明算の思索

 明算は思う。
 権力と結び付けば栄えるが、独立自尊は失われる。権力に刃向かえば、誇りは守れても身は滅びる。この選択を我々は一体いつまで続けなければならないのか。

 地上の権力の盛衰に翻弄されていては、いつまでたっても本当の密厳浄土は来ない。自らがすべてを決められる力を持たねば、真の極楽は来ない。加賀の富樫を倒したのは、一向宗徒だった。彼らが打ち立てた国は百年で倒れたとはいえ、まぎれもなく彼ら自身の仏国土だった。
 いまや根来寺の領内の百姓も、自分達の力に目覚めている。権力をいつまでも武士たちに独占させるべきではない。

 仏の前では、すべての人間が平等である。釈尊は卑しめられ虐げられた猟夫や農民、奴隷、社会の底辺にいる様々な人間にも、ともに等しい解脱を約束せられた。なにゆえ我々が、同じ人間である侍の足台にされねばならぬのか。いま天下を動かす秀吉といえど、生まれは百姓。我々と何等変わらぬ一人の人間だ。

 谷の向こう側から聞こえてくるウグイスの鳴き声も耳に入らぬように、明算は考えに耽った。

 覚鑁上人の墓の盛り土は、草と苔に厚く覆われ、両側からモミジの枝が伸びて青い葉が日陰を作っている。
 参道の左右に植わったヤマモモの大木は濃い緑色の葉を茂らせていた。
 夏になれば、熟した赤黒いヤマモモの実が石畳の上に落ちて、その甘い汁が、蟻や蝶の餌になる。

 ヤマモモの木の枝の間から、うららかな春の日差しが、墓の上に降り注いでいる。
 乾いた土の上を、巣に餌を運ぶ蟻の行列が続いている。
 蜜を求めて、草の間を飛び回っている蜜蜂の羽音が聞こえるほど、平和な昼下がりだった。

《我らは、もはや侍たちの使用人であってはならぬ。我らには鉄砲という神通力がある》

 つい四、五十年前までは紀州の辺地の一勢力に過ぎなかった根来寺が、いまや寺領七十二万石といわれるまでに繁栄したのは、ひとえに南蛮渡来の鉄砲の力による。
 石をも砕く強い破壊力を持つ、飛び道具が、それまで外敵から寺を守るためだけに使われていた行人の力を、寺の勢力拡大のため積極的に外に向けさせた。

 かつて根来の行人との間で近親憎悪ともいうべき争いを繰り広げた高野山は、もはや敵では無かった。鉄砲の力を得た根来は、雑賀とともに紀州随一の武力集団に成長した。

 根来の勢力が強大になると、それまでは守護に従っていた和泉や河内の土豪たちも、争って根来寺の庇護を求めるようになった。
 土豪たちは土地を寺に寄進し、師弟を学侶や行人として根来寺に送り込んだ。根来寺は彼ら土豪の力に支えられて、さらに勢力を広げた。
 これら土豪や百姓にとって、根来は守護や地頭の圧政や搾取から逃れる強力な後ろ楯となった。

 根来の領地は、一向宗が支配した加賀や大坂と同様、いまや仏の力が支配する仏国土となりつつあった。覚鑁上人が目指した現世での密厳浄土が実現する日が目前にまで近づいていた。

               ◇

 その仏国土の夢はいま、それを可能にした強大な武力ゆえに世俗の権力に憎まれ、つぶされようとしている。
 寺の勢いを広げたのが鉄砲なら、今、寺を破滅の危機にさらしているのもまた鉄砲だった。

 他者から身を守る武器は、一方で他者にとっては脅威となる。
 お互いが力に自信を持ち、力に頼り続ける限り、力による決着は避けられない。
《鉄砲を捨てれば、寺も人も安泰ではあろう。定尋のいうように、本来、殺生を禁じられた仏の徒が、兵仗(へいじょう=武器)を持つこと自体が不自然であり、仏の教えに反していることは間違いない。もし、覚鑁上人が、いまも生きておられたら、殺生戒を守るべき寺の人間が鉄砲や弓矢で人を殺し、傷つけているのを見て、さぞかし嘆かれるに違いない。だが、それでもなお、おれたちは戦いを止めるわけにはいかない》

《戦をやめれば、命を永らえることはできる。しかし、そうなれば、今まで我々の先祖や多くの行人衆が血を流して作ろうとした仏の国はどうなるか。間違いなく、薄汚れた地上の権力亡者たちによって潰されてしまう。そして、おれたち百姓は、また昔のように奴らの奴僕にされるのだ》
 人間としての誇りも自由も奪われて屈従すること。それは自尊心の強い明算にとって、生命を失うことよりも耐えられぬことだった。

《だれも好き好んで殺生をしているのではない。鳥や獣、魚の命を奪うのも肉体を保つためである。人間が生きていくためには、誰かが、それをやらねばならない。人と人の争いもまた同じだ。生き残るためには、誰かが命をかけて戦わねばならない》

《殺生は、仏の徒にとって第一の大罪であることはだれもが知っている。だからといって、このまま敵の意のままにはなれない。この俗世にあっては、奇麗事では生きていけない。学侶たちが、俗事に煩わされることなく、仏の道を究めるためには寺の安泰が必要だった。百姓が安心して田を耕し、仏の国に往生できるためにも、誰かが汚れ役を務め、土地を守って戦わなければならぬ。阿修羅のように闘諍殺戮を続けなければならない》

《我々は寺のためなら、たとえ仏にだって弓を引くだろう。石山合戦のときや信長の雑賀攻めのときも、我々は根来を守るために、信長と組んで本願寺に敵対した。同じ仏を信ずる仲間である一向宗徒を殺したのだ》

《一向宗の信者たちは、顕如上人の言うことを信じて、自分達が仏の為に戦って死ねば、極楽へ行くことが出来ると思っている。根来の行人や、泉州表の砦に馳せ参じている百姓も、そう信じている。だが、そんなことはすべて、何も知らぬ素朴な人間を喜んで戦に駆り立てるための方便というものだ》

《座主や学侶たちが、いくら行人の殺生を理屈づけようと、我々が仏の第一の戒律に背き、波羅夷(はらい=教団追放)の大罪をおかしていることは、だれよりも自分たちが一番よく知っている。嫌々駆り出された百姓はともかく、少なくとも戦を天職とし、人を殺すことを生業としてきた我ら行人が極楽へ行けるのなら、一体誰が地獄へ落ちよう。おれたちに極楽へ行く資格など、あるはずがない》

 明算は、子供のころに熊取庄の寺で見た地獄絵が忘れられなかった。
 暗い本堂の奥の柱に掛かっていた地獄絵は、古いもので彩色もとれかけていたが、鬼たちの呵責の様子は真に迫り、子どもを脅えさせるのに十分だった。
 怖いもの見たさに、子供たちは、よくその絵を見に行った。

 薄暗い中で見る絵図は迫力にあふれ、子供達は物もいわずに見とれた。
 生前、生き物を殺した人間が、地獄で鬼たちに様々な責め苦を受けている。
 皮を剥がれた男女が並べられ、上から鬼が真っ赤に溶けた熱い鉄を、柄杓(ひしゃく)で注いでいる。
 飢えと渇きに苦しんだ罪人たちが、自分の体をむさぼり食べている。
 罪人の舌を、鬼が熱い鉄の金挟みで、引き抜いている。
 火を吐く大きな鶏が、裸の男女を追い回す。
 紅蓮の炎が亡者の体を焼き、彼らの叫び声と泣き声が、まるで絵の中から、聞こえてくるようだった。

 およそ人間が想像できるだけの、ありとあらゆる残酷な呵責を描いた、この地獄絵は幼い明算の心に大きな傷跡を残した。
 絵を初めて見たとき、明算は熱を出し、数日間は夜も脅えてうなされる程だった。
 子どもの頃、あれほど恐れた地獄も、いまでは全く明算の心を動かさなかった。戦場で見た様々な現実の地獄図の方が、作り物の絵より、はるかに残酷だったからだ。

 篭城戦で兵糧がなくなり、戦死した味方の死体を切り分けて食う痩せ衰えた城兵。
 捕らえた敵の間者の口を割らせるため、手足をひとつずつ、鋸で切り取っていく足軽たち。
 逃げ惑う敵方の女を、残虐な笑みを浮かべて追い掛け、凌辱したうえ、平然と殺す雑兵たち。
 現実のむごたらしさに比べれば、地獄絵図はたわいなく、むしろ滑稽(こっけい)にさえ見えた。
 過酷な戦場での体験は明算から、地獄絵の中の亡者を憐れみ、苦しんだ幼いころの柔らかな心をとうの昔に奪い去っていた。

               ◇

 「のうまく、さんまんだ、ばさらだん、せんだ、まかろしゃだ、そはたや、うん、たらた、かん、まん(あまねく諸金剛に帰依します。暴悪なる大憤怒尊よ。破壊せよ)」

 明算は大日経真言蔵品のなかの慈救呪(じくじゅ)を唱える。
 意味の分からない数々の真言呪の中で、学侶から説明を受けて、わずかに理解できるのがこの呪文だった。
 激越な内容が、明算の気に入っていた。
「のうまく、さらばたたぎゃてぃびゃく、さらばぼくけいびゃく、さらばた、たらた、せんだ、まかろしゃだ、けん、ぎゃきぎゃき、さらばびきんなん、うん、たらた、かん、まん(すべての方向を向きたまう諸如来に帰依します。大憤怒尊よ。一切のところにおいて、一切の障難を滅ぼしたまえ、食い尽くしたまえ)」
 この火界呪も、戦場でよく唱える呪文だった。

「わずかに是(こ)の真言を誦(ず)すれば、大智、火を出して一切の魔軍を焚焼(ふんしょう)す。三千大千世界、ことごとく大憤怒王の威光を被(こうむ)って焚焼して大火聚(だいかじゅ=火の塊)となる」
「是の大明王は大威力あり。智恵の火を以て諸(もろもろ)の障害を焼き、また、法水を以て諸の塵垢(じんこう)をすすぐ。あるいは大身を現じて虚空の中に満ち、あるいは小身を現じて衆生の意に随う。金翅鳥(こんじちょう=金の翼を持つ鳥)の如く、諸の毒悪を食らひ、また、大竜の如く、大智の雲を興して法雨を注ぐ。大刀剣の如く魔軍を摧破(さいは=破砕)し、また、羂索(けんざく=綱)の如く、大力の魔を縛す(ばくす=縛る)」

【訳】
(わずかに、この呪文を唱えるだけで、大いなる知恵の不動尊が火を吐いて、すべての魔軍を焼き滅ぼす。三千大千世界ことごとく、怒る不動尊の威光を受けて、焼かれ、大きな火の塊となる)

(この大明王は大いなる力があり、知恵の火をもって、すべての障害を焼き、また法の水ですべての塵や垢をすすぐ。あるいは巨大な身体となって、虚空に満ち、あるいは小さくなって大衆の意の通りになる。金の翼を持つ鳥のように、すべての害毒を食らい、また大きな竜のように、大いなる知恵の雲を起こして、法の雨を注ぐ。大きな刀のように、魔軍を粉砕し、また綱のように大きな力を持つ魔物を縛る)
 

「ここにおいて、金剛手菩薩は火生三昧(かしょうざんまい=火の中の涅槃)に入り、その光はあまねく無辺世界を照らす。火焔(かえん)熾盛(しじょう=盛ん)にして、諸障(=もろもろの障害)を焚焼し、内外の魔軍は恐怖して馳走(=逃走)す。山中に入らんと欲すれども遠く去る事あたわず。大海に入らんと欲すれども亦去ることあたわず。声を挙げて大いに叫び、ただ仏所(ぶっしょ=ほとけのもと)に至りて救護を請乞(こ)ひ、魔業を捨てて大悲心を発(おこ)す」
(不動経)

【訳】
(ここで金剛手菩薩は、火の中で涅槃に入り、その光は隅々まで、無限大の世界を照らす。炎は盛んに燃えて、すべての障害を焼き、内外の魔軍は恐れおののいて、逃げ出す。山の中に入ろうとしても、遠くに逃げることはできず、大きな海に入ろうとしても、また去ることができない。声を上げて、大いに叫び、ただ仏のもとに来て、助けを求め、悪魔の行いを捨てて、大いなる慈悲心を起こす)

 暗じている経文が、次々に明算の口から出た。経文を唱えると、不思議に心が落ち着いた。

 明算はかつて、人を殺すことに疑問を感じたときのことを思い出す。
 はじめて戦場に出て、鉄砲で人を撃ったときの嫌悪感は、忘れようとしても忘れられない。
 それは、二十年前の永禄五年(一五六二)五月、根来勢が三好長慶の弟、安宅木(あたぎ)冬康が守る岸和田城を攻め、冬康を討ち死にさせた戦でのことだった。
 まだ十五歳だった明算は、そのとき初めて亡父に連れられ、杉の坊の他の行人とともに戦に加わった。

 父親たちは城の大手から攻撃にかかった。明算たちの部隊は、からめ手から攻めた。
 戦が激しくなり、大手門が破られたとき、反対側のからめ手から数十人の人間が飛び出してきた。待ち伏せしていた明算たちは一斉に鉄砲を撃ちかけ、一瞬の内にこれらの人間を打ち倒した。
 しかし、それは兵ではなく篭城していた女と子供だった。血を流し、母親らしい女のそばで倒れている七、八歳ぐらいの女の子の死体を見て、明算は胸が締め付けられるような思いがした。

 殺生を犯した仏罰を恐れるというより、むしろ、何も知らず平和に生きている小さな動物から無理に生命を奪ったことに対する負い目、生理的な不快感だった。

 撃ち殺す必要は全く無かった。そのまま逃がしてやればよかったのだ。だが、戦の最中に相手を選んでいる余裕は、とてもなかった。
 相手を殺さなければ自分が殺される戦場とはいえ、初めて人の命を、しかも女子供の命を奪ったことの衝撃と悔恨は大きかった。
 戦場からの帰途、まるで彼らの怨念が身にまとわりついたかのように、体が重かったのを明算は覚えている。他の行人たちも、勝ち戦にも拘わらず言葉は少なかった。

 寺に帰ってきてからも、明算の悩みは消えなかった。口を開け、眠るように死んでいた幼児の顔が、いつまでも頭の中から消えなかった。
《仏の弟子の身で、何ゆえ我々は人殺しをするのか》
《何の理由があって、幼子を殺したのか》
《このような悪行をした自分は死んだあとで、必ずや地獄に落ちるだろう》
 父や他の行人に漏らせば、怒られるか、笑われるような気がして口にできなかった。

 子供のころ、ふざけて投げた石が雀に当たったことがあった。首を折られて飛べなくなった雀を手に取ると、雀は不思議そうに明算を見て、目を閉ざし、そのまま死んだ。罪悪感に襲われた明算はそのことを兄に話した。兄は「そのような弱気なことで戦ができるか」といって笑った。

そのとき以来、明算は殺生を厭うことを軟弱と自分に言い聞かせた。しかし、今度の戦で幼い子供を殺した嫌悪感はぬぐってもぬぐいきれなかった。

 悩んだ明算は一人、書庫の中で自分の行為の正しさを説明してくれる教えを必死になって経典に求めた。

 多くの経典は殺生を厳しく戒めていた。
 人間の命は無論、獣、魚、鳥から虫に至るまで、すべての動物の命を奪うことは、最も忌むべきこととして退け禁じていた。その中で真言宗の根本経典、大日経だけは違った考えを示していた。

 密教者の戒律について書かれた経の巻七「受方便学処品第十八」のなかで、十善戒の第一として不奪生命戒が挙げられている。
《諸の菩薩等は、自らの命が尽きるようになっても、不奪生命戒を堅く保って刀杖を捨て、殺すことをしない。他の生き物の命を護ることは、あたかも己の身を護る如くである。しかし、衆生の中に極悪な者もいる。その悪業の報いを、方便として解き放つために殺すことは施しであって決して怨害ではない》
 すなわち、「悪行を行うものを殺すのは、決して怨み害を与えようとして行うのではない。悪い因縁を断ち、善趣(=善道)に生まれ変わらせるための慈悲である」というのである。

 また、大日経について、一行禅師が著した注釈書、大日経疏(だいにちきょうそ)では、この下りが、こう解説されている。
 悪行を積み重ね、涅槃(ねはん)に至ることが叶わない者には、大慈悲の心を以て謀り滅ぼすべきである。そうすれば、多くの人の利益となり、悪行をした本人にも輪廻、解脱の因縁をもたらすことになる。たとえ自らがこの行為のために悪道に落ちようとも、人を助けるために人を殺す。これは大慈悲心の表れであり、優れた方便である。

 この経文と注釈を見付けたとき、明算は、救われたような気がしたものだった。
 今思えば、かつて大衆詮議で、定尋と行人が言い争いになったとき、古参学侶の智積院昭英が、寺の武力を正当化するために引用したのも、この経文だった。
 大日経という権威ある経文が、殺生を認めているという事実は、仏罰への恐怖から、行人たちを解放した。

 直接、武力を用いない学侶たちが、呪いによる敵の殺害を計るのも、この経文に拠っていた。

 しかし、いったん慰められた明算の心は、時がたつにつれ再び沈んでいった。
 経文は殺生を無理やり理屈づけているという気がした。
 仮に仏の教えに耳を貸さない者、仏に抗(あらが)う者を殺すことが認められたとしても、敵の家族である女や子供まで殺すことまで許されものではない。

 明算は再び混乱し、ついには武器を捨て、故郷の津田家に帰ることも考えた。しかし、杉の坊の跡継ぎという宿命を自分だけの判断で変えることは出来なかった。
 結局、明算の悩みは経文を読むことでは消えなかった。

 苦しさを救ったのは、死に物狂いの戦いのあとで感じる、動物的な生きる喜びと、殺生に対する感覚の鈍麻、そして何よりも諦めだった。

《昔から、人は同じことを悩んできた。殺したくはないが、殺さねば殺される。殺生戒を犯した俺は間違いなく地獄に落ちるだろう。だが、寺と我々百姓を守るためには、それもやむを得ない》
 
「諸(もろもろ)の阿修羅(あしゅら)等の海辺に居住(すまい)して、自ら、ともに言語するとき、大音声を出すも…」
 明算は、かつて定尋から聞いた法華経法師功徳品の一節を思い出す。
《世界の底辺に住んで、つねに相争い、大声で罵りあう阿修羅に我々はなんとよく似ていることだろう》
「諸天は恒に善を以て戯楽(=たのしみ)となすも、それ(=阿修羅)は恒に悪を以て戯楽となす…」

《阿修羅は解脱に憧れながら、争いを止められぬ粗暴な神である。阿修羅は、自分の娘を犯した帝釈天と争い、負け続けた。神々の王である帝釈天に勝つことは困難である。だが、たとえ負けることが分かっていても、阿修羅は争う。そのように生まれついているからだ。それは、まさしく我々の姿である》

《我々もまた同じ立場にいる。たとえ負けようと、敵には立ち向かわねばならない。抵抗しなければ、滅ぼされてしまう世界にいるからだ。戦うことが、仏の教えに背いていることは分かってはいても、我々が戦を止めるわけにはいかない。ことの善悪は我々とは全く関係がない。我々は、いま修羅道にいるのだから》

「また諸の鬼あり、その身は長大なるも、裸形にして黒く痩せ、大悪声を発し、叫びて食を求む。また、諸の鬼あり、その喉は針の如く、また諸の鬼あり、首は牛の頭の如し。あるいは人の肉を食い、あるいはまた狗(いぬ)を食らう。頭髪は蓬(よもぎ)の如く乱れ、残害すること凶険にして、飢渇に迫られ、叫喚し、馳走(=逃走)す。夜叉と餓鬼と諸の悪の鳥獣とは、飢え急にして、四方に向かい窓を窺い見る。かくの如き諸の難ありて、恐畏すること無量なり(=恐ろしさは計り知れない)」
 明算は、法華経比喩品の偈(げ=詩)に描かれた鬼たちを思い浮かべる。
 これらの鬼たちと、戦場における兵と。いったい、どちらが恐ろしいといえようか。
《修羅道にいるというより、我らはすでに、お互いに殺しあう地獄に堕ちているのかも知れない》

「三界は安きことなし。猶、火宅(かたく=火事の家)の如し。衆苦充満して、甚だ怖畏すべし。常に生老病死の憂患(=憂いと煩い)あり。是の如き等の火、熾然(しぜん=火勢が盛ん)として息(や)まず。如来はすでに三界の火宅を離れて、寂然として閑居し、林野に安処せり」

 明算は覚鑁上人の墓の向こうに広がる林を見た。
《如来のように争いを離れ、林や野原の中に一人で静かに暮らせたら、どんなに心が落ち着くことだろう。生活は貧しくとも、心は満ち足りるに違いない。だが、法敵を撃ち破り、寺を守のが我々の務めだ。われわれ凡愚の輩(やから)が、仏と寺を守り、百姓達を守る唯一の支えなのだ》

《たとえ、自らの成道が犠牲になり、地獄の底に落ちることがあっても、自分達を脅かす敵は討ち滅ぼさねばならない。戦いの中で、罪のない者を殺すことがあっても、それはやむをえない。この修羅道で、憐れみや同情は何の役にも立ちはしないのだから》

 明算は空を見上げた。
 いつの間にか、雲が出てきたようだった。

《我々はただ怒ればよい。妙に仏心を感じたり、殺生に負い目を持つ必要はさらさらない。怒りは我々の本性であり、むしろ怒ることが当然なのだ。怒りは悲しみでもある。激しく怒った後に感じるのは、深い絶望と悲哀である。怒りの裏に込められた明王の悲しみを知っているのは、われわれ行人だけだ》

《鉄砲は我々にとって金剛杵(こんごうしょ)だ。仏敵に向かって放つ稲妻である。なにも恐れることはない》

 急に、パラパラと生暖かい大粒の雨が降ってきた。白く乾いていた廟の屋根瓦がたちまち濡れて黒くなった。
 明算は座っていた石から腰を上げた。

 突然の夕立に驚いて、蝶がヒラヒラと木の葉の下に逃れて行く。蟻の群れが、餌を巣に運ぶのを止め、大あわてで巣に戻って行く。
 濡れた土の上に、蟻の群れが放置していった黒い毛虫の死体が残っていた。
 葉から落ちたところを、蟻の群れに襲われ、死んだのだろう。毛の上で、雨が水玉になって光っている。

《生あるものはいつかは死ぬ。戦場で誰にも見取られず一人で死のうと、子や孫に取り囲まれて家の中で死のうと、死ぬことには何等変わりはない。どうせ、いつかは死ぬのなら、人のために華々しく戦って死んだ方が、功徳になるともいえる。この戦国の世で行人として生きる以上、戦いで命を落とすことは、運命なのだ》
 雨にぐっしょり濡れながら、明算は本坊の方へ歩いていく。

 もう、心は固まっていた。ここまで来た以上、どんな事があっても戦うしかない。たとえ全滅しようと戦を避けることはできない。世の中には命をかけても守らねばならぬことがあるのだ。

 明算は杉木立の中の道を歩いていく。辺りには、雨に濡れた土の匂いに交じって、すがすがしい杉の木の香りが漂っている。杉の木の根元が濡れて黒くなっている。顔に当たる雨が心地よかった。
 杉木立の間から、大塔の先端が見えてくる。雨は、ますます強くなってきた。