七山村

 荒れ地を開墾し、池や用水路を掘り、助け合って苗を植え収穫する。多くの人間が力を合わせなければできない米作りによって、農民たちは互いに堅く結ばれていた。
 狩猟採集の時代は小人数で言葉が通じればよかった。物々交換が始まると、大勢の人間が理解できる共通の言葉が必要になった。米作が始まって富が蓄積されると、米や貨幣を介した交易はさらに広がり、言葉は広い地域で共通となった。やがて国ができ、言葉は一つに強制された。
 農村社会では一人で暮らすことは出来ない。掟は厳しく、自分勝手な行動は許されない。掟に従わなければ、村人としての権利を奪われ、村八分にされるか追い出される。

 戦国時代の村には自作農がつくる惣と呼ばれる自治組織があり、年長の有力者が「乙名(おとな)」や、乙名を補佐する「中老」となって指導した。重要なことは、すべて神社での寄り合い「宮座」で決められた。

 自作農のほか、村には多くの小作人もいた。
 彼らは、もともと土地がないか、あるいは借金のかたに土地を失った者たちである。
 寺や有力者が金貸しを兼ね、飢饉のときなど農民に種もみを買う金を貸付けた。翌年、作物がとれ、借りた金を返せればよいが、飢饉が続けば土地の所有権を失い、零落して小作人になった。

 また、いくつかの村には宿や島とよばれる集落もあった。これらの人々は死んだ牛馬を処理したり、神社や寺の雑役あるいは土木工事を生業としたりしていた。一般の農民に比べて生活は貧しく、人々から差別されていた。
 戦が起きると徴集され、刀や槍を与えられて死地に追いやられた。

 彼らにすれば、貧しく悲惨な生活より、勝てば報償を得られる戦は上昇の好機だった。彼らは死を恐れることなく、果敢に戦った。大和朝廷が異民族の隼人を兵士に用いたように、権力者は彼らを利用した。

 村の有力農民はこうした小作人や差別されている人々を多く抱え、時には自ら守護の被官や社寺の代官になって村を治めた。
 おちかの父も、そんな乙名の一人だった。

 有力な百姓は、たいてい少年期に寺で学び、読み書きができた。彼らは青年になると、若衆として神社を祭る村の組織である宮座に入り、祭りなど様々な行事を通じて村のしきたりを身に付けた。また、乙名や中老たちが決めたことを実行した。

 惣はまた、近隣の惣とともに組の郷(くみのごう)とよばれる組織をつくっていた。組の郷に入っている惣同士では、用水の利用の仕方などを取り決め、台風で水路が壊れたときなどは助けあって修理した。また、外部から兵が侵入し、家を焼いたりしたときも共同で立ち向かった。

 この時代の農民は、後の江戸時代とは異なり、領主への年貢や、田の名義人である名主への加地子(かじし=小作代)を納めれば、比較的自由だった。
 治安の悪い時代だったから、庶民も刀や脇差し、鉄砲を持つことを許された。移動の自由も認められていた。戦になれば領主に味方し、野伏になって敵を襲った。また、盗人の処分などを行う「自検断」とよばれる司法権限も持っていた。

 彼らは領主が年貢の法外な引き上げや奉仕作業などを求めてきた場合、村人全員の総意で抗議し、聞き入れられない場合は、全員が村を離れて山に逃げ込んだ。

 自らも生活に困ることを覚悟したうえでの集団行動である。一つの惣が逃散したときは、組の郷の別の惣が食糧の援助をした。
 惣が語らって一揆を起こすこともあった。一揆を起こすときは蓑や笠をつけて鎌、刀で武装し、領主のもとに押し掛けて年貢の減免を求めた。これには、組の郷に入っているいくつかの惣が参加した。

 こうした逃散や一揆など、領主に反抗する行為に出ることを「篠(ささ)を引く」という。
 この言葉は、住居に篠や柴を掛けて、部外者が入ることを拒んだ風習に由来する。惣の寄り合いでの総意に反して行動に加わらなかった場合は、村に留まることを許されなかった。惣の結束は固かった。

                               ◇

 七山村へ行く途中、ところどころの川岸に、紐でしばった蕨(わらび)が浸けられていた。
 水に浸けた蕨の根をたたくと、良質の澱粉がとれる。これを湯で固めると、蕨餅が出来る。
 米が豊作のときは子供の間食にすぎない蕨餅も、飢饉のときは命をつなぐ重要な食糧となった。
 村人は規則に従って、交替で村の山に入り蕨を採った。
 村人が規則を破って勝手に蕨を採ったり、よそから山に入り込んだ人間が蕨の生えている場所を荒らせば、村人から半殺しの目にあった。

 現に熊取庄では数年前の飢饉の際、川に浸けてあった蕨を夜の間に盗んだ子供が、激高した村人たちによって殺されたことがあった。
 ここ数十年は、あんな悲惨な飢饉は起きていない。しかし、台風や戦があれば、いつまた起きるとも知れなかった。

 やがて、十郎太の行く手にこんもりと繁った森が見えてきた。おちかから聞いた七山村の鎮守の森だ。
 街道を左にそれ、砂利を敷いた参道の鳥居をくぐる。田んぼの中の神社に通じる道の途中に、おちかが座って待っているのが見えた。
 おちかは十郎太に気がつき、立ち上がって笑顔で手を振った。

「暑かったでしょう。まあ、お茶でも飲んで」
 汗を額に浮かべている十郎太に、おちかは、手に持った竹筒を差し出した。
「すまん」
 十郎太は、手に持っていた弓をわきに置いて竹筒を受け取り、一気に中の水を飲んだ。冷たい茶が、喉を通って胃に流れていく。

 神社を囲む雑木林は広く、中でさまざまな鳥の声が聞こえる。日差しは木々の若葉に降り注いでいる。おだやかな初夏の一日だった。

「大きな神社でしょう。ここで秋には風流(ふりゅう)をやるの」
 七山村の風流念仏踊りは、近隣では有名だった。
 十郎太も昔、熊取の神社の秋祭りに、七山村の村人がやって来て、風流を奉納するのを見たことがある。趣向を凝らした奇抜な格好をした男女が、笛と鉦(かね)に合わせて踊る様子は見飽きなかった。

 長い柄の大きな唐人笠の上に金銀の箔を張り付けた風流笠を先頭に、仮装した農民たちが練り歩く。風流笠の上には、色とりどりの短冊をつるした桜の枝が飾ってある。
 幣(ぬさ)を持った人形が乗った張り子づくりの大石を、大勢の人間が踊りながら曳いていく。
 大石のそばでは、勧進聖の姿をまねた男が鉦をたたいている。網代笠(あじろがさ)をかぶって鼓を打つ者、鮮やかな扇で拍子をとりながら、円になって踊っている一団もいる。
 農民達は男女の区別もつかぬほど華美に装い、さまざまに工夫し、夜を徹して踊り続ける。
 一年間の激しい労働のあとの、待ちに待った歓楽の時だ。彼らは全てを忘れ、酒を飲み、踊り続けた。

 秋祭りを彩る風流踊りは、どこの村でも盛んに行われた。
 なかでも七山村の村人は踊りを好み、秋になると練習に励んだ。七山村の風流は華麗さで知られ、村人もそれを誇りにしていた。

 おちかは神社の境内を案内した。
 本殿の前には、風流や曲(くせ)舞いのための舞台がしつらえてある。
 ヒノキ張りの立派な舞台には、うっすらとほこりが積もっている。農繁期で、境内には人の姿は見えなかった。

 温暖な地に生えるサカキ、モチ、カシ、クスノキ、シイといった常緑の木々がうっそうと茂っている。このあたりの神社の境内は、どこも似ていた。神社は村と村人の繁栄を祈る神聖な場所であり、同時に寄り合いや祭の会場でもある。村にとっては最も大切なところだった。

 二人は玉石を踏み、本殿に向かって歩いていった。
 本殿は小さな桧皮葺(ひわだぶき)の社だった。
 板の間の向こうに中庭があり、その先に祠(ほこら)がまつってある。ご神体は、その中にある。
 おちかと十郎太は本殿に向かって鈴を鳴らし、手を合わせた。

 森の奥から甲高い子供達の笑い声が聞こえてくる。声は高いところから聞こえてくるようだ。
「子供達が、木登りをしている」
 おちかは声をひそめていった。
 人の手の入っていない宮の森は鬱蒼と繁り、子供達にとって絶好の遊び場である。
 十郎太も子供のころは、熊取の神社の森で、近所の仲間達と日の暮れるまで遊んだものだ。
 夏はヤマモモの木に登り、口の周りを真っ赤にしながら、黒く熟した実をほおばった。
 秋に実るシャシャンボの甘酸っぱい実や、割れた実からどろりとした甘い果肉がのぞいているアケビ、かすかに甘いシイの実も楽しみだった。
 高い杉の木のこずえに登って、枝に作られたワシの巣から卵を取り出したこともある。家で布団のなかに卵を入れ、温めてみたが、かえらなかった。

「宮の森の中の道を抜けると、うちへの近道よ」
 そういいながら、おちかは先に立って歩いていく。
 細い道の両側から木の枝が伸びて覆いかぶさっている。進んでいくと、子供達の声が近くに聞こえた。
 一本の木の下に、脱いだわら草履がいくつも置いてあった。
「あっ。誰か来たぞ」
 木の上で、子供の声が叫んだ。
「おちかじゃ。男といっしょじゃ」
 別の声が答えた。
 上を見上げると、枝の間に小さな影がいくつか動くのが見えた。
 子どもたちは、くすくす笑っている。

 水辺から大きなヤマモモの木が斜めに生えて、枝が水面を覆っている小さな沼のそばを過ぎると、すぐに神社の裏側に出た。
 神社の背後には、水を張った水田が一面に広がっている。道は水田の中を曲がりながら、小川に沿って続いている。ここでも、あちこちで竜骨車が川の中に浸けられていた。

 多くの田では、すでに田植えが終わっていたが、その中でちょうど今、田植えの最中の一角があった。
 昔は菅笠をかぶり、赤いたすきや帯を長くたらした早乙女が、田植え歌を口ずさみながら、次々に苗を植えていったものだ。そばでは子供達が鉦や太鼓を鳴らして、いっしょに歌った。片肌をぬいだ男が天秤棒に苗を乗せて畦道を歩いていた。
 田植えの見慣れた風景だったが、戦が行われている今はそんな事をしている余裕はない。老人や女たちは、暗くならないうちにと、あわただしく苗を植えている。

 賑やかに行われる田植えは子供心にも楽しかったが、苦しいのはそのあとに続く草取りだ。
 夏になれば、炎天下で腰を曲げて、穂が出るまで四、五回は、生い茂る草を抜かねばならない。
 田で一家が働いている間に、家では年寄りが昼飯の支度をする。昼時には、田の畦道を通って年寄りが昼飯を運んだ。たいていは野菜や豆を炊き込んで量を増やした混ぜ飯だった。
 田には肥やしもやらねばならない。田植え前に、村の持ち物である入会山(いりあいやま)への入山が解禁になると、村人が一斉に山に入り、下草や木々の若芽を取った。
 これらは緑肥となり、よく枯らしたうえで田に鋤き込んだ。人糞や牛の糞、油かす、ぬかなどは金で買わねば手に入らない貴重な肥料だった。

 台風の日は、稲が倒れてしまわないかと心を砕き、横殴りの雨の中を見回りに出る。水嵩の増した用水に誤って転落し、命を失う老人もいた。
 戦が起これば、ようやく実らせた稲田を焼かれはしないかと、自ら武器をもって田を守る。あれこれ苦労して、ようやく収穫した米も大半は、守護に年貢として取られるか、借金の返済に寺社や有力者に差し出さねばならなかった。
 米がすべて自分のものになるのなら、十郎太や若左近も、行人などにはならず、百姓を続けていたことだろう。

 それでもまだ飯が食える者は幸せだった。借金の担保にした土地を失った者や戦乱で家を焼かれた者は乞食となって流浪の旅を続け、最後は堺や京などに流れ込んだ。
 十郎太も堺の町中で、こうした乞食の群れを見たことがある。道端で、ぼろをまとった乞食の母親が、欠けた土器に入った粥を小さな子供に食べさせてやっている。
 憐れみ深い貴族の女や僧が、食べ物をくれなければ、彼らは飢え死にするしかない。現に堺でも道端で何人もの乞食が死んでいた。葬られず、犬や鳥の餌になる死体もあった。

 十年以上前に起きた飢饉のときは、京の都に大勢の乞食がなだれ込み、鴨川の河原に小屋を張って暮らしていた。
 そこへ秋の台風が吹き、大雨で川の水が溢れて、大勢の乞食が流され、溺れ死んだ。
 弔う者もない死体に、一人の僧が卒塔婆を一枚ずつ置いて供養した。その数は八万を超えたという。

 人買いも行われていた。もはや自分の力では子供を養えないと悟った親は、人買い商人に子供を売った。金とひきかえの売買ではあったが、親にしてみれば、子供を餓死させないためのやむを得ない選択だった。
 公には禁止されていたにもかかわらず、飢饉の年には人買いは盛んに行われた。
 親に売られた子供たちは、泣く泣く遠国に連れていかれる。そこでさらに荘官や分限者に売り飛ばされ、下人や従者として雑役に使われた。
 幼い子供の中には、親を慕って逃げ出すものもいる。親のもとに逃げ帰れたものは少なく、途中で行き倒れて死んだり、連れ戻されるものもいた。連れ戻されたものは折檻され、再び労役に戻された。

                              ◇

 田の向こうに、民家が見えてきた。藁ぶき、土壁の家が軒を接して立ち並んでいる。
 たいていの家の出入り口には、板の扉が付けられている。むしろを垂らしただけの家もある。開け放した板扉から、むしろを敷いた土間が見えた。
 集落の周りには、幅二間ほどの水の流れる堀が巡らされている。熊取庄もそうだったが、この辺りはどこの村も堀で囲われている。
 いざという時には橋を落とし、村人が武器を持って侵入して来た外敵と戦った。
 外敵は、ときには守護方の武士であり、ときには水争いを力づくで解決するため、武器を手に押し掛けてきた他の村人のこともあった。

 堀に掛かった板敷きの小さな橋を渡る。
 村の中はひっそりとして、人影は見えなかった。砦に駆り出されていない大人は田の仕事に出ているのだろう。

「あれがうちの家」
 おちかは正面に見える家を指さした。それは、村のほぼ真ん中にあり、他の家よりも大きく、新しかった。
 土壁、板葺きのおちかの家には門があった。

 木戸をくぐると、広い中庭があり、鶏が放し飼いにされていた。
 鶏たちは、雑草をついばんだり、土の中から掘り出したミミズをくちばしにくわえ、取り合いをしたりしている。門を入った十郎太たちが近付くと、驚いて鳴き声をあげながら左右に逃げた。
 門と納屋と住居が中庭を取り巻いて配置され、外部からの侵入者を防いでいる。
「さあ、入って」
 おちかは、鶏をよけながら中庭を横切ると、住居の板扉を開けて中に入った。
 後に十郎太も続いた。

 家の中は薄暗く、冷え冷えとしていた。土間に敷いたむしろのそばで、白っぽい何かが動いている。目を凝らしてよく見ると、それは犬だった。
「シロ」
 おちかが声をかけると、犬はしっぽを振って近寄ってきた。
「年寄りで目が悪いの」
 おちかはいった。
 おちかは座ってイヌの背中をなでてやっている。イヌはおとなしく、うずくまっている。

 十郎太は弓矢を土間の片すみに置き、わらじを脱いだ。土間には台所がつくられ、すすで黒くなったかまどに天窓からの光が当たっていた。
 かまどの上のむしろにはトウガラシが干してある。
 板の間をあがると、そこは食事の場所らしく、木の食卓があり、木の碗と箸が木箱に入れて上に置いてあった。
「おなかがすいたでしょう。まあ、湯付けでも食べて。田んぼへ行くのは、それからでもいいわ」
 土間のカメの水を柄杓ですくって、イヌをなでた手を洗ったあと、縁の塗りが剥げた根来塗りの椀に飯を盛りながら、おちかはいった。

「そやけど、はよ行かんと、田植えが終わってしまわんか」
 十郎太は飯を盛った茶碗を受け取りながらいった。しかし、腹が減っているのも確かだった。
「まだ、日は高いし、広い田んぼで、まだまだかかる。まあ、ゆっくり食べて」
 菜種(アブラナ)の漬け物を菜に、十郎太は湯付けをかきこんだ。
 つぼみを摘み取って塩を振り、一夜漬けした菜種はさっぱりとして食欲をそそる。たちまち椀に三杯の飯を平らげた。
 おちかは、すでに食事をすませていたらしく、自分は給仕するだけで、飯を掻き込む十郎太をほほえみながら眺めている。

「そろそろ田へ行こうか」
 腹が一杯になったところで、十郎太は立ち上がった。
 十郎太は弓矢を手に持った。
 熊取庄でも、野良にいく百姓は、たいてい刀を携えていった。このごろでは、足軽くずれの盗人も多く、野良仕事といっても油断はならなかった。 

 おちかの田は家から二町ほど離れた、なだらかな丘の斜面にあるという。二人は、汗ばむ日差しの中を歩いていった。
 途中小川があり、山の上に作られた池から流れてくる透き通った水が川の両側の田に流れ込んでいる。田のあちこちで、動いている人影が見える。
「おねえちゃーん」
 遠くで呼ぶ声が聞こえた。見上げると、丘の上で小さな女の子が手を振って叫んでいる。
「妹のおりつよ」
 おちかもまた、手を振り返した。
「いま行くよー」
 おちかは、両手を口に当てて叫ぶ。
 二人は足を早め、丘を上がっていった。

 丘の上に出ると、そこには、いくつもの小さな田が棚のように広がっていた。
 田の一つで、五、六人の男女が田植えをしていた。おりつは、畦道で二人を待っていた。
「おりつ。この人が十郎太さん。手伝いにきてくれたの」
 おちかは、妹にいった。
 おりつは、こっくりと頭を下げた。
「よろしゅう」
 十郎太も笑顔で答えた。
 おりつは、紺色の麻の小袖を着て、小さな草履を履いている。
 「ほら見て」
 おりつが握っていた両手を開いた。手には黒や白の小石がのっている。
「きれいでしょう」
おりつは、得意そうにいった。
 ことし五歳になるおりつは、石で一人遊びしていたという。みんな田植えに忙しく、小さな子供の面倒など見てやる暇はないのだ。