城を秀吉方に明け渡して退去した。

 秀吉は六月十三日、大垣城に入り、二十八日に大坂城へ戻った。秀吉が大坂へ帰ったのを見て、信雄は小牧山から長島城へ移った。家康も清洲城に戻った。

                              ◇

 そのころ、秀吉方の滝川一益は、伊勢の神戸城にいた。三月に信雄方の伊勢・峰城(亀山市)攻略に参加したあと、次の作戦までの情勢をうかがっていた。

 一益は、信長子飼いの武将である。近江甲賀の土豪の一族ともいわれるが、正確な氏素性や信長に仕えた時期などはよくわかっていない。
 役にたてば出自など問題にしない信長は、鉄砲の技に長けた一益を大いに重用した。
 一益もまた、強力な鉄砲隊を育て信長の信頼に応えた。羽柴秀吉、明智光秀らとともに多くの戦で功名を立て、信長の感状を得た。のちには織田家宿老の柴田勝家、丹羽長秀らと並ぶまでに栄達した。

 信長が甲斐の武田勝頼を攻めた天正十年(一五八二)二月、一益は河尻秀隆とともに、総大将織田信忠の軍監として従軍した。
 信忠が武田氏を滅ぼした後は関東管領職に任命され、上野国と信濃国の小県・佐久二郡を与えられた。
 一益は常陸の太田、梶原氏とも協力して東の強敵北条氏と戦い、信長が足場の弱かった関東で勢力を広げることに貢献した。このときが一益の人生の絶頂だった。

 しかし、本能寺の変が、それまで順調だった一益の人生を一変させた。
 天正十年(一五八二)六月、信長の急死を知った北条氏直が上野国に攻め込んできた。一益は上野と武蔵国境の神流(かんな)川で防戦したが、大敗を喫し、伊勢に逃げ帰った。

 備中高松城攻めから戻り、主君の仇である明智光秀を討って名をあげた秀吉にひき比べ、信長が勝ち得た所領を失った一益の信用は大きく失墜した。

 信長の後継者顔に振る舞う秀吉に、一益は嫉妬と憎しみを感じた。このとき、織田家宿老の柴田勝家もまた、主君の仇討ちで出し抜かれた焦りから、秀吉への敵意を強めていた。
 秀吉への嫉みと反感をともにする二人は、やがて行動をともにする。しかし、この選択は、一益には神流川の敗北以上に大きな誤りとなった。

 柴田勝家に味方し秀吉に歯向かった一益は、天正十一年二月から七月にかけ、伊勢の長島城や峰城の戦いで、秀吉軍を大いに苦しめた。
 しかし、頼りにしていた盟友勝家は賎ケ岳で敗れ、越前北庄城で自刃に追い込まれた。
 盟友を失った一益は孤立した。行き詰まった一益は恥をしのんで秀吉に降伏した。

 一命は許され、近江に五千石を与えられた。しかし、信長在世時代の権勢が忘れられぬ一益には屈辱的な待遇に思えた。一益には心の晴れぬ欝々とした日々が続いた。

                 ◇

 その一益にとって今回の秀吉と信雄の戦いは、功名をあげ再起を図る絶好の機会だった。

 かつて長島城を居城とし、北伊勢五郡を領したこともある一益は、周辺の地理に精通していた。今回の伊勢攻略に秀吉が一益を使ったのも、その地縁を見込んでのことだった。

 一益は信雄のいる長島城と家康の清洲城を分断するため、信雄方に属する蟹江城(愛知県海部郡蟹江町)を奪う作戦を秀吉に進言した。

 蟹江城城主の佐久間正勝は、三月の峰城(亀山市)の戦いで秀吉方に惨敗し、退却して伊勢長島にとどまっていた。蟹江城は正勝の家老の前田種利が預かっていた。
 

 前田種利は西尾張の前田村(名古屋市中川区)を本拠とする前田氏の一族で、秀吉の家臣の前田利家とは親戚である。秀吉側の滝川一益ともいとこ同士だった。
 一益は、ひそかに使者を蟹江城に送り込み、前田種利に信雄を見限って秀吉方につくよう勧めた。

 主君佐久間正勝と織田家への忠誠をとるか、自らと一族の利益をとるか。種利にとっては難しい選択だった。

 種利の心の中には、内通を疑って家老三人を情容赦なく誅殺した主君の信雄に対する不信があった。また、信長の下でともに戦った親戚の一益への義理だてもあった。しかし、何よりも種利の心を動かしたのは、一益から提示された恩賞の約束だった。

 このまま、信雄方についていても先は知れている。今度の戦で信雄が負ければ、自分たちも道連れになりかねない。しかし、ここで秀吉方に鞍替えして功を上げれば、一国の主となることも夢ではない。
大きな打算が種利に蟹江城明け渡しを決断させた。種利は開城に同意する旨を一益に伝えた。

 天正十二年六月一五日、滝川一益は約七百人の兵とともに、無血で手に入れた蟹江城に入城した。海につながる蟹江城への入城には、志摩鳥羽城主、九鬼嘉隆の水軍の協力を得た。
 九鬼嘉隆は一益が信長の命を受けて伊勢を攻略したとき、一益に協力して以来の仲である。その後も本願寺との戦いなどでともに戦い、心が通じていた。

 一益は、さらに種利を通じ、前田城(名古屋市中川区)を守る種利の子の前田長種と下市場城(愛知県蟹江町)にいる種利の弟の前田治利に同調するよう働きかけた。二人は寝返りに応じ、一益は両城も手に入れた。

 開城した蟹江城には、たまたま、佐久間正勝の家臣である大野城(愛知県佐屋町)の城主山口修理重政の母と妻が人質になっていた。
 一益は大野城の山口重政に使者を送って、人質を返す代わりに大野城を渡すよう勧めた。
 だが、重政は「たとえ母親と妻を殺されても、自分は佐久間の恩に報いる」と答え、一益の申し出をきっぱりと拒んだ。

 申し出を拒まれた一益は六月十六日、九鬼水軍の加勢を得て大野城を攻めた。
 海から、のぼり旗を押し立てた多数の軍船が大野川を上り、大野城を取り囲んだ。攻め手は弓、鉄砲、大筒で城を四方から攻撃した。硝煙で、あたりが真っ黒になるほどの猛攻だった。

 しかし、城方の抵抗は強かった。城主山口重政は夜になるのを待って、松明に油を注いで城の中から船の中に投げ込んだ。また、川岸から鉄砲を船に撃ち込んだ。
 何艘もの船が炎上、水の中に飛び込んだ兵は溺死したり、岸にはい上がったところを、待ち伏せしていた城方の兵に槍で突き伏せられた。
 重政からの注進で、長島城の信雄は、二千人の兵を大野城に加勢に向けた。清洲の家康も旗本を率いて出陣した。

 応援の軍勢と呼応した城方は、城門を開いて反撃に転じ、攻め手を押し返した。一益軍は総崩れとなり、大きな被害を出して蟹江城へ撤退した。

 大野城を守った家康・信雄連合軍は、南北から挟む形で逆攻勢に出た。蟹江城の近くの海岸線に兵を配置し、敵方の海からの増援を阻止した。

 家康と信雄は蟹江城を攻める前に、前田種利の舎弟、前田治利の守る下市場城を落とすことを決めた。

 六月十九日、榊原康政、織田長益の軍が下市場城の攻撃にかかった。榊原康政の率いる五千の家康軍は、城の大手口より攻めかかった。大野城主山口重政は、小坂孫九郎らと城のからめ手を攻めた。

 糧食と兵を乗せた九鬼嘉隆の軍船が下市場城救援のため、海から近付いたが、海岸にいた岡部長盛の軍が発砲し、これを退けた。さらに長島の舟手衆が追い掛け、火矢を放って敵船を焼いた。九鬼の軍船は志摩に逃走した。

 夕方になって大手口が破られ、徳川軍が城の中に雪崩込んだ。城主前田治利は馬に乗り、家臣とともに、からめ手から逃げようとしたところを、待ち伏せしていた山口重政の家来、竹内喜八郎に討ち取られた。
 家康は、下市場城で得た前田治利らの首を小牧山の陣に送り、秀吉軍の本陣のある楽田に向けてさらし首にした。

 下市場城を落とした家康・信雄軍は、その日のうちに蟹江城を包囲した。 
 戦況が不利になったことを知った九鬼嘉隆は、一益に蟹江城から退去することを進言した。一益もこれを受け入れ、船で脱出を計った。しかし、城を包囲した信雄方の軍船に妨害され、再び城に戻った。

 家康・信雄軍は二十二日に総攻撃を開始した。
 榊原康政、丹羽氏次、水野忠重、大須賀康高らの武将が攻撃に加わった。

 蟹江城は小城だが、深い堀に囲まれ、攻めるのは難しかった。攻撃方は小舟を使って三の丸に取り付き、そこに櫓を立てて、二の丸、本丸に昼夜銃撃を加えた。

 追い詰められた一益は城門を開けて打って出た。攻撃方はいったん包囲を崩したが、すぐに態勢を立て直し、城方の二百人を討ち取った。残った城方は再び城内に戻った。

 城内は補給が途絶え、食糧と弾薬が底を尽いた。窮地に陥った一益は二十九日、ひそかに信雄の叔父で昵魂(じっこん)の織田有楽を頼って降伏を申し出た。
 信雄は裏切った前田種利の首を出すこと、人質にとっている山口重政の母と妻を返すことを条件にこれを許した。一益は七月三日、これを実行し開城した。

 このとき、危険を察知して、ひそかに城を脱出しようとした種利と十三歳の子の小字八を、一益の家臣の滝川源八郎が追って討ち取った。

種利は激しく抵抗したが、息子小字八の身を案じて隙が出来たところを討たれたという。一益の誘いに乗って、秀吉方についた種利の哀れな最後だった。

 種利の息子、長種の守る前田城は家康配下の石川数正、安倍信勝が包囲していたが、長種は父の死を知り、城を明け渡して美濃に逃げた。長種はその後、前田利家のもとで小松城代となる。

 蟹江城を明け渡した滝川一益は、伊勢の木造城に戻った。しかし、種利の首を差し出して逃がれた一益を見る人々の目は厳しかった。
 木造城代、富田知信は「秀吉の許可なく開城した」との理由で一益の入城を拒んだ。窮地に陥った一益は、わずかな家来と京都妙心寺に落ちのび、そこで髪を落とし出家し、高野山に入った。

 失われた一益の信用は二度と元には戻らなかった。のちに秀吉が憐んで、丹羽長秀に一益の世話をさせたが、自らの卑怯な振る舞いを恥じた一益は、流浪の旅を続けたあと、天正十四年九月、越前で客死した。
 かつては上野一国を支配したこともある男の惨めな末路だった。

                             ◇

 蟹江城の戦いで、滝川一益が敗れ、清洲と長島の分断作戦が失敗したことを知った秀吉は、再び北からの攻撃にかかった。約一か月後の八月一六日、秀吉は大軍を率いて尾張に向かった。

 八月二十七日、秀吉軍は楽田(犬山市)付近に布陣した。翌二十八日には小牧山の西北の小折(江南市)に現れ、周辺の家に放火した。

 小折は織田信長の妻で信雄の母、久庵桂昌の出た生駒家の在所であり、信雄自身の出生地でもある。秀吉はこの放火によって信雄を挑発し、圧倒的な兵力に物をいわせて決戦をいどむ腹だった。
 このたくらみは、信雄の背後にいる老練な家康には通じなかった。家康と信雄は近くの岩倉付近に兵を出したが、秀吉の挑発には乗らず、反撃しなかった。

 戦いは再び持久戦に入った。双方とも柵や堀を巡らし、相手がしびれを切らして動き出すのを待った。時々、相手方の村を襲っては家を焼いたり、稲を刈り取ったりした。

 九月に暴風雨が吹いて、田畑は荒れ、農民にとっては最悪の事態となった。
 桑の木は風で倒れ、蚕も育たなかった。稲に加えて大豆などの作物も出来は悪かった。茶も商人が戦を避けて来ないため、売れなかった。わずかに夏の間に刈った馬の飼料を米に替えて、村人は食いつないだ。兵火にかかって家を焼かれた農民たちは、粗末な掛け小屋に住んで、不便な暮らしを忍んだ。

 長戦にうんざりしていた庶民の間に、急速に厭戦気分が広がった。秀吉や家康といえども、地元の有力農民の支援なくして戦はできない。和議への機運は双方の陣営で高まった。

 膠着状態に入った戦局を打開するため、秀吉は得意の外交手段で解決を図ろうとした。
 信雄を支えている家康を力で屈服させることは容易ではない。それは長久手や蟹江の敗戦で、痛いほど思い知らされた。これ以上、戦が長引くと、北陸の佐々や四国の長曾我部、それに紀州勢が再び動き出し、背後を脅かされる心配もあった。信雄さえ納得させれば、家康には戦う名分がなくなることは分かっていた。

 柔軟な秀吉は、戦での勝利にはこだわらなかった。戦であれ交渉であれ、最終的に自分の勢力が拡大すれば、それでよい。そのためには、相手の顔を立てることも考えねばならない。秀吉はそう考えていた。
 秀吉は家康には内密に、信雄の旧臣、丹羽長秀を使者にたて、信雄の家臣で滝川一益の娘婿、滝川雄利を通じて、桑名の信雄に和議を申し入れた。

 秀吉の申し入れの口上は以下のようなものだった。
 自分は信長公に引き立てられ、その恩を一日たりとも忘れたことはない。織田家には大いに恩義を感じている。信孝公が柴田勝家と結んで自分を滅ぼそうとしたため、やむを得ず争い、信孝公を生害させる結果になったが、弟君の信雄公には敬意を払ってきた。しかし、信雄殿にも徳川と組んでの御不審な振る舞いが見られたことから、自分はそれを質すために出兵したのである。
だが、戦は民を苦しめ、その騒乱はついに叡聞にも達した。先日、関白近衛左大臣家より、禁庭(=朝廷)からの叱責が伝えられた。それは、「なき信長に代わって、七道を安んじ、王道を鎮護することは秀吉信雄両人に課せられた義務である。それにもかかわらず、両人とも四海平治の大任を忘れて相争い、父祖の地を血で汚し民百姓を苦しめている。民は朝には馬蹄に驚き、夕には鯨波(とき)の声に安息の日がない。一日も早く争いをやめるべきである」という内容であった。まことに恥ずかしいことである。自分としては、叡慮を重んじ、この際、矛を治めたいと思う。信雄公におかれても、ぜひご同意願いたい。

 秀吉は、朝廷の権威を巧みに利用し講和を訴えた。これは浅井、浅倉勢と比叡山延暦寺に包囲され苦境に陥った信長が、朝廷を通じて講和を持ち掛けたのと同じ手法だった。

 秀吉の和議の呼び掛けを、信雄は初め信じなかった。
「筑前は表裏のある人間である。和睦とみせかけ、時をうかがって再び攻撃を仕掛けてくるかもしれない」
 そう信雄は勘ぐった。
 しかも、秀吉が出した和議の条件には、信雄の子を人質として秀吉に差し出すとの条項があった。信雄は怒り、交渉は決裂した。

 しかし、粘り強い秀吉は諦めなかった。十月には、津田信勝と富田知信を使者に立て、信雄の家臣の滝川雄利のもとに遣わした。
 最初の和議案では、信雄の娘を人質に差し出すことになっていたが、新しい和議案では、信雄の娘を秀吉の養女とする、と変えてあった。実態は人質と変わらなくとも、養女の形をとることで信雄の顔を立てたのである。

 信雄はなお、秀吉の本心を疑っていた。味方をしてくれた家康に対する義理立てもあった。逡巡する信雄に滝川雄利は進言した。

 すでに伊勢は、秀吉の手に落ち、尾張も北半分は押さえられている。貯えの兵糧も乏しく、このままでは越年もままならない。この機を逃しては、お家の存続もはかりがたい。ここは相手を信用し、和議を受けるのが得策である。

 滝川雄利のいう事が尤もなのは、信雄もよく分かっていた。長久手や蟹江の局地戦では、秀吉方を破ったとはいっても、全体としては押されている。いまは信雄側についている武将たちも、いつ前田種利のように自分を裏切るかもしれない。全く先が全く見えない状況だった。

 雄利の説得に信雄もついに和議を決意した。雄利は津田信勝と富田知信に和議案の受諾を伝えた。

 和議の条件は、人質を養子縁組に改める点のほか
一、秀吉が占領した伊勢四郡、尾張北部を信雄に返還する
一、信雄家臣の領地の損失手当として米三万八千石を信雄に与える
などだった。

 十一月十一日、秀吉はひそかに桑名の近郊、矢田河原で信雄と会見して、単独講和を結んだ。