小牧長久手の戦い

 若左近らが戦に敗れて積善寺砦に引き上げたころ、秀吉は尾張に向かっていた。
三月二十一日に大坂を出発した後、岸和田城が紀州勢に攻撃されたとの報告を受けた。しかし、秀吉は中村一氏を信じて、そのまま進んだ。
 二十三日には先陣が犬山に至り、二十七日には秀吉自身が犬山城に入城した。
 軍勢は途中でさらに増え、犬山に着いたときは十二万五千に膨れあがっていた。

 途中大垣を過ぎた辺りで、大阪から追ってきた使者が、紀州勢が堺を経て大坂まで北上してきたと伝えた。
 予想より早い紀州勢の攻勢だった。ここで引き返すか、それともこのまま進むか。秀吉は進軍を止めて、しばし思案した。
 しかし、続いて着いた第二の使者が、中村一氏の紀州勢撃退を知らせた。安堵した秀吉はそのまま東に進むことを決めた。

 紀州勢に大坂が脅かされるようなことがあれば、東西からの挟み撃ちにあう。それを最も心配していた秀吉は、一氏の勝利を知って喜んだ。
「やはり、一氏は見込んだだけのことはあった。少ない兵でよくぞ守った」
 秀吉は岸和田からの使者に感状を持たせて帰し、一氏の労をねぎらった。

 木曾川にかけた舟橋を通って秀吉軍が対岸の犬山城へ入城すると、甲冑(かっちゅう)姿の池田恒興がかしこまって出迎えた。
「遠路はるばるの御出陣、恐縮至極にございます」

 もとは織田信長の古い家臣として、なり上がりの秀吉より、はるかに高位にあった恒興だが、秀吉が信長の後継者としての地歩を固めた今では、秀吉に対して完全に臣従の姿勢を見せていた。
 時代がすでに変わったことを認めず、あくまでも秀吉を臣下と見る織田信雄に恒興は付いていけなかった。恒興にとっては血筋より武将としての実力が重要であり、力のある者に従うのは当然のことだった。

「勝入殿。犬山城の攻略まことにお見事でござった。犬山を手に入れたことで、どれだけ我々の立場が有利になったか。心より礼を申しあげる」
 秀吉は丁重に礼をいった。
「恐れ入ります」
 勝入は平伏していった。
「長可殿のことは返す返す残念だったが、無事で何よりでござった。いま少し我らが早く到着すれば、不覚をとらせることはなかったのに、すまぬことをした」
 秀吉は長可の勇み足への不満を抑えて、奮戦をねぎらった。
「面目ございませぬ」
 恒興は申し訳なさそうに答えた。
「まあ、済んだことを悔やんでも仕方が無い。それより長可殿のけがの具合はいかがかな」
「だいぶ良くなりましたが、まだ歩けるようになるまでには、しばらく時がかかるかと思われます。殿下には心よりおわび申し上げたいと申しておりました」
「戦のことは気にかけず、ゆっくり養生するように。そのように伝えてほしい」
「ありがたきお言葉。長可もさぞかし感謝いたすことでしょう。舅(しゅうと)として私からも、篤くお礼申し上げます」
 恒興は、再び深々と頭を下げた。

「家康の守りはどうか」
 頭を上げた恒興に秀吉は問い掛けた。
「鉄壁とは、まさしく、このことでございます。小牧城の周りには堀をめぐらし、逆茂木を立て、全く付け入るすきはありませぬ。敵ながら見事でございます」
 恒興は率直に敵をほめた。

「そうであろうよ。家康はまことに用心深い男。根気もよい。あの男を城から誘い出すのはなかなかの骨折りであろう。さてさて、これからどうしたものか」
 秀吉はそういって、額にしわを寄せた。
「殿下に来ていただき、まことに心強うございます。岸和田で根来雑賀を打ち破られたとうかがいました。祝着至極でございます」
「中村一氏がよくやってくれた。家康め、さぞかし悔しがっていよう」
 しわの多い秀吉の顔がゆるみ、笑みがこぼれた。

「ところで勝入殿。一服所望できないだろうか。長旅で茶を飲む暇がなかった。勝入殿は近頃熱心な稽古ぶりで、だいぶ茶の腕を上げられたと聞いている。話の続きは茶を飲みながらにいたそう」
 秀吉は朗らかな声で話題を変えた。

「もったいないお言葉、まことにありがたく存じます。おのれの楽しみで茶をたしなんでおりますが、一向に不作法でございます」
「謙遜は無用。早速、飲ませていただこう」
「早速用意いたします故、しばらくお待ちくださいませ」
 恒興は席を外した。

                ◇

 茶の用意が出来るまでの間、秀吉は周囲を見るため、天守閣に上がった。
 秀吉にとって犬山は、信長と美濃の斎藤義龍が戦ったときに、守備を任された懐かしい土地だった。

 城の下には木曾川がゆったりと流れている。対岸にある中山道の鵜沼宿には、秀吉軍に味方するため西国から集まってきた兵の列が蟻のように連なっている。鵜飼の鮎漁に使う鵜舟も徴発され、兵を次々に渡している。

 外に突き出した天守閣の縁を歩き、川の反対側に回ると、遠くに小高い山が霞んで見えた。家康が布陣している小牧山である。

 小牧山は平野に単独で盛り上がった小さな山だが、北尾張では最も高く、周りが一望のもとに見渡せた。

 永禄六年(一五六三)、織田信長が美濃の斎藤氏を討つために小牧山に築城したとき、秀吉も作業の指揮をとった。
 清洲城に代わる拠点として、わずか九十余日の突貫工事で造られた小牧城は、その後の信長の美濃攻略に大いに役立った。

 小牧築城から四年後、信長は美濃の稲葉山城を落とし、井の口から名を改めた岐阜に移り住んだ。小牧城は廃城となった。

 この戦略上の要地である小牧山を先に家康に取られたことは、つくづく無念だった。

 秀吉は、家康の老獪さをよく知っている。
《家康は勝家や光秀などとは違う。うかつに手を出しては、長可のように大やけどをする。よほど心してかからねば》
 茫洋とした家康の顔を思い出すと、秀吉は漠然とした不安を感じた。

 階段をきしらせてだれかが上がってきた。秀吉が振り向くと階段から石田三成の顔が見えた。
「おう、佐吉か」
 秀吉は声をかけた。
 秀吉は三成と話すときは、いまも三成の昔の名前の佐吉を使った。

 石田三成は近江坂田郡北郷村石田の出身で、小姓時代から秀吉の側近である。
 寺僧あがりのひ弱な男だが、その聡明さが秀吉には気に入っていた。勘定奉行などをやらせたら、その正確さと早さで、三成の右に出るものはない。三成は、秀吉が最も信頼する家臣の一人だった。

「上様、和泉表の勝利、まことに祝着でございました」
 三成は床にひざまずくと、秀吉に祝儀を述べた。
「一氏が実にようやってくれた。それにしても紀州の奴ばら。このままではすまさぬ。浪速に帰ったら、痛い目に合わせてやらねば」
 秀吉は激しい口調でいった。

 羽黒で敗れたとはいえ、拠点の犬山城が手に入ったことで、秀吉はなお有利な立場にあった。
 味方の数も圧倒的に多く、兵力に不安はなかった。和泉での勝利もあり、もはや後顧の憂いはない。
 ただ、相手が家康ということだけが、唯一の不安材料だった。

「左吉、お前は今度の戦をどう思う」
 秀吉は三成に問うた。
「家康殿は我慢強いお方。簡単には行きますまい。焦りは禁物と考えます」
 大坂を離れることに慎重だった三成は、ここでもまた慎重だった。

 三成が主人といえども遠慮せず、堂々と自らの意見をいうところが秀吉には好ましく思えた。 
《清正のように勇猛果敢なことは武将として大事だが、これからは猪突猛進だけでは駄目だ。左吉のように頭を使う人間が要る。それでなければ、天下はとれぬ》
 秀吉は考える。
《左吉は決して戦はうまくはないが、戦後処理や町の復興をさせれば、見事にやり遂げる。この戦に勝てば、奴に尾張の城をどれかひとつ任せてみてもよいかも知れぬ》
 秀吉は早くも戦の後始末を考えていた。

「上様。茶の用意が出来てございます」
 木曽川の流れを見ながら、あれこれ考えていた秀吉は我に帰り、振り向いた。
 階段を上がったところで小姓が平伏していた。
「恒興殿が下で待っておられます」
「おお。そうだった。すぐに行くと伝えてくれ」
「心得ました」
 小姓は急いで階段を下りていった。

 三成を天守に残したまま、秀吉は小姓とともにきていた勝入斎恒興の子、元助の案内で、けわしい階段を下りた。
 葉を落とした寒そうな木々が、連子窓越しに見える。その向こうに年古りた杉の大木が一本、天に向かって頂を伸ばしている。春まだ浅い寒々とした景色も、戦のことをひたすら考えている秀吉の関心を引かなかった。

               ◇

 歩きながらも、秀吉の頭から家康の顔が離れなかった。
《家康さえ、いなければたやすく天下はとれように。お陰で余計な苦労をさせられる。早くあの男をつぶしてしまわねば》
 そう思うと、いますぐにでも武将を率いて、小牧山に攻撃を仕掛けたい気持ちに駆られた。
 しかし、《焦りは禁物》という三成の言葉が、秀吉のはやる気持ちを抑えた。焦れば家康の術中にはまることになるのは、秀吉自身もよく心得ていた。

 木の階段を下り、雪駄をはいて外に出る。足袋を履いていても雪駄の竹皮の冷たい感触が足の裏に伝わってきた。雪駄は千利休が考案し、茶人の間で最近よく使われていた。

 城の北側には、数日前に降った雪がまだ溶け切らず、黒ずんで残っていた。
 城下には、城主の住む屋敷がある。この間まで中川雄忠が住んでいたが、いまは恒興が主となっている。

 広い庭の中を歩いて行くと、その一角に小さな茶室が見えた。
 かなり前に作られた古い茶室は土壁がところどころ崩れて、中の編んだ竹が剥き出しになっている。それがかえって風情があり、秀吉には好ましく思われた。

 にじり口から腰をかがめて茶室の中に入る。茶釜がチンチンと蓋を鳴らしている。窓の障子が開け放たれ、庭のツバキの赤い花が鮮やかに目に映った。

寒気が窓から入り込んでくる。炉のそばには、道服に着替えた恒興が座っていた。炉を隔てた恒興の向かいに、秀吉は座ったまま、にじり寄った。

「お待たせいたしました」
 恒興が頭を下げて挨拶した。

 二間四方の狭い茶室の壁は、利休好みの荒塗りのねずみ壁である。壁には、青い竹を切って作った一重切りの花入れが懸けられている。花入れには水仙の花が無造作に一輪差してあった。

 無言のまま、恒興は煮立っている釜から柄杓で湯をすくうと、畳のうえに置いた茶碗に注ぎ、茶筅を静かに動かした。
「粗茶でござります」
 恒興は手を伸ばし、茶碗を秀吉に差し出した。

 黄瀬戸の茶碗に入った茶は泡立ち、静かに淀んでいた。
 秀吉にとっては、この濃緑色の苦い液体が、このごろでは何よりの楽しみだった。
 亭主と客だけしかいない静かな茶室の中で、落ち着いて一服の茶を飲むのは、殺伐とした戦に明け暮れる日々にあって、心が安らぐ唯一の時だった。
 秀吉は和紙の上に置かれた菓子を楊枝で切り、口に入れてゆっくりと味わった。それから、目の前に置かれた茶碗を静かに手に取った。
 秀吉は時間をかけて茶を飲み干した。

「ああ、実にうまい茶だ」
 秀吉はそういって、茶碗を下に置いた。
「恐れ入ります」
「利休がここにいたら、さぞかし誉めたことだろう。茶室の趣(おもむき)といい、茶の味といい、京にいるような気分だ。いや実に結構な点前であった」
 恒興はかしこまって頭を下げた。

 しばらくの間、秀吉は口の中に残った茶の味を楽しんでいたが、やがて口を開いた。

「ところでさきほどの話の続きだが、家康にはよくよく気をつけられよ」
 秀吉は厳しい表情でいった。
「貴殿も知っての通り、家康はなかなかのしたたか者。よほど慎重に構えねば大やけどをする。心してかかられよ」
「心得ております。長可の失敗も、相手を侮ったがために外なりませぬ。家康の狡猾さについては常々、言い聞かせていたにもかかわらず、功を焦ってあのような目に…」
 恒興は薄茶を入れながら、腹立たしげに口を歪めた。
「しかし、もうあの古狸にはだまされませぬ。今度はこちらが奴を驚かせる番。いま、奴を狼狽させるような手を考えているところでございます」
 恒興は茶碗に湯を注ぎ、ゆすってから湯こぼしに捨てた。

 作法どおりの手順ではあったが、秀吉の目には、利休や織部らなじみの茶人の穏やかな所作と比べて、どことなく荒々しい印象を与えた。
 静かな一角の茶室でありながら、何か落着かないものを秀吉は感じていた。

《この男は策士だが、やや短気なところがある》
 恒興の性急なものの言い方、荒々しさに、どことなく危うさがあるのを秀吉は感じた。

 恒興は若い頃、信長に反旗を翻した信長の弟の信行を、信長の命令で謀殺した過去があった。
 弘治三年(一五五七)十一月二日、信行は病気を装った信長の計略に嵌(はま)り、見舞いのため清洲城を訪ねた。信行は北矢倉天守の次の間に入ったところで、隠れていた恒興らに襲われて殺された。信行を守っていた家臣たちもその場で惨殺された。

 謀り事は恒興の得意とするところである。犬山城をすばやく陥落させたのも、敵の中の知り合いを味方に付け、夜陰に乗じて不意を突いた恒興の謀略のなせるわざである。
 しかし、賢い家康にもそれが通用するだろうか。
 秀吉は恒興に作戦を委ねることに、かすかな不安を感じたが、表情には出さなかった。

「いやいや、それは頼もしい。勝入殿よろしく頼みますぞ」
 秀吉は、そういうと陽気に笑った。

 秀吉は、恒興と茶を飲んだあと、その日の内に部下を引き連れて、森長可が敗れた羽黒から楽田の地を馬に乗って見て回った。相変わらずの精力的な行動だった。
 恒興がいった通り、家康軍の守りは固かった。どこにも隙を見付けることは出来なかった。

 秀吉は小牧山を包囲する砦の構築を命じた。
 小牧山に最も近い二重堀には日根野備中守弘就の率いる二千人が布陣した。岩崎山、楽田、羽黒、小松寺山、青塚、内久保山にも、丹羽長秀、金森長近ら配下の合わせて二万人の兵を置いた。
 岩崎山と二重堀の間には、二十余町にわたって土塁を築かせた。美濃兼山から来た森長可の兵たち三千は青塚に陣取った。森長可自身も傷の治療を終えて駆けつけた。
 四月五日には、本陣を犬山城から小牧山に近い楽田に移した。
 秀吉の狙いは、小牧山の家康軍を野戦に誘いだし、数に物をいわせて一気に決着をつけることだった。

 小牧城への包囲網が着々と狭められている間も、家康は少しも動こうとしなかった。
 家康は秀吉軍が到着する以前に、蟹清水、宇田津、外山に砦を築いていた。また、清洲との連絡のために比良城(名古屋市西区)を補強し、三河とのつなぎのためには小幡城(名古屋市守山区)を修理して亀のように身を固めていた。
 一向に戦いは始まらず、にらみ合いが続いた。

《家康めが。人をじらせる算段と見える。あのしぶとさ、粘り腰には敵ながら感心するわ》
 秀吉は持久戦に入る気配を感じていた。
《ここは短気を起こしたものが負ける。辛抱せねば》
 秀吉は自分に言い聞かせた。

             ◇

 秀吉がじりじりしていた頃、小牧山でも家康が血気にはやる信雄を抑えるのに苦労していた。
「家康殿。いつまでこうしていても、らちがあかぬ。どうであろう。一度、城の外へ出て戦ってみては」
 信雄は決戦を主張した。だが、家康は同意しなかった。
「それは、まさに秀吉の思うつぼ。敵はおよそ十五万、味方は六万。まともに戦っては到底勝ち目はない。ここはじっと我慢するしかありませぬ」
 家康は、悠然と答えた。

 戦況の不利な戦場では、家康は時にいらいらして指の爪を噛むこともあった。しかし、絶対に短気を起こさないのが常であった。

 信雄には、家康の慎重なやり方が内心不満だった。しかし、それ以上はいえなかった。何といっても秀吉と戦うためには、家康の力を借りることが不可欠だった。
 それに家康は父信長の盟友であり、多くの戦を経験している。ほとんど実戦経験のない信雄から見れば、まばゆい存在である。
「家康殿のいわれること故、間違いはあるまい。ここはもう少し待つことにしよう」
 はやる家臣たちを、信雄はこういってなだめた。

 信雄の心の中ではいま、秀吉に対し兵を挙げたことを後悔する気持ちが少しずつ広がっていた。
 秀吉と結んで自分に謀反を計っていると思い込み、津川義冬ら三人の家老を切った。しかし、冷静に考えれば、離反の動きはあったにせよ、彼らが秀吉と結託していたという明確な証拠があるわけではなかった。

 信雄の脳裏からは、秀吉の撹乱戦法に乗せられて、家臣を切ってしまったのではないかという疑念が拭い切れなかった。
 信雄には、そんな自分の猜疑心を秀吉に利用されたように思えてならなかった。
《ちょっと、早まったことをしたか。だが、家老どもも、おれを見捨てようとしたのだから、成敗されても仕方がないわ》
 そう、信雄は自分に言い聞かせる。
 だが、そのチクチクと心を刺す自責の念は、なかなか晴れなかった。
 秀吉との短期決戦を主張したのは、その鬱屈した気持ちを晴らす積もりもあった。

 三月二十八、二十九日に、秀吉方が砦を築いた二重堀に、家康、信雄方の小部隊が鉄砲で攻撃を仕掛けた。しかし、兵力を探るための単なる挑発と見破った秀吉は応戦しなかった。
 四月二日と三日には、逆に秀吉軍の一部隊が小牧山の東の姥ケ懐に出撃、家康を小牧山から誘い出そうとした。
 しかし、家康もまた小牧山を動かず、配下の武将に命じて秀吉軍を撃退させた。
 戦局は膠着した。秀吉の最初の予想通り、両軍は持久戦に入った。

              ◇

 恒興はじりじりしていた。
《このままでは、らちがあかぬ》
 もともと、気の短い性格の上に、今度の戦では義理の息子である森長可の失策が味方の不利を招いたという負い目があった。そして自分もまた長可を支援しなかった責任を感じていた。
 秀吉のいる前で何の手も打てず、ただ、相手とにらみ合っていることに耐えられなかった。

 恒興は家臣たちと毎夜遅くまで軍議を続けた。三月十七日の羽黒八幡林の戦いで敗軍し、金山に帰っていた森長可も四月には犬山城に入り、秀吉に謝って許しを受け、恒興の軍議に加わった。
「勝負は時の運。気にするな」
 そう、秀吉は口ではいっていたが、八幡林での長可の敗北を秀吉が内心、苦々しく思っていることは間違いなかった。挽回を期す恒興と長可は功を焦っていた。

 彼らが作戦を案じていたとき、三河足助の地侍の一人が、ある作戦を提案した。
 それは、両軍が対峙している間に、兵力の一部を割き、家康の本拠地岡崎に送り込もうという奇策だった。火を放って城下を撹乱させ、岡崎城を奪取しようという。

 別働隊を使って敵の背後を襲う、「中入り」と呼ばれる奇襲作戦は、かつて信長も桶狭間の戦で用いている。
 うまくいけば効果は大きいが、一方で失敗の危険性も高い。よほど成功の確率が高くなければ使われない戦法だった。
 しかし、戦線が膠着しているいま、家康を小牧山から撤退させて野戦に持ち込むには、最適の作戦のようにも思われた。

 森長可は即座にこの作戦に賛成した。初めは慎重だった恒興も家臣たちの賛成する意見を聞いて、最後にはこの手以外に方策はないという気になった。

 四月四日夜、池田恒興は秀吉にこの策を献じた。
 あまりに大胆な奇策に秀吉はすぐにはこれを容れなかった。失敗した場合の代償が、余りに大きかったからである。
「あすまた相談しよう」
 秀吉の言葉で、恒興はいったん城に帰った。

 その夜遅くまで、秀吉は黒田官兵衛ら近習と、この作戦について協議した。
 黒田官兵衛は強く反対した。
「この作戦は隠密裏に行われることが何よりも大切。しかし、尾張は織田家の古くからの領地であり、百姓の中にも信雄に心を寄せる人間が少なくない。また、家康は伊賀者を巧みに使っている。味方の行動が相手に知られることなく、計画を全うできるか、拙者には不安でござる」
 そう、官兵衛は主張した。

 これに対し、秀吉の甥の三好孫七郎秀次は奇策に賛成した。
「どんな作戦にも危険はある。迅速に岡崎に入り、各地に火を放ってすぐに引き上げれば目的は達せられる」
 意見は分かれ、いつもは決断の速い秀吉も迷った。

 恒興の性急な性格には不安があった。また、秀吉自身としても、もう少し様子を見てから作戦を立てたいという気持ちがあった。だが、その一方で恒興に対する配慮もしなければならなかった。

 織田家に対する恩顧を裏切ってまで自分についた恒興を、秀吉としてもそれなりに丁重に遇する必要があった。
 恒興も功を求めている。ここで、恒興の策をむげに退ければ、気まずくなるに違いない。
 再び、信雄の味方に回られるようなことでもあれば、取り返しのつかぬことになる。敵に回すには恒興は恐るべき男だった。
 秀吉の心は乱れた。

 信長公ならこんなとき、迷ったりはしなかったろう。
 そう、秀吉は思う。
 作戦をたてるときは、義理や人情に惑うことはありえなかった。あくまでも、作戦に参加する武将の能力と性質を見きわめたうえで決断した。
 それは実に冷徹なものだった。自分も信長公の冷たさに内心、どれだけ憤慨したことだろう。
 その点、自分は人情に捕らわれすぎるきらいがある。つい相手の気持ちを考えてしまう。気配りが過ぎるというべきか。
 もっとも、そのお陰で敵の武将を味方につけることができたともいえる。

 柴田勝家との戦いでも、勝家の養子、勝豊を誘降したことが役に立った。
 勝豊は、勝家の甥の佐久間盛政が勝家に重用されているのに不満を持っており、秀吉はそれを利用した。

 今度は恒興の心情に配慮するか、あくまで手堅くいくべきか。
 決断のつかないまま、秀吉は眠りに落ちた。

 翌日、池田勝入が再度秀吉に会見を求めてきた。
 今度は森長可も一緒だった。恒興と長可は三河中入り作戦の断行を強く迫った。
「上様、この作戦に危険が多いのは重々承知しております。しかし、虎穴にいらずんば虎児を得ずと申します。尾張は敵の本拠地。周りは敵ばかりで、味方の糧食にも限りがございます。このままにらみ合っていれば、味方は不利になるばかり。ここは腹を決めて岡崎を討つべきです。どうかお認めください」
 森長可は涙を流さんばかりにして頼んだ。

 長可は、この戦で死ぬ覚悟をしていた。
 羽黒の戦いで惨敗を喫したとき、一度は死ぬつもりでいたが、運あって助かった。
 どうせ一度は死んだ身。あの屈辱を雪(そそ)がねば、死んでも死にきれぬ。そう思っていた。

 長可は既に遺書を用意していた。それには、自分が死んだら、家宝は秀吉に献上し、自分の代わりに弟(千丸忠政)が秀吉に仕えるよう、書かれていた。
 また、娘は武士ではなく、医師に嫁がせるように頼んだ。自分が戦で死ぬことはやむをえないが、娘には平和な生活をさせたかった。

 長可の必死の説得に、躊躇していた秀吉も心を動かされた。
「よし、御辺らがそこまでいうのならば、もはや反対する理由はない。三河に軍を出そう」
 秀吉はついに願いを許した。