尾張での秀吉軍の敗北はすぐに根来にも伝わった。
大坂攻撃の失敗に意気消沈していた山内は急速に生気を取り戻した。学侶たちは、祈祷の利益(りやく)があったとして仏に感謝した。行人は家康の巧みな采配に喝采し、根来が家康に味方した選択の正しかったことを喜んだ。
岸和田での戦は油断していたために中村一氏の奇襲攻撃を受けて、敗れたが、堺と大坂を破壊したことで相手にも相当の損害を与えている。我々は決して負けたわけではない。今一度、家康と示し合わせて秀吉を挟み打ちにすれば、今度こそ勝てるだろう。
そんな希望的考えを山内の多くの者が持った。
秀吉敗退の知らせは早速、泉州の各砦にも伝えられた。
喜びにわく山内で一人、杉の坊明算だけが暗い顔をしていた。
《家康が勝ったといっても、局地戦に勝利しただけで、秀吉を倒した訳ではない。尾張全体ではまだ秀吉軍が優勢を保っている。最終的な勝ち負けは、まだこれからだ》
明算は、執拗な秀吉がこのまま引き下がるとは思えなかった。
《秀吉が大坂に帰れば、破壊された城下を見て激怒することだろう。堺や大坂の町は部分的に破壊したが、肝腎の大坂城は無傷のまま残っている。あの要害がある限り、根来の泉州知行への脅威は続く》
大坂城を潰すことができなかったことは、明算にとって痛恨の失策だった。
家康方への紀州勢の加担は、かねがね根来破却をねらってきた秀吉にとって、和泉発向の絶好の口実になるに違いない。
家康といえども、どこまで秀吉と敵対を続ける覚悟ができているのか。もし、我々が秀吉に攻められたとき、約束通り加勢に来るだろうか。
明算には家康が信じられなかった。
明算は家康の顔を思い出す。無表情な風貌の中で目だけが鋭く光っていた。その顔は、どうみても約束を律義に守る男の顔ではない。海鼠(なまこ)のように捕らえどころのない人相だった。
家康に一味したことは、やはり根来にとっては致命的な誤りだったのではないか。大衆詮議のときに感じた不吉な思いが再び蘇ってきた。
《しかし、済んだことを後悔して始まらぬ。これからどうするかだ》
明算は気持ちを切り替えようとしたが、考えれば考えるほど前途は暗く思えた。
重苦しい気分で明算は坊を出た。いつの間にか又季節がめぐり、境内には、いつもの年の春と同じように桜が爛漫と咲き誇っていた。近在の百姓の幼い子供達が、花の下で楽しそうに花びらを拾って遊んでいる。
こののどかな光景を見ても明算の心は少しも晴れなかった。うららかな日差しのもとに咲き誇る桜の花が、かえってうらめしく思えた。明るい陽光は花の影をより暗くした。
明算は物思いに沈みながら、奥の院の方へ歩いて行った。
開山の祖、覚鑁上人の廟は大塔の横を抜け、杉木立の間の道を北へ入った所にある。ここは根来寺の中でも最も静かな所で、明算は何か考え事のあるときは、しばしばここにやって来た。
道の両側の杉の木は苔むして、つるが枝から垂れ下がっている。山の上でウグイスの鳴く声が聞こえた。
廟の正面には、礼拝のための瓦葺きの小さな堂があり、奥に覚鑁上人の墓の盛り土が見えている。さらに、その奥は鬱蒼とした杉の森になっていた。明算は参道の石の上に腰を掛け、仏の道と世俗との関係を考えた。
◇
覚鑁上人が生を得た肥前藤津庄の伊佐家は、四人の男子がすべて出家する信心深い家庭だった。
信仰心の篤い両親に育てられた上人は、幼いころより清浄な仏の世界に憧れ、醜い現世を厭う性向があった。
上人が幼くして世の中を憂きものと考えたのには一つの説がある。それは、父親平次が政務で失策をして国守に厳しく叱責されているのを目撃したからであるという。
幼い上人は、子に優しい父親が辱められているのに心を痛め、自分は国守より偉くなろうと心に誓った。やがて成長した上人は、国主や、それより偉い帝よりも、さらに偉い存在があることを知った。それは仏陀だった。
上人は世俗の上下関係を嫌い、仏の前には万人が平等な仏国土に生まれ変わることを願った。
青年になった上人は興福寺、東大寺で修行を積み、二十歳のとき、仏と弘法大師の教えを究めるため高野山に登った。
高野では、別所聖の阿波上人青蓮房や隠岐上人明寂のもとで求聞持法(ぐもんじほう)の修行を積んだ。
求聞持法とは、唐の時代の中国に初めて純部密教を伝えた印度僧の善無畏三蔵が、玄宗皇帝に捧げた経典に基づく難行である。
一人深山にこもり、一日二食、午後は水のみで、虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱え続ける。
他の修行が、複雑な印や真言を使うのに対して、この修行は、ただ一つの印のみを結び、ひたすら虚空蔵菩薩の真言《のうぼう、あきゃしゃきゃらばや、おんありきゃ、まりぼり、そわか》を唱え続ける。
真言宗の祖、弘法大師も土佐の室戸岬でこの修行をした。肉体的な欲望を極限まで抑制し、自己を徹底的に観照することによって心眼を開き、利他のための神通力を得るとされている。感覚が隅々まで解き放され、記憶力が飛躍的に向上するともいわれる。弘法大師の人知を超えた能力は、若い頃のこの修行によってもたらされたと伝えられている。
覚鑁上人は、求聞持法の修行にあたって、法の成就の暁には、堂宇、塔を建て、弘法大師の著作のすべてを書写供養するとの願をたてた。
上人は二十九歳までに都合八回、求聞持法を修した。第八回の求聞持法は五十五日を要した。
上人は他の宗派の教えをも積極的に学んだ。
当時、念仏往生を願う浄土信仰が日本中に広がり、念仏聖たちが山野に庵を設けて孤独な修行をしていた。九州大分の臼杵や山城の南部では聖たちが洞窟の岩に仏の姿を刻み、自らの本尊とした。彼らは人々が喜捨する施しで生をつなぎ、貧しい人たちと悩みを共有した。
高野山でもこうした僧が谷々に庵を結ぶ別所聖と呼ばれる人々がいた。
覚鑁上人が寄居した阿波上人や隠岐上人もまた、こうした別所聖の一人だった。覚鑁上人は、これらの師から浄土信仰の影響を強く受けた。
上人は真言の教えに浄土の思想を取り入れた新しい教説を唱えた。
《大日如来の自証身(=自ら開く悟り)に、自利、利他の二徳があり、利他の徳が加持身に現れて末世の衆生を救う》。
加持(かじ)とは本来、仏が不可思議な力をもって衆生を加護することをいう。真言宗では、行者が仏と一体になって、災いを除き、願いをかなえるために仏の加護を祈ることを意味する。そのために印を結び真言を唱える。
密教は死後の冥福とともに現世利益をも重視する。比叡山も高野山も、鎮護国家のために朝廷の帰依を受けた。また有力者の栄華安泰を願って祈祷した。
浄土宗や浄土真宗が、現世より死後の幸いを説いて、庶民の現世の苦しみを慰撫したのとは逆に、現世での幸福を求める。
上人は現世と浄土を対立するものとは見なかった。
真言宗の大日如来と浄土宗の阿弥陀如来の融合を目指した。すなわち真言(呪文)と念仏が、仏に帰依するという意味で同一の行為であること、また浄土が西方にあるのではなく、人間の心の中にあると説いた。
穢土(えど)と浄土を対置せず、現世においても、大日如来と自らが一体であることを悟れば、そのまま仏国土に成仏できるという教えである。
上人は王族や貴族ら権力者だけでなく、庶民の救済も目指した。
衆生を加護する力を身につけるため、上人はさまざまな修行をした。求聞持法のほか、梵字の「阿」字を見て観想する阿字観を重視した。上人はまた、臨終の大切さを説いた。
「一期大要秘密集」の中で、上人は説いた。
《それおもんみれば(=よく考えれば)、一期(いちご=臨終)の大要(=重点)は最後の用心にあり。九品の往生は臨終の正念(しょうねん=一心念仏)に任せたり。成仏を求める者、まさにこの心を見習うべし。この用心、もっとも大要なり。極悪の人、往生することを得(う)る》
上人はこのように述べ、臨終の際に、阿弥陀如来の名号を唱え、深く大日如来を観想すれば、それまでの人生でどのような悪行を重ねた者でも、すべての人間が往生できると説いた。
親鸞の「歎異抄」に書かれた「悪人正機説」にも似たこの教えは、修行のゆとりも知恵もなく、生きるために殺生を重ねざるをえない武士、漁民など救済から見放されていた民を救うものだった。武士の中には教えに感動し、自らの荘園を寄進する者もあった。
鳥羽上皇もまた覚鑁上人に帰依した信者の一人である。上皇は上人のために高野山内に堂塔を建て、布教の便宜を図った。
◇
当時、高野山は有力者の子弟が僧侶の多くを占めていた。彼らは一族の幸福を仏に願い、一族の利益を害する外部の動きがあれば、僧兵を使ってこれを抑えた。
上下貴賎を問わず万人の救済を説く上人は、彼らにとっては異端者だった。
正統と異端とは本来区別のできない相対的なものである。異端とは、正統を自負する一派が対立する教義を排斥するときに使う言葉であって、異端とされた側は自らを正統と主張する。
世俗的な権力の支持を得た特定の派閥が、他の派閥をおとしめるために相手を異端よばわりする。
特権階級出身の彼らからすれば、成り上がりの覚鑁上人が高野でその影響力を伸ばしてきたことは異端の驕りであるとともに、正統に対する挑戦であり、許し難いことだった。
伝統を誇り、弘法大師の教えに固執する金剛峰寺は、革新的な上人の教えに対し反感を強めた。また、鳥羽上皇の支持を受けた上人の高野山内での急速な栄達に嫉妬の炎を燃やした。
平安末期の長承三年(一一三四)、鳥羽法王は、大伝法院と密厳院の座主に覚鑁上人を任命した。大伝法院に二百一名、密厳院に三十七名の役職者が置かれ、上人にこれらの人々の任免権が預けられた。
上人は優秀であれば若くても役職者に登用した。しかし、これらの若い役職者は同時に金剛峰寺の長老職も兼ねることになったため、金剛峰寺側の恨みを買った。金剛峰寺と大伝法院の僧徒は憎み合い、諍い(いさかい)を繰り返した。
僧同士の争いに心を痛めた覚鑁上人は、長承四年(一一三五年)三月二十一日、座主の位を兄弟子の真誉老師に譲った。そして俗世界とのかかわりを一切断ち、密厳院の扉(とぼそ)を堅く閉ざして、無言の行に入った。座禅をして心を観念の窓に凝らし、三密の修業に励まれたのである。無言の行は一千四百四十六日に及んだ。
だが、この無言の行が、高野の衆徒を一層いらだたせた。
彼らは、すでに覚鑁が死んでいるのに大伝法院の僧らがその事実を隠していると流言を飛ばした。
保延六年(一一四〇)十二月七日、彼らはついに、上人がこもる密厳院に乱入した。大伝法院側僧侶の囲みを破って堂内に押し入り、観想中の上人につぶてを投げて、額に傷を負わせた。
この非道な狼藉に対しても、上人は少しも怒りの色を見せなかった。暴力に対しては、ただ無言で悲しげな表情を見せただけだった。しかし、世俗の争いに巻き込まれた覚鑁上人の心労は、上人の心身を弱らせ、ついに死に追いやることになる。
◇
遠くでウグイスが鳴いている。ここまで来ると、鉄砲の稽古の音も聞こえず、静寂があたりを支配していた。
明算は考え続ける。
《暴力に対して争わず、自ら身を引く。これこそ仏の慈悲の道であろう。しかし、本当にそれが正しいといえるのか。それは力の強い者、強引な者を増長させるだけではないのか。現に覚鑁上人が高野を去られたあと、さらには亡くなられたあとでさえ、高野の衆徒は上人への誹謗をやめず、根来に対して攻撃を加えた》
明算は、上人を尊敬はしていたが、上人の平和の教えには懐疑的だった。
《結局、人の争いはこの世からなくなるものではない。聖地である高野の山上でさえ、地位や権力をめぐる争いは起きた。柔和であるべき僧でさえ、いさかうのに、まして俗人が争いを避けることができようか。大衆詮議で根来寺座主の教禅上人がいったように、力には力で対抗するしかないのが人間の悲しさだ。この娑婆(しゃば)世界は、さびしいことではあるが、力が物をいう畜生道なのだ》
◇
そもそも比叡山延暦寺の僧兵が生まれたのも、ともに伝教大師を祖と仰ぐ三井寺園城寺との間の地位争いや戒壇設立をめぐる争いがもとだった。
二条天皇が崩御したときは、葬儀の会葬順を巡って南都と北嶺の僧兵が争った。このように、瑣末なことで人は相争い、そのたびに僧兵は増えた。結局のところ、人間は争いから逃れることはできない。殺生は人間の業なのだ。
明算は覚鑁上人の尊像を思い出す。
なで肩で、目はくぼみ、下あごはすぼみ、口は小さい。それは高僧というより、ごくありふれた一介の修行僧の風貌である。だが、よく見れば、その鋭い眼光と堅く結ばれた口から、迫害に屈しない強い意志を見てとることが出来る。また、その穏やかな表情には、静かに人を説得する理性を感じさせる。
上人は、無常をただ歎かず、現実に浄土を求めようとされた。
だが、その浄土はただ願っているだけではやってこない。理想を実現するためには力の裏付けが必要となる。
明算は思う。
この世に密厳浄土を実現させようとした上人も、そのために白河院や鳥羽院の力を利用しなければならなかった。また、宗祖弘法大師自身も嵯峨、平城の両天皇に働き掛け、国家の安穏を祈ることへの報謝として、寺への保護を求めた。
結局のところ、地上の権力に頼らなければ、仏法も興隆できない。釈尊自身でさえ、教えを広めるためには、王や長者の協力を必要とした。釈迦以前の修行者のように、独り林間にいて自然と孤独を楽しみ、犀の角のように独り歩んでいるだけでは、現実に苦しんでいる大勢の人間の救済は叶わない。進んで現世の汚辱の中に飛び込み、世俗の権力者とも手を結ぶことによって、初めて民を救うことが出来る。これが大乗の教えであり、上人はそれを実行されたのだ。
明算は、あごに手をあてて考える。
世俗の権力も、仏に対する民衆の信頼を巧みに利用している。武力の代わりに、仏法をもって統治できれば、これほど好都合なことはない。鳥羽院が覚鑁上人を金剛峰寺の座主に命ぜられたのは、上人の教えに感激されたこともあろうが、むしろ上人を座主にすることで、高野を自らの影響下に置こうとしたのかも知れない。
明算は権力者を信じていなかった。
太平記によれば、加賀の白山信仰の本山、平泉(へいせん)寺は、天台宗比叡山の末寺だったが、領地をめぐって長年、比叡山と争っていた。南北朝時代、平泉寺の衆徒は、足利軍の斯波高経の働きかけで足利に味方し、比叡山の僧兵に支援された新田義貞に敵対したという。
「平泉寺の衆徒の中より申しけるは、『藤島の庄は、当寺多年山門と相論する下地(争いの原因)にて候ふ。もし当庄を平泉寺に付けらるべく候はば(=藤島庄を平泉寺の領地にしてくれるなら)、若輩(=若い僧)をば城々にこめおきて合戦を致させ(=足利軍の城に送って合戦させ)、宿老はご祈祷を致す(=古老は勝利の祈祷をする)べきにて候ふ』とぞいひける」
太平記には、平泉寺は僧兵を足利軍の城に送り込み、支援したとある。
平泉寺のとった選択は、根来寺が足利尊氏に味方し、高野山が支援した南朝側と争ったのと似ている。
南北朝時代には、根来は、吉野側についた高野に対抗し、足利側に付いた。新田義貞討伐に参加した恩賞として足利尊氏から信達庄を手に入れ、繁栄した。信長と組んで三好を畿内から追い出したのも、先を見る目があったといえよう。しかし、これらの成功は、武士の力が強くなった今後も通じるだろうか。家康についた今回の選択は果たして正しかったといえるだろうか。
明算は考える。
家康が天下をとれば、根来はさらに勢力を広げられるだろう。だが、家康が秀吉に敗れれば、秀吉の報復が待っている。
行人も学侶も、このことが、よく分かっていない。根来はまだ、一度も権力者の選択を誤ったことがないからだ。だが、こんどは違う。寺は破滅の瀬戸際にいるのだ。
確かに僧兵はいままで武士と対等に戦ってきた。だが、それはあくまで世の中が乱れ、権力が分散していたからである。信長や秀吉のように権力を集め、大軍を組織できるようになると、少数の兵ではとても対抗できない。
明算はつらつら考えて、悲観的にならざるを得なかった。