腰をかがめ、田植えをしていた人々が、手を止めて立ち上がった。
老いた男女と若い男女が、こちらを見ている。
十郎太は頭を下げた。
「おじいちゃん、おばあちゃん。砦から手伝いに来てくれた十郎太さんよ」
「ああ、ようきてくれましたな」
おちかの祖父は、左手で菅笠をとり、泥で汚れた右手で顔の汗を拭いながら歯を見せて笑った。
「おおきに、ありがとうさん」
祖母も礼をいった。
若い男女がほほえんでいる。
「どうぞよろしう」
十郎太は頭を下げた。
十郎太は、わらじを脱いで田に入った。おちかもはだしで田に入り、老人たちもまた田植えを続けた。
十郎太の足の裏に冷たい泥の感触が伝わってくる。子どもの頃、故郷の熊取で親戚と一緒にした田植えが思い出された。
水を張った田んぼは、まだほんの一部にしか苗が植えられていなかった。
田のあちこちには、わらで縛った苗の束が無造作に放り投げられている。
田植えの衆は、それを拾って少しずつ分け、田の面に張られた目印の付いた縄に沿って規則正しく植えていく。
左肩をかばいながら腰をかがめ、苗を植える作業は楽ではなかったが、冷たい水の感触が気持ちよかった。
子供のころ、十郎太にとって田植えは楽しみの一つだった。
親戚や「結い」と呼ばれる共同作業の仲間を作っている近所の人々が集まると、法事や祭りのようににぎやかになった。
泥にまみれた仕事はきついが、終われば風呂に入り、用意した御馳走をみんなでしゃべりながら食べる。
大人達は酒に酔って冗舌となり、女達は男の冗談に笑い転げる。子供たちもはしゃいでいる。
秋の稲刈りとともに田植えは農民にとって最も大切な節目である。田植えのあとの酒食は厳しい労働の報酬であり、楽しみだった。
六人の大人達は横一列になって、隣の者としゃべりながら、あるいは一人で黙々と苗を植えていく。
一人残されたおようは、また一人、畦で野の花を摘んで遊んでいる。
同じ年頃の子供たちは、戦乱を避けてあちこちに預けられ、村にはいなかった。遠くの森で鳥が鳴いている。
おちかも十郎太と並んで植えていった。
小袖のたもとを、ひもでたくしあげた姿は、かいがいしく好ましかった。
「あの人達も結いの人かえ」
田の端に並んで苗を植えている男女を目で示しながら、十郎太はおちかに聞いた。
「ううん。あの人たちは島の人らよ。戦に人を取られて田植えの人手が足りないから、お金を出して来てもらっているの」
おちかは、それだけいうと、黙って苗を植え続けた。
十郎太も島のことはよく知っていた。
島とは街道の分かれ目などに出来た集落である。ここに住む人々は、その外の集落から「島の人」「宿人」と呼ばれ、特別な目で見られていた。
島の人々の生業は死んだ牛馬の処理や葬儀の手伝い、あるいは寺の雑役といった仕事である。
声聞師(しょうもんじ)、唱道絵の絵解き、傀儡師(くぐつし)などの遊芸・芸能や、染色に使う紺灰の製造、竹製品作りなど様々な手工業もまた彼らの重要な生計の手段であった。田植えや収穫などの農繁期には、農家に手伝いとして雇われることも多かった。
彼らの仕事は軽んじられていたが、それなしでは人の生活は絶対に成り立たない大切な仕事である。
人のやりたがらない仕事を引き受け、下積みに甘んじている彼らがいなければ、権勢を振るう将軍、天皇でさえ一日も暮らせない。
それにもかかわらず、彼らは差別をうけていた。子供でさえ島の子供達を特別視した。
十郎太も子供のころから島の子供達とあまり遊んだことはなかった。何か自分とは違う存在のように感じていた。
差別されてきた島の由来はよく分かっていない。
大和朝廷に征服された東北の蝦夷や南九州の隼人が西日本各地に移住隔離されたのが起源という説がある。また、古代の隷属民、奴卑の系統を引くという説もある。律令に定められた公地公民の制度が崩れ、貴族の大土地所有が広がる中で、土地を失った農民が一か所に集まって、こうした雑業につくようになったともいわれる。
秀吉ら権力者が抵抗した農民を弾圧して作ったという人もいる。しかし、実際はそれよりも早く中世から存在したことがわかっている。
島の後身である同和地区への差別は、現在の日本でも根強く残っている。
同和地区の人々は長年、就職や結婚などで不当に差別されてきた。昔は田畑を持っている人が少なく、第二次大戦後、同和対策法ができるまでは苦しい生活だった。
同和地区の産業は、かつては肉や皮革の処理と竹などの細工が中心だった。
竹はかつて南九州にしか生えていなかったといわれ、竹細工は隼人の得意な技術だった。肉皮の加工も狩猟民族の獲物の処理の伝統がある。これらを考えれば、移住させられた隼人がこれらの技術を伝えた可能性も考えられる。
阿多隼人や大隈隼人の移住隔離は仏教の伝来と同じ時代で、殺生は仏教の教えで忌避された。隼人が同化された後も、移住した地域に向けられた差別は残ったのかも知れない。
被支配民族が抑圧されるのは、アイヌや昔の朝鮮人差別、インドのカースト制度、ユダヤ人迫害でも共通している。自らの国家のない民は、圧迫され権利を奪われる。
差別は自分の属する集団の利益を守り、優位を保つため、あるいは精神的な優越感を得るため、他の集団を抑圧し、排除しようとするところに発生する。差別されている人間が、劣等感を晴らすために他人を差別することもある。他を押さえて自己の利益を貫くのは、戦争の原因と同じといえよう。
◇
室町時代には既に「島」は存在し、社会の最下層にいる人々が居住する地域となり、他の村とは区別されていた。
京都の清水坂と奈良の奈良坂に、これらの人々が集中して住んでいたことから、彼らは「坂の者」とも呼ばれた。
「島」には没落した百姓や零落した手工業者らも流れこみ、こうした細々とした仕事で生計を立てていた。
自活できる田や畑はなく、商いを始めるにも資金と技術がない。人の敬遠する仕事につくか、賃仕事に雇われ、その日暮らしの生活をするしか生きるすべはなかった。
社会の底辺に位置し、最も権力者に虐げられている彼らは、本来、国家を恨み、国家に敵対してもおかしくない。だが、現実には、その彼らが国家と権力の手足となった。
すでに平安時代には検非違使庁が彼らを行刑役に使い、犯罪者の捕縛や処刑に当たらせた。
「放免」と呼ばれた、これらの人々は髭を伸ばして赤い衣類をまとい、民衆から恐れられた。その後、鎌倉時代から室町時代になると、貴族に代わって権力を握った武士が社会秩序を維持する手段として彼らを使った。
こうした経緯が国家権力に対する民衆の恨みを、彼らに向けさせる結果になる。彼らに捕らわれ、処罰を受けた人々やその家族は島の者たちを憎み、一層差別するようになった。
戦国時代は島の人々にも大きな変化をもたらした。彼らにとっては刀一つで成り上がることの出来る戦は、底辺から上昇する好機となった。
戦があると彼らは金で雇われた。戦闘に参加するだけでなく、土塁つくりなど戦に必要な土木作業にも従った。
彼らは都市での一揆にも参加し、金貸しを襲ったりした。闘争を恐れぬ彼らは、うとまれると同時に恐れられた。彼らは世間から孤立した。
狭い土地に密集し、食糧を得る土地を持っていない彼らは、飢饉や災害があると、真っ先に犠牲になった。死んでも葬るだけの力は家族にはなく、死体は河原に打ち捨てられた。
これらの人々に対して百姓たちは冷淡だった。貧しい農民はむしろ自分達よりさらに惨めな者を見て心を慰めた。
その農民自身も村を離れれば、暮らしていけない。借金で土地を失った農民は小作人になるか、そうでない者は浮浪者になって都市に流れ込んだ。
村は排他的であり、よそ者に宿を貸すことは、村の掟で禁じられていた。この時代の農民にとって、自分の村の者以外はすべて、よそ者だった。
職人も不始末をすれば、材料の仕入れや流通の利権を握る同業者組織の「座」から追い出され、たちまち生活に困った。
食いつめた農民や職人は、こうして島に流れ込み、差別を受けながらも必死に暮らしていかねばならなかった。
一体、差別とは何か。それは上から押し付けられたものであると同時に、民衆自身が作り上げたものでもある。
もともと人間は集団の中でしか生きられない。特に米をつくる仕事は、利水や田植え、収穫など多くの共同作業を必要とする。
人々は集団を作り、助けあって暮らさざるを得ない。
森で獣を捕ったり、海で魚を捕ったりしていた時は、比較的自由だった人間も米の栽培を始めてからは組織に縛られるようになった。
稲作とともに家族は集まって集団となり、村ができる。村はやがて連合して、有力な氏族に統率された部族社会となる。部族社会は抗争の末に国をつくる。
こうした力の集中とともに身分の違いが生じた。身分は男女の性にも及び、男女がともに手分けして食糧を探していた太古の時代には見られなかった女への差別が現れた。
いま、人は村や座に従属し、村や座は守護や寺社に従属している。そして、守護は将軍に従う。
実権は失われたとはいえ、形式上頂点に立つのは天皇である。そして社会の最底辺には「島」の人々が位置した。
自分とおちかの横で腰を曲げ、苗を植えている男女を十郎太は見た。生まれてから、彼らはどれだけの差別を受けてきたことだろう。
彼らの目は、眼病で赤くただれ、目やにがこびりついている。継ぎの当たった粗末な小袖は垢じみていた。
彼らの人生は屈辱と苦しみの連続だったことだろう。子供のときから、理不尽に差別され、年頃になってからは叶わぬ恋に世の中を呪ったかも知れない。
十郎太はさっき、紹介されたときの彼らの不安そうな顔を思い出した。
それは十郎太が子供のとき、遊んでいていじめられた島の子供が見せた当惑の表情に似ていた。気の毒に思いながらも、そのとき十郎太は、自分もいじめられることを恐れて、彼らを助けなかった。
「侍に苦しめられ憤っている農民もまた、坂の人たちを差別し、苦しめている」
そう思って、十郎太は心が痛んだ。
◇
世間から見放されていた「坂の者」を救ったのは宗教者たちだった。
大乗の菩薩行を信奉する僧たちは、これらの貧しい人々を救済することこそ仏に仕える自分の役割と考えた。
僧たちは、坂の者たちが死んだ牛馬を買い取って処理し、また、葬送など寺の雑用をして生活できるように、支配者たちと掛け合った。火葬のあと、山野で死者の衣服や供物を自分の物とすることなどが彼らの権利として認められた。
葬家が、葬送をつかさどる彼らに十分な報酬を払わないとき、坂の者たちは押し掛けて金銭を要求することもあった。
また、癩(らい)病の患者は、坂の者の支配下に入って乞食をせねばならない掟だったが、彼らの長(おさ)に、なにがしかの金を払えば、家族と引き続き同居することも認められた。
死人や病人を出して悲しんでいる家にとって、坂の者たちの要求は非情な仕打ちだったかもしれない。
こうした振る舞いは、彼らに対する農民たちの反感を募らせる原因にもなった。しかし、彼らにしてみれば、それは生きるために必要なことだった。そうしなければ、彼らと家族もまた飢えて死ぬことになる。
葬送の独占権など、彼らの要求を当時の支配者が権利として認めたのは、最低の社会保障をしなければ、彼らが一揆を起こし、治安を守ることが出来なかったからである。
寺は彼らの後ろ盾となった。島の人々は細々とではあるが、露命をつなぐ手段を確保することができるようになった。こうして島は寺に従属するようになった。
坂の者を救済した僧侶の中で、とくに名高い人物は、鎌倉時代、奈良西大寺を拠点に活動した叡尊(えいそん)とその弟子忍性(にんしょう)である。
当時の人々は、坂の者たちが現世で苦労するのは、前世に犯した罪の報い、あるいは仏を謗(そし)った償いであると考えていた。
これに対し、叡尊と忍性らは、「現世で苦しんでいる非人は、人々になりかわって世の苦しみを担う文殊菩薩である」と説き、仏の慈悲を実現する彼らを助けることに精力を注いだ。
二人は奈良坂に住む貧しい人々に病気の治療をし、食事を与えた。また、社会を支える職業集団として、彼らを社会に認知させた。
坂の人々は、こうした行為に感謝し、仏の教えに帰依した。
西大寺と坂の者たちの結び付きは強まり、寺は彼らを使って大掛かりな新田の開墾事業を営むようにもなった。
時宗の祖である一遍上人(一二三九〜一二八九)の踊り念仏が鎌倉時代に流行したのも、これら差別された人々の帰依によるところが大きい。
一遍は、狩猟や漁労に携わる人々を啓蒙し、社会の最下層に置かれていた癩病患者を「すでに仏罰を受け、清められ、現身(うつしみ)のまま仏になれる者である」として積極的に教団に迎え入れた。
「名を求め、衆を領すれば(=多くの人を支配すれば)心身疲れる。功(=功徳)を積み、喜びを修すれば(=学べば)希望多し。孤独にして境界なきにはしかず」
上人は世間的な名声や地位を求めず、諸国を遊行した。殺生の徒である武士に対しても現世の空しさを説いた。
上人に教化された武士たちは、阿弥陀仏の救いを広めて積極的に諸国を歩いた。
時宗の僧たちは、戦があればともに従軍し、戦場で傷を負って死にかけている武士や足軽たちに念仏を勧めた。戦闘に巻き込まれ自分も殺されるかも知れない戦場で、彼らは死体を収容して火葬し、家族に骨を届けた。
鎌倉幕府が滅びた元弘三年(一三三三)五月、鎌倉にある時宗・遊行寺の僧たちは、市中に放置された、おびただしい数の戦死者を弔ったという。
坂の者は僧兵や神人(じにん)としても使われた。寺の庇護を受けた坂の者たちの一部は、武器をもって外敵から寺を守る役目を引き受けた。
僧兵になれば、それまでの経歴や出自は、いっさい問題にならなかった。戦功をあげれば、地位は上がった。
いまや、これまでの身分社会が大きく変わりつつあった。力をつけたもの、力のあるものが、自己主張を始めていた。島の者達もまた、自らの力に目覚め、自信をつけていた。
◇
十郎太が加わって、田植えは、はかどった。植えられたばかりの苗が何列にも連なって水の中から、頼りなげな細い葉を出している。
梅雨時の日差しは弱く、外での作業にはちょうどよい時期だった。
十郎太には、風に震えている稲の苗が百姓に似ていると思う。
弱く、踏みにじられれば、泥田の中に簡単にめり込んでしまう。
同様に百姓も弱い存在である。嵐で稲が倒れたり、虫に荒らされることに心を傷め、汗水垂らして作った米を、何もせぬ武士に奪われても抵抗できない。
しかし、ひよわな苗はたくましく成長する。水と日の光を頼りに毎日ぐんぐん育つ。やがて秋には豊かな穂を実らせ、子孫を残していく。百姓もまた、武士たちが互いの抗争によって死に絶える中で、たくましく生き残っていく。
日が落ちるまでに、田植えは終わった。みなは畦に上がり、川の水で手や足を洗って、帰り支度を始めた。
十郎太は泥の付いた手で竹筒を取って、中の茶を飲んだ。腹が減っていた。
おようは、畦道で眠りこけていたが、みんなが戻ってきたのに気付いて、目を覚まし、手で目をこすった。
おちかは、幼い妹の髪についた草の実を丁寧に取ってやった。
「さあ、早くうちへ帰って飯を食べよう。焼酎が楽しみじゃ」
祖父がうれしそうにいった。
帰り支度が終わり、みんなが家路に着こうとしたとき、畦道を一人の男があわてて走ってきた。男は、十郎太たちに向かって突き進んで来る。
男は目を見開いて、あえいでいる。
十郎太は、草の中においていた弓に矢をつがえると、男に向かって構えた。
男は驚いて立ち止まった。
「友大夫。どうした」
祖父が声をあげた。
男は、十郎太の弓を見て恐怖の余り、物もいえずに突っ立っている。
「下男の友大夫じゃ。敵ではない」
十郎太の顔を見ながら祖母がいった。
十郎太は弓を下げた。
「血相変えて、一体どうした」
祖父が詰問するようにいった。
友大夫はしばらく声がでなかったが、やがて落ち着いて話し出した。
「えらいことじゃ。家康が秀吉と和睦した」
「何と」
祖父はそれだけいって、あとの言葉が続かなかった。
十郎太とおちかは、驚いて顔を見合わせた。